九十九さん家とあやかし双子/著:椎名蓮月
富士見L文庫
九十九さん家とあやかし双子
梅雨が明けるころになると、何故か、週に一度は甲斐がやってきて夕食の席に混ざるようになっていた。
というのも、あやかしと「ゆびきり」した人間がふたりもいるため、組織の上の者に九十九家を監視をするように言われている、という。
監視といっても相手は甲斐だし、特に何も起きなければ問題はない。さらに甲斐が来るのは兄妹が全員が揃う日曜と決まっていた。受験勉強に身を入れている若葉が、そんな甲斐に夕飯の買い出しを頼み、また甲斐もいやな顔ひとつせず自腹でそれを承っているので、勇気以外は特に気にしていない。
勇気は未だに甲斐が貸した金を全額返金していないため、食費を出さなくてもいいから早くお金を返してほしいというのが本音らしかった。
「おまえ、利子も払わないし」
そう言うと勇気は、冷しゃぶサラダの豚肉を口に運んでもぐもぐ食べた。居候していたときと同じく、テーブルの角を挟んだ勇気の隣、いわゆるお誕生日席に座った甲斐は、ちらりとそれを見ながら、
「そうは言うが、おまえ、合コンで面子が足りないとすぐ俺を呼ぶじゃないか。あれを利子だと思え」と、言った。
「合コンねえ……」
少し呆れたように、勇気の隣の百太郎が、横目ですぐ下の弟を見た。勇気はそれを無視してごはんをかきこんでいる。その隣の恵はちいさく肩をすくめただけで何も言わない。
「そんなに合コンしてるんですか?」
藍音がめずらしく、興味深そうに尋ねた。
「女の子を泣かせるようなことをしたらだめっすよ」
若葉が心配そうな顔をして兄を見る。
「いや、そういうのはないな」と、甲斐が答えた。「バイト先のバーの客に頼まれているらしいから、行儀はよくしているし、健全なお食事会みたいなもんですよ」
「それなのにゆうちゃんって彼女できないし、できても長つづきしないよね」
あかねがはっきり言うと、勇気は喉を詰まらせた。甲斐が苦笑する。
「こいつ、面食いだから」
「そうね、ゆうちゃんは、女の子の見た目にすごくうるさいわ」
甲斐の言葉に、あかねはうなずいた。
五人いる兄のうち、いちばんあかねの世話を焼くのは三番めの兄、恵である。だが、それと違うところでいろいろととやかく言うのは実は勇気だった。身だしなみをきちんとする、程度ならともかく、休みの日に「せっかくだから女の子らしい格好をしろ」と言うのは勇気だけである。ほかの兄はそんなこと、思いも及ばないようだ。
兄たちの中でいちばん女の子と遊んでいるのは勇気で、実はその次に若葉なのは兄妹の中では暗黙の了解になっていた。といっても勇気はあかねが認識しているのが事実なら、正式につきあった彼女はそんなに多くはないはずだった。
「だいたい合コンでいちばん可愛い子といい感じになっても、ほとんど放置してる」
甲斐がさらりと言うと、豆腐とネギの味噌汁を飲んでいた勇気は、剣呑な顔つきでそちらを見た。
「昔から異様に面食いだからねえ、勇気は」
隣の勇気に顔を向けて、百太郎がハハッと笑った。
「俺は、美人がすきなの!」
味噌汁の椀を置いて勇気は主張した。「だいたい若い女ってきれいに見えるけどあれぜんぶ化粧でそう見せてるだけなんだろ? ナチュラルメイクってメイクしていないように見えるような厚化粧なんだろ?」
「すごい偏見」
あかねは思わず呟いた。「お化粧しなくても美人のひとって少ないよ」
「それでも美人がいいらしい」
甲斐が淡々と答える。ちなみに彼の前に取り分けられたおかずの皿も茶碗もすでに空っぽだ。いちばんに食べ終わったのでしゃべり出したらしい。
「昔は可愛い子が好きだったと思うんだけどなあ。きれいな子がいいって言い出したのは……確か高校のときだったと思うけど」
百太郎が感慨深げに呟く。
「高校のときっすか」と、若葉が考えるような顔をした。「あのころのゆう兄は、こわかったっすよね……」
「怖かったというか、すさんでましたよね」
藍音が指摘する。
両隣の兄の意見に、あかねはぽかんとした。
「ゆうちゃんが、こわい? すさんでたって……」
記憶にない。ふしぎに思ったあかねが繰り返すと、恵が、ふん、と鼻を鳴らした。
「あのころから勇気はバイトばかりして、高校生なのに帰宅が遅かったんだ。百さんが、勇気は学費を自分で稼ぐって言ってるし、実際そうしてくれてるけど、危ない仕事に手を出してないといいなあ、ぐれちゃったのかなあ……と心配していた」
「ぐれてない!」
咀嚼していた豚肉をのみ込んで、勇気は叫んだ。「俺はぐれた憶えはないっ」
「でもあのころってゆう兄、金髪じゃなかったっすか?」
若葉の台詞に、ほう、と甲斐が眉を上げた。
「おまえのその顔で金髪は合わんな」
「合わんと言ってもしかたがないだろ! 変声期がきたら急に髪の色が変わったんだ!」
勇気が弁解する。あかねは目をしばたたかせた。勇気が金髪……そんなときがあっただろうか。高校のときの勇気のことをまるで憶えていない。
「髪の色が変わる? そんなことがあるのか」
「そうそう。中二くらいから髪の色が薄くなったんだよね。びっくりしたよ。染めたわけでもなかったし」
百太郎がとりなすように言った。だが、甲斐は疑わしげにじろじろと勇気を見ている。
「ほう……?」
「ええい、そんなに疑うなら見せてやるっ」
勇気は箸を置いていきなり立ち上がると、どたどたと廊下に出て行った。廊下を駆け抜ける足音と階段をのぼる音が聞こえてくる。恵が顔をしかめた。
「なんだ、あいつ」
百太郎の後ろから、するりと雷電が姿を現す。そのまま彼は、甲斐の真向かいにあたる、恵の隣に腰掛けた。それを見て若葉が箸を置いて立ち、茶をいれに行く。
「もともと僕たちには外国人の血が複雑に混じってるんだけど、そのせいか、みんな子どものころ、髪の色が薄かったりしたんだよ。それが勇気は中学生のときに出ちゃってね。ひとりだけそんなだったから、ずいぶん悩んだみたいだ。高校を卒業するころには黒くなったけど」
「そういえば、あかねも昔は今よりもっと髪の色が薄かった」
恵が感慨深そうにあかねを見る。あかねは首をかしげた。
「わたしも? 憶えがない……」
「そりゃそうだ。赤ん坊のころだったからな。半年くらいで黒くなった」
「うちの中で、髪がずっと黒いままなのは恵だけだよ。でもちょっと目が青っぽいんだよね」
恵は目をしばたたかせて兄を見た。
「そうか?」
どうやら自覚がないようだ。それに百太郎は笑いかける。
「僕と同じだって父さんが言ってた。若葉は目が生まれたときみどりっぽかったから若葉って名前になったんだよ。藍音は綺麗な濃い藍色でね、それで藍音って名前になったんだ」
若葉がいそいそと兄たちの後ろを通り抜けて、雷電の前に茶を置いた。それを雷電が見上げる。
「今はそうでもないな」
「そうっすね」
若葉はうなずきながら席に戻った。「しっかし、赤ん坊で生まれてたのころならともかく、中学で急に何もしてないのに髪の色が変わったら、そりゃ気味悪がられるし、ゆう兄はあれで神経質だから、ぐれもするっすね」
「ぐれてない!」
若葉が話し始めたころから聞こえていた足音が戻ってきたと思うと、勇気が叫びながら入ってきた。何か手に持っている。
「なんだったの、急に」
百太郎が訊くと、勇気は席に戻ってから、手にしたものを開いて操作し始めた。古い携帯電話だ。
「あ、それ、高校のときにバイトして買ったやつだね」
「そうだよ! うちは貧しかったから!」
「貧しいって……君だって大学行ったのに」
百太郎が苦笑する。何か操作していた勇気は、目を瞠ると顔を上げた。
