第26話 Free Bird

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 私はアリサに続いて、スタンドの通路を歩いた。

 廃屋のような外見からは想像できないくらいスタジアムの中はきれいに整備されていた。壊れた箇所はきちんと補修されていたし、剥げたペンキはきれいに塗り直されていた。トラックは雪かきがしてあり、商品を販売するブースが迷路のように並んでいる。

 スタンドのベンチには買い物に訪れた人たちが思い思いの格好で寛いでいた。子供連れの姿もあれば、夫婦者らしき姿もある。酒盛りをしている男たちもいた。

 ホームレス同然の薄汚い身なりを別にすれば、どこか郊外のフリーマーケットに迷い込んだような錯覚におちいる。


「どうだい、賑わっているだろ?」

 アリサは言った。

 かつての新宿を知るものからすれば、たちの悪い冗談にしか聞こえなかったが、殺伐とした外の景色を見慣れた目からするとパラダイスに見える。

「ここは屋根があるから、宿代わりになる。それに風呂は無料で解放しているし、食事も儲け抜きで提供しているんだ。遠方から来た連中はここで数日過ごしていくことも珍しくない」

「サービスが充実しているのね」

「それもこれも人集めが目的だ。マーケットは人が来なければ話にならない」

「売春宿も人寄せのため?」

「それはマーケットの外で、うちの仕切りじゃない。だがそれも人集めにはなる」

 揶揄めいた私の質問にも彼女は気にすることなく答えた。

 たしかにここに来るまでの道中を思いだすと、熱い風呂や飯がどれほどありがたいか身にしみてわかる。

「マーケットは他にもあるの?」

「関東近辺だと六カ所。小さいのも勘定に入れたらもっとある。でもうちが一番繁盛している」

 幼い兄弟が荷物の詰まったズック袋に寄りかかって眠っている父親の周りを走り回っていた。アリサは彼らを呼び止めると、ポケットから取りだしたチョコレートを与えた。

「どこもあんたみたいなヤクザモノが仕切っているんだ」

「誰かが保護しなければ安心して取引なんかできない。群がるハイエナを追い払う人間が必要なのさ」

 アリサは少年たちの頭を撫でてやると、再び歩き出した。


 あの流しのハンターみたいに金を払う手間を惜しむ連中がこの世界にはわんさかいるのだろう。

 私はスタンドを見上げた。

 銃を持った男たちがスタジアムの内と外を監視していた。ぱっと見三十人くらいか。それ以外の場所にも配置されているに違いない。

「安全の代償があんたらのピンハネってわけか」

 私は言った。


「うちは他所よりもショバ代が安い。だから人が集まる。でもそれだけじゃない。うちではマーケット自体が商品を買い取る。どんなガラクタでもね」

「それもサービスの一環?」

「他所はショバ代を取るだけで、取引は客同士が相対でやる。売れれば良いが、売れなければ手ぶらで帰るはめになる。しかし、うちなら遠方から来て無駄足を踏む心配はない」

「なるほど、でも安く買い叩くんでしょ?」

「相場に応じた値段だよ。季節に応じて商品の値は動く。在庫がだぶついているときには買い手がつかないこともある。そんな時でも換金できるとなれば、安くても御の字さ。この世界じゃ売りたいときに売らなければ明日も生きている保証はないんだから」

 アリサは意味ありげな笑みを私に向けた。

 彼女の言葉には強い説得力と人を惹きつける魅力があった。プレゼンするスティーブン・ジョブズみたいに。

 そして彼女は続けて言った。

「いずれは商品を指定された場所に届けるサービスも始めようと考えているんだ。まあ、それにはもっと人が要るし、金も必要だけどね」

 

 この女はジョブズというより、デストピアに現れたジェフ・ベゾスなのかもしれない。

 私は少し暗澹とした気持ちになった。テオやバルガのように凍てついた洞窟で鹿を狩って暮らす連中がいる一方で、時代の波を敏感に読み取り、逞しく切り開いていく者もいる。 いずれはこの女みたいなタイプの人間が地表を覆い尽くすのだろう。そして私が慣れ親しんだ欲と金にまみれた世界を再生させるのだろう。そのときあの洞窟の高貴な戦士たちに行き場は残されているのだろうか? 


 私たちは通路を過ぎて、スタジアムの内部に入った。天井には蛍光灯が灯っている。

 アリサはエレベーターの前で立ち止まると、パネルのスイッチを押した。フロアを表示しているランプが点滅してエレベーターが降りてきた。

「電気が来てるんだ」

 私は思わず驚きを漏らした。

「地下に小型の発電機が何台も設置してある。ここで使う電力は十分に賄える」

 なるほど、種を明かされればさほど驚くには値しない。エレベーターや蛍光灯はこの世界にとってオーパーツではないのだ。

 エレベーターが到着すると、アリサは私の腕を取って中に入った。扉が閉まると、待ちかねたように私の腰を引き寄せて、唇をむさぼり吸った。息が止まりそうなほど情熱的なキスだ。

「いつもこんなことをしてるわけ?」

 ようやく唇を離した彼女に私は言った。

「いつもじゃない。ここにはレオナみたいなあか抜けた女はめったに訪れない」

 アリサはもどかしそうに答えると、ふたたび唇をふさいだ。

――これはタフな夜になりそうだな。

 私は骨がバラバラになりそうな抱擁を受けながらそんなことを考えていた。


 エレベーターが行き着いた先はアリサのオフィス兼居室だった。もとはレストランかラウンジだったのだろう。調度類や壁紙にそれらしい名残がある。

 広々としたスペースにはソファや事務机、ダイニングテーブル、バーカウンターが雑然と置かれていた。部屋の隅にはバスルームとベッドルームがパーテーションで間仕切りされている。フロアの片側はガラス張りになっていてトラックを見下ろすことができた。


 部屋の中は空調がよく効いていて暑いくらいだった。私は毛皮のコートを脱ぐと、ソファの背にかけた。

「ひどい格好ね」

 アリサはあきれたように言った。 

 無理もないコートの下はバルガの木綿のシャツ一枚と粗末な皮のズボンだけだ。

「それでよく吹雪の中を旅してこれたものね」

「死ぬかと思ったわ。でもこの鹿皮のコートはあんがい暖かいのよ」

「そのコートでは手足の凍傷は防げないと思うよ」

 訝しむような目つきでアリサは私を見た。


 彼女の言うとおりだ。

 環境に慣れているテオやバルガですら、重装備で旅に臨んだ。それなのに私はコートの下はシャツ一枚で猛吹雪の中、ソリの荷台に寝転がっていた。それにもかかわらず凍傷はおろか、体調一つ崩していない。私がこの世界に来て口にしたものといえば、林檎とそれから造った酒だけだ。ほんとうならもっと衰弱していなければおかしいはずだ。

 それになんとなくではあるが、身体が軽い。今まで自分を縛り付けていた鎖から解放されたような自在さを感じる。

 時間を飛び超えたことで、私を構成する細胞が上書きされてしまったのだろうか。

「まあいいわ。あなたに合う服をいくつか見繕わせる。私はお楽しみの最中に邪魔が入らないようにひと仕事済ませてくるから、シャワーでも浴びて寛いでいて」

 彼女はウィンクすると、エレベーターの方に向かった。

「ジーンズがいい。それと暖かいセーターと清潔な下着もあればお願い」

 アリサはOKサインを出して、そのままエレベーターの中に消えた。


浴室はビジネスホテルによくあるようなブルーのユニットバスだった。ひょっとしたらビジネスホテルにあったものを引っぺがしてきたのかもしれない。むきだしの水道管が壁の配管に無理やり繋げてあった。素人目にも雑な工事だとわかる。

 しかし、カランを捻るとシャワーヘッドから勢いよく湯が出た。

 私はシャワーの温度を徐々に上げていった。熱湯が身体を突き刺す。逃げ出しそうになるのを足の親指に力を込めて踏ん張った。今日一日の薄汚れた自分が溶けていくようだった。

 あの二人はどうしたのだろう?

 買い物を済ませて、家路についただろうか、それともどこかで一夜を明かしているのだろうか。後味の悪い別れ方だったけど、他にやりようがなかったのだろうか。

 ——だめだ、感傷的になりすぎている。

 私はシャワーの温度を目一杯上げた。

 ここでは私は無力だ。少しでも優位な立ち位置に自分を持っていかなければならない。アリサには金と力がある。そして好都合なことに彼女はレズビアンだった。 利用しない手はない。 

「それが娼婦とどう違うのだ」とバルガならきっと笑っただろう。


 浴室から出ると、ソファの上に下着とジーンズ、それにニットのセーターが用意されていた。どれも着古した様子はなく綿の下着にはまだ値札が付いていた。1980円、値段からすると私の居た時代のものだ。

 文明が滅びた時点ではまだ大量に生産された商品が倉庫に残っていたはずだ。目先の利く連中がそういうものをかすめ取っていったのだろう。

 私はバーカウンターの方にまわり、酒棚にずらりと並んだ洋酒からグレンフィデックを抜き出し、キャビネットの中の大量の缶詰からイカの味付けとマグロのフレークを選んだ。

 ソファに座り、ウィスキーを飲み、缶詰を食べた。シャワーを浴びてさっぱりしたせいか無性にセックスがしたかった。


 最後に女とセックスをしたのはいつだろう。

 ヒカルと別れたあと、私はいろんな女と寝た。人妻、OL、女子大生、中には高校生もいた。もともと恒常的な関係を持とうという気はなかったから、たいていは二、三度寝て別れた。喉が渇いたときに水を欲するように、快楽のうずきを抑える相手がいればそれでよかったのだ。

 相手を選ぶのに不自由はしなかった。同族が集まるバーやラウンジに行けば、成った果実を枝からもぎ取るようにその夜の相手が手に入った。

 私は表面的にはヒカルとのことを過去に追いやって生きていた。けして忘れはしないけど、もう日常の暮らしの中でヒカルのことを思いだすことはなくなっていた。

 そんな私を過去に引き戻したのが夢乃からの電話だった。罠とも知らずにのこのこと故郷に舞い戻った私は夢乃の亡霊と京都で暮らす約束までかわした。宇宙人どもはモニターの向こうで腹を抱えて笑っていたことだろう。


 しかし、連中はどうしてこうも執拗に私に拘るのか? わざわざ渚を未来にまで送り込んで私を殺そうとしているのは何故なのか?

 森島碧の話では私が無意識に垂れ流すヒカルの知識が人類に影響を及ぼすことを彼らは恐れていたという。

だがもう彼らは恐れる必要はなくなったはずだ。こんなインターネットもない世界で何ができるというのだ。私はプラトンやアリステレスではない。自分の知識を後世に伝える意思も能力もないのだから。


 私はグラスに酒をもう一杯注ぐと、ソファに身を横たえた。一口舐めると、睡魔が降りてきて私はまどろみはじめた。

——眠ろう。

 目が醒めたら、ヒカルが愛おしそうに私の顔を見つめているだろうか。

 そんな淡い期待を一発の銃声が打ち砕いた。


 

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