第3話 事件
二月。ウインターコンサートの次の日。月曜日。
学ラン姿の武臣紘は、先程から、自分の金茶色のサブバックの中をガサゴソと探していた。
紘が探しているのは、ネームプレートいう小さな2×4㎝ほどの小さなプラスチックの板だ。その板には「宮第二中学校」という文字と「学年カラー」と呼ばれる色で自分の名前が書かれている。「学年カラー」というのは、入学時に学校で学年ごとに指定された色で、紘たち二年生は水色になっている。このようなネームプレートのほかにも、学校指定の靴や、学校保管の教科書まで、これで仕分けされる。例えば「水色学年3組」と書かれた教科書があれば、今は二年生の3組の教科書だろうし、来年は三年生の3組の教科書ということになる。何かと便利、らしい。その学年カラーの色の線が入っているネームプレートには、後ろに小さな安全ピンがつけており、制服の胸ポケットのところにつけるように校則で義務付けられている。それは忘れると校則違反で毎日放送でクラスと名前を放送される。
春と秋。
衣替えの季節にはかなりの人間が付け替えるのを忘れ、放送で名前が呼ばれるが、この2月という季節にはほとんど忘れる人はおらず、その中で名前が呼ばれるのを紘は避けたかった。
昨日、家で着替えるとき、糸くずを安全ピンに引っ掛けてしまい、外したのだが、めんどくさがってそれをつけずにサブバックの中に放り込んでいた。そうしたら、朝、学校に行ってかばんを下すか下ろさないかというときに学校風検査委員に指摘され、慌てて探しているのだった。
「おい、ひろ。名前が放送で呼ばれるようなことにはなるなよ。」
それを目ざとく見つけた担任の田辺がそう言った。
田辺は四十過ぎの数学教師だ。いつも大きな黒板板書用の黄色の三角定規を持ち歩いており、授業の時にはそれを黒板の上で器用に使って図形を描いていく。その図形はある意味芸術的だと、二年三組の美術教師、那須颯が言っていたと沙也が言っていた。沙也は二年三組——那須のクラスだ。
「あったぁ!」
紘は小さなプラスチックの板を手に、小さな歓声を上げた。鞄の底にある板をめくったその下にその小さな板は落ちていた。紘は校風検査委員から確認をもらい席に着いた。
後ろの席の隼人はなぜかやけに今日はおとなしい。それでいてそわそわしている。この前のお返しだ――と、紘は声をかける。
「隼人くーん。もしもし、大丈夫ですかー。なんかあなた、挙動不審ですよー。町中歩いていたら職務質問されちゃいますよー。」
すると隼人は顔を上げた。
「職務質問かー。」
隼人は考え込むしぐさをして、
「一回されてみたい。」
と言った。
「お前馬鹿か。」
紘はそう一通り突っ込んで、
「どうしたんだよー。やけにおとなしいじゃん。もしかしてお前、風邪?それともインフル?やめろ、うつすな。」
と言った。隼人は
「ひいてない。ひいてない。」
と首を振り振り言った。
「いや、ちょっと、考え事しててさ。」
隼人が、考え事?
そういうと隼人はいかにも心外というその言い方はないだろう、といった後でこう言った。
「いや、ね。あの、前話したじゃん。すいぶの。美人の。竹中さん。」
ああ、妃芽菜さん。
そううなずこうとしたところで何かが引っ掛かってそれをやめる。
竹中妃芽菜。「あの、美人の。」隼人の言葉。あの隼人が考え事。
「竹中さんがさ、橋本の髪の毛とってきてって言ってたんだけどさ。どう考えたって無理だよな。先生ってだけでもムズイけど、橋本だぜ。そもそもあるのか?」
橋本は教頭をしている禿げた定年間近の男性教師だ。その頭は見事に毛が一本もない。
「でさ――」
隼人の言葉に、ああ、とか、うん、とか言いつつ、頭の中で、全く別なことを考える。
妃芽菜。妃芽菜が気になる作と隼人。橋本の髪の毛?それは――。
「さや。」
紘のその声に沙也が振り返る。
「沙也。今日、帰り、ちょっといいか?」
わきにいた洸と春香がわっと歓声を上げる。
「わー。これはまさかの『放課後の呼び出し』ですかー!」
「沙也ちゃん。がんばれ。ファイト!」
ちがうっつうの。俺が、今日、沙也を呼び出すのは、竹中妃芽菜のことなんだ。
沙也が顔をしかめて反論する。
「んなわけないでしょ。この、変態女ども。」
でも洸と春香はキャーキャー騒ぎ続ける。
「そういいながら沙也さん、あなたの顔少し赤くありません?」
「わー、セーシュン。セーシュンです!沙也さん」
その声を背に紘はそこを離れる。
「沙也。あれは、沙也の入れ知恵か。」
夕日が、合奏が終わって皆の帰った音楽室を照らしている。二月に入って、だいぶ日が伸びている。それを実感する。音楽室はもう今はあまり使われない北校舎の一階にある。遠くのほうから運動部の掛け声が聞こえてくるだけで、辺りはとても静かだった。
「あれって……」
そうつぶやく沙也に紘は声を強める。
「たけなかひめな」
「妃芽菜さんに何がおきた?作と隼人の違いは何だ?」
その言葉に合点がいった様子の沙也はじっと考え込んだ後、こう答えた。
「イソカミ君」
沙也はもう一度繰り返す。
「ひめ、イソカミ君のことを気にしているの」
『イソカミ君』が紘の後輩の『磯上陸』だと気づくのに数秒を要した。
「イソカミ?陸か?」
「そう。」
沙也はつぶやくように言った後、こう付け加える。
「絶対誰にも言わないで。」
「妃芽菜が陸のことが好きだから、なんだ?こんなことを言って、何を。なんで、こんなことを?」
沙也はどういえばいいかという顔をして少し黙ったが、こう口を開いた。
「ヒロくんはさぁ、ひめが上野中を出てきたのはどうしてかって考えたことある?」
紘が、「は?」という顔をすると沙也は続けた。
「ひめ、いじめられていたんだよ。」
その時だった。
悲鳴が聞こえた。
思わず、沙也と顔を見合わせる。それは、北校舎と南校舎を渡す廊下のうちの一つ、東口のほうから聞こえてきた。東口――普段よく使われるのは西口だ。
悲鳴がやむ。
そして悲鳴と同じ女の子の声で、叫び声が聞こえてきた。
『誰か
誰か、救急車を。』
その声を聞いて沙也の目が真ん丸に見開かれた。
その声は
竹中妃芽菜の声だった。
その二日後。水曜日。
早朝。まだ、七時を少し過ぎたか過ぎていないかというところ。
紘は器具室の前で鍵と格闘していた。
昨日は部活が中止になっていたので、紘は早く楽器が吹きたかった。気のせいであると思うけど、こうしている間に、どんどん自分がまずい状態に陥る気がして放課後を待っていられないのだ。
吹奏楽部では、土日休日の休みは皆無だ。
それはただ単に厳しいのではなく、楽器を扱うという特性ゆえの事情がある。
楽器は一日触れないだけで、三日間分の練習が無駄になるといわれている。口の形や息の吹き込み方――それが崩れてしまうらしい。
吹奏楽部生はそれを避けるため、毎日部活に出ることを強制させられる。ほかの文化部が、「塾に行く」「旅行に行く」と言っては部活を休むと聞いた時には驚いたものだ。吹奏楽部では塾なんて部活の時間に合わせて決めるし、旅行なんてもってのほかだ。それが許されるのは受験生の三年生のみ。それも夏休みが終わらないと許されない。善也先輩は全然平気らしいが、ほかの先輩が「この夏ですべてが決まる!」と書かれた塾のチラシを恨めしげな眼で見ていたことを思い出す。
たとえ何かの都合で部活が休みの日にも、吹奏楽部は全員楽器を持ち帰りうちで練習することを強制させられる。大型楽器のチューバのやつも自分で歩いて持ち帰っている。紘は自分が木管楽器でいたことにそのつど安堵の息を吐き出すのだった。
しかし昨日は急にすべての部活を中止、そして一斉下校にしたため、楽器を持ち帰る暇がなかった。
昨日一日楽器に手を触れていないことが怖い。それも事実であった。
それで紘は朝早くから器具室の前で一人、鍵と格闘していた。
器具室は吹奏楽部の部室として使われている。その中に多くの壊れかけた楽器が所狭しと並べられている。昔は結構たくさんの部員がいたのだ。たぶん。
器具室の鍵は薄っぺらい金属の板だ。使いこなすのが難しく、壊してしまう人間が多くいる。紘も一年生のころ鍵を壊して先輩に叱られ、それ以来、ここの鍵に触れることを遠慮していた。
その時だった。
「ヒロくん」
声をかけられた。後ろを振り返る。沙也がいた。
