六話 生活に必要な物
ここが異世界であることにショックを受けた儂だが、こう見えて元経営者だ。
立ち直りの早さには定評がある。
そりゃあ限界を超えると死にたくなる時もあるが、離婚して子供を奪われた時のことを思い出すとたいしたことではない。
ちなみにだが儂が離婚した理由は、実のところよく分からない。
ある日を境に妻が態度を急変させ離婚すると言いだしてからあっという間だった。
息子も当時はまだ五歳くらいで、儂は30代前半だっただろうか。
妻を引き留めたが、とうとう子供を連れて出て行った。
その時は悲しみよりも怒りを感じて裁判を起こそうとしたのだが、妻と息子の消息はつかめなかった。
妻の実家へ連絡しても、そんな娘はウチにはいないの一点張りで儂の事すら分からない様子だったのだ。
妻と子供の捜索願いや、探偵を雇って調べたが情報は得られなかった。
同じ大学に在籍していたという痕跡すら消えていたのだから、途方に暮れるしかない。
妻は何者だったのか。
息子は今どこで何をしているのか。
儂には分からない。分からないことばかりだ。
「あの当時は家にほとんど帰れなかったからな、そんな儂に嫌気がさしたんだろうな……」
そう呟いて気分を切り替えた。
過去を思い出したところで、どうにかできるわけでもない。
それに儂は生まれ変わったのだ。新しい人生を生きるべきだろう。
リュックに回収した物を詰め込むと一気に背負う。
荷物が入りきらなかったので、手ごろなリュックを拝借したのだが三つも担ぐのは少々やりすぎだったかもしれない。
それに加えて虎の肉だ。
箱庭に生えていたバナナの木のような葉っぱで肉を包んでいるのだが、かなりの大きさだ。
「うぐぐぐ……重い……」
ずっしりと背中にかかる重さは相当だ。
それでも何一つ捨てまいと歩き出した。
しかし問題が浮上する。
この部屋から出るための出口が分からないのだ。
入り口は閉じられていてすでに開かないことは確認している。
「どうするか……ん?」
部屋の壁を見ると、大きな三角が刻まれている。
その下にはうっすらと長方形の隠し扉のようなものが見える。
周りの壁と隠し扉の部分が微妙にだが色が違うのだ。
押してみると、ガコンと音を立てて隠し扉は開く。
どんな仕組みなのか、分厚い壁がわずかな力で上へと開くのだ。
さっと通り抜けると、水路が見えて部屋の外だと理解できる。
押していた扉から手を離すと、ガコンと音を立てて閉った。
外から見ると、隠し扉があるようには見えないのだから面白い。
閉った扉を押してみるが、外からはやはり開けられない。
もう一つの隠し扉からでなければ入ることはできないみたいだ。
儂は部屋があるだろう壁に向かって手を合わせる。
死んだ者たちが安らかに眠れることを願う。
重い荷物を背負ったまま、ようやく隠れ家に着くと床に倒れた。
「疲れたぁぁ」
そう言いつつも体を起こして食事に取り掛かる。
ここには儂一人なのだから、休む暇などない。
「今日もオークの肉でいいな」
コンロの横にある箱から肉を取り出す。
もともとこの部屋にあった木箱だが、儂は食糧庫として活用する事にした。
蓋つきで臭いも遮断してくれるから都合が良い。
「そうだ、廃棄場でフライパンを見つけたんだったな」
リュックから取り出したフライパンをコンロに置くと、隣では鍋に水を入れて沸騰させる。
このコンロは二つの火口があるからありがたい。
熱したフライパンに肉を乗せると、香ばしい匂いが辺りに充満した。
空腹を我慢しつつ、スープも作る。
まぁ、刻んだ野菜を入れて塩と胡椒で味付けするだけだけどな。
十分ほどで料理が出来上がると、テーブルに乗せて食べ始めた。
「むううう! 美味い!」
空腹は最高の調味料らしいが同感だ。何を食べても美味い。
ステーキとスープを食べ終えると、水をがぶがぶ飲んでソファーに横になる。
「おっと、剣の訓練がまだだったな」
剣を掴むと、食後の運動とばかりに一時間ほど素振りや足さばきを練習する。
学生の頃に剣道の授業があったので、それを参考にしている。
ただし、今日の虎との戦いを思い出すと、剣道の動きでは対応できないことが窺える。
なので剣道を織り交ぜた、田中真一流剣術を目指す事にした。
目標は高い方がいいのだ。
