第3話

 凛の家の玄関。相変わらず何も無い玄関が印象的だ。引き戸を開け、一足しかない凛の靴から、少し距離を取った隣に僕の靴を置き、僕はリビングへと向かう。他人の家にこうも堂々と無許可に入るとは、普通は通報されても文句は言えないのだが・・・『私の家に来たら、勝手に上がっちゃって構わないから。』と昨日凛に言われたので、勘弁してもらいたい。

 「お邪魔しまーす。」

僕は一応そう言い、リビングへと入る。そして昨日座っていた椅子へと腰掛け、何となくまた何も無い部屋を見回す。

 と、奥から誰かが階段を降りてくる音が聞こえる。そちらへ視線を向けると、休日だというのに制服を着ている凛の姿があった。

 「・・・ってなんで制服?」

僕は挨拶そっちのけで突っ込んでしまう。

 凛は視界に僕をとらえると、何故か腕で制服を隠すようにして、顔を赤らめながら口を開いた。

「・・・・・・悪かったわね、これしか持っていないのよ。」

凛は頬を膨らませて拗ねたように言った。その仕草にはえらくそそられるものがあったが、肝心な台詞が全部それをブチ壊した。

 「・・・・・・・・・マジ?」

「・・・・・・・・・マジよ。」

小学生でも出来るようなリアクションをする僕と、あまり触れられたくないのかそれ以上口を開こうとしない凛。

 僕の服装もジーパンにシャツ、それに薄いジャンパーという簡素な出で立ちだが・・・まさか凛、私服=制服だとは・・・・・・。

 ある程度は予想していたが、ここまでとはさすがに予想外だった。着る服がまさかの制服しか無いなんて・・・貧乏人かよ。

 僕は観念したというか、覚悟を決めて凛に聞こえないよう大きく息を吐いた。そして椅子から立ち上がり、これからのプランを考えながら口を開く。

 「・・・まずは服から色々買っていこう。ここからだと・・・学校の近くのデパートが一番近いか?そこから行ってみよう。」

「・・・ぐぇ。」

凛は何だか嫌そうな声を上げる。

「本当にいいの?やっぱり悪いわよ・・・。」

躊躇いがちに凛が言う。明らかに遠慮しているのが分かる口調だ。

「・・・だからいいって。言い方が悪くなっちゃけど、これはただの僕の自己満足なんだから。」


**********


 昨日。凛の家のリビングにて。

 「明日、買い物に行こう。」

僕は言った。

 「・・・・・・・・・・・・・・・は?」

凛は『この男は一体何を言っているんだ?』といった顔で無感情に聞き返す。

 「いや、だから・・・買い物をしよう。」

 僕は詳しく説明する。

「つまり、これは『白川大輝の恩返し作戦』・・・だ。こんなに何も無いっていうのは寂し過ぎるだろ?そこで、家具やら家電やらを明日買いに行きましょう・・・ってこと。」

「だから、お金が・・・」

「大丈夫、費用は僕が持つ。こういう時のために貯めておいたんだ。」

「う・・・・・・」

凛は僕の甘いささやきに釣られそうになるが、ハッとして首をブンブンと振り、必死に誘惑に堪えようとする。見ていて愛らしい。・・・別に僕は凛を釣ろうなどと考えているわけではないのだが、どうやら話がうま過ぎて、にわかには信じられないようだ。

 「えーっと・・・つまり、分かりやすく言うと・・・・・・」

何故こんなことをしようとするのか、その理由を僕は説明したいのだが、気恥ずかしくて中々言葉に出来ない。

「? つまり、何なのよ?」

凛が急かす。焦りが僕の中に出てきて、上手く文が作れない。

 「もっと凛に笑って欲しいんだっていうか、何て言うか・・・・・・?」

苦し紛れに言葉を紡いで何とか僕は文章を作った。・・・・・・きちんと凛に伝わっただろうか?

 僕は凛の表情を伺う。

 きちんと伝わらなかったのだろうか、凛は表情を変えずにそのまま座っていた。

 僕はまたもや焦る。さっき何て言ったか、全く覚えていないからだ。もしかして僕は何か変なことを言ってしまったのだろうか?

 「分かったわ。そこまで言うのなら、付き合ってあげる。」

しかし、口調は淡泊であってが凛は割とあっさり了承してくれた。

 「では、明日またここに来てちょうだい。勝手に上がっちゃって構わないから。」

「ッ・・・ありがとう!!」

何故だか僕は大きく喜んでしまって、妙に感情のこもった声でお礼を言う。

 凛はこれで話は済んだとばかりに椅子から立ち上がり、そのまま階段の方へと向かってしまった。

 「じゃあ、また明日。お休みなさい。」

凛は部屋から出る一歩手前でそう言い、そのまま部屋を出て行き階段を上っていった。

 ・・・この状況、何?僕はもう帰っていいんだろうか?『お休みなさい』とも言っていたし、あれは別れの挨拶だ。・・・・・・じゃあ何で階段を上った?おみやげ?だったら一言あるだろうし・・・?

 僕は一人置いてけぼりを食らいつつも、仕方がないので家へ帰ることにする。

 「あ。」

 ふと、まだ凛のティーカップに紅茶が残っていることに気づく。凛は帰ってくるのだろうか?もしこのまま寝てしまって明日まで帰ってこないのなら、勿体ないが後日捨ててしまうことになるが・・・

 気がつくと、僕はそのティーカップを手に持っていた。僕の体はそのまま口元へとティーカップを近づけていく。・・ヤバい、やばい、ヤバい、やばい、ヤバい。このままでは・・・・・・

 「・・・ッだ!! 危ない危ない。駄目だ、もっと自制心を持て。」

僕は理性を総動員し、何とか社会的に死にそうな危機的状況から脱する。このままでは危うく間接キスをするところだった。

 僕は玄関へと向かい、靴を履きドアを開けて外へと出る。春先のまだ冷たい空気が僕にまとわりつく。

 僕の頭からはまだあの紅茶のことが離れない。色が紅く、透き通っていてとてもきれいだった。まさしく紅茶。言葉の通りだ。

 そういえば凛が部屋を出る時、若干耳が赤っぽくなっていたのは気のせいだろうか?


**********


 そんなことを思い出しながら、今日。

 学校近くのデパートを目指し、僕たちは一路道路を歩いていた。休日の午前という時間帯は人通りは少なく、今この道には僕たち二人しかいない。

 「・・・服って、一体どういうものを選べばいいのかしら?」

道中、凛が呟く。

「・・・さぁ?自分でこれを着たいと思ったら何でもいいんじゃないのか?」

僕もあまりそういった類いの店には行ったことがないので、よく分からない。さっきは自信たっぷりに『まずは服を買おう。』なんて言ってしまったが、これじゃあ僕は何の役にも立たないのでは・・・?

 「まぁ、とりあえず部屋着だけでも買えば、少しは前進したことになるだろう。私服などのレベルの高いものはまた慣れてからで大丈夫。」

「・・・そう、ね。」

凛は若干不安の残る表情でそう言ったものの、とにかく僕たちは服屋へ着いた。


 「これは・・・一体何?」

先ほどから凛はこんな調子で、視界に映るもの全てに好奇の目を向けては僕に尋ねてくる。

「・・・ぬいぐるみ。人形の一種で、主に年頃の女の子から愛されている。ベッドやソファーに置かれていることが多い。」

凛はデパートというものに初めて入ったらしく、そこにある数々の店に入ってはこれは何かと僕に尋ねる。

 「・・・やけに色々な種類のものがあるのね。ケンカとかしないのかしら?」

凛は初めて見るぬいぐるみというものに興味津々のようで、ぬいぐるみの腕をつかんで様々なポーズをとらせている。はっきりいって僕的には、ぬいぐるみよりも、そんなことをしている凛の方が可愛いと思う。

 「ねぇ、コレ買っていいかしら?」

凛は、真っ黒いデフォルメ化された熊のぬいぐるみを指さし、目を輝かせて僕に聞いてくる。・・・そのぬいぐるみはかなりの大きさなので、それなりに値段が張るのだが・・・・・・・・・止めてそんな目で僕を見ないで上目遣いで僕を見つめないで。

「・・・いくら?」

「!! ありがとう大輝!!! えーっと・・・」

 凛は花のような大きな笑顔を浮かべ、ぬいぐるみに付いている値札を見る。

「・・・ごせん、ろっぴゃく・・はちじゅう・・・・・・」

そしてその笑顔は、段々と固まっていった。

「だ、だだだ・・だだだだだだ・・・・・・」

今や青ざめてブルブルと震えている。

「ご、ごめんなさい。・・まさかこんなに高いなんて知らなくて・・・・・・」

「・・いや、いいよ。ドンと来い。」

「! ホント!?」

「大丈夫。お金ならある。」

「・・ッ!」

正直覚悟はしていたが、相当金銭的にこれから僕は厳しくなりそうだ。そんなことを思いつつ、重い足取りで僕はレジへと向かった。


   **********


 そんなことをあと三回ほど繰り返した後、ようやく僕たちは洋服店へと入った。

 この辺りでは一番大きな洋服店で、大抵僕も服を買うときなどはここに足を運んでいる。紳士服、婦人服、子供服、水着、ジャージ・・・中にはサンタなどのコスプレ衣装も売っており、多岐に渡って様々な服を取り揃えている。

 「広い・・・。」

凛は、初めて見るこの店の大きさに若干圧倒されつつも、目の前に広がる数え切れない程の量の服に早速興味を持って行かれているようだ。

 手始めに、凛は入口近くにあるサッカー日本代表のユニフォームのコーナーに行き、店員から説明を受けている。

「大輝、これ買っちゃ」

「ダメ。」

「・・・ハイ。」

一応、もう終わってしまった大会なのでわざわざ買う必要は無い。

 「彼氏さんですか?どうですか、コレは?今一番売れていてもう在庫が空なんですよ。これは先ほど届いた物の最後の一着でして、買うなら今しかありませんよ!」

凛に説明をしていた店員が、どうやら買うか買わないかの最終的な決定権は僕にあると判断したらしく、その矛先を今度は僕に向けてきた。

 ・・・その人気のユニフォームが今にも倒れそうなほどたくさん積み上げられているのは僕の錯覚か何かですかねぇ? え?

 「すいません。お金が無いもので・・・」

僕は適当に誤魔化し、この場を後にする。おそらく、しつこくユニフォームを買わせようとしていたあの店員は、誤ってあのユニフォームを多量に発注してしてしまったのだろう。そのために仕方なくあのユニフォームを全て売ろうと、僕たちに執拗に買わせようとした。・・・といったところだろうか?

 大まかな予想を立てたところで、僕は凛と共に女性服売り場へと向かった。

 「・・・! な、何!? この大きな人形は!?」

凛は、今年の流行だという服を着て立っているマネキンに驚きながらも、『こんな服もあるんだ』といった表情で上着を興味深く見ていく。

 僕はそれを少し離れたところで見守りつつも、一昨日、つまり僕と凛が初めて会った時のことを思い出していた。

 ・・・・・・結局、何故凛があんな所で魔法を使っていたか、その説明を聞いていない。昨日はある程度の状況を把握出来たのでわざわざ聞かなかったが、やはり凛は何かを隠している。凛が説明する必要は無い、と判断したのなら別に問い詰めようとはしないが、昨日のようにただバツが悪いという理由で話さなかったという可能性もないではない。

 が、もしも僕に心配をかけまいとして話さなかったのであれば話は変わる。

 僕は、凛を助けたい。恩返しをしたい。

 凛の、笑っている顔を見たい。

 だからきちんと凛に話して欲しい。僕は奴隷なのだから、凛が僕に対して気を遣う必要はない。それで凛が一人背負い込むなんて間違っている。

 何かあったらいつか、凛の方からあの時のことを話してくれるはずだ。僕はそれまで待とう。

 「・・・き! 大輝!!」

「え?・・・あー、何?」

「・・・コレなんか、いいと思わない?」

僕が考え事をしている間に、凛はよさそうな服を既にピックアップしていた。腕には山のように服が盛られ、凛は満足げな表情を浮かべている。

 「じゃあ、試着してみるか。ホラ、ちょうどそこ開いているみたいだ。」

とりあえず僕は凛を試着室へと連れて行き、凛の選んだ服の中から似合う服を更に厳選していくことにした。

 「・・しちゃく?」

凛が小さく首をかしげる。ひらがな発音が幼稚っぽくて、可愛さの的を的確に付いてくる。

「えーっと・・・選んだ服が自分に似合うか、サイズが合うか、などを確かめるために一回着てみること・・・かな?あそこの部屋に入って着替えてみて。」

僕は凛に試着の意味を教える。凛は成程とうなずき、山になっている多量の服を抱え試着室へと入っていった。

 数分後。

 「コレなんてどうかしら?」

と言いつつ試着室のドアを開ける凛。

 「・・・・・・何でジャージ?」

凛は赤いラインの入った黒地のジャージを身に纏っている。さっきから動きやすさを確かめているのか、腕を色んな方向に振っている。

 「全身を包まれているようで安心するわ。」

生地をつまみながらそう口にする凛。何がどう安心するのか全く分からないが、結構気に入っているようだ。

 が、

「却下。」

「え!? 何で!?」

「花の女子高生がジャージとか・・・残念さしか残らない。」

「そ・・・そんなぁ」

僕としては、凛におしゃれというモノの楽しさに目覚めて欲しいので。あとそのジャージのメーカーが僕の一番嫌いなメーカーだというのもある。

 「じゃあコレは?」

 更に数分後。

 凛はダボダボのシャツを着て現れた。

「ゆったりとしていて落ち着くのだけれど。」

「・・・それ、少し前屈みになるだけでおっぱい見えちゃうよ。」

「のぅわぁあ!!」

 そのまた更に数分後。

 「コレなら文句も出ないでしょう。」

 サンタ・黒木が現れた。ご丁寧に髭付きである。

「・・・ふざけてるの?」

「・・・・・・」

 十分後。

 「・・ですから、・・を・・して・・・のような服を選べば・・・」

「!! 成程、勉強になります。」

「お客様は・・・が・・ので、・・をもう少し強調するように・・・」

「そんな、私にこんな服は・・・」

「大変お似合いですよ。彼氏さんの反応も期待して下さい。」

「いえ、あれはただの奴隷なので。彼氏ではないです。」

「・・・ハァ。そう、ですか。」

「・・大輝は・・・私のことなんて・・・・・・」

「? 何かおっしゃいましたか?」

「いえ!! ・・何も・・・」

 凛の服選びのセンスは、やはり初めてだということもあり残念な結果に繋がっていきそうなので、『ここは本職の店員さんに選んでもらおう』、となり、今実際に選んでもらっている。

 店員さんがいれば僕はもう用無しだと思い適当に辺りをブラブラと見て回っていたのだが、どうしても気になってしまいイケナイことだと思いつつも、僕は会話を盗み聞きしてしまっている。・・・キッパリと彼氏であることを否定されたことが悲しかった。

 「では・・・コレとコレと、あとコレをお願いします。」

「・・分かりました。お買い上げありがとうございます。」

そうこうしている間に、もう買う服が決まってしまったようだ。僕は一度ここから離れ、何食わぬ顔して凛の所へと戻る。

「あ、大輝。買う服決まったわよ。*****円。」

「五桁・・・」

凛が手に何着かの服を掛け、やって来る僕に気づく。見る限り、先ほどのようなジャージやサンタコスは見当たらない。おしゃれで派手な服が目立つ。

 僕たちはレジへと向かい、お金を払う。凛は紙袋に入れられた服を大事そうに両手で抱え、ややスキップ気味に店を後にする。僕はその後ろ姿を見て何だか胸に熱いものを感じ、小走りに凛を追いかける。

 「大輝、次はどこへ行くの?」

服を買ったことによって味を占めたのか、凛は弾んだ声で僕に聞く。その顔には笑みが浮かび、とても幸せそうだ。

 「そうだなー・・・。電気店行ってみるか。」

デパートから五百メートルといったところだろうか?ここから向かうのが一番近い。

 僕たちは電気店へと向かい、歩く。

 僕も男であり奴隷なのだから、荷物の一つでも持った方がいいのでは?と思い、途中凛に『服、持とうか?』と尋ねてみたりしたのだが・・・

「・・コレは・・・ダメ。」

と断られてしまった。まるで中身を守るかのように紙袋を強く抱える凛。よほど大事にしているというのが窺える。

 僕は凛の家の様子を思い浮かべ、何が必要かを考える。

「電話機も無かったし・・テレビも・・・あ! 時計も無いじゃん!! どうやって生活してたの?」

「時間なんて、体内時計で十分でしょ。いざとなったら太陽の角度で何とかなるわ。」

さも当たり前のように化物発言をする凛。今時刻を聞いても正確に分単位で答えてくれそうだ。人間時計を地で行く人なんて、初めて見た。

 「それより、テレビって?」

凛は純粋に『それは何だ?』といった表情で僕に聞いてくる。

「何かの家具だったりするの?」

「いや、家具じゃないんだけど・・・」

 『えっ? そんなんも知らないの? ダサッ。』みたいな言葉が危うく口から出てしまうところだったが、それを必死に飲み込む僕。

「まぁ、見れば分かるよ。一度は見たことあると思うし。・・それまでのお楽しみってことで。」

説明しようにも、意外にテレビとは難しいモノで上手く表現できそうにない。あと十分もかからずに目的の場所へ着くので、わざわざ今詳しく説明する必要も無いだろう。

「フ~ン。」

凛もよく分からないといった感じではあるが、追求しようとはせずに一応は納得してくれたみたいだ。

 そして歩くこと数分。

 目的地である電気店が見えてきた。かなりの大型店なので遠くからでも見ようと思えば見えるのだが、近くにある他の店が邪魔してデパートからのルートでは最後の角を曲がるまで見えないのだ。

「あ。大輝、あそこに大きく“電”って看板があるけど、あそこが私たちの行こうとしてる電気店なの?」

凛も気づいたらしく、あの大きな看板を指さして僕に聞いてくる。

「あぁ、うん。店内は広いぞ、どこから見ていく?」

僕はそれに答えて、凛に何から見たいかを聞く。

 やはり一番近く比較的選びやすい時計売り場辺りだろうか?それとも・・・アレ?洗濯機って凛の家にあったっけ?そういえば冷蔵庫は?昨日料理したとき、僕どこから材料取ったっけ?

 色々と考える僕。まさかそんなものまで無いとなるとかなり厳しい戦いになりそうだが・・・・・・凛の家にそれらの物があることを祈る。

 「テレビッ!!!」

凛ははっきりと答える。

「え? あーハイ、テレビね、テレビ。」

考え事の最中だったので反応が遅れてしまった。それを不自然に感じたのか凛は小首をかしげる。が、それも一瞬。少し興奮したような表情で続ける。

「テレビとはどういうものか、一度実物を見てスッキリしてから他の商品を選びたいわ。それよりもまず純粋に興味があるし。」

頬を少し赤くして語る凛。テレビとは一体何なのかと、目を輝かせている。

 「じゃあ、まずはテレビから見るか。・・・あんまり高いものは変えないぞ。」

「そんなに贅沢は言わないわ。さぁ、急ぎましょう!」

「わわっ! 手を引っ張るな!!」

すっかりテレビというものに興味を持った凛が、僕の手を引いて電気店の入口へと駆けていく。

 僕はそんな凛を見て思わず口角が上がっていた。


 「!!! なっ、何コレ!!? 人が板の中に入ってるわよ!!!」

「昭和かアンタは!!?」

 電気店、テレビ売り場。

 凛は、目の前にある多量のテレビに目を輝かせながら騒いでいた。画面にベタベタと触れ、テレビの表と裏を何度も見返しては頭に疑問符を浮かべる。

 「凛、はいコレ。」

「? コレは何?」

僕は凛にリモコンを手渡す。

「リモコン。これでテレビを操作するんだ。ボタンがたくさんがあるから、どれか好きなボタンを押してみて。」

凛は訝しがりながらも、左上の赤い電源ボタンを押す。するとテレビは消え、画面が黒くなり何も見えなくなる。

「!!! 消え・・た・・・。」

凛は唐突な出来事に愕然とし・・・言葉を失う。ひょっとして今、『私、板の中にいる人たちを・・・殺しちゃったの?』とか思っているのだろうか?

 僕は凛が正気を失う前に、リモコンを手に取り再び電源を入れる。数秒後に、先ほどテレビに映っていた人たちがまた現れる。

「ホラ、別に消えたわけじゃないから安心して。」

僕は凛に安心するように言う。

 凛はわけが分からないといった風で、『? ?? ???』と混乱している。

「一体・・・何なの? 魔法? 魔法なの?」

「純粋な科学だよ・・・。」

どうやら凛は現実認識能力がそこまで高くないようだ。僕からしたら魔法の方が明らかに信じられない代物だが、凛にとっては魔法が現実で科学が空想のようなものなのだろう。

 「更に・・・」

僕はチャンネルを変えてみる。一チャンネル当たり十秒ほどで他のチャンネルに切り替え、凛の反応を窺う。

「・・・・・・ッ!!」

凛はテレビに食い入るように近づき、移り変わる画面に見入っていた。

 思わず僕は顔を笑みの形にしていた。自分がいつも当たり前のことだと思っているものが、こうも驚きの対象になることへの面白みや、何よりも純粋に凛が笑ってくれていることが嬉しいのだ。こんなにも楽しそうにしている凛を見られただけで、ほぼ今日の目的は達成したといっていい。

 「・・・あんまり大きいのは買えないけど、これくらいのならいいかな。」

僕は値札を見て妥協する。もう僕のお小遣いでは買えない程の価格になってはいるが・・・・・・十年ほど貯めておいたお年玉がまだ残っている。許容範囲だ。

 と、僕が言った矢先、凛は何故か肩をピクッと動かし硬直した。

「? どうかした?」

先ほどの興奮が嘘のように表情を曇らせる凛。よく見ると、少し青ざめているようだ。口は歪み、ブルブルと体が小刻みに震えている。

「ひ、人が・・・死んでる・・・・・・!!」

凛は小さくそう言い、ゆっくりと腕を上げ、前を指さす。

 「なっ・・!?」

僕は一体何が起こったのかと、急いで振り向く。近くに人はいなかったし、そもそもこんな場所で?

 が、実際はそこに死体など無く、テレビではミステリードラマ調の音楽がただ流れるだけ。そしてテレビの画面にはいかにも探偵だと分かるような、顎に手を当てて唸りながらも推理をする俳優と、木に紐を吊り自殺した役の女優が二人、物語を進めている。

 「だ・・・大輝! 警察!! ・・・はもう来てるわね。どうしよう、私たちが第一発見者? 『大変驚かれたとは思いますが、少しお話をお聞かせていただいてもよろしいでしょうか?』とか言われるのかしら? 私、何て言ったらいいの? この板の中にいる人なんて、今初めて会ったのよ? そもそも周りの人は何で気づかないの? それとも気づいて見て見ぬフリをしているの? これが話題の『ワレカンセズ』っていうやつ? ねぇ、大輝どうしたらいいの?」

凛は涙をこぼし動揺する。僕の腕に掴まり、若干いつもより顔を近づけてくる。互いの息づかいが相手に伝わり・・・とまでは近くならないが、予想だにしていなかった展開に僕の心拍数が急上昇する。

 僕は顔が熱くなり赤くなっていくのを感じながらも、凛にさっき出てきた死体について説明する。

「あれはフィクションだよ、フィクション! 実際には起こらないことを、まるで起きているかのようにあの人たちが演技をしているだけ。現実にはあんな人いないし、人も死んでない。」

「・・・じゃあ、あの人は死んでないの?」

凛は上目遣いに小首をかしげながらもそう言う。一仕草がいちいち可愛く、このまま僕を掴む凛の腕を引き、その華奢な肩を抱きしめたいという衝動に駆られる。

 「そう。よかった・・・。」

凛はさも安堵したかのように胸の前で手を合わせ、ゆっくりと目を閉じる。その姿はまるで祈りを捧げているようで、魔女のするような仕草ではないと思うも、やはり可愛いと心の内で思ってしまう。

 が、僕は凛のそんな姿を見てある疑念を抱いてしまう。

 凛は本当に僕のことを殺したのだろうか?

 テレビで人が死んだというだけであんなにも取り乱した凛が、一昨日は自らの手で人を殺して、そして笑った?

 確かに僕は見事魔法の力とやらで生き返り、今は何不自由なくまた社会生活を送れている。むしろ見捨てずに助けてくれたことに僕は恩義すら感じている。

 でも、故意でないとはいえ自分で殺してしまった相手に、笑いかけた?普通は次々に襲いかかる罪悪感や後ろめたさに苛まれ、笑顔を作ることなんて心が壊れていない限りは出来ないのではないか?

 やはり、凛が何故屋上で魔法を使っていたのかについて、詳しく説明をしないことと何か関係があるのだろうか?

 「じゃあ・・・コレでいい? もう決めちゃうけど。」

僕は、今そんなことを考えても仕方ないと思い、話題を元に戻す。

「えぇ・・・コレ、中の人がこっちに出てこないのよね?」

凛はまだコレの正体がよく分からないといった風で、どう扱うのかを恐る恐る探りながら僕に聞いてくる。

「ハハッ、出てきたら怖いって。後で帰ったら使い方とか色々説明するから。」

凛はまだ『何のためにこんな物を?』と不思議がっていたが、きっと楽しんでくれるに違いない。

 僕たちは買うテレビを決め、次は電話機のコーナーへと向かい、続いて電子レンジ、洗濯機、冷蔵庫へと見て回る。

 凛は終始驚きっぱなしで、人類の科学力というモノに時には涙すら見せることもあった。

「魔法とは・・・一体何だったのでしょうね? 私たちの努力って、実はとんでもなく無意味で滑稽だったのかしら?」

と言わせてしまうほどである。

 結局、僕たちはテレビ、電話機、電子レンジ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、ついでにこれからやって来る暑さ対策のための扇風機を買い、電気店を後にした。お会計を済ませる時、店員さんからの視線が妙に怖かったのを覚えているが、もしかして僕たちがこれから二人暮らしを始めるとでも思っているのだろうか?

 「そんなに買って大丈夫なの?」

と、凛が僕だけにしか聞こえないように小さく囁く。どうやら僕の財布の心配をしてくれているらしい。

「大丈夫、お金下ろしてあるから。あと十万ほど残ってる。」

僕も同じようにして小さく囁く。凛は『お金を下ろす』と僕が言った時に一瞬、申し訳なさそうに顔を歪めたが、

『気にするな。』

と目で軽くおどけてみせる。凛も納得はしていないようだが、それ以上は口を出さなかった。

 そしてまた数分後。

 電気店から凛の家への帰り道。

 「大抵の家電は明日届くって言ってたし・・・。家具類は午後に回るとして、一旦お昼にするか。」

僕は腕時計で時刻を確認すると、日陰のベンチでひと休みをしている凛に話しかける。凛は手を団扇代わりにして顔から首の辺りを仰いでいた。正午近くなり日が高くなってきたので、冬服の制服では少々暑そうだ。

「・・・そうね。」

やはり暑さにバテたのか、口調にも元気が感じられない。まだ四月なのだが・・・凛は体が弱いのだろうか?

 「お昼は・・・どうする? 暑そうだけど・・・そうめんでも作ろうか? 季節外れだけど、家を探せば去年のが残ってると思うから。」

そういえば、普段凛はどんなものを食べているんだ? と、気になる。もしかして缶詰を食べる毎日だったりするのだろうか? それだとかなり不健康だが・・・

 「えぇ、お願いするわ。久し振りに外へ出ると・・・太陽が憎いわ。」

と、凛が答える。ん? さっき『久し振りに外へ出ると』って言ってなかったか? 一体どういう意味だ?

 「んん、そろ行きましょう。大輝の家ってどこにあるのかしら? 私の家から近い?」

「百メートル・・・ってところかな? そうめんを持ってきたらすぐ行くから。」

「そう、分かったわ。」

 僕たちは途中で休憩を挟みながらも凛の家へと歩き、僕は一度家へと帰るため凛と別れた。


**********


 「・・・おいひー。」

僕の作ったそうめんを、凛はとてもおいしそうに食べる。ちなみに今は四月、『何故この時期に?』感が半端ないが・・・たまにはこういうのもいい。

 「次はどこへ行くの?」

啜っためんを飲み込んで凛が聞く。僕はつゆの中にあっためんを全てかたづけ、一拍おいてから口を開く。

「服、家電ときたら・・・次は家具だ。バスで少し行った先にドデカい家具店があるから、そこでタンスやら棚やらを買おう。ハンガーとかもあるかな?」

「? ハンガー? そんなもの何に使うの?」

「・・・じゃあさっき買った服を一体どうするつもりなんだ?」

「あ・・・」

 どのようなものを買うか僕たちは具体的に話を進める。『教科書などを入れる本棚は必要か』とか『ゴミ箱がもっとたくさん欲しい』とかだ。何を買いたいか、何が欲しいかを嬉々として語る凛はとても生き生きとしていて、本当に買い物に誘ってよかったと思う。

 「そうだ、凛。」

「? 何かしら?」

「さっき買った服、着てみないか?」

「ふぇっ?」

僕の突然の提案を凛は全く予想していなかったようで、おかしな声を上げる。さすがに箸を落とすというようなベタな真似はしなかったが、めんを取ろうとした箸の動きが一瞬止まった。

「あ、ホラ・・・凛、さっき制服だと暑そうだったからさ。買った服に涼しそうなのもありそうだし。折角買ったんだから、着てみない?」

理由を説明して、僕はめんを啜る。凛もやっと動きを再開し、お皿からめんを取る。

「・・・まぁ、暑いっていうか太陽がね・・・・・・。」

凛は小さく呟き、めんを啜る。小さくてよく聞こえなかったが、別に聞き返す必要も無いだろう。

「そうね、買った服は今日のうちに着てみたいし。食べ終わったら着替えるから、少しの間待っていてくれる?」

「うん。分かった。」

 最後の一口を凛が啜り、僕は食器洗い、凛は着替えへとそれぞれ席を立った。


**********


 今日の凛は可愛かったなぁ。一昨日、昨日と来たが、凛と一緒にいる時間は今日が一番長いんじゃないか? まさかテレビというモノの存在すら知らないなんて・・・こういうのを世間知らずっていうのだろうか? これで少しでも凛の生活が快適になればいいけど・・・

 「お待たせ。」

つらつらと凛を待つ間に寝てしまった僕のうっすらとした意識に、聞き覚えのある凛とした声が響く。

 「あ、ごめん。ちょっと、寝・・ちゃっ・・・て・・・・・・・・・」

控えめなフリルのついたワンピース姿の凛。薄い青地に、胸の辺り咲く幾つもの白い花が映える。素肌の眩しい肩には薄いタオルのようなものがかかり・・・何というかその・・・・・・女の子していて今すぐ抱きしめたい。

 「・・・何かおかしいかしら?」

僕が凛に見とれてしまい何も話せないでいると、凛が不安そうにワンピースの裾を摘まむ。その一動作に僕の心臓の鼓動は更に高まり、胸が締め付けられる。

 「・・・おかしいっていうかその・・・・・・似合ってます。」

『女性の服を褒めろ』というのは簡単に言ってくれるが・・・日本人男性にはかなりの難易度じゃないか?

 凛はそれを聞くと、朱に染まった顔を逸らしてはにかむ。しばらくの静寂が過ぎ、やがて凛が口を開いた。

「じゃあ行きましょう。駅近くのバス停に行くの?」

「あぁ、うん。そこから十五分ってところかな?バスを降りたら少し歩くよ。」

「! えぇ、分かったわ。」

 僕たちは凛の家を出て、この町には一つしか無い駅にあるバス停へと向かった。

 僕はなるべく平静を装っていたつもりだが、未だに動悸が治まらない。


**********


 「私、バスなんて初めて乗ったわ。」

「まぁ、今のあなたを見れば大抵の人はそう思うでしょうねぇ・・・。」

誰もいないバスの中。座席に膝を立て、身を乗り出して外の景色を見る凛。窓に手をつき時折『ウワァーッ!』などの歓声を上げる様は、さながら幼稚園生や小学生のようだ。いつもの見慣れた風景だろうに・・・

 「普通に座りなって・・・もうすぐ着くよ。」

「まだいいでしょう? ホラ大輝、すごいわよ。道路標識が私たちよりも低いわよ!」

「このバスはそんなに高くないって。見間違いだよ。」

「え? でも、ホラ!」

「ん? お、おぉ!! ホントだ・・。」

「ね? こんな高い視点初めて・・・」

「新しい発見だな・・・。」

僕たちの間に謎の何かが生まれる。たかがバスと道路標識との高さの差が、ここまでの感動を呼ぶなんて・・・

 『・・・エー。バスの中ではお静かにお願いします。』

「「あっ・・・」」

騒ぎすぎてしまった。誰も人がいないとはいえ、運転手の存在を僕たちはすっかり忘れていた。

 「もう、大輝がうるさいから注意されてしまったじゃない。」

凛が小声で文句を言う。

「そもそもは凛が騒いでたからだろ。僕の所為にするなよ。」

僕も小声で応戦する。

「大輝が私の言うこと聞かなかったからでしょう?」

「いいや、凛がうるさかった所為だ。」

「大輝が悪い。」

「凛が悪い。」

「うー。」

「がー。」

互いににらみ合う。そして互いに唸る。というか吠える。

 と、今まで意識的に見ないようにしていた凛の姿が、まるまる僕の視界に入った。僕の方へと身を乗り出し、凛の長い髪が僕の肩に掛かる。

「・・・!!!」

「?」

凛が身を乗り出すので、必然的に僕からは・・・・・・

「・・・・・・胸元。」

「え?」

「見えてるけど。」

必然的に僕からは、ワンピースのたるみによって出来た空間によって、遮るものの無い生おっぱいが拝めるわけである。実際には谷間が数センチ見える程度であるが、妄想たくましい思春期の男子学生にとってはこれだけで十分永久保存決定の宝物だ。凛の白い肌に彩られた見るだけで分かる柔らかそうなおっぱいが、バスの振動に合わせて細かく、時に大きく揺れる。これは本当に人の体かと疑ってしまう凛のおっぱいの動きに、僕は溢れ出る若さの衝動を必死に抑えつけねばならなかった。このまま凛の細い肩を抱き、無理矢理にでも押し倒し行為に及んでしまえばどれほどの快楽を得られることか・・・・・・ いやダメだ、僕は恩人相手に何を考えている! 今こそ僕の理性を総動員し、紳士的な対応を取るのだ。紳士的に紳士的に・・・・・・

 僕はこの場合、凛が一体どのような行動に出るかまだ知らない。深夜アニメのように殴りかかるのか、それともただ恥ずかしがるのか、泣くのか、嫌われるのか、それともよくあるお姉さん系のヒロインのように大胆な行動を取るのか・・・

 僕は名残惜しいと思いつつも、凛に気づかれないように椅子から立ち、ゆっくりと後ずさる。

 約一秒間ほどだろうか、凛は表情を固めたまま微動だにしない。この一秒間がまるで何時間もあるかのように感じ、その間も僕はゆっくり、ゆっくりと凛から距離を取る。

 その時。

 僕の目の前に二本の指が並ぶ。比喩ではなく、眼前一センチ、まつげに触れる距離まで指が突きつけられ、今にもブスリと目を指されそうだ。

「うわっ!!」

体がようやく危険を察知したようで、僕は声を上げ、必死に仰け反ろうとする。がしかし後頭部をガッチリと押さえつけられ、頭を動かせない。

 「ねぇ、大輝。」

怖いくらいに冷ややかな音が耳に響く。僕の心臓は破裂するかのように急速な鼓動を開始し、さっきまでの幸せな感情を一気に恐怖へと変える。

「あなたはさっき、何を見たのかしら?」

「い、いえっ! 何も見てません。」

「本当かしら? あなたさっき私の胸元がどうこう」

「そそっ、そんなことは一言も・・・」

僕は今ある力を全部思考に費やす。しまった、ヤンデレパターンを忘れていた。この場合は・・・ええと、思いっ切り謝ればいいんだっけ? いや、今謝ったら逆効果だ。ここはやはり何も見ていないと誤魔化し通すのが最善か。いや・・・いっそ堂々と開き直るか?

 「えいっ。」

えらく凛の幼い口調が聞こえる。と思った次の瞬間

「ぁぐっ!!」

凛の指が刺さる。鋭いようで目の裏にこもる痛みが二つ、僕を襲う。しまった、思考に集中し過ぎて、まずこの状態から脱するという最優先事項のことまで頭が回っていなかった。

 「安心しなさい。死んでもまた奴隷として生き返らせてあげるから。」

「死ぬの前提!?」

目の前の指が今にも刺してきそうで怖い、という理由で目をつぶっておいてよかった。凛にも慈悲があるのか、失明するほどの痛みは無い。強さを加減してくれたのだろう。・・・・・・普通、慈悲のある人は他人の目を問答無用では刺さないだろうけど。

 「さて、記憶は消し飛んだかしら?」

『勉強は済んだかしら?』と全く同じような軽さで凛が尋ねる。

「・・・今ので消したのかよ。」

「え? 何? もう一回記憶を消して欲しいの?」

「消えました消えました!! えぇもう何も覚えていませんとも!!!」

本当はもう一生忘れなくなるほど目に焼き付けたのだが、あえてそれを口に出すほど僕は馬鹿じゃない。

 『・・・何度も繰り返すようですが、車内ではお静かに。』

「「あ。」」

あと一回騒いだら本気で暴れ出しそうな顔をした運転手さんが鏡越しに見える。

 僕らはそれ以降何も話すことなく、家具店近くのバス停でバスを降りた。


 「ものすごい形相だったぞ、あの人。」

「顔の色がすごかったもの。とても真っ赤で“だるま”みたいだったわ。」

「まぁ、あの状況で僕たちがキャッキャウフフしてたらなぁ。」

「? キャッキャウフフ?」

「姦しい・・・って意味になるのかな?」

「あぁ、大輝、女々しいし。」

「ふん。たかだかおっぱいがチラッと見えただけで人を刺し殺そうとするどこかのK・Rさんよりはマシさ。」

「えいっ。」

「うおっ!! 危なっ! フフッ、甘いな。僕に同じ手が通用すると思ったか? 安心しなさい、もう凛のあどけなく、そしてあられもないあの凛の姿は僕の頭の中で永遠に再生され続ける。もはや僕が忘れることは死ぬまでない。」

「あ、警備員さん。すみません、ちょっと先ほどあの男に押し倒されまして・・・」

「アハハ、何言ってるんだよ。僕が姉ちゃんにそんなことするわけないだろ? ねぇ警備員さん?」

「ホラ、見てください。可哀想に、どうやら気が狂って私のことを姉だと思い込んでいるみたいなんです。早く捕まえてください。」

「すいませんすいません忘れたはずの記憶を無理に引っ張り出した僕が悪かったですもうホントに忘れますから警察に突き出すとかそれだけは勘弁してください。」

 家具店への道中。

 少しは打ち解けたのだろうか、僕と凛は歩きながら先ほどのような他愛の無い会話を繰り返す。それもこれも、凛は胸を見られたことへの照れ隠しと誤魔化しから、僕は会話に集中することで凛に下手に欲情するのを防ぐため、といったようなそれぞれの理由による。

 僕は未だに興奮から冷めないのか、もう凛を直視できない。長く綺麗な黒い髪、細い首に薄く浮き出た鎖骨、ワンピースからはみ出た白い腕、ゆったりと水色の布に包まれた腰回り。そのどれか一つでも目に入ったら、今度こそ理性が保つか分からない。

 おかしい。昨日は何ともなかったはずなのに・・・凛が着替えを終え、バス停へと向かい、バスに乗り・・・・・・その辺りからだ。徐々に凛を異性として認識するようになり、今となっては凛を異性でとしか見ることが出来ない。初めて見る凛の私服に惑わされたといえないでもないが・・・?

 「ねぇ、コレはあの家具店のことかしら?」

と、凛は立ち止まり道路脇に立てられた幾つかの看板の一つを指す。凛の指さす先を辿ると、そこには大きく“家具の店今泉”と書体で印刷された看板が目に飛び込んでくる。

「う・・うぅん。そうだと思うけど、こんな感じのお店だったっけ? 最近行ってないからなぁ・・・。」

あまりに過去の記憶とかけ離れた看板だったため、どうしても曖昧な返事になってしまう。前はもっとシンプルで・・・大手の支店っぽいイメージがあったんだけどな・・・・・・

「三百メートル先か。・・・あの建物かな?」

「ここから見えるなんて、結構大きいのね。電気店ほどではないけれど、これは品揃えに期待が持てそうね。」

 二人で家具店の位置を確認した後、僕たちは歩みを再開する。不意に凛を見てしまわないよう注意し、横に並ぶ。

 「・・・そういえば大輝、生き返ってから何か変わったこととかない? そろそろ起きてもいい時期なんだけど・・・・・・」

凛が話を変え、僕に聞く。

「えっ? 何それ副作用とかあるパターン? 聞いてないぞ、そんなの。」

「言っていないのだから当たり前よ。」

さも当然のように凛。

「何も無いのならそれでいいわ。私もその方が困らないし。」

「いやちゃんと教えてよ。もしそれで手遅れとかになった場合」

「大丈夫よ、命に関わることでもないし。むしろ私の方が危険。」

「? だからどういう」

「ええい、しつこい!! 後でまとめて話すから!! とりあえず今は何も聞かない、分かった?」

「・・・分かったよ。」

 『後でまとめて話す』、そう凛は言った。まとめて。つまり、それは意図的に僕に話していないことがあるという何よりの証拠だ。何故凛が隠し事をしているのかはまだ分からないが、やっぱり僕の『凛が何か隠している』という推測は当たっていたわけだ。

 と、風に乗ってきたのだろうか? 今までとは違う、何だか変な香りがした。あまり嗅ぐ機会はないが、妙に親しみのある匂いだ。が、何の匂いかを思い出そうとする前にその香りは消え、詮索することが出来ない。

「・・・? 凛、さっき何か変な匂いがしなかった?」

「・・・いえ、何も感じなかったけれど?」

僕は凛に聞いてみるが、凛は大して何も違和感は無かった、というように答える。・・・確かに匂ったのだが、僕の勘違いだろうか?

 「・・ここね。何だか随分とボロ臭い建物ね、古い物には必ず趣があるってわけでもないのに・・・・・・。」

家具店に着き、店の外観について凛が感想を述べる。また非道い言いぐさだが、決してそれが間違っているわけでもないので中々怒れない。

 「にしても、こんな感じだったっけ? 確か自動ドアだったはずだけど・・・」

僕はそう呟く。どうもこう・・・しっくりこないのだ。かすかに残っている僕の記憶と照らし合わせてみても、違和感しか出てこない。

 すると、目ざとく僕の言葉を聞き取った凛がそれに反応する。

「・・・今、何て言った?」

凛は先ほどの言葉を復唱しろと言わんばかりに詰め寄る。それにより僕は凛と向き合う形になってしまったが、その表情は真剣で、とても雑念の入り込む余地は無い。

「ええと・・・『こんな感じだったっけ』って・・・・・・」

いつになく真面目な凛に気圧され、僕はうろ覚えながらも途切れ途切れに言う。

「本当はもっと洋風な建物のイメージが残ってて、自動ドアとかもあったはずなんだけど・・・」

 凛は一通り僕がさっき何て言っていたかを聞き終えると、

「ありがとう、大輝。あなたのおかげで助かったわ。」

そう、若干安心したように僕にお礼を言った。

 そしてすぐに凛は表情をキリッと引き締め、まるで誰かに聞かれてしまうのを避けるように静かに口を開く。


「逃げるわよ。」


 次の瞬間、凛が消えた。一瞬にして溶けて消えてしまったかのように、まるで存在が無くなってしまったかのようだ。

 「付いてきて。」

困惑する僕に、どこからか凛の小さな声がする。

「“空を飛べ”って心の中で念じてみて。・・・そうね、雲になったイメージで。」

「・・・雲?」

「いいから早く!! 時間が無い!!」

僕は戸惑いながらも凛の指示に従う。大空に悠然と浮かぶ雲を思い浮かべ、それになりきろうと想像力を駆使する。

 すると、地面の感覚がなくなり、ゆっくりと地面が僕から遠ざかっていく。

 「うまくいったわね。そのまま飛んでいくわよ。」

凛の少し安心したような、でもまだ少し焦りの混じった声が聞こえる。

「浮いたはいいが・・・どうやって移動するんだ、コレ?」

「ごめん、時間が無い。適当に頑張って!!」

「えっ!? んな無茶な・・・」

それ以降凛の声は聞こえない。『逃げるわよ』と言っていたし、先に逃げてしまったのだろうか?

 仕方が無いので僕は自力でどうにか空を飛ぼうとする。漫画にもあるように、水の中を泳ぐような感じで進めばいいのだろうか? それともさっき浮いたように念じればいいのだろうか?

 とりあえず僕は『動け』と心の中で念じてみる。すると、体がゆっくりと水中を歩くみたいに段々と進んでいく。気を抜かず『動け』と念じ続け、このままとりあえずバス停の方へと向かう。

 風に流されるようにゆっくりと進んでいた体は段々とコツを掴み、とうとう下を走る自動車を楽に追い越せるスピードにまで達していた。上空約十メートルの辺りを風を切って飛ぶ快感は何とも言えず、これまでに無かった感動を僕に与えてくれる。

 「すごいじゃない、大輝! このままさっきのバス停まで戻るわよ。気を抜いたり、体を動かそうとしないこと、分かった?」

またどこからか凛の声が僕へと届く。僕の飛行技術に驚いたらしく、えらく興奮した口調で凛は話す。

 「うん。それと・・・」

「それと?」

凛に褒めてもらったことが嬉しくて上がる口角を抑え、僕は真面目な口調で凛に言う。

「黙って指示に従っていたけど、もう限界だ。一体何があって、どうして僕たちが逃げていて、何故僕が空を飛んでいるのか、それと何で一昨日屋上で凛が魔法を使っていたのか、それも含めてその他諸々帰ったら全部説明してもらう。」

「・・・」

凛からの返事はない。凛の姿は見えないので、今凛が何を思っているのかは分からない。

 数秒の沈黙。僕は黙って凛の反応をずっと待つ。

 「・・・・・・分かったわ。」

と、観念したような凛の声が聞こえる。

「いずれは話さなくてはいけないと思っていたしね。・・・わざと魔法を使った動機を伏せていたのに・・・・・・それが仇になったかしら?」

まるで探偵に悪事を全てばらされ、変に吹っ切れてしまった人のような口調だ。

「それだけなら分からなかったけど、会話の所々に変な部分があったからね。大方、凛の正体の見当はついてる。」

「・・・」

この反応は図星らしい。やっぱり凛は・・・

 「!! 追いつかれた!! 大輝、全速力!!!」

「!? 分かった!!」

凛が何かに気づき、大声を出した。この声の大きさからしても、かなり危険な状況だということが分かる。僕は限界まで加速し、今ある全力を持って必死にバス停へと向かう。

 飛行機に乗った時のような浮遊感と共に、風を切って前へ前へと進んでいく。

 「!! 大輝、避けて!!!」

バス停まであと少し、スーパーの上空で凛が叫んだ。

「ッ!!」

僕は凛の声に瞬時に反応し、右に逸れるように曲がる。曲がるなんて初めてのことだったが、墜落することもなく無事に高さを保ったまま飛行を続ける。

 次の瞬間、先ほどの僕の軌道上を赤黒い玉が通過した。ハンドボール大の、周囲に禍々しい雷のようなモノを帯びた球体が三個。空気を切ったような音をたて、そのままスーパーの駐車場へ落下、激突する。

 そして一瞬、鼓膜を破かんばかりの、ゴムが収縮して衝突する時に発せられるような破裂音が辺り一帯に響く。直径三十メートルほどの丸いくぼみが駐車場にポッカリと空き、周りの車もガラスが割れたりひっくり返ったりと、非道い有様だった。おそらく原因はさっきの玉の爆発だろう。

 「! 大輝!!」

凛の相当焦っている声が・・・さっきの爆発音でやられたのだろうか、うっすらと聞こえる。

 何だ? 誰が? 何故? といった思考は一旦停止し、まずこの場を生き残るためにはどうすべきか、について全力を注ぐ。

 凛の声、それとさっきの攻撃を僕が避けたことから、次の攻撃がまた来るはずだ。敵は一度出来た隙を見逃さないだろうから、爆発に驚いて僕が速度を緩めた今が絶好のチャンスだろう。あの爆発からして、直撃すれば即死。かといって僕に攻撃の手段は無い。相手がヘバるか諦めて帰るか、それとも僕が逃げ切るか、それしか手段は無い。

 極限状態のおかげで脳の処理速度が上がっているのか、僕はそれらの考えを一瞬でまとめ、左へと急旋回する。

 すると、また僕のさっき飛んでいた軌道上にあの玉が落ちる。今度は駐車場の隣の道路に落ち、数瞬後また大きな音を立て爆発する。

 その事実に僕はヒヤリとしながらも、そのまま相手に軌道を読まれないよう蛇行してバス停へと辿り着く。

「おっ! ぅ、うおっ!!」

全速力のままの着地は派手に失敗し、僕は二、三回ゴロゴロと転がる。

 「大輝、早くこっち!!」

僕は体勢を立て直し、バスの時刻表が貼ってある電柱に身を隠す凛の声を聞く。凛の足下には、昨日見た緻密な魔方陣が光っている。

 僕は走って凛の方へ行き、凛がスペースを空けておいたその魔方陣の上に立つ。

「行くわよ、“我が力よ、我と我が僕を、飛ばせ”!!!」

凛が何かの呪文を唱え、魔方陣が光り輝く。そしてその光が僕たちを包み、段々と視界が真っ白になっていく。

 相手が僕たちを見つけたのか、赤黒い玉がこちらへ飛んでくる。しかし、それは魔方陣の光によって、いつしか見えなくなっていた。


**********


 「・・・何とか逃げ切ったわね。」

「まぁ、まさかこんな所まで逃げたとは思わないだろうしね。」

 凛の『移動魔法』というモノで、僕たちは山の中に来ていた。凛によれば、ここはあの町から一番近い所にある山だという。登山道の中間地点近くに飛んだらしく、ここから下山すればすぐに帰ることが出来るだろう。

 「暗くなる前に早く下りちゃうか。夜の山は怖いし。」

周りを一通り見てから僕が言う。確か・・・ここは何度か登ったことがある。下山先に何本かバスが通っていたはずだ。そこから帰ろう。

 と、凛がおずおずと申し訳なさそうに口を開いた。

「あのー・・・」

「ん?」

言いにくそうに口ごもる凛。恥ずかしそうにもじもじとしている。

「・・・私、この魔法を使っちゃうと動けなくて・・・その・・・おぶって欲しいかなー・・・・・・なんて・・・・・・・・・」

「・・・」

「・・・・・・ね?」


 人をおぶうというのは何年振りだろう? 大人に近づくにつれ段々と触れ合う機会も無くなり、小学校低学年以来は一切人をおぶった記憶は無い。

 「あぁ・・・こんな展開が僕を待っているなんて、生きててよかった。」

「・・・・・・後で絶対葬ってやる。」

僕の肩に力無く顎を乗せた凛が、顔を羞恥の色で染め上げ、物騒なことを口にするのが見える。僕はひょっとしたら十年振り以上になるかもしれないおんぶに懐かしさを感じつつ、凛を背負い山を下りる。お姫様だっこという手もあったのだが、さすがに山の中では負担が大きすぎてとても出来たモノじゃないと即ボツとなった。凛は本当に動けないのか、ダランと僕に丸々体重を預けている。