「これを見ろっ!」
ちいさな携帯電話の画面に、写真が表示されている。それには、少し金色っぽい茶髪の少年と、ちいさな女の子が写っていた。あかねはその女の子の着ている服に見憶えがあった。
「わたしだ!」
つきつけられた画面を、兄妹みんなで覗き込む。
写真の中にいる少年は、苦笑じみた表情を浮かべていた。繊細な顔立ちが若葉にそっくりだ。だがその髪色はどちらかというと甲斐に近い。顔立ちが日本人離れしているせいもあって、外国人の男の子に見えなくもない。
「見ろ、こんなだったんだぞ。髪の根のほうが色が薄いだろ!」
兄妹がひととおり見たのを確認して、勇気は携帯電話を甲斐に突きつけた。「染めたんじゃないってわかるだろう」
「ほう」
甲斐は勇気の手から携帯電話を取り上げた。「……しかしこれ、ほんとにおまえなのか」
何故か甲斐は疑わしそうに、じろじろと携帯電話の写真と勇気を見比べた。
「そうだぜ、なあ、あかね」
「それってゆうちゃんと横浜行ったときの写真だよね! 山下公園からおふねに乗ったんだよ」
「横浜……?」
百太郎が眉をひそめた。勇気がぎょっとしたように振り返る。
「おい、あかね」
「きれいなお姉さんに会ったんだよね、あのとき。それとかっこいいおじさん」
「きれいな……お姉さん……?」
百太郎がじろりと勇気を見る。なぜか、ほかの兄たちもいっせいに勇気を見た。
「これって高校の、たぶん一年生くらいだよね。夏にバイトして買った携帯電話だから。そのころ、勇気はバイトして学費に充てるしお小遣いは要らないって言ってたんだよ。だからそんなにお金なかったはず……あかねと一緒に出かけたって話、聞いたことないんだけど」
「えっ」
百太郎の言葉に、あかねは思わず声をあげた。
「秘密だから内緒だって言ったのに……」
勇気は溜息をついた。
百太郎が伺うように勇気を凝視する。
「あっ」
そう言われて、ふたりだけの秘密、と勇気と約束したことを、あかねはやっと思い出した。
*
「わかるかなあ」
速水莉莉は、少し焦りながら呟いた。
莉莉の住んでいる街から山下公園まではJRですぐだ。石川町で降りて中華街を通り抜けると見えてくる。
莉莉のクラスメイトのひとりが、親の紹介で男の子に会わないとならないけどどうしてもいやだ、という愚痴を聞いているうちに、何故か莉莉が代わりにその相手と会うことになってしまったのは何故なのか、未だによくわからない。ふんふんとうなずいていただけのつもりだった。
『ひとの話はちゃんと聞かないとだめだよ』
影の中にいるあやかし、猫又のリヒトが少し呆れたように言うのを聞きながら、莉莉は横断歩道を渡った。
「ほんと、そうね」
さすがに莉莉も今回ばかりは自分の迂闊さを後悔していた。この三か月ばかり、土曜は朝から双子のいる事務所に行って、食事をつくり、そのあとは持ち込んだ学校の課題をやるようになっている。
双子の兄、晴は、仕事の都合で朝夕が逆転しがちなので、莉莉が朝に起こして朝食を食べさせてほしいと、弟の嵐に頼まれているのである。それと引き替えに莉莉は晴に弟子入りしているのだ。
晴は自炊はできるが仕事で酷使するため手が腱鞘炎気味で、外食か、すぐに食べられる適当なものしか口にしていないので栄養が偏っていることを嵐は案じているのだ。嵐は食事の必要がないし、事情があってつくれないのである。
「それにしても……ひとが多いわね」
『土曜だからねえ。ここは観光地だし』
姿を見せないまま、リヒトはのんびりと返す。
土曜の午後で、山下公園はそれなりに賑わっている。よく晴れているがもう暑くはない。海からの風が涼しさを通り越して少し寒かった。
山下公園の氷川丸付近で待ち合わせと聞いているが、目印は赤い上着というだけだった。同じくらいの年代の男の子で赤い上着、と目で探す。
