第25話 A Whiter Shade of Pale
1
三日も経つというのに私たちはまだ雪の中にいた。
「長い冬が来たのだ」と、バルガが言った。
分厚い鉛色の雲が一日中太陽を覆い隠し、大地には猛獣の咆吼のような風が吹き荒れた。
それでも犬たちは走り続けた。私は鹿の毛皮に包まり、荷台に転がってひたすら耐え続けた。熱い風呂に入り、体の芯から温まることができるなら、世界中の富を捧げたって構わないと思った。
熱病に浮かされたように私は何度も何度も浅い夢をみた。
初めてヒカルに逢いに行った夜、彼女の白い足に映しだされたミラーボールのオレンジ色、肌をあわせたホテルの部屋の青いルームランプ、百畳敷の岩から展望した一千万の蛍のような街の灯り。どれもが私の胸を甘く締めつけた。
――ヒカル、あなたはいったい何処にいるの? 私にもう逢いたくないの?
私の身体が憶えていた彼女のぬくもり、肌ざわり、匂い、それらはもうすべて抜け落ちてしまい、今ではすっかり別のものに置き換わってしまったけれど、二人で過ごした時間の記憶だけはどれほど私が汚れてしまってもその輝きを失うことはなかった。
私たちはそれをもう一度取り戻せるのだろうか。
四日目の朝、荷台で眠る私をテオが揺り起こした。どうやら目的地に着いたらしい。めずらしく晴れた朝だった。
荷台の上に立ち上がると、雪が反射する陽光に目がくらんだ。そして自分の目の前にある景色がたしかな像を結んだとき、私は痴呆のように唇を半開きにしたまましばらく動くことができなかった。
白い息の先にはコンクリートの廃墟があった。砂糖をまぶしたように雪に埋もれた都市の残骸が視界の果てまで続いていた。
「ここは東京のどの辺りになるのかしら?」
テオは首を捻った。
「たしか、シンジュク。そう呼ばれていたはずだぜ」
バルガが言った。
脳天をコルトパイソンで打ち砕かれた気分だった。
――これが新宿?
笑うしかない。
私の時間感覚ではこの街で働いていたのは一昨日の話だ。
歌舞伎町はどのあたりだろう?
探そうとして、すぐにあきらめた。どこを見渡しても瓦礫の山の中に錆びた鉄骨が墓標のように点々と突っ立っているだけだった。
——この街はもう死んだのだ。
かつての眠らない街は雪の中にその身をよこたえ永遠の眠りについていた。
2
「ここからは歩いてマーケットに向かいます」
犬の綱を解きながら、テオが言った。
「そこで毛皮を売るんです。冬を越すのに必要なものも手に入ります」
「犬たちをどうするつもりなの?」
「こいつらはマーケットの中には連れていけません。ここで僕たちが戻るまで狩りでもさせておきます」
「逃げたらどうするのよ」
「心配はいらねぇよ。テオにとっちゃあ兄弟みたいなもんさ」
バルガが言った。犬たちが思い思いの方向に走り去ると、二人は荷台から毛皮を下ろし肩に担いだ。
瓦礫の中を小一時間ほど進むと、陸上競技場があった。コンクリートは半ば崩れ落ち鉄骨がむき出しになっていたが、原型を想像できる程度には姿を留めている。
「これがマーケット?」
私はスタンドを見上げて訊ねた。
「ええ、そうです。レオナさんの時代には何をする場所だったのですか?」
「信じがたいかも知れないけど、人が走ったり、跳ねたりするのを何千もの人が観に来ていたのよ」
彼の想像の範囲を超えていたのだろう。表情からは何の反応も読み取れなかった。
それでも彼はよけいな質問はしなかった。
「中には公衆浴場もあるんです。うどんやそばは好きですか?」
テオは明るく訊いた。
「ええ、大好物よ」
「それならまず熱い風呂に入り、それからそばを食べましょう」
「それは良い考えね」
私は微笑んだ。
私たちは正面ゲートの方に回った。荷を担いだ男たちが並んでいた。中には女の姿もある。どれもこれも今焼け出されたばかりのような哀れで薄汚い格好をしていた。
ライフルを担いだ歩哨がふたり、ゲートに入る者に目を光らせていた。
「入る前に忠告しておく。ここじゃ前みたいな真似は絶対にやめるんだ」
ゲートの手前でバルガが私に言った。
「前みたいな真似って?」
「テオをけしかけたろ。危うく俺は撃たれるところだったぞ」
「私があいつらに犯られるのを黙って見てるつもりだったのかしら」
「とにかくここでは無茶はよせ。ヤクザモノが仕切っているんだ。流れのハンターなんかとわけがちがうぞ」
めずらしく真面目な表情でバルガは念を押した。
ゲートを通過すると、正面に大きなカウンターがあった。 後ろには雑多な品物が山のように積まれている。方々から持ち込まれた交易品だろう。毛皮もあれば古着もあった。缶詰やハム、燻製の魚といった食料品、それに医薬品まで揃っていた。
穴居人たちの暮らしぶりに惑わされていたが、世界は原始時代まで時計を巻き戻したわけではなかった。
テオとバルガはカウンターの上に担いできた毛皮を置いた。係員がそれを手に取り品定めを始める。
