淡雪
人工の光に晒されるのが、こんなにも暑いとは知らなかった。
下手をすると真夏の太陽よりも暑いかもしれない。
じわり、と滲んだ汗に雪菜は顔を顰めながら、言われるがままカメラに目線を送った。
「はい、オッケーです。松雪さん、確認お願いします」
「分かりました」
二人居るカメラマンのうち、一人は雪菜が所属することになった事務所の専属だったが、もう一人は駆け出しの新人で、初めての撮影だというのにほぼ一日がかりの撮影になってしまった。げっそり、とした表情でカメラマン同士が会話するのを横目で見ていると、目の前にお茶が差し出される。
華奢な手に思わず目を見開けば、うっとりするほど綺麗な顔で笑う女性がそこに立っていた。
「おつかれ、雪ちゃん」
「あ、ありがとうございます」
事務所の先輩にあたる立夏だった。映画やドラマに引っ張りだこの彼女が自分の目の前にいるだけでも驚きなのに、言葉を交わしていることに、気を抜くと今にも失神してしまいそうな気分だった。
「それにしても、背高いね~。何センチあるの?」
「えっと、百八十三? くらいあります」
「えー! ほんと! すごい高いね! それにスタイルも良いし!」
羨ましい、と雪菜の腕を触りながら言う立夏に、雪菜は苦笑を零した。
「そうですかね? 私は立夏さんくらいの身長の方が可愛くて良いと思いますけど」
「私と比べちゃだめよ。雪ちゃんには雪ちゃんにしかない武器があるんだから」
悪戯っぽくウインクした立夏に、同性だというのにトキメキを覚えてしまって、雪菜は慌てたように首を横に振った。
「立夏、ちょっと来てくれ」
「はーい。じゃ、今日はお疲れ様。気を付けて帰ってね」
「あ、はい」
失礼します、とその場に居たスタッフ全員に聞こえるように声を掛け、雪菜は走るようにスタジオを後にした。
衣装を脱いで一般人に戻ると黒縁のサングラスとマスクを着用して、建物を出る。
一歩外に出れば、昼間とはまたちょっと違ったネオンの明るさに目が眩みそうになった。
さっきまでスタジオで明るい光を浴びていた所為もあってか、真っ暗な闇に落ち着きを取り戻したかったのに、見当違いの明るさに雪菜は溜息を吐き出した。
ふう、と漏らした息が空気中の水分に反応して白く濁る。
「あれ、白雪ちゃん?」
呼び止められた名前に雪菜は顔を顰めた。
駆け出しのモデルである雪菜の芸名はまだ事務所の先輩にしか知られていない。
振り返った先に居たのは、先日雪菜が事務所に入るきっかけを作った俳優――陽希であった。
「お疲れ様です」
「お疲れ。 今まで撮影だったの?」
「はい。私が慣れていないのもあって、遅くなっちゃって」
「ふーん。今から帰り?」
「そう、ですけど。何か?」
雪菜がそう答えると陽希は辺りをキョロキョロと見渡し、雪菜の腕を掴んだ。
「なら一緒に帰ろう。その代わりと言っちゃあなんだけど、晩御飯作ってくれない?」
「はあ!? また?」
「お願い~!!」
「ったく、最初からそれが目的だったんでしょ」
「へへ。やった!」
子供みたいに嬉しそうに笑う陽希が眩しくて、雪菜は目を細めてそれを見つめた。
――はじめまして、白雪です。
そう言って目の前に現れた少女に、悟は目を疑った。
横断歩道で言葉を交わしたっきり会うこともなかろうと思っていた少女が、うっすらと化粧をして事務所のロゴが入ったジャージを着て居心地悪そうに視線を泳がせていた。
――よ、よろしく。
自分にしては珍しく声が震えていた気がする。
そっと伸ばした手に、整った指先がおずおずと伸ばされてきたあの日のことはきっと忘れないだろう。
車を運転しながら、白雪こと雪菜と事務所で再会した日のことを思い出して、悟は笑った。
就職活動が決まらなくて、困っていたから丁度良いと事務所に入った雪菜と再会した時は本当に驚いた。
まさか昨日の今日で会うことになるとは思ってもおらず、映画の中のようなセリフを吐き出したような気がして今更ながら羞恥心が刺激される。
「あの、」
「んー?」
「パパラッチとか大丈夫なんですか?」
「そんなこと気にしなくていいよー。ああいうのは気にしたら負けだからね。普通に紛れていたら気づかれないって」
「そうなんですか?」
「そうそう」
煩わしかったのだろう、サングラスとマスクを取って外の景色を楽しみ始めた雪菜を視界の端に収め、少しだけ口角を上げる。
「ちょっとは気にした方がいいかもだけど」
「……気にした方が負けって言ったじゃん」
「いや、まあそうだけどさ。新人とはいえ、顔を出すお仕事なんだから少しは気をつけなさいね」
「さっきと言ってることが違う」
むす、と唇を尖らせてそっぽを向く雪菜に、肩を竦めると悟は事務所が所有するマンションの駐車場へと車を進めた。
悟と雪菜が住むマンションは学生寮のような雰囲気の建物で、管理人は勿論ハウスキーパーまで事務所と提携している会社が管理していて、セキュリティーもしっかりしていることから芸能人から人気の物件だ。
ただ難があるとするならば、「ヒトトセ」事務所に所属している芸能人限定入居というところだろうか。
わざわざ移籍してまでマンションに住みたいという奇特な芸能人は過去に何人かいたらしいが、最近はもっぱら新人の寮になっているので、一人暮らしに不安があった雪菜にも優しい住まいであった。
「じゃ、あとで部屋に行くから」
そう言って自分の部屋に引っ込むと、悟は冷蔵庫の中を引っ搔き回した。
最近懇意にしている大物から頂いたお歳暮のハムや食べ損ねていたデパ地下の総菜などを抱え、隣にある雪菜の部屋のベルを鳴らす。
「ちょ、待ってくださいよ! 早い!!」
「もうお腹減って死にそうなんだよ!! ほら、貢物持ってきたから入れて~!!」
家に入ってから数分も経っていないと居るのに、着替える間もなく突撃してきた陽希――新島悟に、雪菜は目を剥いた。
「ホントに待って! まだ着替えてないんだってば!」
「分かったよ。待ってるからハムだけ食べても良い?」
「……勝手にしてくれ」
ご飯は炊けてるから、お好きにどうぞ、と言い残し、雪菜は洗面所に引っ込んだ。
事務所から支給されたトレーナーに身を包むと、鏡に映る自分と目が合う。
少しだけ赤くなった頬に、荒い息。
何の因果かお隣さんになってしまった人気俳優が家に居る。その事実にどうしようもなく高揚しているのが分かった。
はあ、と吐き出した息が鏡を白く曇らせる。
「雪ちゃーん。まだー?」
「今、行くって!」
とてもテレビの中に写っている凛々しい俳優とは同じと思えない声が、リビングの方から聞こえてくるのに、雪菜は苦笑しながらそちらに向かった。
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