 そして、やはり重要なのはこの体勢によって生まれるラッキースケベ。背中に感じる女の子の体、特におっぱい。手に触れる太もも。

 僅かに見えた、それだけでどうしようもない程の興奮を覚えた谷間。今、僕はその全てを一身に押し付けられているのだ。決して大きくはないが、人並みにある凛のバストが僕の歩くリズムに合わせてむぎゅむぎゅと僕の背中を刺激する。柔らかな二つの膨らみが絶えず僕を誘惑し、たぶらかす。

 そして、凛の脚。ワンピースの上からでも分かる、キメ細かくもちもちとした白い肌。太くもなくまた細くもないそのバランスのとれた美しい脚は、見ただけでも充分に人を倒れさせる力を持っている。そこに添えた僕の手はゆっくりと埋没していき、これでもかというほど、僕に脚の柔らかさを強調してくる。

 凛は僕に触れる全ての箇所で、もうどうしようもないほど無自覚に僕を欲情させる。バスでのことといい、凛は基本的にガードが甘い。そしてその一つ一つの軽い行動が一人の純情な男子高校生をどれだけ苦しめているか・・・・・・もし僕がこのまま理性を捨て去ってしまえば・・・・・・。

 ・・・アレ? 凛って今動けないのだから・・・しようと思えば・・・・・・

 「・・・あなたまさか『今なら凛は動けないから、好き放題出来るんじゃないか?』とか思ってないでしょうね? 微妙に目の形がいやらしくなってるわよ。」

「アレ? バレた?」

「!!! まさか本当に思ってたの!? 買い物に行こうと誘ってくれて、尚かつそれに費用も全額負担してくれたあなたのことを『この人は信用できる』とか密かに思っていた私の純な心を今すぐ返して!!!」

凛はまるで憧れていたアイドルに裏切られたような顔をして、心の内を吐露しながら僕に無茶なことを言う。・・・そして凛は気づいていないのか、凛をおぶっていることでさっきから僕と凛との顔が近くなっている。ちなみに凛はこちらに顔を傾けているので、温かな凛の息が絶えず僕に吹き付けられているのだ。もう凛は口ではああ言いつつも実は僕を誘っているんじゃないか? そんな妄想が止まらない。

 と、凛は何かに気づいたようでハッと顔を上げる。

「・・・ねぇ、大輝。さっき私に『全部説明してもらう』って言ったよね? ・・・・・・・・・ちょうど下山ついでに、今してもいいかしら? 何だか改まってっていうのもアレだと思うし。」

凛の方からその話題に触れる。その顔には、憂いや悲しみといった感情がにじみ出ている。

「あぁ、うん。今度は変に誤魔化すなよ、凛のこと信じてるから。」

僕は緩やかな坂を下りながら言う。

 凛は数秒の間目を閉じて沈黙し、やがて目を開き、続いて口を開く。そして、割とあっさり、淡泊な口調で語る。


 「私、実は魔法使いでも何でもないの。いえ、でも厳密には魔法使いとして扱われることもあるかしら?」

「私の正体は、吸血鬼。大輝も名前くらいは聞いたことあるでしょう? 西洋に伝わる、モンスターみたいなモノかしら?」

「牙だってちゃんとあるのよ? 私は未成熟だから人間の犬歯と大して変わらないけれど・・・そうね、大輝が寿命を迎える頃には立派な牙に成長していると思うわ。楽しみにしていてね。」

「『どんな漫画だよ』って思うわよね、普通は。でも困ったことに実在するのよ、吸血鬼。同類は、私の知っているだけで五十人はいるわ。結構いるでしょう? ちなみにというか、もちろん私の両親も吸血鬼。」

「元々、吸血鬼は吸った血液を媒介に魔法を使えたらしいのよ。それを偶然にも見てしまった人が興味を持って、今ある『魔法』というものが確立されたらしいわ。だけど、それは普通の人間が超常の力を持つための手段、やっぱり私たちの力とは少し違うのよね。」

「で、何で私がこんな嘘をついたかというと・・・ごめんなさい。牙は無くとも、普通に歯で噛みつけば何とかなるから・・・・・・」

「そんなに驚かないでよ、だから隠しておきたかったのに。あと、首筋に手を当てて一人で興奮しない!! 『美少女に噛みつかれることはある特定の人物にとって至福のごほうびとなる』とか、あなたに対する私の信頼を返しなさい!!! ・・・それと、・・私のこと、美少女って・・・」

「んん。・・・話を戻すわね。えーっと、『吸血鬼に血を吸われるとその人も吸血鬼になってしまう』って伝説あるでしょう? それは死にたてホヤホヤの人にもギリギリ適応されるみたいだから、死んでしまったあなたの血を吸って、あなたを吸血鬼として生き返らせたってわけ。」

「だから、もうあなたは私の吸血鬼。私のものよ。昨日、あなたのことを奴隷だって言ったのはそういうこと。」

「・・・あなた、この前から変に私のことを意識するようになったでしょう?」

「それは・・・何て言えばいいのかしら? 本能? 生まれた子供が親のことを好きになるように、吸血鬼にもそういうものがあってね。おそらく、あと一ヶ月ほどあなたは私に心酔することになるわ。」

「・・・ちょっと、そこで変に黙らないでよ。こっちが恥ずかしいでしょう。」

「それと、さっき私が『逃げるわよ』って言った時、急に私の姿が見えなくなったでしょう?」

「あれは吸血鬼の特性で、霧になったの。よく吸血鬼はコウモリになったりとか聞かないかしら? 吸血鬼なら誰にでも出来るのだけれど、これが中々侮れない力なのよ。」

「もし、大輝が物語の主人公で、霧になれる相手が敵だったらどうする?」

「『ヒロインと愛の逃避行』なんてこと言ったらブッ飛ばすわよ・・・まぁ、まず無理よね、勝てっこないもの。」

「物理攻撃なんてもってのほか、不可視、空なら何処へでも移動可能・・・吸血鬼の苦手とする銀やニンニクに触れると弱っちゃうけれど、それ以外に弱点は無いわ。」

「実はあの時、大輝も霧になってたのよ。」

「さっきの攻撃には銀の成分が含まれていたから、私も焦ったものだけれど。」

「『実感が湧かない』? 大抵みんなそんなモノよ、気にする必要は無いわ。」

「でもこの力でお風呂を覗こうモノなら、容赦はしないからね?」

「ちなみに、私がお昼にバテていたのは結構な量の日光を浴びたから。純血の吸血鬼ほどこういった弱点が顕著に現れるから、大輝が大丈夫だったのはその所為かしらね?」

「・・・さて、何で私が屋上で魔法なんか使っていたのか、それとさっきの攻撃は何なのか・・・だったかしら?」

「あんまり話したくはないのだけれど、やっぱり話すべきよね。」

「私、命を狙われているの。」

「“吸血鬼退治”っていうものがあってね。元々は死体が吸血鬼にならないように心臓を切り取って燃やしたりとか、人の吸血鬼化を防ぐための活動だったのだけれど・・・最近は過激派勢力が大きくなってきて、困っているの。」

「まぁ、要はさっき言った魔法や銀の弾丸を武器に、吸血鬼の可能性がある人を殺していく集団よ。“ジャスティス”って名前みたい。私たちからしてみれば、とんだはた迷惑な正義集団なんだけれどね。」

「私の両親も、ソイツらに殺されたわ。」

「一昨日、私はちょうどソレに出くわしちゃったの。」

「驚いたわよ、いきなり『おまえは吸血鬼だな?』とか言われたんだもの。」

「よく分からなかったのだけれど、『この人も仲間なのかな?』って油断して少し近づいたら、いきなり変なカマイタチ型の斬撃で攻撃してきて・・・私も驚いちゃって霧になって逃げたのだけれど・・・・・・『あぁ、とうとう“ジャスティス”に見つかっちゃったな』って。」

「でも、道路で出くわしただけから見失っちゃって、それで屋上に上って辺りを見回していたら、ちょうど大輝が来たってわけ。」

「てっきりまた“ジャスティス”が襲ってきたのかと思っちゃって、それで魔法で攻撃したら・・・そのー・・・普通の一般人だったわけです。ハイ。」

「おそらくさっきの攻撃もソイツらの仕業だと思うわ。大輝のおかげよ、気づいたのは。前に、『“ジャスティス”は空間を歪めて吸血鬼を自分の有利な場所へ誘い込む』って仲間の吸血鬼に聞いたことがあったの。大輝が家具店を見て」

「・・・今まで黙っててごめんなさい。でも、コレは私たちの問題だから、あなたに迷惑をかけたくなかったの。・・・・・・これで全部話したわ。何か質問はあるかしら?」


 ・・・。

 「なんて“事実は小説よりも奇なり”な展開なんだ・・・ッ!!」

僕は凛を背負い、緩やかな坂の終盤を歩く。

「・・・まさかそんな反応をされるとは思わなかったわ。」

かなりの文章を語り、若干疲れの色を浮かべた凛は呆れた口調でそう言う。

 「・・・あのスーパーの駐車場、一体どうするつもりなんだ?」

“ジャスティス”だったか? その攻撃でもはや駐車場はただのクレーターみたいになってしまったのだが、まさかあのままのわけじゃないだろう。僕は凛に聞く。

「多分、魔法か何かで直せる術を持っているはずよ。でないとアイツらはただの破壊集団だもの。」

「・・ハァ、よかった。」

凛の言葉に僕は安心する。あの時駐車場には誰もいなかったし、負傷者はゼロ。これで駐車場も直れば被害は何も無かったことになる。

 「おそらく、さっき大輝が霧になったことで大輝の正体もバレたわ。晴れて二人とも狙われる身となったわけだけど、これからどうする?」

と、凛が下山後の予定について僕に聞く。

「まさか、『また戻って家具を買いに行く』なんて言わないでしょうね?」

微妙に声を険しくする凛。そんなに僕は行動を信用されていないのだろうか?

 「でも、凛だって一昨日“ジャスティス”に襲われたっていうのに、昨日は普通に学校に来てたじゃん。人のことをそう言う権利は無いんじゃないか?」

「そっ、それはそうだけれど・・・」

僕がそう言うと、凛は図星を突かれたような顔をして押し黙る。

「あ、あれは大輝に明日説明すると言ってしまったからよ。思えば連絡する手段も無かったわけだし、それに、すぐに場所を変えたでしょう?」

「・・・いやでも、それは相手に自分の家の場所を教えたってことにならないか? もしかしたら“ジャスティス”の奴らは今、家で待ち伏せしているかも・・・・・・?」

僕は歩きながらも思考を進めていく。

 「へ!? いえ・・・まさか、そんなことは・・・・・・!!」

凛はそれを想像して恐怖したのか、細かく震えながらも声を絞り出す。凛にとって心の拠り所であった家が、自分の命を狙う奴らにマークされているかもしれない。というのは、凛にとってもかなり精神的に負担のかかるものなのだろう。

 「最悪の場合は、ね? 落ち着きなよ、まだそうと決まったわけじゃないんだし。それに、もしそうだったとしても何とかすればいいんだろ?」

気休めにしかならないが、僕は凛の精神的負担を和らげようとする。凛もそれを分かっているだろうが、何とか気丈に振る舞おうとしたのか大きく息を吐いて僕に応じた。

「・・・そうね、もしそうだとしてもまだ大輝の家に泊まれば誤魔化せるはずだし。・・って、どうかした?」

「・・・あまり大きく息を吐かないで。くすぐったいから。」

凛の息が首筋に当たり、ぶるっと震える僕を訝しんだ凛に僕は言う。さっきの凛の話によると、これも吸血鬼になってしまった所為らしいが・・・ホントにこの人は一つ一つの行動をわざとやっているようにしか思えなくて怖い。

 凛は僕の言葉が何を意味するかに気づき、頬を染めた。しかしまた口を開くと僕に息がかかると思ったのか、それ以外に反応を見せない。

 「それにしても・・・いつ動けるようになるんだ? まさか今日いっぱい動けないとかないよね?」

段々と腕や脚に疲労が溜まってきた僕はふと凛に聞く。

「・・・あと一時間ってところかしら? 誰かの血を吸えればすぐにでも動けるのだけれど、大輝の血、吸っていい?」

まんざら冗談にも聞こえない口調で凛は言う。でも、吸血鬼が吸血鬼の血を吸うって何だか根本的に間違っている気がするのだが・・・

「・・・それって問題ないの? っていうか、僕は吸血鬼なのに血とかあるの? 何か色々と間違っている気がするんだけど・・・・・・?」

「大丈夫よ、私と大輝の仲なら。あなたは私の奴隷でしょう? 素直に従いなさい。」

予想以上に楽観視している凛。間柄でどうにか出来る問題でもないと思うのだが・・・

 「まぁ、いっか。僕も疲れたし。あと、吸血鬼に血を吸われると快感を得られるって話を聞いたこともあるし。」

これ以上凛の体を楽しめないのは残念だが、仕方が無い。吸血という未知の体験と引き替えればこれぐらい惜しくはない。

 「階段下にあるベンチに降ろして頂戴。さすがに買ったばかりの服で地面に座りたくはないわ。」

凛は長々と続く五十段ほどの木製階段の先にあるベンチのことを指しているのだろう。僕は緩やかな下り坂を歩ききり、間隔も幅もバラバラな階段に一歩目の脚をおく。

 「!!!」

そして気づいた。というか、何故僕は今まで気づかなかったのだろう。年頃の女の子を背負い、山道を歩く時点でもうコレは完璧に予見されるべきだったはずだ。

 階段を下り、僕の位置が下がり、それに伴い数泊遅れて凛の位置が下がる。

 おっぱいという名の爆弾が、僕が階段を下りるたびに背中にアタックを仕掛けてくるのだ。双丘が、その絶大な柔らかさを持ってこれでもかとばかりに僕の背中に押し込まれる。

勢いによって変形した凛のおっぱいは、まるで叩いた金属が展性によって広がるように、否、小麦粉で作った生地が力により横に広がるように、どこまでも広く、温かく僕を包み込んでくれる。そしてまた一瞬の快楽は離れ、また次の一歩で同じように圧倒的な質感で僕を襲う。

 凛の脚も同じだ。数十センチの落下と共に、もちもちとした弾力のある太ももが僕の手を包む。このまま吸い込まれてしまうのでは? と錯覚させてしまうほどの凛の脚。

 凛のおっぱいが、太ももが、僕の背中と手を魔性の力で誘惑する。先ほどの緩やかな坂とは比べものにならないこの衝撃、僕は今なんて幸せなのだろう?

 「~~~~~!!! ~~! ~~! !! !! ~~~~~~~~~~!!!!!」

声にならない叫びを上げる僕。こうでもしないと溜まった欲求は体の中で増大し、いつしか爆発してしまうからだ。

「や、止めなさいよ恥ずかしい!! 私だって必死に耐えているのよ!? たかだか体の触れ合いくらいでそんなに興奮しないでよこのバカ!!!」

凛も気づいたのか、頬をこれ以上無く染めて応じる。

「~~~あぁもう早く下りなさいよ!! ちゃっかりスピード落として歩かない!!!」

「・・・よく気づくね。」

ほんの、ほんの少しだけならバレまいと思っての減速だったのだが、凛は僕の思っているよりも遙かに鋭かった。『階段は負担が大きいから必然的に速度は遅くなる』というもしもの時の言い訳を密かに考えておいたのだが、凛の迫力に圧されてあっさりと自白してしまった。

「やっぱり意図的だったのね!? あなた、私に心酔している設定を上手く言い訳に使おうとしていない!? そのうち『今は精神的に不安定だから仕方ないね』とか言って私を襲ってきたりしないでしょうね!!?」

興奮の所為か、大変失礼なことを言う凛。・・・成程、その手があったか。

 階段も中盤に差し掛かり、凛の赤面もほんの少しだが治まる。僕は快楽に身を悦ばせ、凛は羞恥に身を震えたまま、一歩、また一歩と階段を下りる。

 「血ってさぁ、どのくらい吸うの?」

沈黙に耐えかねた僕は、これからの行為についての質問を凛にする。献血程度の量なのか、それともゴッソリと半分くらい持って行かれるのか、はたまた吸血鬼らしく根こそぎ吸われてしまうのだろうか・・・そもそも僕は血を吸われた後に動けるのだろうか?

「・・・そうね、これくらいならコップ一杯ほどで間に合うと思うわ。百五十ミリリットル程いただくわね。」

凛はおおよその目安を言う。

「・・・そんなジュース感覚でいいの? 僕としてはもっとたくさん吸われるものだと思ってたけど・・・あ、コレもまだ凛が吸血鬼として未成熟だから?」

「吸血鬼は基本不死なのよ? 私なんてまだ赤ちゃん同然よ。最近になって、やっと血を吸えるような体にまで成長したのだから。」

「へぇー。じゃあそれまではどうやって栄養摂ってたの? 母乳? 人間の食事?」

「・・・さっき私がそうめん食べていたの、もう忘れた?」

「あ・・・」

などと、吸血鬼について話を進める僕たち。まだ僕は吸血鬼に対してのリアリティを持てないでいるが、会話の反応スピード、言葉の選び方、口調などからして凛は多分本当のことを言っていると僕は思う。・・・まぁ、いずれ血を吸われるタイミングで本当かどうかは分かるのだが。

 僕は凛の体を最後まで最大限味わえるように、体の動きを調節しながら階段を下りきった(具体的には凛の体を上下に揺さぶって、押し込まれるおっぱいの衝撃が強くなるように調節したり。)。

「降ろすよ。倒れないように気をつけて。」

僕は凛をベンチに座らせた。ただこのままだと凛は姿勢を崩して倒れそうなので、僕は隣に座って凛の肩を支える。

「・・・私を正面から抱きしめるような形で座ってくれない? あ、私が大輝の膝の上に座ればいいのかしら?」

凛は体勢を指示する。・・・それだとえらくエロティックな構図になりそうだが、ここは素人の僕が口出しするべきじゃないだろう。

 僕は凛をお姫様だっこするように持ち上げ、僕の膝の上に横向きに乗っける。凛の太もも、それにお尻が柔らかく僕を刺激する。

「・・・何だか今日、随分と大輝にいい思いをさせている気がする。」

凛が諦めの混じった表情でそう言う。

「普段の行いがモノを言ったかな。もう僕は今日死んでもいいほどの幸せを感じた。」

「どの口が言うのかしら・・・」

呆れ顔で凛が言う。しかし、すぐ何かに気づいたようで、少し口元を綻ばせた。

「まぁ、その笑顔もいつまで持つかしらね? 後悔しなさい。」

 凛は、少しばかりサディスティックの入った笑みを浮かべた。目が妖しく光り、ちろりとその小さく可愛い舌を出す。獲物を前にした肉食獣のように危険な顔だ。

 凛は僕の胸に飛び込むかのように頭を入り込ませ、そこから口をゆっくりと僕の首筋へと持っていく。ある程度には回復したのか、両腕を僕の腰に回し体全体を引き寄せる。そして僕は凛に抱きしめられた状態のまま動けず、ただ凛の行動を認識し確認するしかなかった。

 そのまま静かに時が過ぎる。

 凛は幾ばくかの静寂をまるで楽しんでいるかのようだった。そして口元を笑みの形から変え、大きく口を開く。

 そして、

「いただきます。」


 ガブリ


そんな擬音語がふさわしい。凛の口に生えている二十八本もの歯が、一斉に僕の皮膚を食い千切らんと噛みついてきたのだ。

「いっ!! い、痛い痛い痛い痛い痛い!!!」

歯特有の硬い感触がダイレクトに伝わる。凛は一切その手(歯)を止めることなく、なおも僕の首を噛み千切ろうと力を加えてくる。

 「!!!」

やがて凛の歯は僕の首の皮を貫き、とうとう体の内部にまで侵入する。このまま肉を持っていかれそうで恐怖の色に染まる僕の顔。うっすらと、人食いワニに食べられた人はこんな気持ちだったのだろうかと僕は想像してしまう。でも、その人たちの恐怖はこんなモノじゃなかっただろう。何せ体の全てを食べられてしまったのだから、それに比べれば・・・・・・と思うと、僕にも少しの元気や希望が湧いてくる。

 体が熱い。奥から熱がこみ上げて、今にも倒れてしまいそうだ。

 今、血管を破った血が外へと流れ出ていくのが分かる。・・・そうか、凛はまだ牙が発達していないからこうして僕の首筋を食い破るしかないんだ。

 吹き出るとまではいかないにせよ、ドクドクと急速なスピードで流れる僕の血。凛はそれを待ってましたと言わんばかりに吸う。

 ・・・しばらくの間、凛が僕の血を啜る音だけが響く。生々しくリアルなその音は、今実際に血を吸われているという実感を僕に与えてくれる。その過程で僕は段々と痛みを忘れ、いつしかそれを快感に感じるようになっていた。『痛いのは最初だけ』とは、ある意味一つの真理なのかもしれない。

 僕はいつの間にか凛を抱き寄せ、凛もまた僕に身をすり寄せていた。吸血という行為の中で、互いに互いを求め合うようになっていたのだ。凛の華奢な肩は、触れるだけで今にも折れそうなほど脆く、僕が力を入れるたびに小さな吐息を漏らしながら身をよじらせる凛のその姿に、僕は愛おしさを感じずにはいられない。

 ・・・これも僕が吸血鬼に成り立てだから感じるだけのモノなのだろうか、吸血鬼に血を吸われると快楽を得られるとどこかで聞いたことがあるが・・・・・・?

 凛のさっきの笑みは何だったのだろうか? 確か『後悔しなさい』と言っていた気がするが、むしろ僕は後悔どころかコレを悦んでいる。・・・もしかしてこの後にとんでもない激痛が待ち受けているのか、またはさっきまでの首筋の痛みのことなのか・・・?

 と、凛が僕の首筋から離れる。外気が僕の首を撫で、ひんやりとした感触に包まれる。もう血が出ている気配は無いが、まだズキズキと傷口が痛む。歯型の傷跡でもついているのだろうか?

 凛はそのまま回した腕を放さず、無言のまま僕を見つめる。その瞳には通常より多くの涙が溜まり、光の反射によってウルウルと輝いて見える。僕もそのまま動けずに、凛の背へ腕を回しっぱなしだ。

 ・・・・・・コレ、超いい雰囲気じゃないか?

 今、吸血という行為によって二人の間にこれ以上無い絆が生まれている。どこぞの吸血鬼を狙う集団のことなんて、もう脳の端にすら無い。互いに見つめ合い、今目の前にいる異性のことにしかもう頭が回っていない。・・・と僕が勝手に思っているだけの可能性もあるが、凛も同じことを考えているのか、もう動けるはずなのに一向に僕の上から離れようとしない。

 凛・・・、長い黒髪、白い肌、赤く染まった頬、潤んだ目、小さく開いた口、細身の体、・・・その全てを包み込みたい、守ってあげたい、一緒にいたい。

 僕はもう凛のことしか考えられなくなっている。映像で見る吸血シーンが何故妙に艶めかしくて色っぽいのか、今それを実際に体感した気分だ。

 しばしこの体勢のまま動かない僕たち。互いに相手を見つめ、その視線をずらさない。 すると、永遠に続くかと、むしろ永遠に続いて欲しかった均衡が崩れる。

 凛が更に身を寄せてきたのだ。胴体が触れ、あと十センチの所にまで顔が近づく。そして僕も自然と手を肩に持っていき、凛を引き寄せる。更に二人の顔が近づき、互いの唇が触れる寸前にまでなる。

 そして、凛はゆっくりと抵抗なく目を閉じる。それを見て、僕は思わず凛を掴む手に力を入れてしまう。

「ん・・・」

と、凛がピクッと震え、微かな息を漏らす。緊張しているのだろうか、凛の体は小刻みに震えている。

 そんな凛の姿を一人僕は見つめ、そのまま凛の唇に惹きつけられるように近づく。ゆっ

くりと僕はまぶたを閉じ、つぼみのようなその凛の唇に


 「いやぁ~、若いっていうのはいいねぇ~。最近はみんな、こんな山の中にまでキスをしに来るのかい?」

「もう、あなたったら! こういうのはね、静かに見守っていてあげるのがマナーなのよ。あんなにいい雰囲気だったのに、ブチ壊しじゃない!」


その凛の唇に僕の唇を重ねることは叶わなかった。

 突如話しかけてきた登山を楽しむ老夫婦らしき人たちに、僕たちはキスをしようとするに至るまでを一部始終見られていたようだった。長袖長ズボンに帽子、リュックサックに名前は忘れたが登山用に両手に持つ杖のようなモノ、山登りのベテランのようだ。

 僕たちはまるでアニメの主人公とヒロインのように超速で距離を取り、それぞれ急いであさっての方を見る。突然の声に甘い空気は一切消え失せ、僕は正気を取り戻す。

 「い、いえ違いますよ! えーっと、私たちは演劇部に所属していて、それで山奥でちょうどこういったシーンがあるんです!! ホラ、このワンピースは劇に使われる衣装と同じモノで!!!」

凛が架空の設定で弁明を開始した。・・・ワンピースを着た女性と山奥でキスする劇とか、全然ストーリーが読めないぞ。

「っへ~、最近は学生でもそんな刺激的なモノをやるのかい。」

「もう、キス程度で刺激的とか、あなたソレ考えが古いわよ。」

・・・信じちゃったよこの人たち。

「そうなんですよー(←何が?)。さっきからこの人が緊張しまくっちゃってて、中々練習にならないんで困っていたんですー。」

笑みを浮かべつつ見事に受け答えする凛。若干僕のことを失礼に言っている気もするが、僕が突っ込むと変に怪しまれそうなので流しておく。

 「でもまぁ、さっきのでだいぶ流れは掴めたのでそろそろ帰ろうと思うんですが、ここってあと下りるまでどのくらいかかりますか?」

本来なら山をここまで登ってきた時点で大体の下山所要時間の予測はつくものだが・・・なるべく怪しまれないようナチュラルを意識して凛は切り出す。

「何だ? ここまで登ってきたっていうのに分からないのか?」

「素直に教えましょうよ、あなた。ええっとねぇ、十五分ほどで公道へ出るはずよ。」

そこまで怪しまれはせずに老夫婦は答えてくれる。

「そうですか、ありがとうございます。」

凛はニコニコと笑顔のまま表情を崩さずに感謝の言葉を言う。その顔は笑ってはいるが、どうも作り笑顔のような気がする。実際今、凛の心の内はどうなっているのだろう? その・・・キスのこととか? 