一通りチェックが終わると、係員はテーブルの上に小さなプラスチックのケースを積んだ。それがお金の代わりらしい。
私はひとつ手に取ってみた。ケースの中には青いスポンジの上に金の薄片が乗っていた。
——パチンコ屋の特殊景品だ。
客の話題に合わせるため、たまにパチンコを打つ。ギャンブルは趣味ではなかったが、パチンコや競馬は客と円滑なコミュニケーションを取るためは知っておいて損はない。
私はデジタルとの相性が良いのかパチンコにはよく勝った。この景品は交換所で現金と交換するためのものだ。それがこの時代では通貨として用いられているわけだ。
「どこでも使えるわけ?」
「トウキョウ近辺のマーケットなら使えるはずです」
小さな布袋にケースをしまいながらテオは答えた。
渚から逃げるにしても世界中がシベリアの大地なら見つかる前に野垂れ死にだ。一度は諦めかけていたが、他にもマーケットがあるなら希望は開ける。となれば、あとは金だ。
私はテオの手から袋をひったくった。
「なにをするんですか!」
テオはめずらしく声を荒げた。
「おおっ、怖っ! お金が絡むとずいぶん性格が変わるのね」
私は大げさね首をすくめた。
「だって、それは冬支度を整えるためのものですよ」
「悪いけど私にはこれが必要なの」
「金を返さないとただじゃおかないぞ!」
バルガが凄んでみせた。
「へえ、ただじゃおかないならどうするつもりなのかしら?」
私はハンターから巻き上げたライフルを構えた。
「洞窟には戻らない。一緒に付いてくる気がないならここでお別れよ」
「どこへ行くつもりなんですか?」
「決めていない。とにかく遠くに行くつもり」
「あの女はどうするのですか?」
「どうもしないよ。できれば関わりたくない。でもあいつは追いかけてくるだろうけどね」
そしてきっと渚は私を見つけるだろう。
「どうやら腕ずくで奪い返すしかないようだな」
バルガは手斧を握った。テオは黙って私を見つめていた。
周囲が騒ぎに気づき、人だかりができた。
彼らが冬支度とやらに金を使い切る前にと事を焦りすぎたが、後悔先に立たずだ。表の歩哨が駆けつけて来る前に事態を収束させなければならない。
「冗談よ」と、笑って誤魔化すしかないと思ったとき、人だかりが真っ二つ割れた。
赤毛の女がその中を肩で風を切りながらゆったりと歩いてきた。
デカい女だ。ざっと身長は百八十センチはありそうだ。ベルボトムのブルージーンズに白いシャツ、ボア付きの革ジャンをラフに着こなしている。
この世界で私がみた薄汚い連中とは明らかに違う。きっとこの女は毎日入浴し、たっぷりお湯を使って髪を洗い、下着をこまめに取り替えているに違いない。
女は威圧するようにバルガの前に立った。
「ここでもめ事は困るんだよなぁ。そいつを収めてもらえるかな?」
女はバルガの方に手を差しだした。
「ちっ……」
バルガは舌打ちすると、斧を渡した。
「そっちもそれでいいな」
次に女は私を見た。
南米の血が入ってるのか、ちょっとバタくさい顔立ちだ。目鼻立ちがくっきりしていてくせはあるが、まず美人言って良い。
ブラウンの瞳が品定めするように私を舐めまわした。
――同類か。
ピンときた。
「あんたがここを仕切っているヤクザモノ?」
「そんな訊かれ方をしたのは初めてだ」
女は微笑んだ。笑うと、少女のような無邪気な顔になる。
「私はアリサ、そっちは?」
「レオナよ。それで揉め事の方はどう仲裁してくれるわけ?」
「金は彼らに返すべきね。あなたに鹿が狩れるとは思えない」
表情は女ボスのそれに戻っていた。
「でも銃を持っている」
私は銃を構え直した。
「撃ったことあるの?」
「ないわ。でも撃つ度胸はある」
彼女は束の間、挑むような目で私を見たが、視線を外すと言った。
「わかった、こうしよう。金は彼らに返す。その代わりあなたがここに滞在する間の費用は私が面倒をみる。それでどう?」
「ずいぶん、太っ腹ね」
「腹の据わった女は好みだ。一緒に酒を飲みたくなった」
「喜んで、でもその前に熱いシャワーを浴びたいのだけど」
「もちろん」
アリサは促すように私の肩に手を回した。私はその手をやんわりと払うと、テオを振り返った。
「君にはお世話になったわ。こんな別れ方は不本意だけど、私はあんな暗い洞窟で敵討ちごっこのお手伝いをしている暇はないのよ。それじゃ」
私の手に縋り付こうとすテオをバルガが引き留めた。
「お金はあげます。だから戻ってください」
テオはまだ叫んでいた。
「いいの?」
アリサが言った。
私は肯くと、背を向けた。
——これでいい。あの子は仇討ちなんかよりもっと大切なものをさがすべきなのだ。こんなくそったれな世界でももうすこしましなものは転がっているはずなのだから……
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