第三章 このひとときを

   1



 二〇一七年七月七日、正午丁度に東京の生臭い港で二人は青い空を見ていた。


 Kouは、李凛リー リンの手紙を預かっていた。服装は、今日という日を意識してか、着流しである。


 何故か風に呼ばれて此処に足を向けたら、Ayaが、黒いスーツに黒いスカーフ、赤いサングラスに黒い小さな帽子の姿で、物憂げに空を仰いでいたのである。


 KouがAyaに逢ったのは九日振りである。何時もは緊迫した状況で二人は出会いそして行動を共にし、別れて来た。


 しかし、今は急ぐ事はない。


 そして二人は軽くその場に座り、自然と空を見始めたのである。


「なあ、今夜は晴れた方が皮肉なのではないか……」

 AyaはKouの傷ついた左手にそっと触れながら呟いた。

「ああ、七夕の伝説ですね」

 Kouは眩しいばかりに晴れ渡った天を仰いで言った。


「そうだ」

 Ayaは一時の休息に甘んじている様である。

「雨が降ると会えないという……」

 Kouも今だけは酔いしれているような口調で言った。


「会わない方が傷つかない事もある。ふう……。私も……。Kouと会わなければ……と……思う事もある」

 触れていた手をそっと離した。


「私の事は……。いや、全ての人にAyaは……愛を向ける事はないと……何時か李家に居る頃、私に語った事があったね……」


「そう、李家と言えば。これは例の件のUSBと、李凛からの親書です」

 スッと懐から取り出し、先程離れていったAyaの手に預けた。


「ありがとう。型通りの礼しか言えないけど、感謝している。いつも」

 一礼した。その時、髪が愛しげに舞った。


 それと同時に、KouはAyaの揺れる碧の髪を見つめていた。


 今まで同業者、或いはパートナーではあった。勿論、彼女は自分が女性である事を誇りに思っているし、変装はした事があったが、男装をした事がない。


 そしてKouも性別を越えて付き合って来たがAyaを女性以外に否めない。Kou はこの完璧な才能の持ち主の側にいられるだけで……良いと思っている。いや思って来たのか。


 今日は何故か揺れている。ゆるりとした時間が彼をそうさせたのだろうか。


「そうだ。愛は、追うものでもないな」

 Ayaも酔いしれている風であったが、今はいつもの口癖しか言わない。


「今もかい?」

 Kouはさらりと呟いた。そして、輝くばかりの空から才気に溢れる瞳に目をやった。

「そうだ」

 又、口癖だ。

「そうだ」

 Ayaはもう一度繰り返した。しかし、Ayaはそれ以上の言葉を力強い瞳で語った……。


 Kouは溢るる言葉を閉ざすしかなかった。          



   2



 その日の事だった。強い雨がコンクリートを叩きつけている。深い闇が天を隠した。碧い空は見られなかったのである。


 Ayaは何処へともなく走っていた。


 碧い髪は濡れすぼれ、紅い唇は紫となり、日の下では漆黒に身を包みすくっと立って見えた姿は、今はもうない。濡れた鴉の様であった。


 そして、あの力強い瞳は何処へ行ってしまったのだろうか……。


 急いで急いで何処かへ行くことだけが、今の彼女にできる事であった。


 彼女の足は速い。せめて追いつけそうなのは、Kouくらいのものである。


「Ayaー!」

 いつもは叫ぶ事などないKouは、Ayaだけを見、走って走って走り抜いた。思えば、彼女だけを見つめて来た。

 そして再び叫ぶ。

「Ayaー……!」


 Ayaは路地へ足を運び、ゆっくりと崩れ落ちた。

「Aya ……」

 Kouは、Aya を抱き起こさず、頬に左手を当てた。

「大丈夫……。大丈夫なんだよ……。Aya ……」


 Ayaは雨に身を預けた。頬には雨とも涙ともつかぬ滴が流れ……もう空しか仰いでいなかった。


 しかし、しばらくもすると、Kouの真摯な眼差しを受け入れようと顔を拭い、微笑みさえ浮かべて見せた。

「ごめん……。何でもない。今日は雨だったね……。唯それだから……さ……。もう何でもないんだ」


「私は側にいるだけでいいかい……?」

 Kouは、そう言いながら、眼差しはマリア様か如来様か、とにかくこの上なく優しく、慈悲深く、包容力の限りを尽くしていた。


「そうだよ……。よく分かったね」

 Ayaは生まれて初めて頬を染めた。寒さのせいか……。そうとも取れる微かな桃色であった。潤んだ瞳は、すくませる力があった。


「当然だよ。Ayaの事を私は良く知っているし、全てを受け入れられる。私はそういう人なのだから……」

 Ayaを抱き締めようと左手を伸ばしたが、軽く震え、そしてその手を拳にして雨をとうとうと流すコンクリートの壁に軽く当てた。


「全ての人に愛を向ける事はないと……私に語った事があったね……。それで良いんだAya 。でも、でも、愛が欲しい時は大きな声で叫んで良い。自分の気持ちを大きな声で叫んで良い。誰だってそうなんだ」

 Kouは天を仰ぎ、雨に顔を任せた。


「……光。……光。……光。……こ……う……!」

 Ayaは、コードネームのKouではなく、彼の本当の名を叫んだ。彼女は、体を起こし、 Kouに哀れな顔を近付けた。


 KouもAyaの気持ちを察し、緩やかな瞳で見つめた。


 Ayaはそれに何時になく弱々しい表情で呟いた。


「愛は、何処にあるの……?」


「それは、Ayaが知っている筈だよ」


「……光。……光。こ……う……!」

 Ayaはなだれ込み、光に身体を預けた。


「分かっているよ、全て……。Ayaの事は全て……」



   3



 二〇一七年七月七日、東京。


 天はAyaの表と裏を映し出した。この事は七夕の空と二人の密約である。


 これまで二人は会う約束をした事がない。唯、運命の糸が二人を引き寄せて来た。


 それは今日で終わりなのであろうか……。





Fin

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