 「ちょうど私たちも山を下りるんだ。一緒にどう?」

「ホラホラ、そっちの男の子も突っ立ってないで早く。」

と、老夫婦は二人して言う。

「えぇ、ではご一緒させていただきます。」

「・・・初めまして、白川って言います。よろしくです。」

僕と凛は同行することに決め、老夫婦についていく。

 この先に続く道を、前に老夫婦二人、後ろに僕と凛二人の計四人が歩く。三キロ程の道をこのままクネクネ進むと公道に出てバス停があるらしい。

 「ーーーがさ、~~だとこうなるからまったく近頃の~~がなって~~~ね?」

「そうなのよ。この人ったらーーーでねぇ、~~なのよ?」

「へぇーそうなんですか? やっぱり~~なってーーなるんですね?」

「・・・」

「ここは元々~~だったからさ。こういうーーみたいなーーがまだ残っているんだよ。」

「もうあなた! 格好つけようとしてありもしないことをでっち上げないで頂戴!!」

「・・・でも、もしそうだとしたらとてもロマンチックです。」

「だろう!? 重要なのは話の面白さ、史実がどうこうは二の次。」

「またあなたったら! ごめんなさいね、こういう人で。」

「いえ、私もこういう話好きですから。気が合いますね?」

「アッハッハ!! 分かってくれるか!?」

「えぇ、もちろん。」

 ハハハハハ

 一人を除いて一気に和やかムードになる三人。一人空気についていけない僕は、ただ黙って歩くだけとなった。

 凛は、見たところなんら体におかしな箇所は無かった。歩くスピード、歩幅、左右でのバランス、普通の人とまったく変わらない。血を吸ったことにより、もう体は全回復しているようだった。

 ・・・・・・暇だ。というか、集団に混じって一人除け者にされているという時点でまず精神的にキツい。救いといえば、誰かが僕を哀れんで話しかけないでいてくれること、それと、凛はこの談笑を楽しんで話しているというわけではなく、ただ成り行き上仕方なくあの老夫婦と話しているだけ、ということだ。それがまだ支えとして僕の心を保っている。

 この苦しみを癒やそうと、僕は周りに気づかれないように半歩下がった。そして、斜め前方に立ち賑やかに話を進めている凛の方を見る。コレはいわゆる、目の保養というやつだ。目の保養として、僕は凛を見つめることにした。

 今の僕になら、凛を見るだけで心を癒やすことが出来る。台詞だけだとただの変態のようにしか見えないが、そもそもこの吸血鬼の主に心酔するという特徴自体、まだ幼い学生である僕にはかなりの刺激が付きまとうのだ。バスでの一件や、さっきの階段でのラッキースケベであってもかなりの自制心を要した。もう一体凛は僕の紳士振りにどれほど助けられたのだろうか、褒めてもらってもいい、むしろ褒めるべきレベルだと僕は思う。

 ワンピースに包まれた、凛の姿が僕の目に飛び込む。凛をおぶっていた時は顔しか見ることが出来ず、しかも気恥ずかしさから顔を逸らしてしまった僕は、好機とばかりに凛の美しい姿を目に焼き付けようとする。

 揺れる黒髪に今にも折れてしまいそうな細い首、肩。凛を抱きしめたあの時の感覚が蘇る。柔らかな肌に包まれたとても脆い肩は、強く抱きしめただけでたやすく壊れてしまいそうだ。僕はあの肩に触れ、凛を抱きしめた。そう思うと、独占欲から来るのか、圧倒的な優越に浸ることが出来る。

 もう一度だけ、一瞬だけ・・・凛を抱きしめることが出来れば・・・・・・

 気がつくと、僕は腕を伸ばしていた。その腕は凛に向き、今にも触れるというところだ。

 慌てて腕を引っ込める僕。凛に気づかれるかと思ったが、幸いなことに凛は老夫婦の笑い声に気を取られたのか、気づかれることはなかった。

 ・・・危うくセクハラ行為に及ぶところだった。あと少し腕を引っ込めるのが遅かったら、間違いなく凛に気づかれていた。もしもそれが老夫婦にも伝わった場合、僕は完全に社会的に死ぬことになってしまっただろう。

 これでは目の保養どころか完璧に逆効果だ。僕は名残惜しいと感じつつも凛の横に再び並び、視線を凛から周りの木々へと変える。あぁ、もっと凛を見ていたかった。まだ肩辺りしかじっくりと見ていないのに・・・もっとこう、凛の胸の膨らみ辺りとか、細い腰回りとか舐めるように見ていたかったのに・・・・・・いや、これがダメなんだ。もっと他のことを考えるんだ・・・例えば世界平和とか。

 世界平和、つまり人間みんなが仲良くすること。・・アレ、じゃあ人間以外はダメなのだろうか? 人間だけっていうのは、やっぱり広義に考えると差別なんじゃないか? 他にも生き物は一杯いるし、宇宙人とか妖怪とかも一緒に考えていいんじゃないか? UMAとか、ドラキュラとかも・・・ドラキュラ? 確かヴァンパイアだったんだっけ? ドラキュラね・・・凛とは大違いだな、凛の方が絶対可愛い。ホラ見てよ、この黒髪ロングの萌えキャラを体現したような容姿、普段の丁寧な言葉遣いに隠された純真な心。もう全てが人を魅了するために作られたとしか思えない完璧な生命体。・・アレ、吸血鬼って生きてるんだっけ?

 あぁダメだダメだ!! 最終的には凛に繋がってしまう。もういっそ無心になるか?

 「・・・一人で色々とうっとうしい! 黙ってなさい。」

と、老夫婦には聞こえない小さな声で凛が囁く。

「さっきから後ろに行って私のことジロジロ見たり、突然私に触ろうとして一人で顔赤くしたり、やっと戻って来たかと思えば悶々と体をくねらせて一人パントマイムしてるし・・・何? 血を吸われて頭おかしくなっちゃったの?」

・・・全部気づかれていた。

「とにかく、あの二人の前で変な行動取らないように。ただでさえこんな軽装で山に来ていたら通報されかねないのに。」

凛はそう僕に警告すると、再び前を向いて老夫婦の話に加わった。

 ・・・僕は詳しく考えていなかったが、常識的に考えてそういうことになるのか。僕も、突然山の中に半袖短パンの男子高校生とワンピース姿の女子高生がいたら普通に怪しむ。万が一通報しても文句は言われないだろう、むしろ、通報しなければ何か危険な気がする。それをちゃんと凛は知っていて、咄嗟に僕たちがここにいる理由を話したのだ。今も人当たり良さそうに接し、『自分たちは怪しい者ではない』と直にアピールをしている。下山に同行したのは、おそらく老夫婦に隙を見て通報されるのを防ぐためだろう。

 僕たちは吸血鬼だ。捕まってもし正体がバレようものなら、一体どうなってしまうのか分かったモノじゃない。僕が捕まった場合はまだいいが、これで凛が捕まって・・・ダメだ、これ以上は想像したくない。

 僕は密かに気持ちをリセットする。凛のことを想って変な行動を起こしていた僕を捨て、高校受験の時の面接を思い出す。これぐらいの気を持って臨まなければ、今の凛に欲情する僕はまともに人と話すことさえ出来ないかもしれない。

 ・・・かといって、僕に出来ることといえば、ただ老夫婦と凛にくっついていくだけなのが少し悲しい。

 「お、見えてきたぞ。道路だ、分かるかい?」

五十メートルほど先の道を指して言うおじいさん。見れば、この田舎にしては結構幅の広い道路が通っていた。久し振りに見た人工物に、何だか懐かしさを感じる。

「それぐらい誰にだって分かるわよ、あなた。ねぇ、えーっと・・・黒木さん、だったかしら? 私たちはこのまま歩いて帰るのだけれど、あなたたちはどうするつもりの?」

「そこのバス停でバスを待ちます。行きもコレに乗ってきたので。」

凛は左に見えるバス停の目印を指して言う。するとおばあさんは少し残念そうに

「じゃあ、これでお別れね。お話楽しかったわ。縁があればまた会いましょう!」

そう言って、右の道へおじいさんと一緒に歩いて行った。おばあさんは何度か振り返っては手を振り、凛もそれに答えて淑やかな仕草でおばあさんが見えなくなるまで手を振っていた。

 そして二人が見えなくなってから数秒間の間を沈黙が支配し、その後ようやく凛がゆっくりと口を開いた。

「誰が会うかッ!」

「おぉ・・」

「共感した? 楽しかった? それは良かったですね、えぇ私は地獄でしたよ何であのもうすぐ死に絶えそうな老害どもの相手をしなければいけないのよ私がどんな思いであなた方とお話をしていたか今すぐ肉体的な苦しみを持って教えて差し上げましょうかしら大体『私と気が合う』だぁ~? 冗談じゃないあなた方のような古臭い考えに私が侵されているとでも言いたいのかしらそもそもコッチが下手に出りゃあふんぞり返ってえっらそうに

しゃべりやがるしアイツらは今までの人生で一体何を」

「凛、口調。」

「・・・おっと。」

山中での作り笑いが一変、怒濤の勢いで暴言を吐き出す女吸血鬼、凛。今にも“お年寄りは大切に”といったようなポスターを平気で破り捨てそうな声音だ。途中から言葉遣いが汚くなっているし、とても凛とは思えない。そして今は地面を思い切り蹴ってストレスらしきモノを発散している。

 「・・・コミュ力高いね。さっきまで憧れてたよ。」

屈辱なのか怒りなのか何なのか、やり場のない感情を『八つ当たり』と『暴言』という形で表現している凛に僕は話しかける。

「・・・正体を隠して生きていくためには、やっぱりこういった力が無いと。海外で生活している人が、英語なり外国語を話せるのと大して変わらないわ。」

「?」

「・・・こういった話し方が生きていく中で身についちゃったってこと。」

凛は大分スッキリしたのか、さっきから無駄にエネルギーを使っていた暴言と八つ当たりを止め、元の状態に戻って普通に答える。・・・まだ心なしか頬が上気しているが。

 僕たちはバス停の所へ移動し、ベンチに座った。

「大輝、バスの時間は?」

時刻表の近くに座った僕に、凛がバスの来る時刻を聞いた。僕は時刻表に顔を近づけ、一番早いバスを探す。と、僕の脳裏に大変イヤな予感が浮かんだ。

「えーっと凛、今の時間とか分かる? 僕時計持ってないんだけど・・・」

と、僕は半ば答えの予想できてしまう質問を凛に投げかける。凛は一瞬キョトンとした間を作ったが、分かりきった答えだと言わんばかりに無表情で答えた。

「何言っているのよ? 私が持っているわけないじゃない。」

「・・・ですよねー。」

「? それがどうかしたの?」

凛は本当にそれが何を意味するのか分からないといった感じに首をかしげる。僕が説明せずとも察することが出来るようにもう少し頭の回転を速くして欲しかったが、さっきの仕草を見た後だと『こういう風にちょっと天然入ってる方が可愛いな』などと許せてしまうところが憎い。美しさって罪。

 「つまり、現在時刻が分からなければいつバスが来るか分からない。ひょっとしたらもう来ないかもしれない。それが分からずにずっとここで待っていたら、僕たちは最悪ここで野宿する羽目になってしまう。分かった?」

僕は一つ一つ丁寧に説明する。すると凛の顔は段々と青ざめていった。事の深刻さがようやく理解できたようだ。

「え、え? 嘘・・・」

「まぁ、一日くらいはどうにかなると思うし、問題なのは気温だな。二人とも薄着だし、もしそうなった場合は風邪になる確率がかなり高い。」

いくらこんな田舎道でも、夕方にかけてのバスがこれから一本も来ないということはまずないだろう。でも、きちんとそうなるかもしれないと覚悟を決めておくのは重要だ。

 「・・・いえ、そんなまさか・・・・・・」

少し言い過ぎただろうか? まだ顔が青い。凛は震えそうな唇を開く。

「どうしよう・・・大輝に犯される・・・・・・。」

「オイ。」

「きっと大輝は今とてつもなく興奮しているはず。暗くなり、いざ野宿しようとすると、突然『くっついた方が暖かいだろ』とか言って強引に身を寄せてくるわ。そのまま嫌がる私の体を乱暴な手で貪り、抵抗する私を暴力で黙らせて己が肉欲を満たそうと大輝の欲望

にまみれいきり立った」「んなことするか!!!」

「と言いつつもズボンの中は」「もうアンタ黙っとれい!!!」

折角気分も落ち着いてきたっていうのに・・・あぁ、だったらもうバス来ないって言えば良かった。凛め、また変に僕の衝動を沸き上がらせやがって・・・

 と、凛は急に頬を赤らめた。

「・・・あの時は私の唇を奪おうとしたのに。」

途端、胸の辺りがギュッと締め付けられる。

「あ、あれはお互い様だろ!? 勝手に僕の所為みたいにするなよ!!」

自分でも赤くなっているのが分かるほど顔が熱い。何が楽しくてキスをしそうになった相手にその時のことを蒸し返されなければいけないというんだ。

「・・・・・・・・・不覚だったわ。生きている人間の血を吸うって、あんなにも興奮するモノなのね。」

凛は少し沈んだ声でため息をつく。

「私もまだ精神力が足りないわね、もっと頑張らないと。」

「・・・何をだよ。」

「まずは大輝程度の血を吸っても、なんら過ちを起こさないような心を作る。」

「今『大輝程度』って言わなかった!? 言ったよね!? それ結構傷つくんだけど!!」

「やかましい。あなたは黙って私に血を捧げていればいいのよ。」

「・・・君は一体僕のことを何だと思っているの?」

「だから言ったでしょう? 奴隷だって。」

「そうだけど!!!」

などと言い合いをする僕たち。周りに人がいないのでついつい大声での争いになってしまう。・・・あのベンチでの甘い雰囲気とは一体何だったのか。

 「・・・私だって恥ずかしかったのよ!! 自分だけが可哀想だとかそういうの止めて頂戴!!」

「あんなに女の顔してよがってきたくせに。あのデレッデレな姿をみんなに見せてやりたいよ!!」

「わ、私は別にデレてなんかないわよ!! 大輝こそ私をあんなに強く抱きしめちゃって、もしあのジジババ二人が来なかったら今頃どうなってたか!!!」

「ジジババ言うな!! 一応の敬意は持て!!」

「あの二人にそんなモノを持つのなら、大輝に犯された方がよっほどマシよ。」

「ほう、言ったな? もう今夜は遠慮しないぞ、全力で貞操奪ってやる!!!」

「えぇ、やれるものならやってみなさい!! 吸血鬼の戦闘力を舐めないでよね!?」

「!!!!!」

「!!!!」


 「・・・・・・お客さん、乗らないのかい?」


「「・・・え?」」

どこからともなく二人の耳にそんな声が響いた。

 気がつけば視界の端にバスが停車しており、運転手がマイクを使い呆れたような声で話しかけていたのだ。

「こっちはさっきからずっと待っているんだが・・・ケンカならバス停じゃない所でやってもらえるかな?」

どうやらかなり前からここで待っていてくれたらしい。バスにすら気づかないで争うとか・・・ただのバカな二人だ。

 「あ、すいません乗ります! 」

マイクの機械的な振動で正気に戻った僕たちは急いでバスに乗り込む。見たところ、またもや僕たち二人だけのようだ。先ほどのケンカ(に似ている何か)を他の人に聞かれていなくて良かったという気持ちと、また騒がないよう気をつけなければ、という二つの気持ちが少しばかりの安堵と不安を生む。

 「・・・ちょっと、ちゃんとバス来たじゃない!?」

小声で僕を責める凛。

「もしかしたら、って言ったじゃん。どんな時でも最悪の事態を頭に入れておく、そうすればこういう時素直にバスが来たことを喜べるでしょ? ホラ、少しだけ安心した顔してる。」

僕も小声で凛に返す。

「・・・そ、そんなこと私だって分かってたわよ!! 今のはただ大輝がそれをきちんと分かっているか確認しただけよ!! 他意なんて無いんだから!!!」

「・・・何故にそんな態度を取る。」

席に座ったことで一旦落ち着き、そろそろ争いを再開しようかと目を細める僕たち。

 すると、前方から男らしい野太い声が響く。

「ハッハー。お客さんたち、仲いいね? イヤー青春だなー羨ましい!!」

僕たちのことを彼氏彼女の関係だと思っているのか、運転手がいかにも明るそうな口調で言う。

「私が高校生の頃はね、そりゃもう女子はみぃーんなおかっぱ。おしゃれなんてしないし、したくても出来なかった。結婚だって、相手は親がみんな決めてしまうし、恋の自由すら無かった・・・。折角今はそういった自由があるんだ、相手を大切にしなよ? お二人さん。」

イヤなことを思い出させてしまったか、段々と運転手のトーンが下がる。やっぱりそういった人たちには、僕たちのような関係が羨ましく映るのだろうか?

 ・・・と、その前に一応誤解を正しておこう。

「あの、すいませんが僕たちは 」

「 失礼ですが、お歳はおいくつで?」

「って、そっちかい!!!」

確かに気になってはいたけど! 今のエピソードを聞く限りとっくに定年過ぎてそうだし、いやでももしかしたらそうでない可能性も・・・というか、そこは普通にスルーして欲しかった。

 僕は注意しようと隣を向く。が、凛はキツい目で前方を睨んでいた。運転手へ向けて最大限の警戒をしているようにも見える。

 「・・・バスの外で呼びかけられた時に、あなたの顔が見えたわ。けれど、その顔はどう見ても二十代にしか見えなかった。とてもそんな日本の古い歴史を体験しているとは思えない。・・・あなたは一体、何者? いえ、何?」

険しく低い声で問う凛。その顔は真剣そのもので、とても冗談には見えない。

 僕は運転手の姿を確認しようと顔の位置を動かす。と、凛に腕を掴まれた。

「むやみに動かないで。」

先ほどの小さな声とはまた違う、緊張状態の中で発せられる、真剣味を帯びた静かな声で凛は言った。

 僕は何をしたらいいか分からずに、ただ凛を見ることしか出来ない。

 しばしバスの中に沈黙が訪れる。

 「・・・・・・・・・・・・・・・ハァ、まいったなぁ。まさかここでバレるとは思っていなかったのに。君は観察力が高いねぇ、あと普通それくらいのことでわざわざ突っ込まないぞ? ・・・ちょっと勘が良すぎやしないかい?」

爽やかで透き通るような声がバスに響いた。もちろんその声は僕でも、ましてや凛でもない。運転手だ。

 「フン。そんなモノが分からないのは、精々この隣にいる大輝程度のものよ。生憎だけれど、私は人の言ったことをすぐ鵜呑みにしないようにしているの。」

凛が挑発を込めて口を開く。・・・確かに僕は分からなかったが、そこまでマヌケ扱いされる覚えは無いのだが・・・

 「・・・まぁ、どうやらあなたは人でないみたいだけれど。」

「!! ・・・本当に鋭いなぁ、君は。」

僕を置いてけぼりにして二人は会話を交わす。もしこれがアニメだったら、二人から黒い闘志の炎みたいなものが出てきて、火花でも飛ぶのだろうか? そんな雰囲気だ。

 「いやぁ、でも実際にあの頃、私は学校に通っていたよ? 私が嘘をついているわけじゃないんだ。ちょっと外見が成長しないだけでね。」

運転手はいきなり人外宣言をしてきた。外見が成長しない? 不老なのか?

「・・・あぁ、お仲間ね。」

凛はそれで全てを納得したようだ。少しだが目から警戒の色が薄れる。

「そう。私はお客さんたちと同じ、吸血鬼だ。年はもう六十を超えていると思うが、二十歳辺りから成長が止まってしまってね。バレないように、もう何十年も親しいヤツとは会ってない。たまに親友から電話がかかってくる時は、さっきのような声で対応しているけどね。」

そう言って、自称吸血鬼の運転手は先ほどのような野太い声を出した。・・・声帯模写、みたいなものだろうか?

 「それで・・・何故私たちが吸血鬼だと? それにさっきまで先ほどのような声で話していた理由は? あなたの言うことが本当だというのなら、それを証明して頂戴?」

凛は信じていないのか、説明を運転手に求める。それにしても、凛のこの警戒度は異常な気がする。

 「・・・うん、いい勘ぐりだ。君の親御さんは相当いい教育をしたと見受ける。」

その警戒を良しと捉えたのか、運転手は感心したようだ。そして、正直に質問に答える。

「君たちお客さんがいるかどうか、ちょうどバス停前のカーブミラーで確認できるんだ。あそこを走るバスの運転手は、大体そうやってスピードを調節する。ホラ、あそこってカーブ直後だからさ、曲がってからスピードを調節すると間に合わないんだ。」

・・・前置きか何かだろうか、何やら運転手はこのバスについての説明を始めた。一体それが何に関係するのか、僕にはまったく分からない。・・凛は分かっているのだろうか?

 「・・・そのカーブミラーに、私たちが映っていなかったと?」

凛が答えを先読みして言った。すると、運転手も

「あぁ、その通り。誰も見えなかったから、てっきり私はお客さんはいないと思ってアクセルを踏んだんだ。」

と言って言葉を続ける。

「そうしていざカーブを曲がってみたら驚いたよ。君たち二人が仲良くケンカをしている最中だったんだからさ。」

僕と凛は頬を赤らめながら視線を逸らす。

「最初はカーブミラーで見落としたのかと思ったけど、確かに窓ガラスにも映っていないんだ。それによく見たら、男の子の首筋に歯型の傷があるのに気づいてね。興奮したよ、同胞に会うなんて初めてのことだから。」

 それを聞きながら、僕は吸血鬼の特徴について思い出していた。鏡に映らない、そんな特性も確かにあった気がする。小説などでもよくそんな設定を目にするし、吸血鬼が鏡に映らないというのはやはり本当のことだろう。横にある窓を見ても、僕たち二人が座っていない、ただの二人用座席が見えるだけだ。

 「・・・その言い方からすると、あなたは純血じゃないの? “コミュニティ”には入っている?」

凛が何かに気づいたように尋ねる。段々と凛の警戒は解けていっていると思うが、今のところ警戒半分、好奇心半分といったところだろうか? それにしても『純血』だの『“コミュニティ”』だの、僕の全然知らない単語がドンドン出てくる。一旦落ち着いたらまとめて凛に聞いてみよう。

 「・・・色々あってね、“コミュニティ”には入っていない。」

少し声のテンションが下がる運転手。言葉通り色々あったのだろう。

「ついでに私は後天性だ。何十年と生きてきたが、主以外ではやっぱり君たちが初めて会った仲間さ。」

後天性・・・つまり元は人間だったが、後天的に吸血鬼になったってことか。で、最初から吸血鬼だった凛などは純血・・・って感じだろうか?

 「・・・そう。最後に、あなたが吸血鬼だっていう証拠を見せてくれないかしら? それが出来たら、あなたの言ったことを全部信じるわ。」

凛は少しばかり考えるように腕を組み沈黙した後、そう言った。というか、まだ信じていなかったのか。

「ルームミラーがついているだろう? そこから運転席が見えないかい?」

運転手は腕を上げてルームミラーを指す。

 僕たちは顔を見合わせ、アイコンタクトを取る。・・・どう見ても『お前が行け』と目で訴えられている気がするのは気のせいだろうか?

