第3話 逢瀬…重ねる

 名刺を渡してから、少しの間、彼女を呼ばなかった。

 連絡を待っていたわけではないのだが、呼べば連絡を催促しているようで…そんなふうに思われたくなかった。


 逢うたびに、大きな紙袋から、お菓子を取り出す彼女。

「みんなに、お菓子配ってるの?用意するのも大変だろ?」

 僕が聞くと、

「事務所にあったのを、持ってきてるだけだから大丈夫」

「へぇ~、事務所に用意してあるんだ。お客様に」

「ん…違うよ、誰のか、わからないけど置いてあるから持ってきてるだけ」

「勝手に?」

「ん…たまには自分で買ったのも配るよ」


 いつだったか、そんな会話をしたことがある。

 誰のかわからないけど勝手に…というところが問題なのだろう…よく、揉め事になるようだ。

「全部、食べて欲しいの…」

「家で食べるよ」

「ううん…今、見てるとこで食べて欲しいの」

 彼女は、自分の差し出した食べ物を残されることを嫌がる。

 逢うたびに、お菓子の量が増えていくような気がした。

 彼女と逢う前には、僕は食事を摂らないようにしていた。


 1ヶ月ぶりくらいだろうか…僕が、彼女を呼ぶと

「嫌われたかと思ったよ…良かった呼んでくれて」

 彼女は名刺を渡しても、しばらくは僕のことを偽名のまま呼び続けた。

 本名で呼ぶようになったのは、個人的に逢う様になってからだと思う。

 偽名のほうが、しっくりくるらしい。


 メールでやりとりするようになって、しばらくして、やっと本名で呼ぶようになっていった。

 嬢と客…この距離は、なかなか縮まらない。

 本名で呼ばれた時、少しだけ近づいた気がして嬉しかった。


 メールの頻度も増え、1日に何度もやりとりをした。

 彼女は夜型で昼間は寝ている。

 連絡は夕方からだが迷惑では無かった。

 なぜなら…僕は、会社を解雇されていたから…。

 社内でのパワハラの横行を問題にしたことで、僕は窓際へ追いやられ…降格…出勤停止…解雇という流れで会社を追われていた。

「当社にパワハラは存在しない」

 これが会社の一貫した主張であった。

 結局、労働審判となり、金銭和解となったのだが…この間…一番、僕を心配してくれたのは彼女だった。

「会社を解雇されたんだ…」

 なかなか言い出せなかったが…ある日、彼女に打ち明け事情を話した。

「頑張ったんだね…大丈夫、アタシは味方だよ…桜雪ちゃんが頑張ったの知ってるよ」

 彼女は、僕に寄り添ってくれた。

 正直、そんな男には興味もなくなるだろうと思っていた。

 金が無ければ用は無い。

 そんな関係だと思っていたから、彼女の言葉は意外だった。


 労働審判が終わると…僕達は店を通さずに逢う様になった。

 お金は支払っていたが、そこは彼女も、ちゃんと一線引いていた。

 そのせいで、というかおかげというか…僕も、勘違いせずに彼女と付き合えた。

 彼女としてではなく…法的に言えば愛人であろう。


 それでよかった…それでもよかった…ただ…本音で話せる相手が一人いるだけで充分だった。


 彼女と浴槽に浸かる…背中に傷跡がある…そう最初に逢ったときのカサブタの痕…。

 その痕が…愛おしくて…僕は彼女の背中にキスをした。

(どんなカタチでもいい…傍にいてくれ…もうしばらく…)

 そんなことを考えていた。

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