逃げるが勝ち
げんげん
第1話
足が震えて立っているのがやっとだ。
おもむろに手を突き出す。警戒心で溢れた二つの目が、僕を睨んでいた。目の前にはうつろな目。さっきまでしていた呼吸も、止まっているようだ。
やらなければ……。
意を決して手のひらにあるものを強く握る。どこかが刺さるのか、手がチクリと痛んだ。震える手では先端が重さに耐えられず下を向く。あと一歩。あと一歩踏み込めばこの状況を変えられる。そしてそれが出来るのは僕だけだ。分かっているのにその一歩が踏み出せない。
「お、大人しくしてくれよ」
自分でも笑えるほど声が震えているのがわかる。相手はじっとしたまま、まっすぐ僕を見つめていた。隙あらば飛びかかってやろうという目だ。そうされたが最後、僕は一瞬にして傷だらけだろう。じっとりと手に汗をかいているのがわかる。
「あっ」
その時、強い風が吹いた。汗で濡れた手は、あっさりと手の中のものを手放してしまう。生々しく、情けない音で地面に落ちたそれは、足元で動かない。その隙をついて、大きな影が目の前に覆いかぶさった。
「ニャアアアア!」
「わっ、うわああ。やめて、死ぬ、殺されるうううう!」
目を開き、歯をむき出しにした姿がやけにゆっくり見える。命の危険に脳みそはフル稼働だ。僕の二十三年間を思い出す。新品の鉛筆を奪われ続けた小学生。運動部に入部して五分で退部した中学生。不良に絡まれ、放課後には財布がいつも空になっていた高校生。一人暮らしを始めた瞬間、部屋が防犯グッズまみれになった大学生。なんだか涙が出てくる。
「ろくな記憶がな、んぶっ」
もさもさと茶色の毛が口の中に入る。その先には鋭い爪。こんなもので引っかかれたらあっという間に傷だらけだ。絶対痛い。ああ、もう嫌だ。
「あほか」
「ンニャア」
首根っこを掴まれたそれは、地面に降ろされ僕の視界は明るくなった。その人物の姿は逆光で良く見えない。しかしその影は大きく、頼もしい。まるで正義のヒーローだ。
「こんな仕事もできねえのか、ヘタレ野郎」
「あ、ヒーローじゃない。悪魔だ」
「あ?」
「なんでもないです」
黒髪に眼鏡。スーツに身を包んだ男。名前は明智鉄平。見た目は真面目なサラリーマンだが、僕を見下ろすその目は一般人のそれではない。特攻服なんて着ていたら、僕は完全に不良に絡まれる被害者だ。見下ろす男と尻餅をついた僕。うん、そうに違いない。明智さんは僕のことを名前で呼ばない。柄田礼という立派な名前があるのに、わざと呼ばないのだ。それにこんな時、明智さんは絶対手を貸してくれない。それどころか、いつまでも座っている僕を蹴り飛ばしたりしてくる。こういう時はすぐに立ち上がるのが得策だ。
「はあ、災難な目に遭いましたよ」
「それはこっちのセリフだダメ人間。大人がなんで猫に負けてんだよ」
「だってあんなに睨んでたんですよ。怖いじゃないですか」
「てめえの持ってる魚を見てたんだよ、アホか。せっかく釣りたてもらってきたってのに。もったいねえ」
「だってこの魚、目はうつろだし動かないし怖いじゃないですか。それにエラの動きがだんだん弱くなるんですよ!」
足元にある魚は、すでに猫の餌食になっていた。うつろな目が僕をじっと見て……。ああ、なんてグロテスク。
「おえっ」
「魚食ってるだけだろうが、吐くな」
内臓が……。べちゃべちゃって音が……。
「あら、どうしたの?」
僕らの騒ぎに気づいたのか、袋を抱えたおばさんがこちらへやってくる。買い物帰りだろうか、袋からはネギがはみ出していた。男が二人、こんな埠頭で騒いでいたら怪しいに違いない。
「あ、あの。猫が、うわっ、こっち見た」
「お騒がせしてすいません。わたくし、探偵をやっております、明智鉄平と申します」
さわやかな笑顔と輝く歯。まるでやり手の営業マンだ。声もちょっと高くなって、さっきとは別人に見える。少なくとも、今まで僕を見ていた悪魔の姿はない。ご丁寧に名刺を渡しているあたり、明智さんらしいけど。
「この近くで漁をしている方から依頼を受けまして。魚を盗られると困るから、と。こちらの猫を引き取って飼い主を捜そうかと」
