第24話 Come As You Are
1
テオは私の話を無表情に受け止めた。
「あまり驚かないのね」
「そんなことはありませんよ。でもレオナはあなただとは思っていました」
「どうしてそう思ったの?」
彼は記憶をなぞるように少し視線を宙に浮かせた。
「雪の上にあなたは倒れていたと言いましたよね。でも、ほんとは降ってきたんです」
「雪みたいに?」
「ええ、雪みたいにです。一糸まとわないあなたが地上に舞い降りてくる様子は尋常じゃないくらい美しかった。何かそう……聖なる瞬間に立ち会っているように思えました。そのとき天啓が閃いたのです。あの邪悪な女が探していたのはこの人だと」
どうやら冗談のつもりではないらしい。空から落ちてきたのが聖女ではなく、ろくでなしのビッチだと知れば彼はどんな顔をするだろう。もちろんそんな悪趣味なことをするつもりはなかった。
私は酒に手を伸ばした。
「褒め上手ね。でも私は君たちにとって災いの種なのよ。そもそもあの女が殺そうとしていたのは私なんだから……」
テオの表情に影が差した。
「父たちは巻き込まれたというわけですね。いったいあの女は何者なんですか?」
「私の幼なじみで親友。今もそうかどうかはわからないけど、少なくとも私はそう思っている」
たとえ殺されかけても私は渚を憎んではいない。状況次第では私が渚を殺す役割を振られた可能性だってあるのだ。
「親友なのに、なぜあなたを殺そうとしているのですか?」
明快でシンプルな質問だ。しかし、その手の質問ほど答えに多くの説明を要する。
「事情が込み入りすぎて、それを君にわかるように説明するには今の私は疲れすぎている。少し眠らせてもらっていいかしら?」
「わかりました。僕はバルガが変な気を起こさないように向こうで寝ます」
テオは葛籠から鹿皮を一枚取り出し、火の傍に敷いた。
「一つだけ教えてください。あなたは僕たちの味方ですか? それとも……」
「敵ではないわ」
私は一瞬の逡巡ののちに答えた。
「よかった」
テオは微笑みを残して穴倉に消えた。
私は鹿皮に横たわり目を閉じた。
渚は遠からずやって来る。いや、こうしている間にも近づいてるのかもしれない。
今度あの子が現れたら、確実に私は殺されるだろう。渚は大の男を瞬く間に殺してしまったのだ。どうやってそんな力を手にしたのかわからないが、今の渚は変態男に精液をぶちまけられ、泣きじゃくっていた貧相な女の子ではない。
しかし、私だってそうあっさりと殺されるつもりはない。もう一度ヒカルに逢うまではどんな汚い手を使っても生き延びてやる。
ヒカルはこの世界のどこかにいる。私はそう直感していた。願望が作り上げた根拠のなき直感かもしれない。しかし、渚が私の居所を突き止められるなら、ヒカルにだってできるはずだ。
とにかくここを離れよう。そして遠くに行こう。生きてさえいればヒカルに会える可能性が少しは開けるだろう。
明日、彼らは越冬の準備を整えるため町に行く。それに便乗しよう。そして町に着いたらおさらばだ。
腹を括ると、瞼が重くなってきた。ほどよくアルコールがまわりはじめたらしい。
翌朝、私はテオに同行を申し出た。
「売られる気になったのか」
バルガが揶揄するように言った。
テオは私のために鹿の毛皮の外套とブーツを用意してくれた。毛足が長く羽毛のように軽い。羽織ってみると、春のように暖かった。どうやらこの世界の鹿は私の知っている鹿とはだいぶ違う動物のようだ。
洞窟の外には犬橇が二台用意されていた。八頭の獰猛な犬たちが白い息を吐きながらその場に蹲っている。
「噛んだりしない?」
「躾けてあるからだいじょうぶですよ」と、及び腰の私にテオが言った。私はおそるおそるテオの背後の荷台に腰掛けた。
バルガが先にスタートし、テオがその後に続いた。
雪は倦むこともなく降り続いている。
「年中降っているの?」
私は背中越しに訊ねた。
「短い夏はありますがそれ以外は降っています。あなたの時代はどうだったのですか?」
「東京に雪が降るなんて年に何度かあるくらいよ。いったい私の居た時代から何年経ったのかしら」