「珍しいね。ヒロくんが朝練か。」
紘は朝練なんかしない主義だ。よくいるのが、放課後の部活の時、練習中にずっとしゃべっているくせに、朝練、昼練に熱心に顔を出すやつが大嫌いなのだ。(←顔を出すだけで、たいして練習していないけど。)行動が矛盾しているよな、どうせ朝練や昼練は単なる「イベント」なんだろう、そう思っている。
そうかな、と答えてから、沙也に聞く。
「おとといの話の続きを聞きたい。妃芽菜さんが上野中を出てきたのって。」
沙也はああ、という顔をしてから言った。
「ひめが――ひめが上野中でいじめられたって話?」
「そう」
紘が頷くと沙也は続けた。
「ひめ、一年生の時に三年生の先輩と付き合っていたらしいんだけど、それが原因で先輩に目をつけられちゃったんだって。それで不登校になっちゃったらしいんだけど、ひめは先輩が引退しても学校に行けなかった。それでここに来た。」
沙也はそこまで言ってから一回紘に向かっていった。
「まだ鍵あかないの?」
「ごめん、あとちょっと」
そういうと沙也は話を続ける。
「だから、イソカミ君にはそういう風になってほしくないっていうひめなりの考え。お願い事をして、それを一番最初にかなえてくれた人と付き合います。だって。」
「全員橋本の髪の毛をとってくるのか。」
もうこれはお笑いの話の域だ。
「ううん。一人一人違うんだよ。」
「それは沙也の入れ知恵?」
紘はおとといの最初の質問を繰り返す。
「うん。」
ケラケラと笑う沙也。
「悪趣味」
ぼそっと紘がそうつぶやいたのを聞いた沙也は途端に不機嫌になり、
「なによ、ツウかまだ鍵開かないわけー?」
そう言って紘の手から鍵をひったくり、ガチャガチャと鍵穴の中に差し込む。かちゃり、という音を立てて鍵穴から金属の板を抜くとそれを紘の手に乗せ、戸をガラガラと開けた。中に入る沙也に続いて紘も中に入る。その時、朝焼けが夕焼けに見えてふっと一昨日のことを思い出す。
妃芽菜の悲鳴を聞いた沙也の行動は早かった。驚いたのは一瞬のことで、すぐさま教室を飛び出して、東口に向かって走っていった。東口の戸を開け、まず目に入ったのは妃芽菜だ。反対側の南校舎の戸を開けた状態で妃芽菜は震えていた。
『ひめ』
沙也がそう叫ぶと妃芽菜は紘たちの少し右側のほうを指さしながら言った。
『イシノ、くん』
『イシノツクルくんが』
その声を聞いて妃芽菜の指をさしたほうを見た沙也はヒッと息を飲んだ。後ろから紘ものぞき込む。ちょうど、開けた戸が邪魔になって反対側からでないとみにくい位置だった。
まず目についたのは血だまりだ。地面が朱い。
その血だまりの中央。
そこに石野作が倒れていた。
『作』
出てきた声は声と呼べないつぶやきだった。
『救急車』
沙也が言う。
『先生に言ってくる。紘君。ひめと、』
さやはそこで一回押し黙ってからいう。
『ひめと石野君を、よろしく』
そして南校舎に向かって走る。
さっきの悲鳴を聞いた人たちが集まってきているのだろうか。ざわざわとした声が聞こえる。
紘は立ちくすんだ。どうしようもなしに空を仰ぐ。
沈む太陽。夕日がまぶしくて、紘は反対側に顔を背けた。
反対側。
濁った水色の空に、
白い月が何かを見守るようにただそこにいた。
紘はその時感じた得体のしれない恐怖を思い出してふぅと息をつく。作は三階の渡り廊下の橋から落ちたらしく、頭を強く打っていた。一命はとりとめたものの、まだ意識は戻っていない。柵は低く、誤って落ちた可能性が高いらしい。さやが救急車とともに呼んだ警察がそう判断した。
急に沙也が言った。
「なにこれ」
「どーしたの」
紘は極めて冷静に振り返る。
沙也が手にしていたのは一枚のボードだった。
掲示板。
合奏の予定時刻。楽器運搬の係りの打ち合わせ。合奏中に来た引退した先輩からの連絡事項。その他諸々。
様々な連絡に使われる、昔からあるという掲示板という名の白いボード。
そこに、赤いペンでこう書かれていた。
ひめを汚す愚か者に天罰を与える。
一人目
石野作。
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