一週間たっても飼い主が見つからなかったら、保健所に連れて行くって言ってたけど。
「あら、そうなの? ミケちゃんいい子なのにね」
「野良猫のようですし、事務所に住ませてあげたいのですが狭くて。かわいそうなので早く飼い主を見つけてあげたいのですが、お知り合いにいらっしゃいませんか?」
「そうねえ」
魚を食べ終えた猫は、おばさんの足元でじゃれ始める。きれいに骨を残しているのはさすが猫って感じだけど、この骨は僕が回収することになるんだろうか。生魚はなんとか触れたけど、骨はできれば遠慮したい。
「わたくしどもの事務所は道路に面していまして。車も危険ですしできれば今日見つけたいのですが」
「それは心配ね。あ、そうだ。私が引き取るわ」
「それは助かります。では、今日の分の餌を」
「いいわよ。ちょうど猫缶を買ったところだし。子供が大きくなって寂しかったところだから、ちょうどいいわ」
おばさんはそう言うと猫を抱えて去っていく。おばさんの手に抱えられた猫は妙に大人しかった。
曲がり角で姿が見えなくなった途端に、明智さんの顔からも笑顔が消える。まるでお面を付け替えたような勢いだ。
「猫に餌やってたなら、正直にそう言えっての。めんどくせえ」
「え、そうだったんですか?」
確かに懐いているなとは思っていたけど、まさか世話をしているとは思わなかった。
「住宅がない埠頭に、わざわざ買い物帰りの主婦が来るかよ。名前も付けてたみてえだし、猫缶やる気だったんだろ。餌付けするなら最初から飼えっての」
明智さんが目に見えてイライラしている。恐らく、依頼料が安かったことも関係しているだろう。魚代は猟師にもらってタダだったけど、ここまで来るのと猫が姿を現すまで待つのとで、だいぶ手間がかかった。「金をもらったからには、仕事はしろ」が信条の明智さんだけど、ここまで手間と料金が釣り合わないと納得いかないようだ。
「で、でもよかったですね。すぐ飼い主が見つかって」
「大体、てめえが依頼料安くしなきゃこんなことにはならなかったんだよ! このポンコツ、今度やったら助手クビにするぞ」
「だ、だからちゃんと働いたじゃないですか」
「魚持ってるだけで働いたってなったら苦労しねえんだよ。ボケ!」
依頼料を安くしようとする猟師たちの迫力といったらすさまじいものだった。それはそれは怖かった。でもこうなった明智さんの方が何十倍も怖い。
「ああ、くそっ。イライラする。おら、行くぞ」
「え、どこに」
明智さんどこかへ向かって歩いて行く。慌てて後を追うも、一体どこに行こうとしているのかさっぱりわからない。事務所に向かっているわけじゃないようだけど。
「犯人、捕まえに行く」
「犯人? なんのですか」
「連続暴行事件のだよ。久しぶりにストレス発散だ」
「なんですかそれ。ちょっと、待ってくださいよ」
ストレスが溜まるとニュースでよく放送されている事件の犯人を捕まえに行く。これが悪魔な明智さんらしいストレス発散法だ。警察から受け取ることのできる謝礼も目的に入っているけど。
連続暴行事件なんて最近の事件、いつの間に調査していたんだろう。そもそも僕、なにも知らないんだけど。
「それ、危険じゃないですよね?」
「俺は問題ないな」
「僕は?」
返事のない明智さんに一抹の不安を覚える。犯人のところに殴り込みなんて、果たして僕は生きて帰れるんだろうか……。
足元のふらつきに耐えながら、男は商店街を歩く。帰る前に居酒屋へ寄ったのがいけなかったのかもしれない。家までの帰り道が遠く見える。アルコールが入ると、彼はいつも気が短くなる。それは今日も例外ではなかった。駅にいたカップルには目障りだと怒鳴りつけた。交番の前を通った時は唾を吐きかけた。電話をかけてきた妻に罵声を浴びせたのはつい先ほどのことだ。
夜の商店街は人が少ない。最近までは多かったという不良も、ここ周辺では見なくなった。そのおかげで気弱そうな人が増え、ストレス発散には事欠かない。会社で溜まったうっぷんを、気弱そうな人間に当たり散らし発散する。それが男のやり方だった。だから人の少ない商店街は気に入らない。
「どいつもこいつもなめやがって。見てろよ、いつかひどい目に遭わせてやる」
発散しきれないイライラを掲示板の柱にぶつける。木製の柱はすぐひびが入り傾いた。目立つように貼られたポスターが目に入る。楽し気なイラストはさらに男をイラつかせた。
このまま倒してしまおう。
まっすぐ柱を狙う。柱はなかなか折れない。
「おい」
誰かの声がした。舌打ちをして振り返る。
「っが」
一瞬、首元が痛んだかと思うと体中が痺れる。崩れ落ちる男の顔を誰かがが何度も殴りつける。ガードをしようにも手が動かない。声とその風貌から相手が男だとわかるが、痛みでそれどころではない。馬乗りになられ、男は何度も何度も殴りつけられる。体中が痺れ声も出せない状態で、目を開く。街灯が反射して姿が良く見えない。振り上げられた拳が腹部に落ちる。あまりの苦しさにうめき声が漏れた。腕や腹部の痛みがひどい。ぼやけた視界で青いものが見えた。
冷たい何かが顔に当たった。嫌な臭いのせいで、唾が吐きかけられたと気づく。拭おうと手を伸ばすと同時に、足に激痛が走る。
あまりの痛みに、言葉が出ない。何度も何度も右足を蹴られ、最後には男は意識を手放していた。
「会社帰りにボコボコですか。うへぇ、怖い」
現場を想像して寒気がする。現場となった商店街は、僕もよく買い物に行く場所だ。そういえば不良が暴れて大変だった時期もあったと聞いたことがあった気がする。夜道を狙って人をボコボコに殴る人が近所にいるということだ。住人も気が気でないだろう。明智さんはその人に会いに行こうというのだ。今から僕も気が気でない。やり残したことはたくさんあるし、遺書もまだ書いてない。
「重度の打撲と右足の骨にヒビが入ってたそうだ。折れる寸前までな」
一体どんな生活を送ってきたのかわからないが、充分大したことだ。すぐにでも逃げたい。でも逃げたら後が怖い。犯人はどんな人だろうか。「あなたが犯人ですね」なんて言ったら怒るだろうか。できれば大人しく認めて欲しい。というか僕らが到着する前に自首してほしい。
缶ビールを一気に飲み干すと、老人は空き缶を放り投げた。周囲の人間が止めているものの、彼は飲酒をやめない。道で倒れられては困ると、注意されたこともあったが娘は随分前に嫁に行った身だ。もう関係ないと言ったら、なにも言わなくなった。ポケットからタバコをひとつ取り出し、吸う。これも止められているが、彼はやめる気がなかった。
「どいつもこいつも、なめやがって」
公園のベンチに座るとそばに花壇が見えた。先ほどから溜まっている腹立たしさを花壇の花にぶつける。木の棒で薙ぎ払うと、花はすぐに散ってしまった。
彼は今、この公園で夜を明かそうとしている。交番に行ったものの泥酔状態だったためか、素直に帰そうとしてくれなかったからだ。危ないので自宅まで送っていきます。そう言われた途端、逆上して交番を出て行った。老人扱いされたことが、彼をさらに苛立たせていた。
「年上をなめやがって。警察がなんだってんだ」
老人は吸っていたタバコを地面に捨てると、そのままベンチに寝転び寝息をたてる。終電の終わった駅近くの公園は人が少ない。静かな公園に足音がひとつ聞こえてくる。懐中電灯の光が公園の入り口で止まったかと思うと、そのまま中へ侵入していった。その人影はポケットからスタンガンを取り出すと、老人にまっすぐ近寄る。その人影に、すでに寝入っている彼は気づかない。スタンガンを持つ手はゆっくり近づいていく。
「っが」
バチっという音と共に、老人が声をあげる。その衝撃で体はベンチから転がり落ちた。すでに泥酔状態だった彼の体はぴくりとも動かない。その人影は馬乗りになると何度も老人の体を殴りつける。顔を殴られた際、口の中を切ったのか口からは血が流れていた。
静かな公園に鈍い打撃音とうめき声が響く。殴った時に流れた血が拳についていたのか、老人の顔に所々付着していた。
「も、もうやめてくれぇ」
そう声をあげた途端、ぴたりと手が止まる。終わったのか、そう思い目を開けるとその影はしゃがみこみ何かを拾っているようだった。煙がたち、先端の赤い何かを老人に向ける。紛れもなく、先ほど捨てたタバコだった。