訓練を終えると水路で水浴びだ。
その後、強い眠気に襲われソファーにて眠る事にした。
◇
目が覚めると体が軽い。
すぐに服を脱いで鏡の前に行くと、そこには眠る前とは別人の儂が映っていた。
肩から腕にかけて引き締まった筋肉に血管が浮き出ている。
胸板は大きくなり、腹筋は完全に割れていた。
やはり体格は変わらないが、普通とは言い難い肉体だ。
力はますます増進され、放置していた三つのリュクを掴むとも軽々と抱えてしまう。剣を握ればまるでナイフを持っているかのように軽いのだ。
それだけではない。
視力も良くなったのか部屋がより一層明るく見えるようになり、思考は以前とは比べられない程すっきりとしている。
ソファーに座ると腹を抱えて笑ってしまった。
「あはははははははっ! なんだコレ! すごいじゃないか!」
笑いが止まらない。
なんせ儂は運動が苦手で、どちらかと言えばなかなか筋肉が付かないタイプだ。 生まれてこの方これほどの筋肉を手に入れたことはないし、こんなに短期間で肉体改造を達成したこともない。
馬鹿げたほど速い成長率だ。笑わない方がどうかしている。
「あー笑った。まだ腹が苦しい」
ソファーから立ち上がると、筋トレを始める。
学生時代はあれほど苦痛だった筋肉トレーニングが軽くこなせてしまう。
むしろ快感。このまま筋肉を信仰してしまいそうだ。
「さて、筋トレはこれくらいにして荷物を分けるか」
リュックから収穫したものをそれぞれの場所へ置いて行くと、ある事に気が付いた。
この隠れ家の住人は、どこに食糧や生活用品を置いていたのかと。
それだけではない。
トイレだってベッドだってこの部屋にはないのだ。
「下の水路で用を足していた? いや、それだとさすがに汚いしな……」
そこで本棚が目に入る。
「もしかして……」
本棚を横にずらすと、まるで引き戸のようにスライドしてゆく。
よく見れば本棚の下にレールが敷かれてあるのだ。
もっとちゃんと調べろよと少し前の自分に言いたい。
本棚の後ろからは入り口らしきものが現れ、その奥は暗闇で何も見えない。
とりあえず踏み込んでみると、人影に反応して部屋の中にある二つの照明スタンドが点灯する。
恐らくだがスタンドも機械ではなく、魔法陣や謎の石で作られていると思っている。いずれは中を開いて確認したい。
部屋の中央にはベッドが置いてあった。
右と左の壁にはドアがあり、予想通りならトイレと倉庫だろう。
なのでまずは右のドアから開けてみる。
「ここはトイレか」
ドアを開けると小さな部屋に洋式便器が鎮座していた。
壁には小さなボタンが設置している。儂はそれとなくボタンを押してみた。
ジャバババ―っと音を立てて便器内に水が流れる。
便利だが、この水が何処に流れているのか少し気になった。
まさか下の水路に流れている訳ではないよな?
次に左のドアを開けると、予想通り広い空間にいくつもの棚が置かれている。
棚の上を覗いてみると、かつては食材だっただろう物が風化して粉になっていた。それを見て確信した。
このダンジョンでは何らかの理由で、細菌が繁殖できないと言う事だ。
そうでなければ説明がつかない。
ゴミ捨て場の死体もそうだったが、腐敗ではなく風化していた。
そしてここにある食材もだ。重ねて小さな虫の姿も見られない。
推論だが、ある一定の大きさ以下の生き物はこのダンジョンでは生きられない。 そうとしか考えられないのだ。
だが、ここで一つ引っかかる。
箱庭の植物は微生物が居ない状況でどうやって繁殖しているかだ。
微生物は自然界の掃除屋だ。
多くのものを分解し、全てを自然に還す。
それらの栄養源を植物は吸収し成長している筈なのだが、やはりそう考えると儂の推論が間違いのようにも思える。
「うーむ、ダンジョンを観察して結論を出すしかないな」
儂は倉庫内の探索を再開する。
棚は食糧を置く為の物として活用できるが、今後は武器や防具などを多く回収してくる予定だ。その置き場を確保しておきたい。
なので棚を少しずらして広い空間を作る。
「こんなものだろう。それじゃあゴミをまとめるか」
白い布を持ってくると、風化して粉状になったものを一つにまとめた。
それを背負うと、身軽に廃棄場へと向かう。
「確かこの辺……」
