牡丹雪
その日、悟は酷く疲れていた。
連日のドラマ撮影に加え、モデルの仕事が数件入っており、碌に休めていなかったのだ。
「ダメだ。腹減った」
エントランスを潜り、エレベーターのボタンを押そうとして酷い耳鳴りに襲われる。ゴーン、と寺の鐘が頭の中で鳴り響くような感覚に思わず頭を押さえた。
「……何してるんスか、先輩」
気怠そうな声に振り向くと、眼前で銀色が光った。
「雪ちゃん」
「その、雪ちゃんっての辞めてもらえません? 恥ずかしい」
はあ、と溜息を吐き出した雪菜に悟は苦笑を零す。つい先日出会ったばかりであるこの少女は、見目に反して随分と口が悪い。
「顔色悪いですけど」
日本人にしては白い肌が、悟の頬に触れる。
そういえばロシアとのハーフだと彼女のマネージャーが言っていたな、と冷たい掌に頬を摺り寄せながらに思う。
「猫みたいですね」
「はは、飼ってみる?」
笑った所為で緊張がほぐれたのか、悟の腹が悲鳴を上げた。
ぐー、という音がエレベーターホールに反響する音に、頬の温度が上がるのが分かった。
「……カレーならすぐに出せますけど?」
「え?」
「つ、作りすぎたから、食べてもらえると助かります」
矢継ぎ早に告げられて、悟は瞬きを繰り返した。頬に触れていた手が、いつの間にか手首の衣服を申し訳なさそうに掴んでいて、それが少し可笑しかった。
「じゃあ、頂こうかな」
そっと掠めるように手を取れば、驚いたように目を見開く彼女が可愛くて声を殺して笑った。
腹が減っていたからか、はたまた彼女が料理上手なのか、常であればそんなに食べることのないカレーを二杯も食べてしまった。
久方ぶりの満腹感に満足してソファに沈み込んでいると、皿洗いをしていた雪菜と目が合う。
「食べてすぐに寝るなよ。つーか、寝るなら自分の部屋に帰って寝てくれ」
「分かってるよ」
食後に出されたコーヒーを口に含むと、芳醇な香りが口内を満たしていく。
「ふう」
こんなにゆっくり食事を楽しんだのはいつぶりだろうか。
食事の余韻に浸りながら、悟は名残惜しそうにソファから立ち上がる。
「美味しかったよ。ありがとう」
「……おう」
「じゃ、おやすみ」
「あの」
ドアノブに手を掛けた悟を雪菜は引き留めた。
「腹減ったら、また声掛けてください。一人分も二人分も、あんまり変わんねえし」
「マジで?」
「……嫌ならいいですけど」
悟から視線を外しながらそう言った雪菜の頬はうっすらと紅色を帯びていた。
照れるなら言わなければ良いのに、と思いながら悟は目を細めて笑った。
「……じゃあ、また来てもいい?」
「時間が合えば」
そっと差し出された雪菜のスマートフォンにはSNSのアプリが開かれている。
スマートフォンを出しながら、次はどんな料理が食べられるのかと既に楽しみにしている自分に苦笑する。
悟が雪菜の料理の虜になるのに、そう時間は掛からなかった。
「……連絡しろって、いつも言ってんだろ」
「あはは、ごめーん。疲れていたから、そこまで頭回らなかった」
「ったく」
「そんなに怒らないでよ~! 雪ちゃんの好きな駅前の焼きプリン買ってきたんだ!」
食べるでしょ、とウインクしながら言った悟に雪菜は呆れたように溜息を吐き出した。
初めて料理を振舞ってから今日までの一か月。悟はほとんど毎日のように雪菜の部屋にやって来ていた。
自分から言った手前、料理を作ることに苦はない。
だがこうも毎日部屋を訪ねられては心休まる暇がなかった。
「あ、あとこれ今月の分ね」
そう言って手渡された茶封筒の隙間から覗いた福沢諭吉と目が合う。
封筒の分厚さから、十人ほど彼らが封筒に入れられている気がした。
「だからこんなに要らないってば」
「いやいや、いつも美味しいご飯食べさせて貰ってるから! 材料費出すのは当然でしょ?」
「でも……」
「こういうのは黙って男に出させるのが、可愛い女になるコツだよ」
ね、と左手に握りこまされた封筒と目の前の男に雪菜は顔を顰めた。
「悪かったな、可愛くなくて」
「怒るところ、そこなの?」
「ふん」
後ろから聞こえてくる笑い声に無視をして、雪菜は己の聖域に足を踏み入れた。
1LDKのキッチンだから、とそんなに良いものを期待していなかったのだが、このマンションのキッチンはすべてIHな上、水道も自動で出る優れものであった。
ハンバーグなどを作る際、レバーを上げずとも手をかざすだけで水が出るし、IHの細かな温度調整のおかげでトロトロのオムレツだって作ることが出来る。
「今日は何?」
「……」
「ねえってば」
カウンター越しに問うてくる悟に知らんふりを決め込んで、冷蔵庫から必要な野菜を取り出す。
「雪ちゃーん」
テレビで聞く声の何倍も締まりもない声に雪菜は眉根を寄せた。
いい加減に鬱陶しい、と意味を込めて彼を睨めば、カウンターで頬杖をつく悟と目が合う。
「なあ」
「何」
「それ、何作ってんのって聞いてんだろ」
低い男の声に、雪菜の肩が小さく震える。――この声に雪菜は弱かった。
テレビの中から聞こえてくるよく知った俳優の声が、すぐ傍から聞こえてくる。その事実に身体が強張ってしまうのだ。
「……ロールキャベツ」
「お、いいねえ」
「暇なら手伝ってよ」
「えー」
悟は雪菜が許可を出すまで、決してキッチンに入ってこようとはしない。
最初は遠慮しているのかと思っていたが、風呂やらトイレやら勝手に入る彼を見てそれはないと結論をつけた。
いつの間にか常備されるようになった悟専用の紺色のエプロンを付けてキッチンに入ってきた彼に、雪菜は唇を尖らせた。
頭一つ分背の高い彼を見上げて、盛大な舌打ちを零す。
「何怒ってんの?」
「別に」
「えー、俺何かした?」
「何もしていない日の方が珍しいだろ」
「ひっどーい」
げらげらと笑いながら、キャベツにタネを包んでいく悟の横顔を、そっと盗み見る。
まるで映画のワンシーンでも見ているような気分になって、雪菜は小さく頭を振った。
お互いに無言でキャベツを丸める作業を続ける。
窓の外では、静かに雪が降り始めていた。
(こいつが来る日は決まって雪が降ってる気がする)
今は冬だから当たり前か、とつけっぱなしになったテレビから聞こえてくる積雪量に耳を傾けながら肩を竦める。
胸に巣くい始めたモヤモヤも、キャベツの中に閉じ込めてしまえたらいいのに、と雪菜は手元のキャベツを睨みつけた。
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