それは塩ですお嬢様

成神泰三

第1話

「ああ〜暑い!空沼、何とかならないの!」


 服をだらしなくはだけさせ、汗を拭いながら文句を垂れ、ソファーに横たわるお嬢様に、私はバレないようにため息を吐きます。お嬢様、私の燕尾服をご覧ください。この風通しが悪く、熱気を閉じ込めやすいこの燕尾服を。にも関わらず、私は汗をかいていないでしょう? 慣れればどうにでもなりますよ。


「うっさいボケ! 私は特殊訓練を積んでいないのよ!」


 あたりを劈く金切り声を発し、ご立腹のお嬢様に、私はまたため息が出ます。しかしお嬢様のご不満もわかります。まさか、別荘の空調が壊れているとは、思いも寄らぬアクシデントです。この8月の一番暑い時に、避暑を目的として別荘に来たお嬢様にとって、お屋敷よりはマシとはいえ、死活問題なのです。一応業者を手配して、至急空調の修理を依頼しましたが、この別荘は敷地も広く、1日はかかるそうです。何たることでしょう、このままでは、お嬢様は獣か何かになってしまう。


「ああ〜、このままじゃ溶けちゃうわよ〜溶ける溶ける〜」


 お嬢様、溶けた際はご安心を。この空沼がスポイトで一滴残らずお嬢様を回収し、冷凍庫にて凍らせて差し上げます。そうなれば、お嬢様はこの蒸し暑さから解放されるでしょう。


「空沼にしてはいい案ね〜」


 ダメだこいつ早く何とかしないと。


 暑さに対抗するには、やはり冷たいものが一番でしょう。私はリビングからキッチンへ移動し、冷蔵庫の中を漁ります。ハム、レタス、ベーコンその他諸々ありますが、これでは到底冷たい物は作れません。となれば………。


 お嬢様、お待たせしました。


「どこ行ってたのよ…あ、それ!」


 アメーバのようにソファーと同化していたお嬢様が、餌に食らいつく鯉並みに元気になりました。やはり、レモネードは効果絶大です。いやぁ、にしても大変でした。レモンは裏庭の果樹園から収穫することが出来ましたが、冷水は数キロ先の清流からーー。


「いいから寄越しなさい!」


 そう言うと、お嬢様は私からグラスを奪い、喉を鳴らして勢い良く飲み始めました。氷を山のように入れたので、涼しくなる事間違いなしです。


「んっ…んっ……ふぅぅ! 空沼、まだレモネードはあるんでしょうね?」


 勿論です、ピッチャー1杯ほど作りましたので。


「じゃんじゃん持ってきなさい!」


 言われれば持っていきますが、余り一度に飲みすぎないほうが宜しいかと…。


「黙って持ってくる!」


 お嬢様の剣幕に、私は大人しく、追加のレモネードを取りに行きます。私は一応忠告はしたのです。後でどうなってもお嬢様の責任です。私は知りません。


「……お腹痛〜い! ううぅ…」


 全てのレモネードを飲み終わった後、案の定お嬢様はお腹を抑えて転がっています。どうやら、涼しくなりすぎて、お腹を壊してしまったようです。だから言ったのです、余り一度に飲みすぎないほうが宜しいと。


「うるさい! 何とかしなさい空沼!」


 便所に駆け込んで寝ていれば治りますよ。お嬢様は少し大袈裟です。


「痛いものは痛いの!」


 ……流石お嬢様、恥も外見もなく子供のような言い草、そこに畏怖の念を評さざる負えません。


「帰ったらお母様に言いつけるんだから〜!」




「空沼、車を出しなさい」


 きっちりおめかしを施し、気合い充分のお嬢様。これから別荘に来たら必ず尋ねる、友人宅にお伺いします。皆様、お嬢様の友人と聞いて眉を顰める事かと思いますが、ご安心下さい。ただの変人で御座います。