「わかりません。でも祖父がそのまた祖父に聞いた話ではある日、大きな災厄がここを襲ったそうです。それ以前は雲を突くような巨大な建物がそびえ立ち、道には人が溢れていたとか」
まったくため息の出る話だ。
「そんなに昔から、雪が降り続いているなら、すべて覆い隠されてしまったのかもしれないわね」
「ビルの残骸ならまだありますよ。地震がくる度に倒れてしまい、今では鉄の骨組みくらいしか残っていませんが、町に着けば見ることができます」
どんな災厄が地球を襲ったのだろう。核戦争? 大地震? 小惑星の衝突? 日本限定の出来事なのか、それとも世界レベルの破滅なのか。
それを知る手がかりはなにもない。テオも大きな災厄があったということしか知らない。メディアもネットも崩壊してしまえば、個人が知ることができるのは見聞きした範囲でしかないのだ。しかもその体験を伝ることのできる人間も大半が死に絶えてしまった。
新たなヘロドトスか司馬遷が生まれるまでは歴史は暗黒のベールに包まれたままなのだろう。
2
先を行くバルガがちょうど雑木林にかかった辺りで、橇を停めた。
「どうした?」テオが声を掛けると、バルガは武骨な人差し指を唇にあてた。
そして橇から降りると小走りでこちらにやって来た。
「待ち伏せされている」と、彼は言った。
「流しのハンターか?」
テオが小声で応じた。
「ああそうだ。しかし、ここらに鹿はもういないはずだ。用があるとすれば俺たちの積み荷だろうな」
バルガは言った。
辺りを見回してみたが煙るような雪で何も見えなかった。
「危険な連中なの?」
テオが傍らにあったボウガンを手にするのをみて私は訊いた。
「猟をしないときには追い剥ぎを働くような連中です。何枚か毛皮を渡して、引き下がってくれればいいんですが……」
テオは語尾を濁した。
「交渉決裂の際には血の雨が降ることになるぜ」
バルガは言った。彼の右手には手斧が握らていた。鋼鉄の分厚い刃が付いたやつだ。実際に彼がそれを使ったことがあるのかわからないが、人の首くらいは一撃で落とせそうな得物だ。
私たちは息をひそめて前方を注視した。
犬たちは荒い息を凍らせながら主人の命令を待っている。雪は激しさを増していた。
北風が樹々の間を通り抜け、粉雪を舞あげていくと、一匹の犬が立ち上がり、雑木林の方を睨んで低いうなり声を上げた。
私は目を凝らした。流れのハンターが雪の中から姿を現した。
頭数は七人、どいつもこいつもハンターというよりホームレスにしか見えなかった。思い思いにボロを着込み、手には各々武器を持っていたが、先頭の男が肩に担いでいるものをみて私はギョッとした。
ライフルだ。
ただでさえ人数で劣っているのに銃まで所持しているとなればこちらが圧倒的に不利だ。
だが、テオもバルガも動揺している風には見えなかった。想定内ということだろうか。もっとも彼らは火薬が発明された時代よりはるか後世の人間なのだ。銃器を所持していたところでなんの不思議もない。
「よう! 景気はどうだい?」
ライフルを担いだ男が陽気に声を掛けた。
「さっぱりだな。このところ鹿の糞にさえお目に掛からねぇ」
バルガが鷹揚に答えると、雪焼けした男の顔が一変した。
「嘘はよくないぜ。橇にはずいぶんと景気の良いものが積んであるじゃないか?」
「ああこいつか。情けない話だが、これが俺たちの全財産だ。こいつを売って長い冬を越さなきゃならん」
バルガは肩をすくめた。
「そりゃあ気の毒に。だが気の毒ついでにもうひとつ不運を背負って貰わなきゃならん。積み荷を置いていってもらおう」
男は銃を構えた。
「おいおい、本気かよ。どうだひとつ取引しようじゃないか。さっきも言ったように全部渡せば俺たちは凍え死ぬことになる。毛皮五枚でどうだ? こいつはかなりの上物だ。町で売ればたらふく飲み食いして女も抱ける」
「ふざけているのか? 荷台にはざっと見たところ二十枚は載っているぞ。ちっとは自分の立場ってもんを考えてみろ。命が惜しけりゃ、さっさと全部よこしな」
「さっきも言ったろ。全部渡せば俺たちは野垂れ死にだ。どのみち死ぬなら、お前らの何人かを道連れにするