第6話 梯子
18日。月曜日。
部停が解けて早々に、朝練昼練をしようという人はいなかったらしく、『あれ』を発見したのは部活に一番乗りした春香だった。
部室から悲鳴が聞こえてきたので何事かと思ったら、春香先輩がいた。
一年フルートの片桐の証言だ。片桐は朝練昼練こそめったに顔を出さないが一番真面目に練習をしている。今後、妃芽菜みたいな例外が入ってこなければ、来年の木管長は片桐になるだろう。陸よりも実力は数段上だ。
春香は今回も気分が悪そうだったが、特に異常はなかったらしい。前のように倒れたりということは一切なかった。ただ、いつもの明るさはなかった。
「うん、うん。だいじょぶ、だいじょぶ。」
ひらひらと手を振る春香。だけど、その顔はいつも以上に真っ白だ。
そういえば、この前の一件以降、妃芽菜もこのことを知っている。
〈自分とかかわる男子を排除する〉
そういう顔のない脅迫者を、妃芽菜はどう感じているのか。最近、妃芽菜には凛とした美しさが備わっている。脅迫者に負けないという意識の表れか、何か。強さと美しさが=で結びつくことを紘は初めて知った。
一つ、懸念していることがある。
今まで事件にあったのは、妃芽菜に近づこうとした男子ばかりだ。『犯人』の目的が、妃芽菜に近づこうとしている男子どもを排除することなら、遅かれ早かれきっと陸を狙う。『犯人』にとって一番邪魔なのは陸のはずなのだ。倉田圭や部長の大伴のようにたいしたことのないけがならいいが、作のように意識が戻らない、なんて状況になったら、妃芽菜はどう思うだろう。次に「犯人」が狙う相手がもう陸しか残っていないこと、それが予想できてしまうことの二つが恐ろしかった。
「紘先輩?」
ボンヤリとそんなことを考えていたら、急に陸にそう呼ばれた。
「どうかしました?」
え。「ああ、なんでもない。」笑ってそう続ける。「そういえば、コンクールの譜読み始めたか?」
毎年夏に行われるコンクール。紘たちの学校では毎年このころにそこで演奏する曲を決める。入学式などで演奏するため、暇のある人は今頃から譜読みを始めてる。
「ああ、すいません、まだです。」
「そっか。そろそろ始めとかないと。課題曲だけでも、ね。」そして妃芽菜に向き直る。「妃芽菜さんは?始めた?」
「ううん、まだだよ。」
珍しく、困ったような顔をする。
「そっか。そろそろよろしく。」
妃芽菜はそれに対してうんともなんとも言わずにあいまいに笑ってごまかした。
「じゃぁ、B♭ください。」
いつも通りにパート練習を開始する。しかしなかなかピッチ(音程)が合わない。しばらく練習を進めて気が付いた。珍しく妃芽菜のピッチがずれている。わずかに上ずっているのだ。妃芽菜自身もそれに気が付いたのか微妙に調整しているが、高かったり低かったりなかなか合わない。陸も微妙な顔をしだした。
五時を回ると、バリトンとテナー(サックス)の二年の峰と一年の近江が来た。今日はこの後木管全体で集まって練習をするこになっている。それから二十分ぐらいたつと、続々と人が集まりだした。
フルートの片桐。クラリネットの早川と田代、一年の神原。バスクラ一年の木村。総勢十人ほどが集まったところで、紘は練習を開始した。今日は基礎合奏と卒業式曲の譜読みに間違いがないかチェックするぐらいだから、大したことはしない。
基礎合奏を進める。やはり妃芽菜のピッチが安定しない。木村ちゃんのピッチも少し悪いけどそれはいつものこと。ここまで音が濁るのは妃芽菜のせいだ。珍しいね、元上野。
卒業式曲で一番最初にやるのはハナミズキ。入退場の曲。最初にオーボエのソロがあるけれど、ここにオーボエはいないから、フルートの片桐が代役。まだちょっと音量が小さい。でも、伴奏の音量を落とせば何とかなるだろう。和音のピッチが悪いね。ちゃんと下げなきゃ。全体的にメロディーが弱い。もっとふけ。腹筋つかえ。俺に言われても説得力ないだろうけど。
その次は校歌だ。これは体育祭だとか何かの行事のたびに吹かされるから出来はまあまあ。このまま出てもそんなに文句はないだろう。
そう思いながら合奏を進める。
一通り曲を通すとあとは合奏で指摘されたところを個人で練習することになった。メトロノームを♩=60ほどにセットして、各自個人練習を始めた。六時を過ぎると皆ちらほらと教室を後にしていく。先生方に六時半には北校舎を閉められる。普段使われていないせいか何のせいか、体育館と違って閉める時間が二十分ぐらい早い。楽器を片付けてミーティングをし、六時半までに北校舎を出るには三十分ぐらい前には片づけを始めなければならない。
楽器を片付けていると、陸がしゃべりかけてきた。
「紘せんぱぁい。明日は何するんですかー。練習出来なくないすかー。」
明日は新一年生の体験入学の日で、授業は早く終わる。しかし音を出してはいけないので、吹奏楽部、合唱部はろくに練習ができない。体育館を使うので、室内運動部は早く帰れるし、外の運動部は運動部でたくさん練習できるからうれしい。でも、吹奏楽部、合唱部は、部活は休み見ならずに普通に有るけどたいして練習ができないという、なんとももったいない日なのだ。
「譜読みだとか、小節番号振ったりだとかをやりながら待つことになるんだろーな。」
「ほんとーですか?」
「あと雑談。」
「そっちメインじゃないんですかね?」
「ご想像にお任せします☆」
「紘、きもい。」峰が言う。
「ごめんなさーい。」
それを見て妃芽菜がケラケラと笑う。
「早く片付けろ~。」
部長の大伴が顔を出す。
「はいはい。大伴センパイ」
紘が言う。
一人さっさと楽器を片付け終わった妃芽菜が
「お先に」
と右手に白の楽譜ファイルを、左手に楽器ケースを持って器具室に向かう。
「せんぱ~い、待ってくださーい。」
陸が慌てて追いかける。妃芽菜と陸が横に並ぶ。
「先輩、この前の——。」
しばらくして、笑い声。
ああ、と紘は目を細める。
陸と妃芽菜はお似合いのカップルだ。あの『犯人』が陸を何かしらのことで傷つけたとしても、たぶん、何も起こらない。余計に二人の結びつきが強くなるだけ。
『犯人』はそれに気が付いているのだろうか。気が付かない程、妃芽菜に夢中?
きっと違う。『犯人』は——。
翌日、火曜日。
新一年生、体験入学の日。
男子は音楽室、女子は器具室(部室)にそれぞれ固まって雑談を繰り広げていた。
その中で紘は、部長の大伴と陸との三人で固まってしゃべっていた。もともと、紘たちの学年は吹奏楽部に入っている男子の人数は普通に少ない。吹奏楽部は他の部活に、『男子と女子が一緒にできる部活』という風にみられているが、それでも男女比では圧倒的に女子の方が多い。(3:1のノリ)そのせいか、吹奏楽部の男子はどこか一致団結している節がある。仲間割れなんて見たことがない(するほどの人数がいない)。
ここに集まってからすでに一時間半ほどが経っている。みんな話のネタが尽きてきたのか、一時は女子に文句を言われるほど騒がしかったのが、ぼそぼそとしゃべっている程度になっている。そんな時にわかにざわっと戸の方が騒がしくなった。
「竹臣君いるか。」
そんな声が聞こえて後ろを振り返るとさやのクラス担任の美術教師、那須がいた。困ったことに辺りがさっきまで騒がしかったのがウソのようにしんと静まり返る。
「竹臣——、紘なら、いますけど。」
何事かと固まったままの紘に代わって大伴が答える。
音楽室にいるのが学生服姿の男子だけであることを確認した那須は
「いや、いい。」
と言って音楽室を出ていった。
「女子は器具室ですよ。」
気を利かせて陸が言った。
那須はこちらを振り返って、
「ん。」
とうなずくと分厚い防音機能のある音楽室の扉をガチャンと閉めた。
戸が完全にしまったことを確認してからみんなは口々に
「何だ、那須かよ。びくった。」
と言い出した。
「ほんと、小薬かと思いましたよ。」
陸までが言う。
「はいはい。」
と一応答える。
その時、
「りく。このまえの。」
と後ろから声がした。一年の前野卓也だった。そう、前野善也先輩の弟だ。
陸は紘たちを見て軽く頭を下げると卓也の方を向いた。それを見て紘と大伴も陸に背を向けて向き直る。
それをちらと見た大伴が顔を曇らせ、低い声で言った。
「ここだけの、話だけど——。」
「何。」
紘は聞いた。
「竹中妃芽菜さん」
大伴が言う。
「竹中さんがここに来たのの理由って聞いた?」
彼の言う『ここ』はこの中学校、だ。
「一通り、聞いてはいるけど。」
あの先輩がらみでいじめられて、という話だ。
「嫉妬されてイジメられたって話?」
紘はうんと頷く。
「それ、違うらしいよ。」
「そうなの。」
「ちがう。いじめられたのは嫉妬されたからじゃない。」
「——え?」
「『気味悪がられた』からだよ。」
その日の夕方。陽が完全に沈み、空が暗い青色になってくるころ。
北校舎の裏はしんと静まり帰っていた。
それもそのはず、北校舎で活動している文化部はすべて活動を終えている。普段使われていない北校舎を閉めるのは南校舎や体育館より早いし、活動自体がそこま厳しくないからだ。終了の三十分前ぐらいにに片づけをはじめ、運動部の三十分以上前に校門をくぐる。
「ふん。」
と『犯人』は鼻を鳴らす。
『犯人』の目の前には一つの古びた梯子があった。アルミニウムで作られたそれは用具倉庫の裏に、忘れ去られたようにぽつんとそこに置いてあった。大きくて、小さな用具倉庫には入りきらなかったらしい。
もう、話は聞いている。これに『細工する』というのがどういうことになるのかはわかっている。これを次に引っ張り出すのはだれか、この放置された梯子を次に使うのは誰か、もうわかっている。分かっているうえでやっている。
磯上陸。人懐っこいあの少年。
どうか大事になりませんように、と場違いだけど祈る。
『犯人』は恐る恐る梯子に手を伸ばす。
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