 僕は恐る恐る席を立ち、三歩ほど前へ移動する。『もし今までの話が全部嘘で、いきなり十字架でも投げつけられたらどうしよう。』そんな思いが歩みを遅くする。僕は、運転席をルームミラーから覗ける位置にまで足を伸ばす。そこからルームミラーを覗き、鏡に映る運転席に視線を向ける。

「・・・怖。」

思わずそんな言葉が出てしまった。鏡の中の運転席には誰もおらず、勝手にハンドルが生き物のように動いていたのだ。

「いた?」

凛が緊張気味に声を強ばらせて聞く。

 僕は驚きというか、恐怖で開かない口を意思の力でこじ開ける。無理に声帯を震わせ、先ほど見た事実をありのままに凛に伝える。

「い、いない・・・。」

一音目の『い』が思い切り裏返ってしまった。大変恥ずかしい限りだが、今この場とこの状況下でそれを気にする人がいなくて何の反応も無く、少し拍子抜けする。

 運転手は軽く笑いにも似た息を吐き、どうだとばかりに口を開く。

「フフッ、私がお客さんたちを見つけた時の方が驚いていたかな? どうだいお客さん、信じてくれたかい?」

楽しそうに明るい声で聞く運転手。これで認めてもらえる、と自然に声のトーンも上がっている気がする。

 「・・・えぇ、そう言ってしまった以上、信じるしかないわね。・・・まだ大輝が嘘をついたとか、そういう疑いは残るけれど。」

「だから何故僕を悪者にしようとする。」

まだ少しは警戒心が残っているのか、苦く笑いながらそう答えた凛。僕は凛サイドの吸血鬼なのだが、凛にはもう少し僕を信用してもらいたい。

 「私は黒木凛。黒木家の者よ、よろしく。コッチは・・・ねぇ、あなたの名字って何だったかしら?」

「・・・何故君はそうやっていつも僕の心を破壊しようとする。・・・えーっと、僕は白川大輝です。凛の奴隷やってます。」

「ハハハッ、私は相川だ、相川勝。よろしく。」

僕たちが名乗り、最後に運転手、相川さんが自己紹介をする。

「本当は・・・六十三かな? 一応、年を誤魔化してバスの運転手をしている。以後何かあったら私を頼ってくれ。無論、私も君たちを頼る気満々だから、いざって時は助けに来てくれ。」

ハハッと相川さんは軽く笑う。声が声なので、とても六十代の人のようには見えない。

 バスは山を完全に抜け市街地へと出る。建物や道路から推測するに、家具店とは真反対の位置のようだ。学校が見え、午前に服を買いに行ったデパートが遠目にある。

 相川さんは学校前のバス停でバスを止め、「ここで降りるかい?」と言った。

「このバスはここを過ぎるとまた山の方へ戻っていっちゃうが、降りなくて大丈夫?」

どうやら僕たちが停車ボタンを押さなかったのを慮って止まってくれたみたいだ。

「じゃあ大輝、ここで降りましょう。」

「あ、うん。」

バスの前方へと歩き、料金を払う。当然のように僕が二人分払うので、まるで凛のお財布係のようだった。・・・まぁ自分が言い出したことなのだが。

 その時に見た相川さんの顔は一瞬だったので少ししか見ることが出来なかったのだが、パッと見の印象は、爽やか系の好青年という、そういったイメージそのものだった。これでもう還暦を迎え終わったとか、もうホント詐欺に近い。

 「ハイ、私の連絡先だ。君たちのどちらかの連絡先も知りたいのだが・・・」

そう言って、相川さんは小さな紙を凛に渡した。

「ねぇ、大輝。あなた携帯持っているかしら?」

「いや、持っていない。家の固定電話一本だけだ。」

僕がそう言うと、凛はしばし考え込むように腕を組む。

「・・私のは明日すぐ届いても準備に手間を取られるだろうし、大輝ので。」

凛は僕に電話番号を言うように促す。僕は頭の中からその記憶を取り出し、番号を思い出す。

「えーっと、大丈夫ですか? ○○○ー□□ー△△△△です。」

僕の言った番号を、相川さんは復唱しながら紙に写す。

 「オーケーだ。じゃあ、何かあったらコレに連絡するよ。」

爽やかな笑顔で相川さんはそう言った後、バスを発進させようとする。まだバスに乗っている凛に降りるように促そうとする相川さん。

 すると、凛が何か思いついたように「アッ」と小さく声を出した。相川さんが怪訝な表情になる。

「では、相川さん。早速頼らせてもらいたいのだけれど、」

凛が妙案を思いついたような口調で言う。コレはいわば緊急用の、言うなれば『一応連絡先ぐらい聞いておくか』という感じの電話番号交換だったのだが、凛は早速コレを使おうとしているらしい。

 当の相川さんはいきなりの展開にキョトンとしながらも、若干の苦笑いを浮かべ了承する。

「ハハハ、いいけど、随分いきなりだねぇ。・・・何かあったのかい?」

「えぇ、つい最近のことなのだけれど、私たちにとってはかなり重要な問題よ。」

凛は答える。

「おそらくあなたとは利害が一致すると思うのだけれど、話だけでも聞いて行ってくれないかしら?」

凛の口調はいつも通りそのもので、何を思っているのかが読めない。

 凛は相川さんの沈黙を良しと捉えたのか、一呼吸の間をおいて再び口を開く。


「ねぇ、相川さん。・・・私たちと、“ジャスティス”のヤツをぶっ殺さない?」


**********


 「六時に、駅の改札付近で待っていてくれ。」

凛の言葉を聞いて、相川さんは途端に険しい表情になった。たった一言、待ち合わせの時刻と場所を指定し、そのままバスを走らせ次のバス停へと向かって行ってしまった。

 僕たちは六時まですることなどなく、かといって家で“ジャスティス”に待ち伏せされている可能性もあるので家にも帰れず、仕方なくデパートで時間を潰すことにした。デパートの中は日を浴びることなく快適に過ごすことが出来、飲み食いも可能、トイレ付き、更にベンチや本屋などもあるので時間を潰すには最適だった。

 「二時か・・・どうする? 僕は本でも買って時間を潰そうと思っているんだけど。」

「えぇ、そうしましょう。私はのんびりデパートを回ることにするわ。その後に本を買うから・・・そうね、あのベンチにいて頂戴。お金もらいに来るわ。」

「言い方が・・・」

とそんな感じで別れ、僕は一人本を買い、読み、一時間ほどで凛が来たのでお金を渡し、お釣りを受け取って凛と一緒に五時半程までずっと読書にふけっていた。

 途中でおばさんが『あら、ゴメンナサイね』とか言って割り込んできてその衝撃で二人は密着し凛の体や息遣いに『この鼓動、凛に聞かれてないかな・・・!!』などと僕が緊張しながらも思いみたいなベタなラブコメ的展開は全く起きなかったことを軽く残念がりつつ、僕たちはデパートを出た。

 「結構暗いのね、まだこの時期だと日没は六時から六時半程なのだけれど。」

「・・・何でそんなこと知っているの?」

「日が沈んでからが吸血鬼の時間じゃない。何となく日が出たか、沈んだかは第六感みたいなモノで分かる程度になるらしいわよ。私は結構仲間の中でも鋭い方。」

「何か吸血鬼って怖いな・・・。」

などと言葉を交わしながら、僕たちは駅へと向かう。もちろん徒歩で、家を避けるため迂回して、だ。

 そして五時五十五分。

「いやぁ、待たせてしまったかな?」

爽やかな笑みを浮かべて相川さんは登場した。シャツに革ジャン、それにジーンズと、ちょっとしたイケイケ大学生のようにも見える。ちなみに、バスでは運転席に座っていたためよく見えなかったのだが、相川さんはかなりの顔立ちをしている。本当はもう六十台のおっさんなのだが、その甘いマスクから作られる爽やかな微笑みは、もうそこらの成人男性より成人男性している。言ってしまえば、ザ・頼れるお兄さん。

 「いえ、私たちも今来たところよ。それより、こんな場所ではアレだわ。どこかイイ所を知らないかしら?」

凛はそう言って応じ、移動するよう相川さんに場所の案を求める。

 「そうだなぁ、私の家はどうだい? 初めての仲間を祝して、もてなしたい。」

あっさりと自分の家へ招こうとする相川さん。『もてなしたい』という台詞がもうイケメン好青年だ。・・・六十三だけど。

 「・・・そうね。そこなら誰にも聞かれずに話すことが出来そうだし。場所はどこ?」

「ここから歩いて三分だ。すぐに着くよ。」

そう言って相川さんは先導するよう前に行く。僕たちはその後ろを歩き、一路相川さんの家へと向かった。

 「無闇に客を招くと正体がバレる可能性があったからなぁ、人が家に来るなんて何年振りだろう? いや、二人とも人じゃないか。」

ハハハハ、と道中、相川さんは何が楽しいのか一人で盛り上がっていた。凛は相手が人ではないので愛想良く接しようとはせず、一人で無口に歩く。おかげで、僕は一人無駄にテンションの高い相川さんに付き合わなければならなかった。・・コレがお年寄りなのか。

 ちょっとだけ公開すると、ざっとこんな感じ。

「そういえば聞いていなかったが、二人はやっぱり高校生なのかな? 同じクラス?」

「あぁ、いえ。学年は同じですけど、クラスは違います。話したのは多分、一昨日が初めてだと思います。」

「!! へぇ、その時に血を吸われたの? また随分と最近の話だなぁ。一体どういった経緯だい?」

「えーっと、僕はその時の記憶が無いんですけど・・・」

「ストップ。それ以上話したら大輝の性癖バラすわよ。」

「・・・まず僕に性癖があるって事実が初耳なんですけど。」

「アラ、舐めないでもらいたいわね。私はあなたの主なのよ? 自分の奴隷の趣味嗜好なんて手に取るように分かるわ。」

「ホゥ、それは興味深いな。是非教えてくれ、黒木さん。」

「えぇ。まず今日時間を潰す時に大輝が読んでいた本なのだけれど、これがまたマニアックで・・・」

「え? ちょっと待って、何で知ったように話し始めてるの? というか僕、もうその話していないんだけど?」

「小説なのだけれど、チラッと覗いてみたら挿絵に裸の女の子と主人公らしき男性が。妙に女の子の体つきが幼いなぁと思ってタイトルに目を向けたら・・・もう放送禁止用語だらけで私の口からは言えないわ。」

「へぇ、白川君がねぇ? やっぱりお年頃だなぁ、盛ってる盛ってる。」

「いやいや相川さん、信じないでくださいよ。ホラ、これが僕の買った本ですよ。」

「それはただその本だけを買うのが気恥ずかしいから用意したダミーでしょう? 観念しなさいよ、ホラ、今なら自分の性癖を宣言するだけで許してあげるわよ? 『僕は小さな女の子が大好きな○○○○です。汚れを知らない未成熟な体や、第二次性徴を迎え膨らみかけた△△△△や□□□□を見るととても興奮します。僕の主の黒木様は大変お美しいのですが、やはり○○の魅力には敵わないと思います。いずれは捕まってもいい。世の中の裏を知らずに無邪気に笑う○学生を拉致し、その恐怖におびえる姿をたっぷりと堪能した後、女性としての尊厳をこれでもかというほどに喰らい尽くし快楽を与え続け、いずれは僕無しでは生きていけなくなるほどにまで徹底的に肉体を僕好みに改造したいです。そして快楽に溺れ自分から僕を求めるようになるまでを楽しみに、僕は今日も女の子を攫います。』って言ってみなさい? さぁ早く。」

「あなたさっき『放送禁止用語だらけで私の口からは言えない』とか言ってませんでしたか!? あと最後僕が常習犯なってるじゃないか!! 確かにそそられる部分はあったけど僕はきちんと許可をもらってから行為に及ぶ!!!」

「ぇ? あ、及んじゃうんだ・・・・・・。」

「あ・・・」

「ハッハッハッハッハ!! いやぁ、何十年も人を見てきたけど、こんなにも人生を楽しそうにしている二人は初めて見たよ。人目もはばからずに大胆だねぇ?」

などなど、そういった会話をしながら相川さんの家に向かった。凛のことを『一人で無口に歩く』などと表現していたが、思い返してみれば一番凛の台詞量が多かった気がする。

 「さぁ、着いたよ。ここが私の家だ。」

相川さんが家を手で示す。その先には、古めかしく大きな木造の家がこれでもかという程に怪しい雰囲気を纏って建っていた。よくテレビなどで見かける、築百年の家という印象が一番しっくりくる。瓦屋根に縁側、目をこらすと障子もうっすらと見える。が、所々に傷も見られ、やはり老朽化には耐えられないといった様子が窺える。つまり、漫画などでよくある旧校舎のようなお化け屋敷感が半端ない。

「・・・何だか幽霊とか出そうね。いえ、その前に倒壊するかしら?」

凛も同じような感想を持ったらしい。若干不安そうな声音で言う。

「ハハハッ。そうか、君たちにはそう映るか。大丈夫、ここに六十年ほどずっと住んでいるが、幽霊にはまだ一度も会っていない。」

相川さんは愉快そうに笑う。

 「まぁ、入ってくれ。私は夕飯の支度をするから、それまで居間でゆっくりとくつろいでいてくれ。」

ガラッと家のドアを開ける相川さん(家に鍵が無い!)。靴を脱ぎ、そのままギシギシと音をたて居間らしき部屋の明かりをつける。僕たちも相川さんに続いて家に上がり、明かりを求める虫のように電気のついた部屋へと入った。

 「白熱灯・・・っ!!」

凛が天井の電球を見て眉を寄せる。

「囲炉裏・・・っ!!!」

そしてゆっくりと首ごと下を向き、目の前にある空間を見て驚く。

「あぁ。それはね、昔ガスコンロがまだ普及していなかった頃に・・・」

「いえ、それは分かっているわ。もう十分に理解している。私が驚いているのは、何故未だにこのようなモノが残っているのかということ。」

説明しようとする相川さんを遮って戦慄する凛。包丁の無かった家の主がよく言う。

「長野とか、岐阜辺りだとまだ残っているんじゃないかな? 観光名所とかで。」

「いえ、あなたの家は別に観光ツアーに組まれてはいないでしょう。・・・一体いつの時代よ、何この天然記念物的遺産?」

そう言いながらもようやく凛は動きを再開し、手前にある二つの座布団の片方に座った。

「・・・暗いわね。」

恨めしそうに電球を見上げ文句を言う凛。僕はそれを苦笑いで聞き流しながらもう片方の座布団の上に座った。


 五分後。

「お待たせ。」

そう言って相川さんが両手に皿を持ち登場した。皿の上にはたくさんの野菜、それに一口サイズに切ってある鶏肉が並んでいる。

「・・・水炊き? まさか、この囲炉裏で・・・?」

「あぁ。やっぱり、こういった時にはみんなで箸をつつくような料理の方がイイと思ってね。あ、間接キスとか気にしちゃうんだったら最初に私が取り分けるけど?」

そう言いながら、相川さんはテキパキと囲炉裏に火をつける準備を進める。さすがに何十年もここに住んでいるだけあって、手慣れていたものだった。

 「・・そうね。私は構わないのだけれど、大輝はどうかしら?」

凛が珍しく意見を僕に聞いてくる。その事実に少しばかりの感動を覚えつつも、僕は平静に努めようと一度喉を鳴らして口を開く。

「いえ・・・ちょっと自分は・・・・・・」

思ったよりか細い声だった。自分で自分の声に驚きながらも、僕は理由を説明しようと再度口を開く。

「あぁ、別に相川さんがイヤだとかそういうんじゃないんです! ・・・ただ、ちょっと凛とは・・・・・・」

「? あなた、昼は普通に食べていたじゃない? そういう乙女な反応をされるとこちらが照れるのだけれど。」

凛が僕の顔をのぞき込むように顔を近づける。

「それは、まぁ・・・少しは意識していたけど。・・・ちょっと今は無理。」

「何故かその反応、無性に腹が立つのだけれど。」

山でのことを思い出し顔が熱くなる僕を、凛が口元を引き攣らせて睨む。

 と、相川さんがそんな僕たちを見てボソッと言葉を漏らした。

「・・・何だ、今日吸われたのか。道理で傷跡が新しいと思った。」

それが聞こえたのか聞こえなかったのか、凛は山での出来事を思い出したように顔を赤くし、一気に僕から距離を取る。

「あ、あなたまさか私の唾液でさえ興奮するというの!? この変態!! ただの○学生好きな○○○○じゃないの!? ○○○○プラス唾液フェチなの!? 信じられない!! あなたに対する私の吸血処女を返しなさい!!!」

凛は一方的に僕を罵倒し始めた。今にも僕から逃げ出そうとばかりに、笑う足腰を必死に駆動させ逃亡体勢を作っている。

「いやいやいやいやいや。まず僕○○コンでも唾液フェチでもないし。大体唾液フェチなら箸のつつき合いなんて断らないでしょ。」

「・・・ハッ! まさか最後に残ったスープを密かに狙ったり私の箸を洗わずに後でこっそりと相川さんからもらったり・・・きっと言うんだわ、『凛の口内の唾液は興奮しない。何故ならそれは常に溢れているモノであり、また渇くことがないからだ。しかし体外に出たそれは一種の輝く宝石であり、いつしか消えて無くなってしまう微量なモノだ。僕はそれに価値を見い出した。あぁ、早くその甘い蜜を僕がため云々』・・・と。」

「・・・前から思っていたけど、一番の変態って凛だよね。」

何だか凛の一人語りで冷静になった僕はそう思った。

 「ハッハッハ、じゃあどうするお二人さん? もういっそみんな分けるかい?」

相川さんは一人楽しそうに笑う。

「・・・えぇ。もうちょっと大輝とは距離を置くわ。おかしくなりそう。」

「もう十分におかしいって・・・」

 相川さんは鍋に水を入れる。そして何かの魔法だろうか、薪を手に取り、軽く指を鳴らした。すると、薪の先端部が火をあげて燃焼する。相川さんは何食わぬ顔でその薪を鍋の下に置き、二本、三本と薪を重ねていく。たちまち火は燃え広がり、立派な炎へと成長していった。

「・・・すっご。」

「ハハッ。これぐらいで褒めてくれるのなら、もっと黒木さんを褒めてあげなさい。彼女は大切にするものだよ?」

「いえ、そういう関係じゃないんで。ホントそういうの止めてください。」

「・・・せめて少しくらいは動揺してよ。冷静な否定って、結構精神的負担がすごいんだから。」

 などとなんやかんや言い合いながらも、相川さんの手によって水炊きはドンドン出来上がっていく。囲炉裏の暖かさが細かなことを忘れさせてくれ、出汁のきいたイイ香りが今日の疲れを癒やしてくれる。

 「さぁ、そろそろいいかな? 何か特別に嫌いなものとかはないかい? でなければ均等に分けてしまうが。」

相川さんの声に僕たちは唾を飲み込む。自分の皿に具が盛り終わるのを今か今かと待ち、焦れったい。

 それを肯定と受け取ったのか、相川さんは静かにニヤッと笑うとそれぞれの皿に丁寧に具を盛りつける。そしてそれを僕たちの目の前に起き、優雅に一言、爽やかな笑みを浮かべて言った。

「どうぞ、お召し上がりください。」

「「いただきます!」」

 僕たちは命を狙われていることなどすっかり忘れ、存分に夕食を楽しんだ。


**********


 「で、そろそろ本題に移っていいかしら?」

相川さんの料理を堪能した後、食後の片付けが終わるのを見計らい、凛は切り出した。先ほどの和やかな雰囲気が一気に硬直し、空気が重くなる。

 「・・・“ジャスティス”のことかい?」

フゥ、と軽く息を吐いて相川さんは応じた。居間にドカッと胡座をかく相川さんからは、露骨に不機嫌そうな感情を感じる。

「えぇ。一昨日と今日、私たちはソイツらに襲われたわ。今日はもう捲いたと思うのだけれど、どうせまたノコノコとやって来るわ。私の頼みたいことは一つ、」

「『“ジャスティス”の撃退』、かい?」

凛の台詞を先回りする相川さん。凛は話が早くて助かるといった表情で続ける。

「私の入っている“コミュニティ”はここからかなり離れていてね。生憎頼れる相手がそこの唾液フェチぐらいしかいないのよ。」

「頼れる相手、か。唾液フェチくんも中々信頼されているじゃないか。」

「・・・そこは純粋に嬉しいですけど、そろそろ呼び名が定着する頃なので、その呼び方止めてもらいません?」

 相川さんは僕のせめてもの抗議をさらりと受け流し、話を続ける。

「・・・私には何も関係ないはずだが、君たちはそんな私を巻き込む気なのかい?」

「えぇ、確かに私たちにそんな権利は無いわ。けれど・・・」

ここで凛が一度言葉を切る。その意味深な間に、僕は何だかイヤな予感しかしなかった。

「あなた、“ジャスティス”に恨みがないとは言わせないわよ?」

一瞬、相川さんの額に青筋が走る。触れてはいけないことに凛は踏み込んでしまったのか、凛の一言を最後に数十秒、気まずい沈黙が居間を支配する。

 「・・・。」

何分ほど経っただろうか、目を閉じて何やら考え事に耽っていた相川さんはゆっくりと目を開け、口を開いた。

「・・・やっぱり、分かるのかい?」

「えぇ。私も被害者は違うけれど、同じような境遇だから。」

「・・・そうか。」

相川さんは吹っ切れたように大きくため息に似た息を吐くと、急に肉食獣が獲物を見つけた時のような獰猛な顔を作り、口を開いた。

「・・・私にも、“ジャスティス”とはちょっとした因縁があってね。君たちに付き合おう。」

「ありがとう、助かるわ。」

凛は素直にお礼を述べる。それを聞いた相川さんは軽く笑い、

「コレは私が私のためにやることだ、気にしないでくれ。」

と手で遠慮を示すポーズをとった。

 「ところで撃退というのだから、ソイツらの情報はある程度は分かっているのかい? ただ自分の感情のみで動くとなると、痛い目を見ることになるが。」

相川さんは座布団に座り直す。出来る限りの情報開示を暗に求めているのだろう。

 僕は今日の襲撃を思い出す。が、これといって掴めた情報はない。凛は何か知っているのだろうか?

 「・・・コレ、何だと思う?」

と、凛はそれをあらかじめ想定していたようで、何やら銀色のアクセサリーのようなモノをハンカチに包んで相川さんに差し出した。

「・・・十字架、かい?」

それがどう関係するか分からないのか、相川さんは顎に手を当て身を乗り出し、凛の取り出したモノを見つめる。

「えぇ。正確には銀の十字架、“ジャスティス”の奴らのよ。今日襲われた時に落ちていたわ。」

凛は若干得意げに正解を言う。

「触れることはあまりお勧めしないわ、溶けてしまうから。」

「・・・しかし、何でこんな物騒なモノを?」

相川さんは凛に聞く。

「ココを見て頂戴。裏に小さく文字が刻まれているでしょう? 確か・・・『マーク・グラン』だったかしら?」

「この字が読めるのかい?」

「重要なのは綴りの方だから、今は気にしないで。」

この十字架にできる限り顔を寄せて、興味深そうに真剣なまなざしで見る相川さん。その姿勢は一種の科学者のようであったが、そういった科学者よりも更に目に光が灯っているような気がした。

 「私の“コミュニティ”では、主に“ジャスティス”の関係者を調べているの。確かそのリストに、そういった綴りがあったのよ。名前が読めたのはそのおかげ。」

凛が苦虫を噛みつぶしたような表情で、嫌悪感たっぷりに言う。

「コードネーム、“マーク・グラン”。男。幻覚魔法で相手を誘い込み、熱球や銀の弾丸を使い一瞬で殺すのが特徴。単独行動が主で、基本的に吸血鬼を複数人で襲うのは好まない。・・・今日、大輝が熱球で殺されそうになったことから見ても、まずコイツで間違いないと思うわ。」

 それを聞いた相川さんは厳しい顔を作る。

「・・・それ自体が偽物だとか、誰かが意図的にわざと落としたという可能性は?」

「それが最も怖いのよ。かといって、私たちに確かめられる方法も無いしね。」

凛はお手上げといった感じにバンザイする。それほど大げさな仕草でもなかったので、脇などは全く見えなかったが。

「けれど、私たちの持っている情報はコレだけ。元々情報なんて無いのと同じなのだから、コレでも充分だと私は思うのだけれど?」

「んー・・・」

唸る相川さん。腕を組み、天を仰いでいる。

 「・・・分かった。相手の得意な襲い方も分かったし、それだけでもかなり有益だ。」

「そう言ってくれると助かるわ。もう少しマーク・グランについての説明をするわね。」


 凛はそれから十分ほどにわたって、マーク・グランについて“コミュニティ”の持つ情報を細かく説明し、それと並行するように自分の考える対策を述べていった。

「・・・よく覚えていたね?」

これが素直な相川さんの感想である。僕も全くの同意見だった。それ以前に、まず凛が知らず知らずのうちに対策を考えていたことに僕は一番驚いた。てっきり天然だと思っていた凛の初めて見る冷静で知的な姿に、実際のところ僕は釘付けになっていた。しかし、今から話の内容を思い出そうとしても、凛のことしか僕は思い出せないのは何故だろう?

「私、成績イイのよ?」

これは相川さんの感想に対する凛の言である。それを聞いて僕は『眼鏡の凛もいいな』とかシリアスな雰囲気の中変なこと考えていました、すいません。

 「じゃあ、とりあえず今日のところは安全なわけだね? ハハ、明日から気を引き締めないとね。」

一通り話が終わったのか相川さんがまとめに入る。

「そうね、明日が命日になるかもしれないわけだし。」

凛は縁起でもないことを言い肯定する。

「んじゃ、そろそろ遅くなっちゃったし、僕たちは帰るか。」

そういえば、凛はどこで寝るのだろう? 考えによっては凛の家はもうマークされているかもしれないし、そうすると僕の家ももしかしたらマークされているかもしれない。・・・・・・やっぱり不安だ。

 といったところで、不意に相川さんが何かを思い出したように声を上げた。そしてそこからある提案をし、早速その準備に入ろうと動き出す。その相川さんの提案を聞いて、僕は喜んで興奮し、対して凛は露骨にイヤそうな顔をして口や眉を歪めた。


 「君たち、今日は泊まっていかないかい?」


家に招いたお客に対するそういった台詞はむしろ常套句となりつつある中で、相川さんを信じていた僕は心の中で雄叫びを上げた。

 相川さんに夕食を誘われてからずっと意識していた、『凜と一つ屋根の下』作戦。同じ家で異性と寝るというのはある種何もしていなくとも、『僕はひょっとしてイケないことをしているのではないか?』といった謎の背徳感を与えてくれる。いや、それよりももっと単純に、何故か二人の関係がグンとアップしたかのような幻覚を覚えさせてくれるのだ。 僕は決してコレを好機に凜を襲おうなどとそんな不躾を働こうとは考えていない。別にお風呂を覗こうとか、下着を盗もうとか、寝込みを襲おうとか、凜の寝顔を堪能しようとか、凜の寝乱れた姿を見ようとか、朝寝ぼけた凜を楽しもうとか、そういった不健全な行為には及ばない。アンチできちゃった婚だ。女の子を無理矢理に抱くというのは好まない、というか普通に不快だ。

 ・・・それは・・そそられますよ? 僕だって男、Y染色体の持ち主。相手は恋する女の子、今はそれにプラスで吸血鬼の特性が加わっている。

 でも、ここで僕の紳士振りを発揮すれば、いずれは凜だって僕の真摯さに気づいてくれるはずだ。イッツ・ア・健全。

 僕ははやる心を抑え、即刻相川さんに“イエス”の意思を示そうと口を開く。

 しかし僕が返答しようとした矢先、凜とした声がそれを遮った。

「結構です。帰りましょう、大輝。」

その声の持ち主、凜は相川さんの申し出をアッサリと断った。

「いや危険だ。ここに泊まった方が何倍も安心安全。」

ある程度凜の反応を予想していた僕は、凜をどうにかここに泊めようと説得を試みる。「別の意味で何倍も危険だわ。こんなもの盛りのついた猿と一緒に檻に入れられるようなものだわ。」

「僕を誰だと思っている? こんな紳士的な人間はこの世に一人しかいないぞ。」

「・・・」

「大丈夫だって。最悪部屋を別々にすればいいんだから。」

「同じ部屋前提なの!?」

凛は頭を押さえ数秒沈黙する。

「・・・相川さん。この家にお風呂は?」

「いや、私は銭湯通いだから。」

「帰ります。」

「えぇ!? ちょっと待ってよ!! 凛は命よりお風呂の方が大事なの!? 我慢だ、凛!!!」

「今日は何かと動いたし汗でベタベタなの。男と一緒にしないでもらいたいわ。」

「えー、あ、そうだ! いざとなったら僕が舐めてあげブッ !!」

「・・・結局私を辱める気マンマンじゃない、あなた。」

座布団を放り投げ、見事僕に当てる凛。しかし僕は諦めない。

「僕は・・凛が傷つくのがイヤなんだよ! もっと自分のことを考えてくれ!!」

「・・・その私に一生消えない傷をつけようとしているのは誰?」

「それは誤解だ! 僕は少しでも凛の気を紛らわそうと・・・!!」

「では、お邪魔しました。大輝は私の分まで泊まっていくこと。あ、コレ主としての命令ね?」

「え? あ、ちょっ・・・」

昔の家特有の引き戸を開ける音がして、凛は僕をおいて帰って行ってしまった。つまり、僕の計画はこの瞬間終わりを告げた。

 結局、凛と一緒に泊まりたかったけどアッサリ断られた。

 今日一日でかなりの好感度を上げたつもりだったのだが、まだ足りなかったのだろうか。

 「負けた・・・・・・・・・」

絶望に打ちひしがれる僕。相川さんの提案によって、張り詰めた僕の糸が一瞬にして緩んだと思ったら、もう糸はシュワッと溶けてしまったかのように心に虚無感が訪れる。

 「・・・まぁ、君はまだ若い。またゆっくりと信頼関係を作っていけばいいんだ。励め、少年。」

後ろから相川さんの優しい慰めるような声が聞こえる。それはやけに僕の心の奥にまで染み入っていった。

「・・・命令に従うということで今日、泊まっていいですか?」

「あぁ。大歓迎だ。」

自分でも驚くほど感情の抜け落ちた声で言った僕に、相川さんはいつの間にか手に取っていたコップを差し出す。そして、『君には僕がいるよ』と言わんばかりに優しく微笑んでくれた。

 男の夜が始まった(イヤらしい意味でなく)。


**********


 「ハハッ、そんなに落ち込んでいるのかい? さすがにコレはちょっと意外だねぇ。」

「・・・変に興奮しちゃったみたいで。見苦しい所をお見せしました。」

僕と相川さんは二人して縁側に腰掛け、相川さんはお酒、僕は炭酸水をそれぞれ飲んでいた。月が綺麗である。

「いやいや、何だか見ていて懐かしかったよ。」

「懐かしい?」

遠い目をして相川さんは言う。

「吸血鬼には二つの種類があるってことは知っているかい?」

「いえ。さっき凛と話していた、『純血』と『後天性』のことですか?」

「あぁ。吸血鬼と吸血鬼の間に生まれた、吸血鬼の特性を先天的に宿しているのが純血。対して、君のような吸血鬼に血を吸われて後天的に特性を宿したのが後天性だ。言っていなかったと思うけど、実は僕も後天性なんだ。」

グイッと、瓶に入っているお酒を直で飲む相川さん。その姿はとても男らしい。

「じゃあ、相川さんも主がいたんですか? ・・・いまいち想像できないです。」

「ハハハッ! そうかそうか。・・・確か、私が小学生の頃だったかな? その頃の友達と夏休みに肝試しをしていたんだ。その時にちょうど出くわしてしまってね。」

どうにも皮肉な話だろう? と、相川さんはまるで楽しかった時の記憶を話すかのように、顔にニンマリと笑顔を浮かべる。

「一人でいたところ、背後からガブッとね。女性だったんだけれど、彼女もまだ幼くて、十歳ほどの背丈だった。」

「へぇ。凛は最近になってようやく血を吸える体になったって言ってましたけど。」

「人間と同じように、成長にも個人差があるらしい。人間でいう第二次性徴を迎える頃が一般的だそうだ。黒木さんは随分と遅咲きのようだね。吸血鬼は不死な分、そういったところでも曖昧なのかもしれないな。」

グビッ、と豪快にお酒を呷る相川さん。その飲みっぷりからして、どうやらかなりお酒に強いらしい。・・・それ以前に、吸血鬼も人間のようにアルコールが中枢神経を麻痺させるような作用を受けるのかは分からないが。

「どうやら彼女は血を吸えるようになってから、人の血を吸いたくて吸いたくて堪らなかったそうなんだ。それで仕方なく私を襲ったらしい。」

「・・・やっぱり、怖かったですか? 血を吸われて。」

「いいや。それよりも、突然現れた金髪の女の子に抱きつかれるという、そういった嬉しい展開に興奮しちゃってね。それがまた可愛かったものだから・・・」

相川さんは恥ずかしそうに頭をかく。ん? え、今相川さん・・・

「外国人、だったんですか? その女の子?」

「あぁ。初めてだったよ、生の金髪は。サラッサラだった。・・・それに何かイイ匂いしたし。」

「・・・・・・?」

「あぁ。吸血鬼が川を渡れないとか、そんな伝説を思い出していたのかな? ある意味、日本は絶海の孤島、とも言えるしね。」

「え・・・じゃあ何で?」

「問題だ。当ててみな?」

そう言って相川さんはまたもお酒を呷る。気づけばもう四分の三ほど無くなっていた。

 対して、僕はまだ一口も飲んでいないことに気づいた。気分を入れ替えようと、僕は一口、二口と炭酸水を流し込む。甘酸っぱい刺激的な味が、二酸化炭素の気泡と共に口の中で弾けていく。

 吸血鬼が海を渡る方法? 一般的な手段としては、飛行機か船だろう。海峡なら橋を使って渡ることも可能だ。

 しかし、吸血鬼にはそれが出来ない。ならば地下トンネルのように地面を掘って進むなどの方法か・・・? いや、吸血鬼にしか出来ない裏技とか・・・

 「あ。移動魔法!!!」

「ご名答。」

いつの間にかもう一本の瓶に手を出していた相川さんが笑う。

「川や湖なら普通に渡れるんだが、さすがに海は広すぎてね。私たち吸血鬼には、渡ることは不可能だと言われている。でも、移動魔法を使えるのならば話は変わってくる。」

周りの家の電気が消えるのを眺めながら、相川さんは話す。

「言うなればテレポーテーションみたいなものだからね。海をショートカットして、どこでも自由に行くことが出来る。」

「でも・・・凛は移動魔法を使った後、動けなくなっちゃいましたけど。便利なだけに、リスクも高いんですか?」

「あぁ。中々鋭いね? ただ、それはちょっと違うかな?」

相川さんはしっくりくる言葉を探すかのように唸る。

「移動魔法は、みんながみんな使えるわけじゃないんだ。」

「? 純血しか使えないとか、そういうことですか?」

「そういうことになるが、『純血しか』だなんて、そんなに広い範囲じゃない。もっと限られた、ごく僅かな吸血鬼にしか使えないらしい。まぁ、僕もそこまで詳しくは知らないが。」

とすると、それを動けなくなるリスクを背負っているとはいえ、当たり前のように移動魔法を使っていた凛って、実はかなりすごいのかもしれない。そもそも僕は一昨日初めて凛と会ったばかりなので、凛のことはほぼ何も知らないといってもいいのだが、そういえばかなり頭のいい女子が隣のクラスにいると聞いたことがある。相川さんに自己紹介した時も、よく分からないが『黒木家の者』とか言っていた気もするし、実は吸血鬼の家の中でも貴族階級に位置していたりするのだろうか?

 「で、彼女のご両親のうちのどちらかが、移動魔法を使えたらしくてね。理由は分からないが、気がついたら日本に来ていたらしい。」

相川さんは話を戻す。

「当初は大変だったってさ、言葉が通じなくて。下手したら警察に連れて行かれるかもしれないしね。」

言葉の壁は大きいからなぁ、と相川さん。

「そこで思いついたのが、現地で後天性を作ることだったらしい。もしかしたら奴隷にすることによってこの国の人と意思疎通が出来るかもしれない、そういった期待も乗せて私の血を吸ったと、そう彼女は言っていたかな? まぁ、彼女にしてみれば血を吸いたいという衝動のイイ言い訳程度にしか考えていなかったと思うが。」

「・・・それで、それは叶ったんですか? 意思疎通は。」

「あぁ。彼女は祖国の言葉で話していたのだが、何となくどういう意味なのか私には伝わってきてね。逆に私は日本語で話していたが、彼女は自然と言葉の意味を理解してくれたよ。ただ血を吸われただけなのにね。」

・・・つまり、どういうことだろうか? テレパシーと解釈してもいいのか、コレは?

「彼女もまぁ、お嬢様気質でね。言葉が通じた途端、やれ家に連れて行けだのやれ食事を用意しろだの、命令暴言の嵐さ。」

「あぁ、それは何となく分かります。バスの料金は僕が二人分払っていたの、覚えていますか? まぁ、アレは僕が言い出したことなんですけど。」

「勿論。当たり前みたいに払っていたから驚いたけど、上下関係がこれ以上無くハッキリ出ていたかな?」

「相川さんの主さんもそんな感じだったんですか? やっぱり凛みたいに。」

「いいや、あんなには怖くなかった。というか、黒木さん目が怖すぎないかい? いつもはぱっちりとしているけど、イラッとか目を細められるとホントに竦むところだった。何ともないように振る舞うことがアレほど難しいこととは思わなかったよ。」

それを思い出したのか、ブルッと一回相川さんは震えた。

 やはり、他の人には凛がそう映るのだろうか? 確かにああいう静かに怒りそうなタイプは爆発すると本当に恐ろしそうだが・・・そういったところも凛の魅力の一つだと僕は思う。

 ・・・やはりコレも僕が後天性の吸血鬼になってしまった所為なのだろうか?

 「対して彼女は黒木さんと違ってまだ幼かったからね。いきなりどこかも分からない地に飛ばされたというのもあるだろうけど、かなりの泣き虫だったよ。」

まだ十歳だったからねぇ、と相川さん。

「私も血を吸われるなんて経験は初めてだったから、段々と恐怖心が襲ってきた。もう何が何だか分からなくなってきちゃって暴れ始めちゃったんだ。訳の分からないことを叫んで、腕を振り回したり。すると、」

相川さんはもう戻れない過去の記憶に浸るように、その彼女という人を懐かしみ慈しんでいるかのように、ゆっくりと話す。

「逆に彼女の方が大声で泣いちゃってね。僕の取り乱した姿を見て、彼女もまた混乱しちゃったらしい。私は呆気に取られちゃって、さっきまで恐慌状態だったことなんて忘れて彼女を必死に宥めたよ。」

二人ともまだ若かったからね、と、お酒のペースが段々と落ちてきた相川さんは言う。

「その後は色々とありながらも、私が夕飯をこっそりと残して彼女にあげたり、お客用の布団を持ち出して彼女に貸したりと、そうやって何とか彼女をかくまっていた。まぁ食料不足は否めなかったから、ほぼ毎日私は彼女に血を吸わせてはいたけれど。」

「え・・・それ貧血とかならないんですか?」

「仮にも私は吸血鬼だよ? 後天性の吸血鬼は血が無くなっても食べ物を食べれば充分補給できる。純血の吸血鬼は、血を吸えるようになるとこれからも定期的に血を摂取しないとダメらしいけどね。黒木さんも一週間に一回は血を吸わないと飢えてしまうんじゃないかな?」

・・・それはつまり、またあのような体験が出来るということでいいのだろうか?

「傷跡とか、バレなかったんですか? 結構目立ちますけど。」

「犬に噛まれたって言えば誤魔化せたからね。いつまでも治らないから怪しまれたりはしたけど。」

苦笑いに答える相川さん。今は犬に噛まれたって言っても信じてくれそうにないが。

「まぁ今は包帯とかも普通に手に入るし何とか誤魔化せるだろう。もし勘づかれそうになったらお金で解決。それで万事オーケー。」

「お金って・・・他に方法無いんですか、ソレ?」

妙にリアルな話だ。それで後に色々と関係に亀裂が入りそうであって、そこもまた怖い。

「それと・・・彼女はよく私を連れ回していた。山の奥地、川の上流、それに駄菓子屋とかね。たまに地元の僕でも知らない所とか、とにかく色んな所に連れて行かれたものだよ。その時の彼女の笑顔といったら、それは魅力的だった。」

・・・何だかさっきから話を聞いていると、まるで二人の関係性は、家族に隠れて捨て犬の世話をする相川さんと、その世話になっている相川さんの主、といったような関係性に聞こえて仕方が無い。

 ・・・言うと怒られそうなので言わないが。

 「でも彼女にだって優しい面はあったんだよ? 私の話だけだと、彼女はただの嫌なお嬢様といった感じにしか捉えられないだろうけどね。」

顔に出ていたのだろうか、相川さんは彼女をフォローしようとする。まぁ、僕が思っていたことは実際とは全然違うことなのだが。

「彼女は素直にモノが言えないというだけで、ちゃんと謝ることだって出来るし感謝もしてくれる。今風に言うと、ツンデレかな?」

「・・・もう段々とそういった言葉も聞かなくなりましたけどね。」

「え!? そうなのかい!? 折角何週間か前に覚えた言葉っていうのに・・・」

「それだけのことでうなだれないで下さいよ・・・。で、相川さんの主はどう優しかったんですか?」

「あぁ・・。そうだったそうだった。えーっと彼女はね、」

相川さんは主のことを思い出したのか、テンションを戻し再び話し始める。

「口では私のことを何とも思っていないと言いながらも、いつも私のことを気にかけてくれてね。初めてご飯をあげた時、あんなに幸せそうな顔だったのに、おなかが減っていた僕のことを気遣って、半分分けてくれたんだ。」

言いたいことが溢れてくるのか、相川さんは早口に話す。

「彼女に連れて行かれた場所で私が怪我をした時は、必死になって治療に必要な物を探し回ってくれた。なるべく私に痛みが伝わらないよう、箇所や力加減を考えてゆっくりと血を吸ってくれた。私がイケないことをした時には大声で怒ってくれたし、その後には必ず優しく抱きしめてくれた。・・・二度目からご飯をあげる時、小さく『ありがとう』なんて言ってくれたっけ。私の血を吸う時も、私が怖がっていたら我慢してくれたこともあったっけかな。」

そんな風に話す相川さんと現在の見た目とのギャップが大変激しいが、僕には相川さんの気持ちが自分のことのように理解できた。今の相川さんは、ひょっとしたら自分を投影したのではないかと思えるほどに僕に似ていた。

 「・・・好き。だったんですよね、その人のこと。」

僕は飲み終えた缶を置き、それをタイミングとして口を開いた。

 場が固まり、沈黙が訪れる。相川さんは黙って瓶を置いた。

「『だった』じゃない、今も好きだ。私は彼女のことを忘れた日は一度も無い。」

真剣な口調を取り戻して、相川さんはドラマの主人公のような台詞を静かに言う。

「・・・何で分かったんだい?」

「見れば分かりますよ。あと、聞いても。完全に恋した人でした。」

「・・・だから人じゃないって。」

相川さんは諦めたようにフゥ、と息を吐くと、吹っ切れたようにまた笑顔を作る。

「そうさ。私は彼女に恋をしていた、そして今もしている。初めて会ってから、ずーっとだ。五十年以上、半世紀にもわたってね。」

そう改めて聞くと、いっそ清々しさを感じる。相川さんの口調はとてもハッキリとしていて迷いが無い。

「彼女はどうだったか知らないけど、私は本気だった。まぁ、十歳の子供が抱いていた淡

い想いだと言われれば、それだけでしかないんだけどね。 さて、」 と、相川さんはこの話は終わりだと言わんばかりに、ニィ、と口角をつり上げる。

「では、私も腹を割って話したところだし、肝心な白川君の恋バナと行こうか?」

「・・・え?」

今、相川さんものすごく不吉なこと言わなかった?

「さぁて、白川大輝君の想い人は一体誰なんでしょうねぇ? え?」

若干話を逸らした感が残るが、相川さんは意地の悪そうな笑みを作ったまま僕に詰め寄る。

「○○○○の趣味から考えて、近所の○学生かな? それともまさかのお○さん?」

「いやいやいや、僕が好きなのは・・・」

「お? ということはいるんだね? カマをかけたが、見事に引っかかってくれて私としては大変嬉しいよ。」

「だ、騙したんですか!?」

「だからカマをかけただけだって、別に騙したわけじゃない。」

「・・」

絶句する僕。さすが半世紀以上も生きているだけあって会話術に長けている。敵に回すとかなり厄介な存在だ。

 と、相川さんは急に笑みを消し、大きく息を吐いてまた瓶を取った。

「ハハ、ごめんごめん。何だか君に見透かされたようで悔しかったからさ。ちょっとしたお返しだよ。」

「んな・・・」

そんなにも軽く弄ばれていたのか、僕は。何だか肩透かしというか、段々とムカムカとしてきた。

 と、

「でもまぁ、白川君の好きな人ってバレバレだしなぁ。黒木さんでしょ、君の想い人。」

そう相川さんに言われた。

「態度を見ていれば明らかだよ? まず黒木さんのこと、ちょっと見過ぎかな?」

根拠に、それに加えてアドバイスまで言われる始末。


「それに、後天性は一定期間、主に心酔するっていうの、アレ、迷信だよ?」


**********


 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

こんな風に、大声を出して驚きもしない。それがまだ、僕が相川さんの言葉を完全に理解出来ていないことの証明だろう。

 人は突然のことに対して、何の反応も出来ないことがある。みたいなものだろうか?

 まぁ何にせよ、僕が完全に相川さんの言葉を理解するまでには、たっぷりと時間を要した。実質三秒ほどだが、相手の言葉、それも簡単な日本語の意味を考えるには充分すぎる時間だろう。

 「コレ、黒木さんには内緒だよ?」

対して、相川さんは冷静そのものである。むしろ、僕の反応を楽しんでいるかのような口振りですらあった。

 さて、そろそろ意味を完全に理解した僕が大げさなリアクションを上げる頃だ。果たして、僕はどんな驚きの声を出すのだろうか?

「ッ」

「あぁ、別にわざと驚こうとかしなくても大丈夫。君なら薄々勘づいていただろうことだし。」

「・・・」

・・・どうせ僕は勘が鈍いですよ。

 「原理はまぁ、錯覚みたいなモノだよ。後天性は吸血鬼だけど、その前に一回血を吸われているからね、吸血される快楽を覚えちゃっているわけだ。そういった刺激が吸血鬼になった後も残っていて、その興奮を主への忠誠心、または恋愛感情などと勘違いしてしまう、というわけだ。初めて見る怪物への畏怖が、そのまま尊敬に変換した、っていう考えもあるけどね。」

「・・・随分と詳しいですね? 仲間とは会ったことが無いんじゃないんですか?」

「勿論、君たちが彼女以外の吸血鬼で初めて会った同胞だ。嘘じゃない。」

相川さんはそう言って僕の背中を叩く。

「彼女の家は吸血鬼の中でも相当な名家だったらしくてね。ご両親はよく、純血と後天性の生物学的なんちゃらの違いについて調べていたらしい。その結果、後天性に、主を親、または恋愛対象として認識するような本能は組み込まれていないってことが分かった。しかしそれを発表してしまうと、無理にでも後天性を自分の所に縛り付けようと乱暴を働く純血が出てくる可能性があるからって、口外禁止にしたんだって。『私の両親はこんなに立派だったんだぞ!』って彼女はよく私に自慢していたよ。」

「・・・秘密管理能力ゼロじゃないですか、主さん。」

「まぁそう言ってやらないでくれ。可愛かったから許す。」

・・・だったら僕は凛が何をしても許さなくちゃイケない気がするのだが。

「お? 今『だったら僕は凜が何をしても許さなくちゃ』とか考えているのかい? 青春だねぇ青春だねぇ。」

「ハイハイ。僕は凛のことが好きですよ、大好きです。・・・これで満足ですか?」

「あぁ。やっぱり青春はこうでなくちゃね。」

・・とうとう酔い始めたか、相川さん? 頼れるお兄さん的なイメージが若干ウザいお兄さん的なイメージに変わってきている。まぁ別に暴れたりしなければ構わないが。

「とにかくこのことは純血の吸血鬼には話さないように。彼女を裏切るようなことはしたくないからね。」

「ハァ・・・」

「じゃあ次は、白川君の秘密でも聞いてみよっかなぁ? 黒木さんとの馴れ初めは? 黒木さんのどこが好きなの? 黒木さんとはどこまで行った? A? B? C?」

「・・今もうそんな風に恋愛の進行状況をアルファベットで表現しませんよ?」

「分かってる分かってる! で、C? B? A? 早く話してみなよ、え?」

・・・あ、ダメだ。

 相川さんは完全に酔っ払った。主のことを思い出してお酒が早く回ったのだろうか?  顔が赤くなり、さっきから無駄な動きが多くなっている相川さん。コレはさっさと切り上げてどうにかしないといけない。

 僕の両親は二人ともお酒を飲まないので、こういう時どうしたらいいのか分からないのだが・・・失礼な表現になるが、布団に入れておけば大丈夫だろうか? いや、よく古い漫画だと酔っ払ったお父さんが夜道で“立ちション”なるモノをしていたり、子供や奥さんに水を要求していたっけ?

 僕はとりあえず失礼だと思いながらも、相川さんの家を回り、寝室と思われる場所を探す。意外に広いこの家は、リビング以外の場所に電気がついていない。が、吸血鬼になったおかげなのか、それともずっと薄暗い縁側に腰掛けていた所為なのか、意外に内装は細部までハッキリと見ることが出来た。

 廊下を突き当たりまで歩き、その途中にある部屋を一つずつ確認する。どれも同じように、何も置かれていない畳の空間があるだけだ。

 僕は仕方なく、先に相川さんをどうにかしようと縁側に戻ろうとした。酔い潰れてしまっていたらどう運べばいいだろうか、などと考えながら障子を閉じ、廊下に戻る。

 「相川さーん! もう寝たいので布団を用意したいんですがー!!」

相川さんからの返答がない。

「相川さーん?」

まさか、酔い潰れてしまったのだろうか? イヤな予感しかしないのだが・・・

 と、

「大丈夫、そいつならまだ生きている。」

えらく透き通った声がした。

「まだ、な。」

意味深に言葉を区切る謎の声。

「まずは君だ。じっくりと楽しませてもらう。」

「・・あのー、ひょっとして泥棒ですか? いや、でもその台詞・・・。! そうか、君は同性愛者だな!? わざわざこうして襲いにやって来るとは・・よっぽど僕に気があるんだな!?」

「・・・成程。やはり吸血鬼はバカだらけだというのは本当のようだ。」

「頭のいい人が好みだったかい? というか、そろそろどこにいるかくらい教えてくれませんかねぇ? さっきから僕が一人でしゃべっていてバカみたいだ。」

「だからバカだと言っただろう。」

「ハハッ。」

・・・。

 ヤバいヤバいヤバいヤバい・・・え? ちょっと待って? バカな役を演じることで何とか時間を稼いでいるけど(決して天然でやっているわけではない。計算だ。)・・何コレ何で今? どうするどうするもう時間稼ぎのネタ尽きちゃったぞ・・・。

 僕は必死に速まる鼓動と竦む脚を抑え、気丈に振る舞う。

 いや、どう考えてもコレって・・

「“ジャスティス”さん・・ですよねぇ・・・。」

「何だ分かっていたのか。少々話しすぎたか。」

ですよねー。

 「ど、どうしてここが・・・?」

「それは簡単だ。この町で変なヤツを見かけたか、その情報を警察に調べてもらえばいい。日本の警察は優秀だからな。老人が山の中でイチャついている男女を見たと、そう言っていたらしいぞ。全く、吸血鬼には自制心がなくて困る。」

・・あんの老夫婦。

 と、

「さて、最後に言い残したい言葉はあるか? まぁわざわざ親切に言わせはしないが。」

その言葉を機に、急に“ジャスティス”の声が重くなった。緊張が僕を支配し、体が思うように動かなくなる。

「一人目」

静かにそう呟く声が聞こえた。

 と、首筋にヒンヤリとした金属のようなモノが触れる。動こうにも体を誰かに押さえられていてどうにも出来ない。

 この瞬間、一気に背筋が凍る。いまいち命を狙われているという実感に欠けていた僕は、今改めてその事実と向き合った。

 同情の余地無く、まるで感情のないロボットのような“ジャスティス”の声。その声は研ぎ澄まされた刃のようで、体の芯にまで届き、響く。硬く冷たい感触が刃物をイメージさせ、緊張で顔が強張るのが僕にも分かる。

「 完了。」首筋に当てられた・・そう、カマのような刃物に力が込められる。刃は肌を破り、鋭い痛みをダイレクトに僕に伝える。脳が高速回転しているのか、その光景はスロー再生したかのようにゆっくりだった。その所為で痛みはより増し、首を刎ねられて殺されるに至るまでのプロセスが鮮明に分かってしまう。実際には一秒にも満たないほんの僅かな出来事なのだろうが、僕の思考はそれに比して膨大な量にのぼる。

 痛い痛い痛い! コイツは僕を本当に斬る気だ!! どうする? 抗うか、抵抗せずに楽に死ぬか・・・怖い怖い怖いッ!!! 嘘だろ、オイ? 別に僕は自分だけは大丈夫なんて思わないようにしているけど、何で? 止めろよ死んじゃうだろお前が吸血鬼に何の恨みがあるかは知らないが、こちとら二日前に吸血鬼になった善良な一般市民だぜ? まだやり残したことだって僕には一杯あるんだ! まだ凜の唇を奪ってないんだぞ!!! 凜の心を動かすことさえ出来てないし、正式なデートだってまだだ!!! これからも少しずつだけど恩を返して行きたいし、凜の笑顔だって見たり無い・・まだ凜のおっぱい見てないし揉んでないし、最終ステージにだって進みたい!!!