莉莉はクラスメイトにそうしてほしいと頼まれて目印で、長い髪を学校のときと違って結ばず、流れるままにしている。そのせいで風が吹くと乱れて鬱陶しい。
「それにしても、どう説明したらいいのかしら」
クラスメイトには、できれば事情を話して、男の子のほうから断りを入れてもらいたい、と言われている。よく考えたらそんなことをきちんと対応する義理はないのだが、うっかりとはいえ引き受けてしまったからにはできるだけのことはしたいと莉莉は考えていた。
『それにしても、リリ、利用されてない?』
「そうかもしれないけど……でも、いろいろとお世話になってるし」
莉莉に今回の件を頼んだクラスメイトは副委員長の村沢である。村沢は口がうまいのだ。彼女がいちばん仲がいいのは委員長の櫻井のはずだが、櫻井を男の子と会わせるなどということはしたくなかったのだろうと莉莉は察している。
「どこかな……」
花壇を通り抜けた莉莉は、海の傍であたりを見まわした。周囲には家族連れやカップルや、学生の集団がいてにぎやかだ。氷川丸の停まっている近くには半円形になった広場がある。そちらから可愛らしい女の子が駆けてきた。小学生だろうか、よそゆきのようなワンピースを着ている。
「あかね! 待てって!」
男の子の声がした。すると少女は立ち止まって振り返った。
「ねこさん! ねこさんがいた!」
莉莉はややぎょっとした。あたりを見ると芝生にねこがいる。少女が見たのはそれだろう。リヒトはこういう場所では姿を見せない。
「あれ? ねこさんいたのに!」
少女は莉莉の傍に来ると、眉を寄せてあたりを見まわした。目鼻立ちがくっきり整っている。この年代の女の子でここまできれいな子は見たことないな、と莉莉は感心した。子役でもめったにいないだろう。ハーフっぽくも見える。
「ねこさんはあとでって言ってるだろ。ひとと会わないといけないんだから……」
呼んでいた少年が追いついてきた。赤いスカジャンを着ている。莉莉はあっと思った。
「あの……」
莉莉が話しかけると、相手は少女の傍で莉莉に目を向けた。
驚きすぎて、莉莉は一瞬、息を止めた。
母が女優という仕事柄、莉莉はきれいな顔立ちの男を今までにいくらでも見てきた。それでも驚くほどに、この少年は繊細で整った面立ちをしていた。少しきつそうな表情を浮かべているが、それでもきれいだと思えるほどには美少年なのだ。髪が茶色っぽくて、根もとのほうに行くにつれてきんいろになっている。外国人っぽいなあと莉莉は思った。もしかしたらハーフか、それとも日本で暮らしている外国人なのかもしれない。このあたりは土地柄、そういう者も多い。
「あ、もしかしてあんた、村沢さん?」
「えっと……そうじゃないけど、そう」
莉莉が曖昧に答えると、相手は怪訝な顔をした。
「どういうこと? 俺は村沢馨子って子に会ってこいって先輩に言われてるんだけど」
「えっ?」
莉莉はびっくりして、相手をまじまじ見た。
「いや、先輩が、親の紹介で女の子に会わないといけないって言われたけど会う気もないし、会ったらややこしくなりそうだけど断れないから、代わりに行ってくれって言われて」
「……それ、わたしもだわ」
事態をのみ込んだ莉莉は呆気に取られつつ答えた。「クラスメイトが……親に言われて男の子に会わないとならないけど行くのやだからって……代わりに来たんだけど」
「へえ」
少年はおかしそうに笑った。「要するに俺たち、どっちも代理で来てるってことか。こりゃいいや」
きれいな顔なのに口調は少し乱暴だ。ちょっと不良っぽい印象もある。しかし莉莉はそれより気になることがあって口を開いた。
「その……その子、妹さん?」
足もとで、可愛らしいくりくりの目が莉莉を見上げている。よくよく見ると、少年と似ているようにも見えなくない。妹でなければ親戚か。