「な、なにを、っ」
あまりの熱さにそれはもはや痛みに近い。押し付けられたタバコを払いのけようと、老人は必死で暴れた。
「ねえ、なんか変な声しない?」
「気のせいじゃねえの?」
遠くから男女の声が聞こえてくる。人影は手を止めて立ち上がる。どんどん近づいていく足音に、その人影は慌ててその場を立ち去る。慌ててパーカーが外れたのか、月明かりに顔が照らされる。しかし男女はまだ公園にたどり着かない。犯人は顔を知られることなく、現場から立ち去った。
商店街を抜けると公園が見えた。休日は子供がいて騒がしい公園も、やけに静かだ。事件のせいで近寄りにくくなっているのかもしれない。
「でも本当に同じ犯人なんですか?」
「証言にある衣服が一致してるからな。少なくとも俺はそう睨んでる」
「なるほど」
つまり最初の会社員と、おじいさんが同一犯に襲われたというのは、明智さんの想像だけってことか。警察の人は明智さんに協力してもらいたがっているのに、明智さん自身が非協力的だから困る。明智さん曰く、「他人が間に入ったら余計ストレスが溜まる」らしいけど。
「明智先輩!」
「ひっ」
公園でたむろしていた派手な少年たちが数人、こちらに寄ってくる。
「この前はサンキューな。かなり情報が集まった」
「いいっすよ。他でもない明智先輩の頼みですし」
リーダー格とも思えるいかつい少年が答える。事件の情報をどこから仕入れているのかと思ったら、この少年は情報屋代わりだったらしい。一体、この人達との関係ってなんなんだろう。先輩って呼んでたし、後輩? ヤンキー時代の。
「そういえばなんか人数減ってねえか?」
少年たちを見ながら、明智さんがつぶやく。座ったままこっちを見ている少年も合わせると十数人。そこそこの数だ。普段はどのくらいなのかわからないけど、僕としては関わりたくない。
「知ってますか? そこの交番にいる、豪田ってやつ。俺らみたいなやつを目の敵にしやがって。やってもいないことねつ造されて。おかげで出来るだけ目立たないようにって、こんな人数に。あれじゃただの憂さ晴らしっすよ」
少年は苦々しく顔を歪めた。やってもいないことで責められるなんて。悔しいに違いない。
「変なことは考えんなよ」
「わかってます。捕まるようなことはするな、って先輩の教えですから。それじゃ、失礼します」
輪の中に戻ると、いそいそゴミを片付け始めた。よく目をこらしても、あの中に僕が絡まれたことのある少年はいない。もしかして悪い人たちではないのかもしれない。見た目は怖いけど。
「なにしてんだ。行くぞ」
「は、はい」
遠くからするエンジン音を聴きながら、少年は自分のバイクに乗り込んだ。彼は毎夜、このバイクに乗って街を走りまわる。もちろん警察に目を付けられているが、追われることも彼らにとっては一種のゲームだ。どうやって追っ手を撒いたか、どんな挑発をしたか。それは彼らにとって武勇伝と言えるものだった。
少年は満足げにバイクを走らせる。彼らが今日走ったのは商店街の近くだ。ここは交番が近いため、難易度が高いと仲間内で話題になっている。そのため家に帰る間、彼は上機嫌だった。
「もういっちょスピード上げるか」
公園に差し掛かったあたりでスピードを上げる。深夜ということもあり、帰り道に人は少ない。風を切って進む。この風をヘルメットなしで感じることができれば、どれほど気持ちがいいだろう。そう思いヘルメットに手を掛ける。
「うわっ」
ガンッという音と共に体が宙に舞う。痛みに目を開けた時、バイクが後ろのほうで倒れているのが見えた。そのそばにはフードで顔を隠した男が立っていた。手に持った鉄パイプが、バイクを横転させた理由だと気づく。出血がひどいのか、徐々に少年の頭はぼんやりとしていく。
男は鉄パイプを捨てると少年に近づく。倒れた位置から、ジャンパーの下に着ていると思われる青いシャツが見えた。
「ぐっ」
突然息がつまる。襟首を掴まれ、引きずられているようだった。地面と擦れている部分が痛い。人通りの少ない通りでは、引きずられていく少年など誰も気づかないようだった。