入り口らしき場所を足で蹴りつつ歩くと、一か所だけわずかに開く。
儂はそこへ飛び込んで傾斜を滑ると、通路を全力疾走する。
恐ろしいほど上昇した脚力は、まるで風のように儂を廃棄場へと運んでくれた。
死体が山となった場所は、やはり何度見ても心が痛む。
死ななければ別の人生もあっただろうと一人の親としてこの光景は悲しい。
地面に埋めてやりたいが、この部屋の床はコンクリートで造った様に無機質で堅い。
何もできない儂を許してほしいと心で詫びつつ、布に詰めた粉を山の近くにばら撒いた。
「さて、そろそろ戻ろうか…………なんだあれ?」
天井に空いた穴を見ると、内側に棘のようなものが付いていることが分かった。 それはいい。それよりも気になる物がある。
その棘に黒い布のようなものが引っかかっているのだ。
光の加減か、黒い布は僅かだが波打つように光を放った気がした。
「……気のせいだろう。帰るか」
儂は廃棄場を後にする。
◇
ベッドから起きると、清々しい気分で背伸びをする。
ここにきてようやく寝心地の良い場所で眠れたのだ。
段ボールの中で毛布に包まって眠っていた経験を考えてみても、最高の気分なのは当然。今日の儂は無敵だ。
ベッドから起き上がると、軽く筋トレをしてから剣の訓練を始める。
誰かが言っていたが、筋肉が目覚めれば頭も目覚めるらしい。
本当か怪しいものだが、やってみると確かにそんな気がする。
さぁ筋肉よ目覚めるのだ。
訓練を終えると、食事に取り掛かる。
正直なところ、今が何時なのかすら分からない。
なのでこれが朝食かどうかも不明だ。
ただ、儂の体内時計は何となく朝だと知らせているので、朝だとしよう。
食事を終えると、次は出発の準備だ。
革の胸当てや脛当てを装着すると、リュックを背負い剣とナイフを装備する。
「おっと、弓とクワを持っていかないとな」
昨日も弓を持っていたが、使うタイミングを逃したのだ。
それに練習も必要だろう。クワは畑の為だ。
「よし、出発だ!」
隠れ家から飛び出すと、箱庭へ向けて駆け出す。
昨日のうちに最短ルートを見つけておいたので、今日は三時間もかからないだろう。
予想通り三十分程度で階段へ到着すると、迷いもなく降りて行く。
見えてくるは昨日と変わりのない箱庭だ。木々が生い茂り、草が生え放題の光景に安心する。
「まずは道を作るか」
クワを握ると、入り口から畑に向かって地面を掘り返す。
ミスリルのクワは性能がいいのか草の根を軽く切断し、簡単に雑草ごと土が掘れるのだ。
これは気分が良い。
儂はざっくざっくと掘り返し畑に辿り着くと、そのまま菜園だった場所も掘り返してゆく。
野菜を収穫しつつ、土を混ぜると
本来ならここで一緒に肥料を混ぜるところだが、今は難しいので無視する。
「だいぶ畑らしくなったな。じゃあ早速植えるか」
まだ成長途中のハサーイを植え替え、次に別の畝にジャガーイムを埋める。
他にもタマーンネ(玉ねぎ)やジニン(人参)などを植えて、経過を見る事にした。
花が咲けば受粉をさせてやらないといけないので、収穫できるのはかなり先だろう。
「次は弓の練習か」
弓を掴むと、弦を引いてみる。
前には引ききれなかった弦が容易く引くことが出来た。
やはり筋肉の恩恵は果てしない物がある。
弦を引ききると、風が巻き起こり弓に透明な矢が現れた。
実はこの弓は、矢を持ち歩く必要がないらしい。
儂も弓の保管場所に矢がないことを疑問に感じていたのだが、こうゆう理由だとすれば納得だ。
それに弓をよく見てみると、小さく呪文のようなものが刻まれていることが分かる。これらの文字のおかげで、空気の矢を創り出すことを可能にしたようだ。
弓を構えたまま木の上に居る鳥に狙いを付けた。
鶏にそっくりな鳥が、のんきに木の実を食べている。
ちょうど鶏の丸焼きでも食べたいと思っていたところだ。美味しくいただこう。
矢を放つと、鳥の近くに突き刺さり矢は消えてしまう。
驚いた鳥も木の実を放り出して逃げ去っていった。失敗だ。
「弓は難しいな。コツをつかむまでに時間がかかりそうだ」
儂はしばらく弓を練習する事にした。
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