「わたし、あかね。ゆうちゃんの妹! 今年で一年生だよ!」
元気よく、女の子が答えた。莉莉は思わず微笑む。
「あかねちゃんっていうの?」
「そう。お姉さんはねこさん連れてるの?」
名乗ろうとした莉莉はぎょっとした。
「えっ……」
「あかね。ねこさんならあっちにいるだろ」
少年が妹の頭を撫でながら、芝生を指した。そこでは縞猫と黒猫が寄り添っている。どちらもまだ体がさほど大きくない。このあたりにいる野良猫だろう。
「今日は土曜で、ほかのやつはみんな出かけるっていうから、こいつだけ置いておけなくて連れてきたんだ。先輩が言うには、相手の子には嫌われてもいいっていうから、妹連れて行ってもいいだろうと思って」
少年は説明しつつも、なんとなくばつのわるそうな顔つきになった。「なんか、ごめん」
「それはべつに……わたしも、似たような感じだし」
「なんかよくわかんねえよな」
少年がそう言うと、ふいに、足もとからあかねが駆け出した。素早い動きで彼女は芝生の横の道を駆け、莉莉が来た公園の出口に向かう。
「あかね! おい!」
少年が慌てて走り出す。花壇の向こうは交通量の多い道路だ。慌てるのも無理はなかった。莉莉も思わず走り出した。
ちょこまかとした動きで女の子は花壇の前にさしかかると、目的だったらしい人物にとびついた。
「おかあさん!」
「へ、うわっ」
とびつかれたほうはその場でよろけたが、なんとか踏ん張っている。
「あかね! どうして……」
「おかあさん!」
あかねはその長い脚にしっかりしがみついたまま叫んだ。「おかあさんが……いるっておもったの」
「俺のどこが女に見えるんだ……」
あかねにしがみつかれて脱力したように呟いた男に、莉莉は思わずまばたきを繰り返す。
「桜木さん」
あかねがしがみついた長い脚はジーンズに包まれている。その持ち主は桜木晴。莉莉の師匠だ。
「どう見てもオッサンなのに」
その後ろで、ふわふわと浮きながら、晴とそっくりな双子の弟の嵐が、びっくりしたように呟いた。しかしこの声は少年にもその妹にも聞こえていないようだ。それもそうだろう。いわゆる幽霊の嵐の姿を見られる者は限られる。
「ゆうちゃん、……おかあさんだと思ったのに……ちがった」
あかねは、追いついた兄を振り仰いで、しょんぼりした顔になった。少年は妹を抱き上げて、晴の脚から引きはがす。
「その子のお母さんは俺に似ているのか?」
興味を持ったのか、晴が少年を見て問う。少年は戸惑った顔になった。
「ぜんっぜん」
「桜木さん、どうしてここに」
「散歩だ」
「なんて言ってるけど、ほんとは莉莉ちゃんが心配で来たんだよ」
答える晴のすぐ横で嵐がニヤニヤした。「クラスメイトの代理で男と会うなんて、ってさ」
『でも、この子も代理みたいだよ』
足もとでふわっとリヒトが姿を現したのがわかった。だが、兄妹はそれにまったく気づいていない。
「おかあさん……」
しょんぼりと呟く妹の頭を、少年がやさしく撫でる。
「兄ちゃんが言ってたろ。もうお母さんは死んだから、帰ってこないって」
少年の言葉に、莉莉はぎょっとした。反射的に双子を見ると、晴が少しこわい顔をしている。だが、怒っているのではないのを莉莉はすぐに察した。晴は、悲しんでいるのだ。
「お母さん……亡くなったのか」
「うん、今年の三月の終わりに」
晴が尋ねると、少年は妹を抱っこしたまま、桜木を見上げた。「だからこいつの小学校の入学式は、兄ちゃんがついてったんだ。うち、父さんも死んじまってるし」
「まさかと思うが、そのお兄さんと妹さんと君の三人で暮らしているのか」
心配そうに問う晴の後ろで、嵐がやれやれと溜息をついている。
「よその子のこと心配したって、どうにもできないのに」
「ううん。うちは六人」
少年はちょっと笑った。「俺とあかねのあいだに、あと三人、弟がいる。あかねにとっては兄貴だけど」
「六人兄妹!」
思わず莉莉が叫ぶと、兄に抱きかかえられたままのあかねは、莉莉を見てにこっと笑った。
「おにいちゃんがいっぱいいるから、さびしくないの。それに、だれかむかえに来ても、おにいちゃんがたすけてくれるって、おかあさん、言ってた」
ちいさな女の子の言葉に、莉莉は首をかしげた。なんのことかはわからないが、兄たちと過ごす少女が淋しくないというならよかった、と思った。
「子どもばかりで危なくないのか……」
「兄ちゃん、大学生だし、体がでっかいから、父さんの代わりみたいなもんだよ。お金がないけど俺はバイトしてるから、学費くらいは出せてるし……」
「学費!」
今度は晴が驚いた。「自分でか……たいへんだな、それは」
「古いけど持ち家で借金がないだけましだ」
ははっ、と少年は笑った。そうすると、顔立ちの繊細さが消え失せて少し野性的な印象になる。
「ゆうちゃん、おふねのりたい!」
兄に抱かれていたあいだずっと海のほうを見ていた妹は、ふいにそう叫んだ、その指が示しているのは停泊している氷川丸だ。
「あれ、動かないやつだぞ。それに、お金がないからだめ」
少年はそう言いながら、妹を地面におろして、しっかりと手をつないだ。
「うごくのにのりたい!」
「よし、だったら俺が出そう」
女の子が叫ぶと、晴が急に言った。え、と少年は目を瞠る。
「ど、どうして……」
「そこの速水くんは俺の弟子だ。弟子のデートの代金くらい出してやる」
「ちょ、桜木さん!」
莉莉は慌てた。何を言い出すかと思ったら。だいたい、デートというのも誤解だ。
「いや、デートっていっても代理で会っただけだし……っていうか弟子って」
「このひと小説家なの!」
莉莉は慌てて説明した。「それで、わたし、ファンだから、弟子にしてもらってるの」
「むちゃくちゃな説明だなあ」
嵐が苦笑するが、うそはひとつもないので莉莉は無視した。どちらにしろ、人前では嵐をいないものとして振る舞うしかない。
「そうだ。速水くんは俺の弟子で、三度の食事を作ってもらったり、図書館にお使いに行ったりしてもらっている」
「へえ! 小説家!」
少年は感心したように目を瞠った。「だったら儲かってる?」
「いや、そんなに」
晴は肩をすくめた。「だが、水上バスくらい奢れるぞ。行こう」
言うなり晴は、すたすたと水上バス乗り場へ向かって歩き出す。
「行こう、って……」
「ハルくんも乗りたいみたいだよ」
嵐がそう言いながら莉莉の横をすり抜ける。
妹をおろして手をつないだ少年が、戸惑ったような顔をした。
「なんだ……今、雨のにおいがした」
そう呟いて、彼は首をかしげている。だが、よく晴れた空には雲ひとつない。
「雨?」
「雨……と、風。台風みたいなにおいだった」
「ゆうちゃん、いこ!」
あかねがぐいぐいと兄の手を引く。
「行きましょ」
莉莉もそう告げると、晴を追って歩き出した。
海上をめぐる水上バスのデッキで、ちいさな女の子は上機嫌だった。見も知らぬ子どもたちと一緒になってはやりの唄をうたっている。兄の少年は、機嫌よく笑っている妹を見てホッとした顔をしていた。
「あいつ、まだ、母さんが死んだって、よくわかってないから……今でもときどき、出かけると、いないかなって捜してるんだ」
「これが桜木町なら山崎まさよしだね」
デッキのへりにある柵にもたれた晴が、隣でふわつく弟を追い払うように手を振った。突っ込んでいるようにも見えなくもない。幸い、少年は妹に注意を払っていて、そんなそぶりに気づきもしない。
「お母さんかあ……」
