第92話 Sweet Pain

「カラオケとか行こうね」

 普通なら、今からでも行く?と言えそうな約束。

 でも僕達は、そんな簡単なことですら出来なかった。

 彼女にとって、それは仕事を休んで無収入になることを意味する。

 休日なら当然だろうと思うだろうが、彼女はそう考えなかった。


 カラオケならコンパで行ける。

 お金を貰える。

 きっと、そんなふうに考えてしまうのだろう。


 お金こそ払っていた頃は、大概は高い店で食事をしてホテルに行ってアパートへ送るのパターンだったが、幾度か深夜ではあったが、デートのようなこともした。

「お城の石段を登りにくい…なんで歩きやすくしないんだろう」

「いや…登りやすくしたら攻められやすくなるからさ…」


「エビクリームパスタって…エビ嫌いだよね、なんで頼んだの?」

「うん…なんか、おすすめって言ったからさ」


 思い出せば…ロクな思い出がない。

 なぜだろう…逢わないと決めてから、彼女の思い出を、なぞるように記憶を辿る。

 ロクな思い出が無い…本当にない…。

 でも、僕は笑っていた…。


 非常識に呆れたり…イラついたり…そんな思い出ばかりなのに…。

 楽しかったんだ…きっと。

 逢うときはいつも、このまま時間が進まなければいい、そんな子供じみたことを思っていた。


 付き合っていたとはいえない。

 誕生日が近いからプレゼント目当てで引き伸ばしてるだけかもしれない。

 送迎係が他にいないからかもしれない。

 そんなことで自分を納得させなければ…騙されていたと思えば少しは楽になれるだろう。

 あながち間違いとも思えない。

 少なくとも、僕じゃ無かったんだと思う。


「おつかれさま ごめんメールしちゃう。気にしないでね」

 彼女が自分の出勤前に僕に送ったメール…。

 毎日、寝るまでやりとりしてた。

 今夜からは、その必要もない…また鳴らない携帯に戻るだけ。


 もともと、送迎だって月に3~4回、2時間程度の食事だけ。

 SEXどころかデートとも言えない…。

 それが無くなるだけ。

 何の不都合も無い。


 隣の市まで往復することもないのだ。

 悩まなくてもいい…彼女が誰に抱かれていても関係ない。

 もう、僕だって掲示板に書かれることもない。

 すぐに、他の送迎係は見つかる…僕の他にも居たのだし、僕が特別ということはない。


 彼氏が欲しければ、同業者がいいだろう…。


 僕は、もう疲れた…信じることも…願うことも…もう充分だ。


 彼女は変わらない…僕には変えられない…。


 しばらく逢わない…しばらく…1日…1週間…1ヶ月…1年…10年。

 薄れるだろう…記憶も…痛みも…心はそういうふうに出来てるはず。


 今がどれほど辛くても…逢いたくても…抱きたくても…その全ては叶わぬのだから…。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る