 山林の中にあるこの別荘より、更に深く進むと、苔とシダ植物が生い茂る川辺の近くに立つ、少し古ぼかしいログハウスがお嬢様のご友人の住処となっております。お嬢様の友人にしては、こじんまりとしたところに住んでいると思われるかもしれませんが、騙されてはいけません。このご友人は名のある名家の令嬢であり、好きこのんでログハウスに住んでおられるのです。


 少し亀裂の入ったコンクリート道路を進んでいくと、普通なら敬遠したくなるような例のログハウスに到着しました。木々のこぼれ日がこの薄暗い森林とマッチして、なかなか不気味にございます。駐車場が無いため、仕方なしにいつも路駐をしているのですが、ここまで山奥になれば、人が来ることも滅多に無いでしょう。


「七海〜来たわよ〜」


 コンコンコンと3回ノックをすると、ギギギと軋んだ音と共にドアが開き、中からは名家の令嬢とは思えない、ボサボサの長髪をたなびかせた少女、七海様がオドオドした様子で出てきました。その不気味な雰囲気から、初めて七海様を見た時、私は心の中で妹様に別れを告げたのを今でも覚えています。


「フ、フヒ………久しぶり、だね」


「貴女も相変わらずね。ちゃんとお風呂には入っているの?」


「み、三日前かな……」


「うわぁ………」


 何を引いておられるのですかお嬢様。お嬢様も一時期、びーえる? とやらの書物の収集をしていた時は、3日間同じ下着を履いていたではありませんか。


「うっさいボケ! うっさいボケ! その話は秘密にする約束でしょ!」


「フヒヒ…………取り敢えず、中に入って」


 七瀬様に手招きされるまま、私とお嬢様はログハウスに入ると、まず足元に縦横無尽に転がる水彩画用の絵の具を目にします。来る度来る度酷いことになっていますが、以前片付けようとした所、七瀬様にものすごい剣幕で「触るな!」と叱責されました。なんでも七瀬様にとって完璧な配置だそうです。


 ここまで話せばわかる方もいらっしゃるとは思いますが、このログハウスは七海様のアトリエなのです。七海様はあまり社交的ではない故、このような山奥にすんでおりますが、絵の才能は多くの芸術家の重鎮を唸らせる程で、大胆かつ独創的な表現から、ダリの再来と言われております。私は絵に関しては無学故、良さがわからない次第なのですが、お嬢様には何か共鳴するものがあったらしく、今日のように関係が続いている次第にございます。


「これが来年発表する新作の絵?」


 リビングにデカデカと配置されたキャンパスを見て、お嬢様は興味深そうに頷いておられおられる様子。そんなに感慨深い絵なのでしょうか、私も気になります。


「空沼が見てこの絵を理解できればね」


 ……何でしょう、この、見るものを不安にさせる理解しがたい配色と構図は。お嬢様、なぜ皿の上で全裸の男が泣きながら逆立ちしているのでしょう?


「私の考察にすぎないけれど、これは資本主義に疲弊した労働者を表しているのだと思うわ」


 なるほど、暗にお嬢様がディスられてるわけですね。


「フヒヒ……よくわかったね。題名はにする予定なんだ。これを高値で落札した人は大恥間違いないね」


 しかし七瀬様、そんなことをしてしまえば、七瀬様の批判殺到は間違いないでしょう。作家としてまずいのでは?


「別に……絵が売れなくなっても、お父様からの仕送りで暮らしていけるし、私の絵を完全に理解している人なんて、たぶん厳選されたサイコパスだよ」


 おっとお嬢様の更なる悪口はそこまでだ。


「でも私、七瀬のそういう所好きよ。ヘコヘコパトロンの顔色を伺う画家よりもずっといいわ。まあ、流石にワーグナーみたいなクズは御免だけど…」


 ………流石ですお嬢様、これ以上ない程の侮辱をされても受け止める広い器。この空沼感激しました。


「あ、でも主人の秘密簡単にばらす空沼は例外よ。減給処分にしてやるんだから」






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