 しかし僕のそんな思いは誰に聞かれることもなく、虚しく僕の首に入り込んだ刃に途切れさせられる。

「グッ、ア・・」

一センチは食い込んだだろうか、もう頸動脈には楽に達しているだろう。あと少しで血は湧き水のように吹き出し、僕はそのまま失血死する。・・いや、その前に首を斬られたらお終いか・・・。

 勢いに乗せて、敵の刃は更に進む。段々と痛みは和らぐ、これが感覚が麻痺したことのサインか。もう体に力が入らない。拳を握ることも、視線を動かすことも・・・。

 コレが死ぬことなのかな、寂しいなぁ・・殺人なんて、何て理不尽な死に方なんだろう。覚悟を決める猶予さえ与えられず、思い残したことを思い出す暇さえもらえず・・・残ったモノは自分の無惨な死体と遺族の悲しみ、運が良ければ犯人捜査の役にしか立たないダイイングメッセージだけ、か。

 「凜・・・」

不意に、僕を吸血鬼にした少女の姿が僕の脳裏に浮かぶ。気がつけば僕はその少女の名前を口ずさんでいた。

 もう会えないのか・・・寂しいけど、僕みたいに“ジャスティス”に殺されることなく、笑って生きて欲しいな。バイバイ・・・。

 とうとう敵の刃は首の真ん中にまで達し、そのまま失速することなく僕の首を全て切り裂いていった。

 僕の首が吹っ飛ぶ。その感覚は、もうあの世ですら体験することはないだろうという程に、実に奇妙であった。


**********


 大輝の首がまるで人形のパーツのように斬られ、『マーク・グラン』が大輝の心臓を取り出そうと屈んだ一瞬の隙、

「“血よ・我に仇なす愚かな者を・焼け”ッ!!!」

私は魔法を発動した。

 一瞬にして発生した炎は辺りを照らし、憎き吸血鬼退治の体を覆うようにして燃え上がっていく。

 「アァァァアアアア!!! 熱い、熱い熱い熱い!!! バカな、なんだコレは!? まさか他にも吸血鬼がいたというのか!? 私は二人とも加勢不可能なタイミングを図ってコイツを狙ったんだぞ!!!」

突然の身を襲う出来事に取り乱す『マーク・グラン』。その声は苦痛に満ちていて、吸血鬼退治に恨みを持つ私としては大変気分がいい。今度大輝にやってみようかしら?

 「それはアレよ。私たちがあなたをおびき寄せるためにわざと大輝を囮にしたんだから、すぐ助けに来られるようにするのは当たり前じゃない。」

私は霧の状態から実体に戻り、『マーク・グラン』の前に出る。

「吸血鬼退治なんていっても、基本は魔除けのお守りをつけた人間と大差ないわ。だから吸血鬼を幻術にかけて意識を不明瞭にさせるのでしょう? そうしないと勝つことが出来ないから。」

「・・・ッ!!」

「大がかりな幻覚魔法をかけて待ち構えていた今日の襲撃が失敗して、あなたは相当焦ったのでしょうね。だからあの時私たちに逃げられても追いかけてきた。それは何が何でも私たちを殺したかった、ということ。つまり、また今日中に襲ってくる危険性がある。そうでしょう?」

若干推理小説の探偵っぽい言い方になってしまったが、それにより相手が更に顔を苦渋に歪めたので良しとしよう。

 「さて、何か言い残すことはあるかしら? まぁどうせあったとしても無かったとしても、数秒後には喉を焼かれて声を出せなくなると思うけれど。どう、耳はまだ機能している?」

自分でも顔が笑みの形を作っているのが分かる。さぞ気持ち悪いくらいに嗜虐的な笑みだろう。

 私の両親は“ジャスティス”の集団に殺された。その殺したヤツの顔は覚えていないが、うっすらとヤツのコードネームだけは記憶に残っている。おそらく、アイツと今ここで燃えているコイツは別の人物なのだろう。けれど、今私はそいつの仲間かもしれないヤツを殺そうとしている、殺している。そう思うと私は溢れ出るこの興奮を抑えきれない。

 「ガッ、ア・・・」

焼け焦げる中で、何か言葉をコイツは発しようとする。その姿といったらこれ以上無い程に惨めで、私を楽しませてくれる。

「んー? 聞こえないわよー? ホラ、もうすぐ死んじゃうんだから、嫌っているであろう憎んでいるであろう吸血鬼にまんまと嵌められていたぶられた挙げ句殺されちゃうんだから、最後に『この恨み孫子の代まで呪ってやる』とか言ってみなさいよ、え? ホー・・・ラッ!!!」

私は大輝の首を切り落としたカマを拾い、そのカマの持ち主である『マーク・グラン』の焼け爛れた皮膚へ勢いよくカマを突き刺す。遠心力によって加速されたそのカマは、心地よい感覚と共に相手の背へと深く食い込んだ。

「アハ・・・」

脳内で処理仕切れなかった高揚が恍惚とした声になって表れる。段々と道を踏み外して行くかのような背徳感が、私の加虐心をドンドン煽っていく。

 「どう? 痛い? 痛いかしら? もっと苦しみなさい。その中で自分の及んだ罪について深く考えるといいわ。」

私はカマに力を込め、グリグリと『マーク・グラン』の傷口を抉る。しかし、コイツの体はもう半分が黒く焼け焦げていたので、木炭を磨り潰すような感触しか残らない。

 と、

「“~~・===・ー”・・・」

何やら細かく区切られた、呪文のようなものを唱える声が聞こえる。か細くブツブツと言っているので、内容は上手く聞き取れない。

 どうやら、音源は今私によって燃やされているこの死に損ないからのようだ。炎の燃焼音がノイズの役割を果たし、それにより今まで気づかなかったようだ。

 しかし、と私は不自然に思う。

 この男の上半身はもう完全に焼け朽ちている。呪文を唱えるどころか、もはや生きてさえいないレベルだ。

 「“~-~・==~・”・・・・・・」

私の不信感をよそに、呪文の詠唱はなおも続く。その姿は死してなお動き続けるゾンビのようで、得体の知れない不気味さを漂わせる。

 「ックハハハ。」

突如、そんな笑い声と共に目の前の物体が動いた。目の前の物体、つまり『マーク・グラン』の死体はボロボロに焼け焦げた体のままなのだが、何事も無かったかのように立ち上がった。

 「こんな単純な騙し討ちで、この私を殺せると思ったか?」

随分と上からの言葉に私は眉を寄せつつも、一応そいつから距離を取る。コレはどちらかというと、戦闘に備えてというよりかは、ただ単純に生理的嫌悪が先走っただけの行動だ。

 死体なのか、それとも生きているのか分からない状態で立ち上がったその体は、ドロドロとしたジェル状のようなモノに覆われていた。それが少しずつ体を這い、時に不快な音を立てている。

 「そう忌避するな。お前もどうせ殺されたら我が体の一部になる。」

・・・液体窒素で背筋を凍らせられたような気分だった。何を言っているのか理解したくもないが、その結果がどうあれ最悪な展開になることだけは容易に予想できる。

 そして数十秒の沈黙を経て、それは完成した。

 色、形。細部まで先ほど見た『マーク・グラン』となんら変わらない。私の魔法を受けて真っ先に燃え落ちたはずのマントのような服までもが、いつの間にか再生していた。

 「あなた・・・それは・・・・・・」

「ホゥ、この魔法が分かるのか? 下等生物にしては中々詳しいじゃないか。」

「下等生物とは・・・私のことかしら?」

「それ以外に誰がいる?」

どうやら心から私たち吸血鬼を見下しているようだ。生まれた時から神国日本、現人神・天皇と教えられてきた人たちがそれを当たり前のように認識しているのと、何だか似ている気がする。・・・実際その当時私が生きていたわけではないが。

 「といっても、まさかここで一度殺されるとはな。少々油断が過ぎたようだ。」

声からして、かなりの年だろう。相川さんと同じ、もしくはそれよりも上かもしれない。

「へぇ。ちなみに、正解は何故なのかしら? 昨日は何一つ襲ってこなかったけれど、一体どういう理由があったのかしら?」

「何、訪れた場所が私の故郷だっただけだ。ついでに私が初めて吸血鬼を殺した場所でもある。ふと懐かしくなって、周辺を回っていた。」

「・・・意外と人間くさいところもあるんじゃない。正直驚いたわ。」

コレには本当に驚いた。アイツらはただ殺しを快楽として楽しむバカか、ただ機械的に殺すロボットか、復讐として私たちを狙う鬼か、そんなイカレた集団とばかり思っていたのに・・・まぁ、嘘の可能性の方が高いのだが。

 「まぁいい。無駄話はさっさと終わりにして、死んでもらうぞ。」

と、ここでヤツは殺気を帯びる。目を閉じ、集中して何かの呪文を唱える『マーク・グラン』。

 吸血鬼相手にこの余裕は何? 

 一般的に吸血鬼の使う魔法と、人間の使う魔法は同等の原理。魔法を使う者の種族、または力量によって威力や発動スピードに差は生まれるけれど、吸血鬼と人間の場合はそれが顕著に現れる。まず人間の魔法が吸血鬼の魔法に勝つことはあり得ないとさえ言われている程に。

 そんな中で、この男は何を堂々と構えている?

 何か秘策が?

 そんな風に思いを巡らせつつも、私は風の魔法で相手を吹き飛ばそうと呪文を唱えた。

私は半ばヤケになりながらも腕を前に出して風を発生させる。

「!!?」

いや、正確には風は出なかった。まるで異能の力を奪われたかのように、自分がただの人間になってしまったかのように、何の変化も起きない。

 「!!!」

私はアイツが生き返る時、小さく呪文を唱えていたことを思い出した。大して重要視していなかったが、実は相手の魔法を無効化するような魔法の呪文だったのか。

 体を自動で再構築する魔法に、呪文の詠唱はいらない。つまり、あの呪文は体を再生させる魔法の呪文ではなく、それ以外の魔法の呪文だということだ。

 勝手に思い込んで招いてしまった危機に私は歯噛みする。

 しかし、何故最初からこの魔法を使わなかった?

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。早くこの状況の打開策を見つけなくては。

 このままだと、『マーク・グラン』の詠唱はもう終わる。随分長い間唱えていることから、おそらくまた予想外の鬼畜系魔法なのだろう。

 対して、私は魔法が使えなければただの人間。どうすることも出来ないのは事実。

 ・・・ん?

 ここは魔法によって、魔法が使えなくなっている空間だ。現に私は風を発生させる魔法が働かず、ピンチに陥っている。

 ならば、何故この男は呪文を唱えているのだ?

 それに、ヤツはそんな魔法を使ったなどと一言も言っていない。

 「!!!」

そんな疑問が脳髄を駆け巡り、私の思考は活性化した。何気なくふと思った、訝しんだ相手の行動に、まるで難問を解く鍵が見つかったかのような刺激、高揚を私は覚えた。いつの間にか追い詰められていた相手を前に、この秘密の正体こそが私たちが生き残るための攻略の鍵になると、私は確信していた。

 「“血よ・我に仇なす愚かな者を・焼け”ッ!!!」

私は、先ほどヤツを焼き殺した攻撃魔法を再び発動させる。言葉のイメージにより具現化

された炎は、対象を覆うように包み込み「!!? キャア!!!」

包み込み、炎は猛々しく私を襲った。

 熱い、熱い熱い熱い。全身が焼けるように熱い。実際に全身は焼けているのだが、そんなことを指摘する間もないくらいに熱い。

 「“戻れ”ッ! ・・・? “戻れ”!!」

私は魔法を解除しようと、解除の呪文を唱える。しかし逆に炎は燃え盛るばかりで、一向に消えようとしない。

 「“血よ・水と成りて・我が身に降れ”ッ!」

私は即興で新たな呪文を作り、唱える。炎を消すのではなく、消火するのだ。私のイメージは、発生させた水によってどうにか炎を消す、といったところ。

 しかし、いつまで経っても水は出てこない。ただ虚しく呪文の詠唱が響いただけだった。さっきは方向違いであれ、魔法は発動したというのに・・・ッ!!

 「“血よ・水と成りて・我が身に降れ”ッ!!」

若干ヤケ気味になりながらも、もう一度私は呪文を叫ぶ。しかし、またも力は応えてくれなかった。

 「“血よ・水と成りて・我が身に降れ”ッ!!!」

三度目の正直とばかりに、酸素が薄くなる炎の中で私は叫んだ。しかし・・・

 もう限界、とばかりに私は膝を折る。

 結局私は両親の復讐すらも満足に果たせず殺されるのか。大輝には迷惑かけちゃったな。

・・・そんなような思いが浮かぶ。私はこのまま死ぬのか。

 と、突如そんな私の思いを文字通り水に流すかのように、圧倒的質量の水が相川さんの廊下に流れ込んできた。いや、正確に表現しようとするならば、襲ってきたと言うべきだろうか?

 水はそのまま私たちを飲み込む。あまりの水の勢いに、思わず私は肺の空気をほぼ吐き出してしまった。

 息が出来ない。確かに炎は消えたが、また別の危機が私を襲った。取り乱した私は、腕をバタバタと振り回して更に酸素の消費を早めてしまう。

 ・・・まったく、自分で蒔いた炎の種をどうにかしようとして、また別の困難を呼ぶとは、迷惑な吸血鬼だ。

 水はその大きな勢いで外へと流れ出る。水位は下がり、精々水たまり程度の深さにまで浅くなった。

 「大輝、服借りるわよ。」

私は一応断りを入れて大輝の服を剥ぎ、焼けてもう跡形も残っていなかったワンピースの代わりに着る。

 どうやら辺りを見回しても『マーク・グラン』の姿はない。隠れているのかもしれないが、取りあえず私はこちらの態勢を立て直すことにした。

 まずは、大輝の首をくっつける。

 重い頭を胴体の方まで持っていき、向きを合わせて装着する。

 「ホラ、大輝。起きなさい。」

すると、大輝は超絶バネ仕掛けのように飛び上がり、挙動不審に周りを見る。その後ゆっくりと自分の首を大事そうになで回し、ホゥ、と息を吐いた。

「・・・生きてる。」

「コレぐらいで死なれたら一介の吸血鬼の主として名折れだわ。」

「いやでも、何で・・・?」

「吸血鬼は不死なのだから、首を切り落とされても死なないの。実際にあなたの首を斬った張本人も、それくらいは当たり前のように知っているわ。」

「んな・・・」

吸血鬼の生命力、あるいは不死性に驚愕しているのか、大輝は口を開いたまま閉じようとしない。

「ちなみに、あの男はあなたの心臓を取り出して燃やすつもりだったのよ? 灰になるまで焼いて燃やして・・・それでやっと吸血鬼を殺すことが出来るらしいわ。」

うっすらと火のついた加虐心が、大輝を軽く脅す。大輝は、

「・・・吸血鬼って、何だか格好いいな。」

といった少しおかしな反応だったが、吸血鬼の偉大さを少しでも分かってくれたのならば文句は言わない。

 「さて、話しておきたいのだけれど・・・私たち、今絶体絶命のピンチなの。」

「ハイ?」

「これまた“ジャスティス”の一人が面倒な魔法を使ってね。不死身なうえに魔法が使えないの。」

私はコレを機に、何があってこういう経緯に至ったのかについて大輝に説明することにした。大輝を囮にするため、記憶を改竄して相川さんの家に泊まらせたこと、『マーク・グラン』が大輝の首を斬ったことによって生まれた隙を私が突き損ねたこと、見たこともない魔法で私の魔法が上手く使えなくなったこと。最後に、魔法で服が燃えてしまったため、断りを入れて大輝の服を剥いだこと、などをだ。

「・・・むしろ僕の服を着てくれることについては、こっちから感謝したいところだけど。・・火傷、してないの?」

「・・・えぇ。」

大輝の感想はそんな感じである。この男は何故こうもパンツ一丁で嬉しそうにしているのだろう?

 「で、そのマークさんは? それと相川さんは自分の家がこんなになっても未だにやって来ないけど、まだ酔い潰れているのかな?」

いちいち名前に二重括弧をつけるのが面倒くさいという理由で、今し方自分の首を刎ねた相手を軽々しく『さん』付けする大輝。頭と首の神経経路を繋ぎ忘れたのだろうか?

 「ねぇ、それよりも・・・一ついい?」

私は相川さん捜索に出発しようとする大輝を抑える。

「何だか、おかしいと思わない?」

「いや。充分似合ってると思うけど、その服。」

「・・・そうじゃなくて、」

それも気にはしていたし、ちょっと嬉しいけどそうじゃなくて、

「相川さんの家、少しも壊れていないのよ? それどころか、もう床は乾いているわ。」

私は床を指して言う。さっきまでの小規模な洪水の痕跡が嘘のように消え、水の勢いによって外れたはずの障子はいつの間にか元通りに戻っている。

 大輝は数秒間硬直したまま黙り、ようやく意味を理解したのか体を大きく痙攣させた。

「じゃ、じゃあ・・・どういうこと?」

震える唇を動かして尋ねる大輝。

「分からないわよ、私だって。ただ、一つ考えられることがあるの。」

私はそう言い、何とも奇妙で奇怪な仮説を大輝に披露した。大輝には何と言われ、笑われてしまうだろうか。およそ想像もつかないが、せめて今回だけは真剣に聞いて欲しい。


 「私は、ここは夢の世界なんじゃないかと思うのだけれど、どう?」


**********


 要約するとこんな感じだ。

 僕たちはあの家具店で、店に幻覚がかけられているのだと思い込み急遽霧になって逃亡した。

 それで見事幻覚からは逃れられ、相手の追尾も捲いた。僕たちはそう思っていた。

 が、幻覚は店の中にかけられていたのではなく、この町にかけられていたという。

 マークさんは一昨日この町に吸血鬼を見つけ、襲った。が、凜に逃げられてしまったので作戦を変え、この町全体に幻覚魔法をかける準備をしていたというのだ。

 そして僕たちが家具店に着く頃にそれが発動し、今に至るわけである。

 今、この町の全住民は同じ世界に迷い込んだも同然。

 つまり、ここは一種の別世界、パラレルワールドとも呼ぶべき空間なのだ。

 今も僕たちはその幻覚の中で彷徨っているらしい。

 で、何故ここが夢の世界だと凜が推測したかというと、コレは単純に引き算の問題だという。

 元々、人間は鍛練を積んでもほんの少ししか魔法を使えない。“ジャスティス”の集団でも使える人はごく僅かで、大抵は身体能力の高さでそれを補っているというのだ。

 何人かを相手に幻覚を見せるのならともかく、この町全住民に幻覚を見せるのだ。到底人間一人では不可能なことである。

 ただし、意識のない相手になら話は別だという。

 つまり、夜中。全住民が眠っている時間帯を見計らい、そこで魔法を発動させれば、対象を夢の中に閉じ込めて、そこで同じ幻覚を見せることが可能だそうだ。

 しかも僕たちはこの夢の世界を現実だと認識し、このままだと夢から覚めることは出来ないという。そうなると、この町の全住民がずっと寝たきりになってしまうのだ。

 そしてやはり夢の中なので、多少はバグが生まれる。濡れた床がもう乾いてしまったように、障子が元の位置に戻っていたり、などだ。他にも凜の魔法が上手く発動しなかったことや、凜が火傷を負わなかったこともバグに含まれるかもしれない。

 「いえ、それは殺し合いを有利にするための相手の策ね。おそらく不死身の魔法も同じ理由だと思うわ。」

と、凜は否定したが。

 とにかく、僕たちは僕たちでこの幻覚をブチ壊すことになった。


 「・・・仮にその話を信じるとして、どうこの世界を攻略するおつもりで?」

僕は凜に尋ねる。

 凜は顎に手をやりながら、言葉を選ぶようにゆっくりと語る。

「『マーク・グラン』を殺そうにも、ヤツはこの世界では神のような存在なの。ヤツがこの世界を創造して、この世界の決まりを作って、この世界を維持させているのだから。第一、もしヤツを殺したことが出来たとしてもこの世界が壊れるとは限らない。もしかしたらプログラムのようなモノだけが残って永続してしまうか、暴走してしまうかもしれないわ。」

そう言って改めてウンザリしたのか、凜は難しい顔を作る。

 「そういえば、マークさんは現実で動くことが出来るのかな? それとも意識ごとこの世界にいるのかな?」

「・・さぁ。この考えはあくまで不可解な複数の事実を繋げて考えるために作り上げたモノだから。そこまではまだ分からないといった感じね。・・・あと『マークさん』って言うな。」

唸り、沈黙する僕たち。窮地を脱するコレといったアイデアは、そう簡単には浮かんでこない。

 「とりあえず、まずは相川さんと合流しましょう。対策を練るのはその後。」

ここで立ち止まっては時間の無駄だ、と凜が居間の方へ向かう。ちなみに、あえて言わないが、というか言っても怒られるだけだから言わないが、一歩一歩前に進む度、胸の揺れが半端ない。きっと服と一緒に下着も燃えてしまった所為だろう。決して大きいとはいえないが、それなりの膨らみがリズミカルに踊る。個人的に嬉しい誤算だ。

「・・・『個人的に嬉しい誤算だ』、とか思ってないでしょうね?」

「だから何で分かるの・・・?」

 ともかく、僕たちは相川さんを捜す。居間、台所、縁側、トイレ・・・と家の中を順番に回っていく。

「いないわね・・」

「まさかの『相川さん幽霊説』、だと・・・」

結局、相川さんは見つからなかった。自然に僕たちは、マークさんに連れ去られた、マークさんに殺された、などとイヤな想像をしてしまう。

 「仕方ない。相川さん抜きになるけれど、二人で何とかするしかないわね。」

僕たちは主人のいない家の居間に腰掛け、一旦どこかに身を隠すべきかどうか検討する。結論は、『どこへ身を隠そうともマークさんの手の上で踊るだけ』だということで、相川さんのこの家を本拠地とすることになった。

 「さて、まずは外部と連絡できるか試してみましょう。大輝、適当にどこか電話をかけて頂戴。」

可能性を一つずつ潰していく作戦だろうか、凛はそう言って電話機を指さした。・・・そういえば凜は電話を使ったことがなかったんだっけ?

 僕は凜の指示に従い、電話機へと向かう。勿論というか、当然というか、ボタンではなくダイアルが埋め込まれていた。ダイアル式の電話は初めてだが、何度かいじるうちにコツを掴むだろう。

 と、いきなりそのダイアル式の電話が音を上げた。何十年か前を舞台としたドラマや映画などでよく聞く、ジリジリといったような耳に障る音だ。

「・・出ていいのかな?」

「えぇ。もしも誰か聞かれたら相川さんの親戚と答えなさい。」

 凜の言葉に従い、僕はヤケに大きい受話器を取る。

「ハイ、もしもし。」

よく考えれば、こんな真夜中に電話をかけてくるなんて何て失礼なんだろう。もしかしたら嫌がらせの電話だろうか? 無言電話?

 そんな僕の想像とは裏腹に、電話の主はやたら軽快で爽やかな声だった。声からして十代、もしくは二十代だろう。

 そして、ハハッ、と笑いながら、その電話の主、相川さんは言った。


「この幻覚魔法の解き方が分かった。今すぐに町役場まで来てくれ。」


**********


 この町は、まるで京都や奈良の都のように碁盤状の形をしている。細かくすると、北東部、北西部、南東部、南西部の四つに分類され、それを丸く山が囲んでいるといった感じの、いわゆる盆地だ。

 そして、その四つの地域の真ん中、中心部に、この町の役場、つまり町役場がある。

 この町の唯一の駅は、その南約三百メートルにあり、相川さんの家はその駅の近くの、南西部に位置している。

 僕たちは訝しりながらも、町役場までの僅か五百メートル程の道を歩き、今、その目的地の前まで来ていた。

 「こっちだ、君たち。」

と、相川さんの呼びかける声が聞こえた。どこから声が発せられたか分からずに、僕たちが辺りを見回していると、

「ハハハッ、屋上だ、屋上。」

と爽やかに笑う声が居場所を教えてくれた。

「悪いが、ここまで上がってきてくれないか。大丈夫、鍵は壊してある。」

僕たちはその指示に従い、町役場の屋上へと上がった。

 「すまない。君たちなら殺されることはないだろうと踏んで、色々と君たちの戦闘から敵の情報を調べていた。」

「えぇ。まぁ何か視線を感じてはいたし。で、何か分かったのかしら?」

挨拶も無しに、話を始める二人。よほど状況が切迫しているということか。っていうかだったら助けて欲しかった。

 「あぁ。君たちも、ここが何らかの幻覚魔法によって作られた世界だということは、もう推測がついていると思う。しかし、自分たちの力でそれを解除することは出来ない。そうだろう?」

「えぇ。その解き方を早く教えて頂戴。でないと、おそらくヤツが邪魔しに来るわ。」

「分かっている。その前に、白川君。魔法は使えるかい?」

「? いえ、使えませんけど。」

「そうか。では、君にはエネルギー供給源になってもらおう。」

「・・・ハイ?」

エネルギー? 原油とかか? それとも、血?

