5.「ある人にとって、"あの人"であれ」

 実に古風、いや、懐古趣味と言ってもいい客車だった。なにせ汽車なのだから。

 二等客車の木の椅子は実に座り心地が悪く、あと1時間ほど我慢しなくてはならないことを思い、ハルスはうんざりしていた。

 サラはというと、ハルスの膝枕で寝息を立てていた。この個室には彼ら二人と、対面に座った老紳士しかいない。

 メトロポリスの駅で、高層を走る弾丸列車と、その六倍は時間がかかるという汽車という二つの選択肢があり、弾丸列車の指定席と汽車の二等客車の金額が同じだと知ったとき、サラはこう言った。

「ハルスさん。私は広義な意味で効率的な生活よりも、狭義な意味で文化的な生活を求めたいのです」

 要するに汽車に乗りたいということである。ハルスが、別にかまわないがそれなら快適な一等客車にしよう、と言うと、

「一等客車は成金趣味が乗るものです。かといって三等客車はあまりに無頓着すぎます。本当の紳士淑女は二等客車の個室で静かに会話と景色を楽しむものです」

 などとわかったようなことを言うのだった。

 ハルスは目の前の安らかな寝顔を見てため息をついた。

「ご兄妹、ですかな」

 ハルスが顔をあげると、老紳士が目を細めて微笑んでいた。

「ああ、いえ、なんというか…」

 一瞬、ハルスは考えた。なぜ自分がサラと一緒にいるのか。自分とサラは何者なのか。自分はサラにとって、サラは自分にとって何なのか。

「保護者みたいなものです」

「保護者…ということは血のつながりは無いのですね」

「まあ、はい」

「そうですか」

 老紳士は窓の外を見た。

「私には5歳になる孫がいるのですよ」

「ほう、お孫さんが」

「ええ。娘の子供でして。女の子でね。これが可愛いもので」

 窓の外にその孫を見つけたかのように、老紳士はニコニコ笑った。

「ところがね」

「はい?」

「どうにも似ておらんのですよ」

「…というと?」

 老紳士は笑ったまま表情を変えない。

「私と、孫娘です」

 ハルスは老紳士の意図がつかめず、黙った。

「ただ、を確かめるのは、遺伝子や形質では無いと、私は思うのです。塩基配列を見比べて家族か確かめるなど、何の意味もありません。そうは思いませんか?」

「…僕には、何とも」

「あなたと、その子がいい例です」

 老紳士は窓の方から向き直って、ハルスの眼を見た。

「あなたはその子の保護者だという。その子はあなたを頼りにしていることでしょう。ですが、果たしてそれを成立させているものは何でしょう?保護者と被保護者という立場ですかな?」

 ハルスは答えない。

「お教えしましょう。それは距離です」

「ええ?」

 意図しない答えに、ハルスは疑問の声を上げた。

「血のつながりなどというのは、つながり方の一つに過ぎません。友情も、愛情も、社会的な立場も、全て方便です。要するに、どれだけつながっていることを主張しても、離れていては意味がないのです。いま、あなたとその子はとても近い。私と孫娘よりも」

「…それは、どういう意味ですか」

「私は十個前の駅でこの汽車に乗りました」

 老紳士は再び窓の外を見た。まだ微笑んでいる。

「そのとき孫娘と別れました。もし孫娘と私が本当になら、いずれ会えるでしょう」

「……まさか、それは…お孫さんを置いてきたということですか…!?」

「ええそうです。駅に一人にして置いてきました」

「なっ!?」

「親類も友人も居ない街の駅です。どうなるでしょうね」

 ハルスは思わず立ち上がって掴みかかろうとしかけた。だが、膝にはサラが居た。

「さて…そろそろ食事の時間だ。一緒に食堂車へ行きませんか」

「…結構です。僕たちは次の駅で降りますから」

「そうですか…それは残念です。では」

 会釈すると、老紳士は立ち上がり、個室を出ていった。


 しばらくすると駅に着いたので、ハルスはサラを起こして下車した。

「あー、よく眠れました」

「そうかい」

「…あの、何か怒ってます?」

「いいや、別に…」

 二人の前を、別の列車から降りた一群が通り過ぎた。

「ママ、ママ」

 小さい女の子が、母親を呼びながら走り回っている。

「…はぐれてしまったのか」

「そうみたいですね」

 一群の中には手を繋いだ親子がちらほら見受けられたが、誰一人としてこの女の子の声には応じない。

「ママ、ママ!」

 女の子に駆け寄る母親は、居ない。

 サラがつぶやいた。


「あの子のお母さんは、この世界に一人しか居ないんですね」


 ハルスは、何か胸のつかえが取れたような気がして、サラの頭にポンと手を置いた。

「一緒に探してあげようか」

「そうですね。きっとすぐ見つかりますよ。なんたって、あんなにかわいい娘さんとはぐれて探さないお母さんなんて、居ないでしょうから」

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