莉莉は母のことを考えた。莉莉には母しかいない。最初から父はいなかった。誰であるかも知らないのだ。母がいなくなったらさびしいだろう。そう考える莉莉の足もとを、ふわふわしたものが触れる。リヒトだ。姿を見せないまま、傍にいるよ、と言葉以外で知らせるとき、いつもリヒトはそうする。
「でもなんで母さんと間違えたんだろう」
少年はふと視線を晴に向けた。晴は肩をすくめる。
「雰囲気が似ていたのかもしれないな」
晴の言葉に、少年は顔をしかめた。
「でも、……すぐに怒って俺を蔵に入れたりしなさそうだけど」
「君のお母さんは怒ると君を蔵に入れたのか」
「ていうか、蔵って」
晴と嵐の声が重なる。
「兄ちゃんに言わせると、俺がやんちゃだったからだって話だけど」
「なるほど。君がやんちゃだったというなら、お母さんの気をひきたかったのかもしれないな」
晴の分析に、少年はややムッとした顔になった。
「そうでもない……つもりだけど」
「そうだな。これは失礼した。今のはひとつの見解だ」
晴の大仰な物言いに、ムッとしていた少年は表情を変えた。おかしそうに笑う。
「おじさん、おもしろいなあ」
「君から見たら年を取っているのは否定しない。だが君にそう呼ばれると、甥と叔父のようだな」
どうやら少年は挑発の意味も込めて「おじさん」呼ばわりしたらしいが、晴にはちっともきいていない。少なくとも莉莉はこのやりとりをそうとった。
「俺も君くらいのころには弟がいてな。君ほどではないが、それなりに苦労した。君の気持ちがわかるとは言わないが、近しい心地だったのではないかと思う」
晴は少し暗い顔をした。少年は目をしばたたかせる。
「弟……今は」
「いるけどな、今も」
晴はニヤリとして少年を見た。晴の意味深な言い回しで誤解したのだろう。少年は少し顔を赤くした。
「いるならいいじゃないか」
少年の言葉に、莉莉は複雑な気持ちになった。
晴の弟、嵐は今も、晴のすぐ傍にいる。
だが、生きてはいない。
「そうだな。ずっと傍にいるわけにはいかないだろうが……」
晴はそう呟くと、ふいと視線を横に向けた。海風で髪がなびいて毛先が頬にかかる。
その視線の先には、左右対称の姿勢で晴を見ている嵐がいる。
だが、嵐の髪は晴のように、風になびきはしないのだ……
水上バスの上で同じ年ごろの子どもたちと騒いだり、携帯電話で写真を撮ったりしてはしゃいだせいか、妹のほうは途中で眠くなり、下船したときは兄の背で眠ってしまっていた。
下船するとデパートの裏だ。デパートを通ればまたおもちゃ売り場を見たいだのとうるさかっただろうから助かった、と少年は言い、そのまま帰っていった。少し歩けば駅だから、そこから帰るのだろう。
去る兄妹を見送りながら、名前を訊きそびれたなと莉莉は思った。彼の先輩には向こうから断りを入れてくれるよう頼みはしたので、それだけは安心だった。
「さて、君はこれからどうする」
兄妹が去るのを見送った晴が、ふと莉莉を見た。
「どうって……」
「君が約束があるからと急いで出ていったから、夕食をどうしようかと思っていたんだが」
言われてみれば、午後からの待ち合わせのため、昼食はつくったものの、夕食の準備はできなかったのだ。
「桜木さん、何を食べたい?」
莉莉がそう問うと、晴は少しだけ眉を寄せた。
「……カレー」
「そんな気むずかしい顔で考えること?」
「ちがう。君がまさかつくりにくる気になるとは思わなかったんだ」
「どういうこと」
訊いておきながら、何を言っているのか。莉莉が首をかしげると、嵐が笑った。
「も、もしかして、ハルくん、どっかで一緒に食べていかないかって言ってるつもりだった?!」
「…………」
晴は答えず、しっしっと指だけで嵐のいる場所を払うようにした。
「え、そんなのいいよ。カレー、つくるから。でも具が何もないから途中で買いものしていいよね。それと、重い荷物は桜木さんが持ってくれる?」