 「まず、このような幻覚魔法は対象の周りをドーム状に囲むんだ。その攻略法は、かけられた幻覚の空間の中で大量の魔力を放出することで壊れる。風船に大量の空気を吹き込むと破裂するのと同じ原理だと思ってくれて構わない。黒木さん辺りなら知っているだろう?」

相川さんはそう言って説明を始めた。

「いえ、そんな方法初めて聞いたわ。一体“コミュニティ”にも属していないあなたが何故知っているの?」

凜は相川さんを怪しむようにほんの少し目を細めた。

 コレは多分、相川さんの主だという彼女から教わったのだろう。彼女の両親は純血と後天性との違いとやらについて色々と調べていたらしいし、そういった魔法などにも精通していておかしくない。

 「何だ、知らなかったのか。残念だけど、企業秘密ってことで勘弁してくれ。事が終わったら“コミュニティ”にそれを伝えるといい。」

相川さんは軽く笑みを作ってそう言い、話を続ける。

 「しかし、おそらくこの幻覚魔法は町全体にかけられている。これだけの規模に向かって無闇に魔力を放出するのは自滅行為に等しいだろう。だから私は、この魔法を破るのに効果的な場所を探した。それがここだ。」

腕を大きく広げ、得意げに笑う相川さん。

「ここはこの町の中心部に位置している。ここを中心として爆発させるように魔力を放てば、きっとこの幻覚魔法は崩れる。」

 「ちょっと待って、相川さん。」

と、ここで凜が相川さんの説明を遮る。

「一点集中の方が崩しやすいと私は思うのだけれど・・・。それに、この町全体に魔力を放つなんて無理だわ。仮にもし放つことが出来たとしても、周りの人間が、いえ、この町の全住民が死んでしまうことになる。」

凜のもっともな意見に、相川さんはまるでその答えをあらかじめ用意していたかのように即返答をした。

 「風船だと思ってくれて構わないと言ったが、幻覚魔法はそんな簡単には壊れないさ。それぐらいの穴なら一瞬で復元してしまう。だから広範囲攻撃を行うしかないんだ。住民のことなら心配しなくて大丈夫。『広範囲攻撃』とは言ったものの、『全方位攻撃』じゃあない。ここは学校を除いて一番高い建物だ。前後左右、それに上。下以外に向けて放てば、ドームの七割から九割は必ず壊れる。そうなれば私たちの勝ちだ。・・・さて、肝心の魔力だが、」

相川さんはここで一旦言葉を切る。

「白川君の血を全部黒木さんにあげるんだ。」

「「え?」」

僕と凛の声が重なる。

「血だけじゃない。白川君の体液から何まで、白川君が干からびるまで。」

「いやいやいやいやいや、それだと僕死んじゃうじゃないですか。大体体液まで吸う意味はあるんですか?」

「そうよ、そんな話聞いたことないわ。何? それともまた、企業秘密の情報かしら?」

僕たちがそろって微妙な反応を返すと、相川さんは『初々しいねぇ』と言って、意地の悪い笑みを浮かべた。

 「大丈夫。吸血鬼なんだから、少ししたらすぐ戻るさ。・・・ある日、私の主が人間の血の代わりに私の血を吸ってね。つい吸いすぎて、さっき私の言ったことと同じようなことが起こったんだよ。そうしたら彼女、魔力を生成してさえいないのに、大量に魔力が発生してしまったんだ。一度魔力が出来てしまったらもう戻すことは出来ないから、仕方なく山に向かってそれを放った。その力は本当にすごくてね、一帯の地形を変えてしまった程だ。」

「まさか、それって・・・」

「あぁ。彼女は山の麓を、何も無い盆地のように変えた。つまり、この町の元を作ってしまったんだ。」

「!!!」

・・想像はしていたが、いざ聞いてみるとすごい話だ。それを聞いて、僕は何だか自信が湧いた。

 「別に信じなくてもいいが、私にはコレしか策が無い。他に何かあるんだったら潔く退くが、どうする?」

相川さんはそう言って僕たちの回答を待つ。しばしの間、呼吸音さえ聞こえない沈黙が屋上を支配する。

 「やるわ。」

と、凜が静かに沈黙を破った。

「それしか無いと言うのならば、私はそれを信じるわ。どうせ一高校生の持つ情報なんて、微々たるモノだしね。」

覚悟を決めたような、えらく堂々とした声だった。微塵も迷いは感じられない。

 相川さんは『ありがとう』とお礼を言い、早速役割分担を始めた。

「もうおおよそは分かっていると思うが、黒木さんは魔力放出係、白川君はその補佐といった感じかな?」

「? アレ、相川さんは何をするんですか? まさか自分は見てるだけとか・・・!」

「まさか。私は最年長だよ? こういう時に経験を活かさないと。私の役目は、」

 そう言って、相川さんは見た目相応の好戦的な笑みを浮かべ、指を鳴らす。


「護衛、だ。君たちがこの幻覚を壊すまで、“ジャスティス”のヤツを食い止める。」


**********


 「・・・アレ、あんまり痛くない?」

「傷口に牙を刺しているから、その分、さっきのように肉を食い破らなくていいのかもね。いいから大人しく吸われていなさい。」

凛はそう言って、再度僕の首に牙を突き立てる。二人とも今日同じようなことを経験したため、そこまで興奮したりはしない。

 「白川君、今は痛くなくても安心するなよ? そのうちに段々と貧血気味になって、脱水症状を催して、最後には体中の水分が抜けて干からびるから。本当、死んだ方がマシなくらいに。」

一応、マナーとして後ろを向いている相川さんが声をかける。

「体がしわっしわになってね。見事幻覚を解くことが出来たら、水をたくさん飲むといい。吸血鬼ならそれでも充分に復活できるはずだ。」

・・・当事者だという相川さんのアドバイスは大変参考にはなるのだが、逆に感覚の説明が細部に渡りすぎていて、正直聞きたくなかったというのが本音だ。

 「・・・それにしても来ないな。私の仮説や作戦は恐るるに足らず、ってことか? それとも、まだバグの修正が終わっていないのか?」

相川さんの口調が少し不安を帯びた気がする。

 「何だか不気味だ・・。黒木さん、急いで。」

 凜の吸血スピードが若干速まる。僕の意識が段々と薄れていく。

 僕はその中で、さっきの相川さんの言葉を思い出していた。

 『何、心配することはない。君たちの吸血、それに魔力の放出が終わるまでの数分間だ。おそらく“ジャスティス”のヤツは、大きくなったバグを修正するために、一旦私の家から去ったんだ。黒木さんのような魔法の誤発動はもう起きない。』

 最年長の役目、と相川さんは僕たちを遮ってそう言った。僕にとってそれはとても分かりやすい死亡フラグにしか見えず、とても相川さんにその役目を任せるわけにはいかないと、僕は反対しようとした。が、軽く、そして優しく笑っての相川さんのその言葉には、相川さんの強い覚悟が表れており、僕たちは二の句を継ぐことが出来なかった。

 ・・・確かに筋は通っているようにも見える。僕と凜はここで、この幻覚を解くことだけに集中するべきなのかもしれない。それが最も適切で、適当で、最善で、最良なのかもしれない。

 でも、やっぱり僕は相川さん一人に任すことは出来ない。僕にだって、何か出来ることはあるはずなんだ。ここで動かなかったら一生後悔するかもしれない。

 そう思い、僕は相川さんに胸の内を伝えようとする。

 しかし、僕はもう凜によって体の水分のほとんどを抜かれていた。

 薄れていた意識は朦朧とし始め、ついにはその意識さえ失い、僕は深い眠りのようなモノへと落ちていった。

 もしかしたら僕は、凜や相川さんの奮闘を見もせず、力にさえなれずに、このまま二人におんぶにだっこの形でこの幻覚から出てしまうのかもしれない。

 いや、もう既にここは現実で、実際に二人の力によって“ジャスティス”の魔の手から脱出出来た後なのか?


   **********


 ハッ、と僕は目を覚ました。

 冷水を頭からかぶったような、瞬間的な意識の覚醒だった。

 僕は辺りを見渡す。ここはもう幻覚魔法を破った、現実世界なのだろうか?

 そして、僕は体を確認する。干からびているのかと心配になったからなのだが、幸いにしてその心配は杞憂に終わったようだ。

 どうやら、ここは僕の家で間違いない。僕は自分の部屋のベッドに横たわっていたのだ。

 僕はベッド脇にあるデジタル時計を確認する。

 昨日の、午前三時。

 凜は、昨日、この町の住民が全員寝静まった頃にマークさんが魔法を発動した、と踏んでいた。おそらく、その時から時間が経過していないのだろう。

 窓から外を見ると、みんなも僕と同じように、現実世界に引き戻されて目を覚ましたのだろう、どこの家も電気がついている。これで誰かが日付を確認したらどれだけのパニックが起こるのやら、身震いしてしまう。

 と、その中で電気のついていない家がある。アレは確か凛の家だ。まさか、“ジャスティス”に襲われて・・・

 そんなことを想像してしまい、僕は一気に焦りや不安といった感情に支配される。家を飛び出し、急いで凛の家へ向かおうとする。

 と、

「キャッ!」

玄関の外に出たところで、不意に誰かとぶつかってしまった。相手は女性だったらしく、可愛らしい悲鳴が聞こえた。

 「あ、すいません。大丈夫ですか? って、凜?」

僕は尻餅をついてしまったらしいその女性に手を差し伸べる。女性もそれに応じて手を握り返してきたのだが、その手の感触は僕の知っている人だった。制服姿である。

「あ、よかった。あなたを、尋ねようと、思っていたの。」

凜は僕を視認すると、肩で息をしながらそう言った。どうやらここまで走ってきたらしい。

 「・・・いやまぁ、ここは白川家の敷地だからね。で、アレは成功したのか!?」

僕は焦るように聞いた。あの時、凜に体中の水分という水分を吸われた僕は意識を失っていたので、何が起こったのか把握していない。

「えぇ、相川さんが踏ん張ってくれたおかげで何とかね。あなたも元気そうで何よりだわ。ありがとう、大輝。」

凜ははにかんで言う。

「・・別に僕は大して役に立ってないけどね。」

「そんなことないわ。あなたがいてくれたから、何とか幻覚魔法を解くことが出来たんですもの。あなたに言った初めてのお礼なんだから、少しは喜びなさい?」

 ・・・あぁ、いい雰囲気。コレが困難を共にした二人の距離が近づくというヤツか。

 いや、それって翌日学校で会うと、ヒロインはいつも通り冷ややかな態度に戻ってしまうとかそういう展開なんじゃないか? あ、明日は休日になるからいいのか?

 と、

「・・・いい感じにイチャイチャ青春しているところ悪いんだが、いいかい?」

門に寄りかかるようにして、相川さんが苦笑い気味に言った。

「別に相川さんの想像していたようなことは何一つしていないわ。一体いつからここにいたの?」

一瞬で声を元の平坦な声に戻し、無表情に言葉を返す凜。といっても顔の色までは意思の力で制御できないようで、暗くとも目をこらすと、凜の頬がうっすらと朱に染まっているのが分かる。

「『あなたがいてくれたから~』の辺りかな? 今思えば、黒木さんも随分イマドキのしゃべり方から遠いよね。白川君に嫌われちゃうよ?」

凜の頬がうっすらとした朱から、はっきりとした赤に変わった。拳がプルプルと震えている。相川さんは意地の悪い笑みを浮かべ、まるで凜をからかっているかのようだ。・・・実際からかっているのだろうけど。

 と、

「さて、ヤツは見つけたかい? それともこのまま逃げちゃったかな?」

本題に入ったようで、相川さんの顔から笑みが消えた。

「・・・どうかしらね。私は別に読心術に長けているわけでもないし、あんなイカレた連中の考えることなんて分からないわ。」

凜も目を細め、シリアスな空気を出す。

 「あぁ。白川君は意識を失っていたから分からないと思うけど、おそらく“ジャスティス”のヤツは生きている。まだ自分の魔法の一つを破られたというだけで、ヤツは普通に戦おうと思えば戦えるはずなんだ。」

相川さんは、首をひねっている僕に気づいたのか、説明してくれる。

「けれど、ヤツもこんな大がかりな魔法を使った後だし、諦めてこの町を去るかもしれないだろう? でもそんな確証はない。というわけで、まだこの町にいるのなら私たちの手で始末してしまおう、といった感じに至ったわけだ。当初の目的もそんな内容だったしね。だから今、私たちは『マーク・グラン』を捜している。」

手伝ってくれるよね、黒木さんの奴隷なら。と、相川さんは締めくくった。

 ・・・成程。確かに幻覚魔法を解こうと、マークさんが変わらず僕たちの命を狙えば争いは止まらない。“相手を完全に仕留めてから油断すべし”、みたいなモノか?

 まぁしかしどんな危険な展開になろうと、ここで僕は拒否なんかをするわけがなかった。

 同じ吸血鬼でありながら、僕はさっき、何の役にも立てなかった。凜はそんな僕にでもお礼を言ってくれたが、結局それが慰めの言葉であることには変わりない。

 僕だって吸血鬼なら、世界中の恐怖、畏怖の対象である化け物なら、たった一人の人間くらい、恐れずに戦い倒してみせる。相川さんの家や町役場の屋上の時のように、囮やエネルギー供給源ではなく、一人の戦闘員として堂々と撃退してみせる。

 そんな思いが僕の口を開けさせ、相川さんに返事をする。

「僕は凜の奴隷です。凜に害を及ぼすヤツなら、誰であろうと容赦はしません。」

それを聞いて、凜は何が恥ずかしかったのか頬を赤くして俯き、相川さんは驚いたように軽く口笛を吹く。

「・・・バカ。」

「え? ・・・まさか、何か間違ってた?」

「違うわよ、バカ。」

 ・・・一体何この反応? 僕に惚れちゃったの?

 そんな僕たちを見て、相川さんは楽しげに言った。

「青春だねぇ。」

と。

 その直後、相川さんの胸にナイフのようなモノが突き刺さった。背中から刺されたようだが、その先端は体を貫き胸に突き出ている。

 ドラマのように、相川さんの服が赤い染みに覆われていった。

 「んなっ・・・!!!」

相川さんの驚いたような声が虚しく響いた。

 見ると、マントを着た黒ずくめ男が、相川さんの背に隠れるように立ち、ガッチリと血に染まったナイフを握っていた。

 その男は口角をつり上げ、一瞬の出来事に動けないでいる僕たちを余所に、えらく聞き覚えのある透き通った声で、静かに呟いた。


「一人目完了。」


**********


 相川さんが刺された。

 相川さんが刺された。

 相川さんが刺された。

 どこか心の中で安心しきっていた、まさかそんなことが現実で起こるわけがないと勝手に思い込んでいた。

 でも今実際に目の前で起きていることは、疑いようのない事実だ。

 楽天家な僕ならすぐに思っただろう、逃げようとしただろう。

 吸血鬼は不死身なのだ。こんなことで死ぬわけないし、きっとまた相川さんは笑って僕や凜をからかいに来るはずだ。

 しかしそんな僕の逃げを、あのナイフは許さなかった。

 ここからでも分かる。見るだけで分かる。誰にだって分かる。

 あのナイフは金属だ。まぎれもない、合金か何かで出来た金属なのである。

 心臓に金属の杭を打ち込まれると、吸血鬼は死ぬ。

 それが伝説だ。

 人間であろうと吸血鬼であろうと、心臓一刺しで死ぬ。

 慈悲もなく、物理現象に従って。

 誰も逆らうことは出来ないのだ、誰であったって。たとえ全幅の信頼を置ける頼れるお兄さん、相川勝であったって、それは変わらない。

 相川さんは死ぬ。


**********


 「てんめぇぇえええええ!!!」

僕は叫んだ。汚い言葉を発し、そのまま駆ける。

 マークさん、いや、『マーク・グラン』は好機と捉えたのか、そのままナイフを相川さんから引っこ抜き、僕に向けて構える。

 幻覚の中で僕の首をいとも簡単に刎ねたことで僕のことを甘く見ているのか、それとも平常心を失っている僕になら勝機があると踏んだのか、それは分からない。思えばそもそも僕は何でアイツに向かってあのような呼び方をしていたんだ? それも僕たちが本当に殺されるわけがない、という僕の心の緩みが原因なのかもしれない。

 「“血よ・焼け”ッ!!」

僕と相川さん、それとヤツの距離が近づく中で、凜とした声が響く。

 おそらく省略したと思われるその呪文は、そのまま僕と『マーク・グラン』の間に大きな炎として発生した。轟々と音を立て、僕とヤツの視界を遮る。

「“轟け・雷鳴”ッ!!!」

続いて、耳の機能を一時停止させるような、馬鹿げた程の音量が鳴る。

 しかし、僕は勢いを落とさずに突き進んだ。炎の中を走り抜け、門をブチ破り、今はただ憎くて堪らなくなったヤツへ打つための拳を作る。

 吸血鬼の特徴、見た目からは想像できないほどの怪力。

 『マーク・グラン』は、炎による目眩ましと、雷による一時的な聴覚障害と平衡感覚の欠損で動けなくなっていた。咄嗟の出来事に対しての凜の見事なアシストには、感嘆せざるをえない。

 後は、この吸血鬼退治に一発ブチ込むだけで、全ては終わる。

 相川さんの敵討ち、つまり復讐の完了だ。

 「 死ねぇ!!!!!」全体重を乗せた僕の拳は、耳を塞ぎナイフを振り回す、ヤツを目掛けて放たれた。自分でも驚くほどに加速されたその一発は、人体の破壊する音と共に大きな音を立て、程良い心地を僕に与えた。

 今、自分の目の前にはさっきまで生きて動いていた、元同種族の残骸が広がっている。 トマトでも食べたのか、その色は赤い。

 「・・・ハハッ!」

思わず、そんな笑いが漏れていた。

 その笑い声はとても、相川さんに似ている気がした。


**********


 アッサリ。

 アッサリとした、結末だった。

 吸血鬼たちを誘い込み、過去何人かの被害を出して危険視されていたあの吸血鬼退治、“ジャスティス”の一人にしては。

 何の物語性もない。ただ味方が殺されて、それで感動の別れを演出、怒りに震えた主人公は覚醒し、新たな力に目覚める。・・・何て近頃のような王道的展開さえ起きずに、ただただ僕が吸血鬼の圧倒的なまでの力を使って敵を倒しただけだ。

 誰も救われない。

 僕だって咄嗟に湧き起こった衝動にただ従っただけであって、今は虚無感しか残っていないのだ。胸のすくような思いは生まれないし、晴れやかな気分にだってならない。

 案外、人を殺すのならわざわざ大がかりな魔法など使わずに、自分の体、拳で自ら殺す、といったやり方の方が的確で簡単なのかもしれない。

 そう静かに思っただけだ。

 何だかさっきまでの自分とは決定的に道を違えた気分になる。

 凜のことを綺麗だと思い、何故か無性に助けたいと興奮を覚え、見たことのない凜の一面に触れて心を暖かくし、凜の一挙手一投足に心を乱し、霧になって空を飛んだことに感動を覚え、凜の正体に驚き、新しい仲間に心躍らせ、相川さんの夕食に舌鼓を打ち、凜との距離間に悩み、同じ境遇の相川さんと本音で語り共感し、死ぬという実感に心の底から恐怖し、幻覚魔法を解くのにあまり役立てず悔しさ、相川さんが死ぬという事実に怒った僕の感情は、今はもう何処に行ってしまったのだ?

 これが“人は変わる。変わることが出来る。”みたいなヤツなのだろうか。

 だとしたら・・・コレは少し残酷すぎやしないか?


 「し、らかわくん・・・」

ふと、何だか自分の中身をゴッソリと持って行かれた抜け殻ような僕に、声がかかる。

「・・こういう時、言い残す言葉は何がいい? ・・・人生について、語ろうか?」

相川さんは辛そうな顔に精一杯の笑みを浮かべて、言った。

思わず、僕もつられて自然と口角が上がってしまった。

「・・何ですか、ソレ? こういう時は自然と言葉とか出たりしないんですか?」

「ハハッ・・・話したいことがたくさんありすぎて・・・もう何を話すべきかさっぱり分からないんだ・・。」

相川さんは空を見上げ、感慨深げに言う。もはや僕と凜、二人とも取り乱したりして駆け寄ったりはしなかった。今更慌てたって、もうどうしようもないと分かっているのだ。

 横たわる相川さんの元へ腰掛け、僕はゆっくりと相川さんの手を握った。少しの間をおいて、凜がゆっくりとこちらに向かい、反対側の手を取る。

「ハハハ・・カッコ悪いなぁ・・・最年長の務めとかアレだけ堂々と言っておいて・・・・・・結局は足を引っ張って・・君たちに助けられてしまった・・・。」

「そんなことは無いわ、相川さん。」

凜が口を開く。

「あなただって、もう分かっているはずじゃない? 誰のおかげで解決策を実行、成功させることが出来たと思っているの。そもそも解決の糸口は、あなたが見つけてくれたんじゃない。・・・それよりも、私たちはあなたを助けられなかった。こんな近い距離にいたというのに・・・・・・アイツが憎くて堪らないわ。」

凜は唇を噛んだ。その瞳は、僅かながらも潤んでいる。近しい人を目の前で奪われた悔しさ、純粋に仲間が一人亡くなるという悲しみが、そうさせているのだろう。

 「いやぁ・・充分に救われたさ。」

しかし相川さんはそうは思っていないようで、否定する。

「白川君には話したと思うけど・・・私は後天性なんだ。私にも、ちゃんとした・・主人がいた。」

相川さんの呼吸が段々と荒くなっていく。

「・・・殺されたんだ。当時は、まだ“ジャスティス”なんて名前はついていなかった気がするが・・・ね。・・私をかばったんだ・・・・・・。」

「えっ・・?」

それは初耳だ。死んだ? 殺された? 吸血鬼退治の奴らに?

「そんなに驚くなって・・・主が生きているのなら、奴隷である私は主に付き添っているはずだ・・。黒木さんなら・・・不思議に思っていただろう?」

凜はそれを聞くと、ギリッ、と歯を鳴らして、肯定した。

 「彼女は最後、笑ってくれたよ。私を助けることが出来て良かった・・・ってね。彼女は、吸血鬼が意味もなく殺されることに・・強い反感をいだいていたから・・・最後に、こう言ったんだ・・・・・・。」

相川さんは目を閉じて、遠い過去の想い人を思い出すように口を開いた。

「『あなたがもし、おじいさんのような年になっても・・・私のような吸血鬼を助けると誓って・・・私のように血に飢えていたら首を差し出して、寒がっていたら暖を与えてあげて・・・。そして、コイツらに命を狙われていたら・・・あなたが助けてあげてね? 約束よ・・・大好き。』」

そう言って、彼女は最後の力を使い、相川さんを移動魔法で遠くに飛ばしたらしい。それ以来彼女とは連絡がつかず、手の甲の契約を表す魔方陣はいつの間にか消えていたという。

『その魔方陣が、魔法であなたを助けた証。』凜はそう言った。実際は魔法ではなかったのだが、アレは凜のフェイクでなく、本当に契約した証だったのか。

 「あ・・・思わず告白の所までしゃべっちゃった・・・!!!」

「いやまぁそこはスルーしておきますから・・・」

そこを今更意識されてもどう反応していいか分からん。

 「・・それからの約五十年、私は、本当に寂しかったんだ・・・。同じ場所に居続けると・・・老化しないことがバレちゃうから・・・転々と町を移動してね・・・彼女の作ったこの土地には・・最近来たばかりだよ・・。空き家に忍び込んだら、誰もいなかったんで勝手に私の家ってことにした。」

・・・元から相川さんの住んでいた家じゃなかったんだ、アレ。

「だから、幻覚の中でとはいえ・・・君たちといた時間は本当に楽しかった。・・・もしも私の主が生きていたなら・・・こんな感じだったのかな、と・・重ね合わせもした。」

不意に、僕の頭の中にある相川さんの言葉が思い出される。

『いやぁ、青春だねぇ?』

相川さんには、少し僕たちのそういった関係が羨ましくあったのかもしれない。・・・握る手に力がこもっていく。

 「だから・・・お礼を言いたい。・・・最後に、いい思い出が出来た。」

『最後』という言葉に、僕の心臓は大いに揺れた。胸が圧迫され、目の辺りが熱くなり、頬に触れれば手が大粒の涙で濡れる。

 ・・・ハハッ。何だ、何も変わっていない。心にポッカリと空いた穴は錯覚だったのか、僕はいつものように感情をむき出しにし、泣いていた。

 「だから・・私も彼女と同じように・・・一つ、お願いをしてもいいかな・・?」

「えぇ、何でも言って頂戴? できる限りのことはするつもりよ。」

凜は震える声で言った。

「僕も。お願い事なら任せてください。」

僕の声は、もっと震えていた。

 相川さんは二人を交互に見ると、安心した声で言った。

「君たちは、絶対に生きてくれ。私と彼女が出来なかったことをして、人生を・・・いや、鬼生を精一杯楽しんでくれ。・・・そして、いつか吸血鬼が人間に認められて・・・共存できるような、そんな世界を作って欲しい。あの世で彼女と二人、見守っているよ。」

それが、相川さんの最後の言葉になった。

 相川さんの手から力が抜け、その体はまるで日光を浴びた吸血鬼のように灰になっていった。僕たちの手から文字通り手がすり抜け、灰は山を象る。


 約半世紀にわたり、一人孤独と戦い続けた吸血鬼の、静かな最期だった。

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