途端に呼吸が楽になる。遠くからはエンジン音が聴こえ、自分が道路の真ん中にいることに気づく。小さな道路は車の通りも少ない。少年に気づく人は誰もいなかった。意識が朦朧とした彼は、自力で移動することすらできない。気が付くと人影は消えている。徐々に近づくエンジンの音を聞いた後、少年は意識を失った。
そういえば最近、暴走族が走ることも少なくなったなと、明智さんの話に相槌を打ちながら考える。一度明智さんが怒鳴りつけたことがあったっけ。あの後から全く事務所近くを走らなくなったから、そのせいだと思っていたけど。まさかそんな事件が起きていたなんて全く気付かなかった。
明智さんの話だと用事があるのはこの先らしい。この先は交番も近いし人通りも多い。もしなにかあっても逃げることはできそうだ。ほっと一息つく。
「なに安心してんだ?」
「だってなにかあっても交番に逃げられるでしょ」
「交番に逃げる? なに言ってんだお前」
明智さんの足が止まる。それに合わせて僕も足を止めた。この近くに連続暴行犯がいる。緊張しながら周囲を見回す。近くにあるのは植木と古い建物。それに交番だ。
「ここにいるんだぞ。犯人」
明智さんの視線は交番を向いている。交番の中にはお巡りさんひとり。その前に明智さんと僕。この中に犯人がいるとすれば……。
「自首ですか?」
「てめえ、社会のクズとして交番に突き出してやろうか」
「冗談ですよ」
明智さんが犯人だなんて端から思っていない。明智さんならスタンガンなんて使わないはずだ。そもそも延々と殴るなんてこともしないかもしれない。ストレス発散や恨みを晴らすためだとしてももっとえげつないやり方でやるはずだ。
うっ、想像するだけで寒気がしてきた。
「とにかく行くぞ」
生唾を飲み込み、ポケットに手を入れる。犯人を前にしても、明智さんは僕をかばうなんてことは絶対にしない。この行為は僕にとってひとつの防御策だ。なにかあったら絶対にこれがなんとかしてくれる。
「なにしてんだよ」
背を向けていたところを覗きこまれて、手に持っていたものを落とす。
「あ? ボールペンなんてなにに使うんだよ」
「え、えっと。ちょっと書くことが」
「遺書なんか書いてる暇があったらとっとと歩け」
遺書なんて物騒なこと言わないでください、そう言いたいけれどぐっと我慢して胸ポケットにそれをしまう。
明智さんの足が一歩交番に入る。僕は入口でこっそり様子を伺っていた。
「ということで、一緒に来てもらおうか。暴行犯」
「一体なにを言ってるんだ、君は」
青い制服に黒いベスト、少し歳をとっているけれど筋肉質な体。そして白髪ひとつない短い髪。明智さんが話しかけたのは紛れもなく、お巡りさんだった。
「あああ明智さん。なにやってんですか」
「黙ってろヘタレ! 文句があるならお前がやるか?」
「無理です」
「じゃあ黙って見てろ」
扉が閉められる。交番の中は明智さんと僕、そして暴行犯(仮)のお巡りさんだけ。とにかく二人から距離をとろうと、僕は扉に張り付いていた。他の人は巡回中だろうか。制服についている名前を見るに、お巡りさんの名前は豪田というようだ。
「君は俺が暴行犯だと。随分なことを言うね」
「細かい推理は後だ。一緒に来てもらおうか、ストレス溜まっていけねえんだよ」
多分、この人は早く警察の人たちのやられたって顔を見たいに違いない。
「スーツなんか着て、会社はいいのか?」
「生憎、仕事しやすいように着てるだけで会社員じゃないんでね。とにかく一緒に来いや」
だんだん、豪田さんに絡んでいるヤンキーに見えてきた。落ち着いているように見えるし、とてもじゃないけど暴行犯には見えない。もしかして明智さん今回は犯人を間違えたんじゃ。
「これ以上いい加減なことを言うと、公務執行妨害で逮捕するぞ」
「ああ、いいよ行ってやらあ。ついでにお前の悪事もそこでばらしてやるよ、連れてけや」
「明智さん、落ち着きましょう! ちょっと落ち着きましょう」
口を出さないつもりだったけど、これじゃこのまま平行線だ。それどころかこのまま留置所行もあり得る。僕はまだ冷たいご飯は食べたくない。明智さんはどうにか頭を冷やしてくれたようで、深呼吸した後豪田さんに向き直る。目はばっちり豪田さんを睨んでいるけど、そこは気にしないでおこう。
「まず、この事件の被害者に関係するのはどいつも交番に迷惑かけてるってことだ。最初と最後の被害者は交番に怒鳴り込んでるし、暴走族の男はこの近くをバイクで走ってる」
「それだけじゃ、理由にはならんだろ」
「次に目撃証言。パーカーを上から着て誤魔化してたみたいだが、青いシャツが目撃されてる。顔なんて帽子で隠せばいいし、そっちのほうが隠しやすい。恐らく隠したかったのはシャツ。制服は一目みればわかるからな」
「それで俺だと。話にならんな」
「最後まで聞け。すっとこどっこい」
なにやらギスギスした空気が漂い始める。僕としては厄介な空気だ。この二人のケンカなんて死んでも見たくない。というか見たら怖くて死んでしまう。
「お前、若い奴補導しては脅してんだろ」
「は?」
「豪田には気を付けろって、噂になってるぜ。お巡りさん」
「そ、そうだ。お茶いれますね。お茶」
小さすぎた僕の声は、二人に聞こえなかったらしい。にらみ合う二人を横目に、備え付けのポットがある場所まで行く。奥にあるけど、もうこの際関係ない。むしろ奥にいた方が何も聴こえなくて安心できる。
ちゃぶ台の上にはポットと茶葉が用意されていた。休憩室代わりなのか、ロッカーも完備されている。ロッカーには記名もされていて、豪田さんの名前もあった。いいなぁ。この職場なら働きやすそうだ。僕なんてこのままだと事務所の部屋をトイレに移されかねないのに。
「確認したが、お前ここじゃ一番偉いらしいな。巡回のシフトもお前が決めてんだろ」
「まあな。それがどうした」
「聞いたところ、犯行場所の巡回はいつもお前が担当だったらしいじゃねえか。犯人、見なかったのか」
「ああ、俺の力不足だな。最近はさらに力を入れてるよ」
一見話し合いをしているように見える二人だけど、禍々しいオーラが漂っている。巡回中の他のお巡りさんもまだ帰ってこない。なんだか帰りたくなってきた。
「被害に遭ったじいさん、覚えてるか」
「ああ、まあな」
「あのじいさん、追いかけていったんだろお前。ここから現場の公園までは一本道。犯人とすれ違わねえのはおかしいよな」
「違うルートを使ったんだろ。見つけられなくて悔しい限りだよ」
ポットから湯気が上がる。どうやらお湯が沸いたようだ。適当なコップを拝借して、急須からお茶をいれる。はあ、落ち着く。
「さっきから誤魔化しやがって、はっきりしねえかてめえ!」
「ひいっ。うわ、熱っ」
明智さんの大声に思わずコップをひっくり返してしまった。足にお茶が直撃して熱い。なにか、なにか拭くものを。慌てて周りをみると、ちょうど布がロッカーからはみ出しているのが見えた。ちょうどいい、これを借りよう。
「あちち、ちょ、ちょっと借りますよー」
聞こえてはいないだろうけど、一応許可をとる。少し厚い、ふわふわとした手触りの布はタオルのようだ。軽く引っ張るとなにかが引っかかっているような感触があった。このままじゃ足を火傷してしまう。思い切り引っ張ると、ガンッという音と共にタオルを引っ張り出せた。
足にかかったお茶をふき取りながら、周りを確認する。どうやら衝撃でロッカーが開いてしまったらしい。そのせいで落ちてしまったのか、手元には固い感触。長い箱状のそれはどこかで見覚えがあった。僕が怖くて使えなかった護身グッズのひとつ。これは確か……。
「スタンガンだ」
「うっせえぞ、なにやってんだてめえは」
「明智さん、スタンガン。スタンガン見つけました」
連続暴行犯は、相手を気絶させるのにスタンガンを使ったと明智さんから聞いた。値段は手ごろ、背後から襲撃できる優れもの! と防犯グッズの店員に何度も勧められたから覚えている。それに相手を怯ませるには絶大な効果があるだろう。ロッカーの持ち主は豪田さん。いかにも強そうなこの人がスタンガンで護身なんて考えられない。タオルに包まれていたであろうそれを明智さんに向けると、豪田さんは目を丸くしていた。
「おい、ヘタレ。どこから取った」
「えっと……ご、豪田さんのロッカーです」
「スタンガンならあってもおかしく思われねえとでも思ったか。気を抜いたな」
豪田さんはしばらく押し黙る。やっと出てきた証拠に、明智さんの口角があがっている。
「別にいいだろ、あんな奴ら。むしろ排除してやった俺に感謝して欲しいよ」
豪田さんはぽつりぽつりと話し出す。
「実際、俺が制裁を加えたおかげで辺りは治安がよくなっただろう。正しいんだよ、俺のやったことは」
「お前が道路に放置した奴はな、危うく轢かれかけたんだぞ」
「あれはな、死ななくて残念だったよ。俺が撥ねとけばよかったか」
「てめえ……」
明智さんがぐっと拳を握る。それを見ても豪田さんに反省の色は見られない。これには僕だって腹が立つ。
「市民のために頑張ってるっていうのによ。横からぐちぐちうるせえんだよ!」
「うわっ」
スタンガンをひったくろうと、僕に飛び掛かる豪田さんを明智さんが殴りつける。それでも足元がふらつくだけで、効いた様子はない。瞬く間に明智さんの腕を掴み、地面に投げ飛ばした。執拗にお腹を蹴られ、明智さんは苦しそうな声をあげる。
「俺の町なんだよ、ここは。何してもいいだろうが。大体、俺があいつらを成敗したおかげで、お前も安心して暮らせてんじゃねえのか?」
その目は明らかに僕を見ていた。安心させてやってるんだから、スタンガンを寄越せとでもいいたげな目だ。僕はこの目を知っている。僕が何度も何度も理不尽な思いをした時に見た目だ。ぐっと、スタンガンを握る。
普段仕方なく渡すのは、僕のお金だからだ。悔しくなるけど、僕しか困らない。でも、この証拠は僕だけのものじゃない。これのせいで、そしてこの人のせいで色んな人が傷ついて、理不尽な目に遭ったんだ。ここで渡すわけにはいかない。
「なんだよ、反抗的だな。守ってやってんだろうが。さっさと寄越せよ」
「そんな覚えはありません」
「は?」
頭を強く打ったのか、明智さんはうずくまったまま動かない。
「あなたに守られた覚えなんかありません。なにもあげるものなんかない!」
僕は、ストレス発散を正当化するために辛い思いをしたわけじゃない。
「てめえ、殴られてえのか」
「ぼ、僕はこれを持って警察に行く。豪田さん、あなたが連続暴行事件の犯人だって、言いにいきます」
声が震えているのが情けない。明智さんは相変わらず倒れたままだけど、小さいけれどうめき声が聞こえた。意識はある。なら僕だって出来ることがあるはずだ。
「お前がなに言ったところで誰も信じねえよ! お前たちには、俺の代わりに連続暴行犯になってもらう。ここで寝てろ!」
スタンガンを抱きかかえて、来るであろう衝撃に備える。絶対痛いけど、怖いけど一発くらいなら慣れっこだ。
「なっ」
驚いた声と共に足元に振動が来る。目を開けると、豪田さんが倒れていた。明智さんが足をひっかけているのが見える。
「悪役のテンプレ言ってんじゃねえよ」
明智さんの意識ははっきりしているようだった。不意をつかれた豪田さんは床に倒れたまま、今にも立ち上がろうとしている。明智さんはふらふらだ。このままじゃすぐ追いつかれる。
ふと、抱きかかえていたものを見つめる。
説明書は何度も読んだ。使おうとするたびに音が怖くて使えなかったけど。
「安全装置を解除して、」
手に汗をかいていたら危ないだろうか。でも、そんなこと考えてはいられなかった。豪田さんの目は今、明智さんに向いている。チャンスがあるなら今だ。
スイッチを入れながら、思いっきり。
「相手の体に押し付ける!」
「ぐあっ」
ビリッという音に体が震える。目を開けると豪田さんはまた、床に倒れていた。体が痺れているんだろう。これなら大丈夫。僕ができることはやった。他にするべき役目はひとつだけだ。
「明智さん! 帰りましょう」
「あ?」
「帰ります。僕戦えないんで。証拠のスタンガンもありますし。帰ります。帰らせてください!」
「ヘタレ、てめえ」
か細い明智さんの声を無視して腕を掴む。半ば引きずるようにして交番の外まで連れ出した。証拠品のスタンガンも手元にある。使っちゃったけど。まだ証拠能力はあるはずだ。豪田さんもしばらくは痺れているだろうし。あとはこのままここから離れれば一安心だ。
「おい、ヘタレ」
「任せてください。逃げるのは僕の専売特許です」
「そうじゃねえよ。戻れ。あいつ犯人なんだぞ」
「だからここから離れるんです。おっかないじゃないですか。暴行犯ですよ」
躊躇なく人に暴力をふるえるなんて考えられない。僕の考える中でも最悪な人物だ。もしあのまま交番に残っていたら、逮捕だけで済むはずがない。
「わかんねえのか、このまま逃げても次の標的にされるだけだろうが」
「大丈夫です」
「大丈夫って、お前な! 確実に逮捕するためには、あいつ連れて行くしかねえんだぞ」
肩に回していた腕を下ろす。明智さんはもう元気になったようで、よろめいていたものの自分の足で立っていた。
「はあ、重かった。歩けます? ここからまた歩きますけど」
「ヘタレが珍しく動いたから関心してたのによ。ヘタレのままか!」
「もう一つ証拠ならあります」
「は?」
もしもの保険がここで役に立つとは思わなかった。念のため、周囲を確認する。うん、やっぱり追ってきてないみたいだし、このまま無事警察署まで行けそうだ。ポケットにしまっていたものを取り出すと、明智さんに見せる。
「ボイスレコーダーです。ボタンには隠しカメラ。パソコンさえあればすぐに確認できます」
「は?」
明智さんが珍しく目を丸くしている。まさかそこまで僕が使えない助手だと思っていたんだろうか。心外だな。これでも助手になって長いのに。まあ犯人逮捕のために付けてたわけじゃないけど。
「カツアゲなんかに遭うと困るんですよ。盗まれた証拠とかどこにもないし。だから持ち歩くことにしたんです。これ、なにかと便利でしょ。逃げても後で証拠になりますし」
さっきも言った通り、逃げるのは僕の専売特許だ。逃げた後、証拠があれば通報くらいはできる。ペンの形をしていれば気づかれないって聞いて、思わず買っちゃったけど。まさかこんなところで役に立つだなんて。持ち歩いていて正解だった。まあ半分以上は明智さんに理不尽な要求をされた時、証拠として持っておこうと思っただけなんだけど。これは黙っておこう。
そう思って明智さんを見ると、表情を固めたまま僕を見ている。なんか、怒ってる?
「はあ」
ひとつため息をつくと、僕の手からボイスレコーダーを取り上げた。なにやらスイッチを押している。ちゃんと録音できているか確認しているようだ。僕だって素人じゃない。こっそりボタンを押すことだって簡単だ。
「録音、出来てるな。はあ、今回はヘタレに助けられたってことか」
明智さんはもう一度ため息をつくと、どんどん先を歩いていった。
明智さんは多少の擦り傷はあったものの、大きな怪我もなく、次の日にはぴんぴんしていた。新聞を片手に事務所の階段を上る。明智さんはしかめっ面でなにやらなにやら記入している。
「見てください! この前の豪田さん、逮捕されましたよ!」
一面に載った記事を広げて見せる。明智探偵お手柄と大きく見出しが載っている。
「ほら、依頼もこんなにたくさん。やりましたね」
「ああ、それも一時的なものだけどな。それよりこれ見ろ」
「なんですか?」
明智さんがノートを広げて見せる。色々な金額が書いてあるところを見ると、帳簿らしい。依頼の数にしては収入が少ない。
「もう少しで赤字じゃないですか。どうしたんですか?」
「……えが」
「え?」
「お前が依頼料安くしてばっかだからだろうが! 出直して来いこのヘタレ野郎!」
明智さんの大声に事務所全体が揺れたように感じる。少しくらい褒めてくれたっていいのに。いつかこの悪魔に勝てる日は来るのだろうか。明智さんの顔をちらりと見る。睨まれただけで心臓が止まったような気がした。
やっぱり、諦めよう。
逃げるが勝ち げんげん @bo_831
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