莉莉が言うと、晴は苦笑した。その横で嵐が同じ表情を浮かべている。
「女の子に重いものを持たせるほど、柔ではないつもりだ」
「どうしてそんなに回りくどいのかしらね。やっぱり小説家だから? 持つ、って答えれば済む話なのに」
莉莉は少し呆れつつ、歩き出した。
*
見知らぬお姉さんとその知り合いの男のひとに水上バスにのせてもらった話を、あかねが思い出しながら語り終えると、百太郎はやや渋い顔をして勇気をじっと見た。
「勇気」
「……はい」
応える勇気の声はいつになく弱々しい。
「つまりこれは水上バスに乗ったときの写真で、君は知らないひとに迷惑かけたんだね」
「迷惑っていうか……」
「お金出してもらったって、どういうこと。ちゃんとお礼はしたの?」
「ありがとうございますとは言った」
「ここから横浜ってそこそこかかるはずだけど、そのお金は」
「……先輩が交通費とバイト代くれてて……代理のバイトだったし」
「えっ、あれってバイトだったの?」
あかねは思わず声をあげる。「だったらお金ないわけじゃなかったんじゃないの」
「交通費だけ先払いでバイト代は帰ってからだったんだよ!」
勇気が情けない声で言いわけをする。
「それにしても、見ず知らずの女の子だけならともかく、男のひとって! 誘拐犯だったらどうするんだ」
それにかまわず百太郎が言いつのる。あかねが中学に上がるまで、いや上がってしばらくしてからも、あかねと接触する見知らぬ大人の男性というと『誘拐犯かもしれない』と百太郎は決めつけていた。そのころと同じ言いようだ。
「えっ、そんなひとじゃないよ。だってお母さんみたいだったんだよ」
「お母さんみたいって、女顔だったんすか?」
顔立ちが繊細すぎることにコンプレックスのある若葉が問う。あかねは首を振った。
「そうじゃなくて……風邪ひいて寝てるときに、お母さんがときどき見に来てくれたのが目を閉じててもわかったんだけど、それに似てたの」
微熱状態でうつらうつらしていたとき、母が寝床をのぞいてくれると、陽が射したように感じたことをあかねは思い出した。あんなふうなあたたかみをあのとき感じて走ったのだ。記憶がおぼろすぎて、そのひとがどんな顔だったかも忘れてしまったが……かっこいい、と思ったことだけは憶えている。仮面ライダーに変身するひとに似ていた気がしたのだ、そのときは。
五人の兄がそれぞれ「かっこいい」だの「かわいい」だの「美形」だのとよく言われるあかねがそう思ったのだから、その男のひとも相当にかっこよかったはずだ。
「なるほど」
雷電が苦笑する。「それはおそらく……かがりと同じか、近しい性質の者だったのであろう」
「って?」
「あかね。おまえは巫覡の気を持っている。それはかがりも同じだった。その男、おそらくは巫覡の気を持っていたのだろうな」
「じゃあ、術者ってこと?」
「それはわからぬさ。しかしいつの話だ?」
「十年くらい前だよ。ね、ゆうちゃん」
百太郎の怒気にすくみ上がっていた勇気が、え、と視線を向けてくる。
「ああ……俺が高校入ったばっかくらいだったからな」
「十年経つとこれがこうなるのか」
古い携帯電話を手にした甲斐が溜息をついた。「なんだか釈然としないな」
「あのときのお姉さんとお兄さん、今ごろどうしてるのかなあ」
勇気がびっくりするほど変わったように、あのひとたちも変わったのだろうか。
名前も知らないから捜しようもない。
だけど、いつかまた会えるといいな、とあかねは思った。
あの海辺の街で。
九十九さん家とあやかし双子/著:椎名蓮月 富士見L文庫 @lbunko
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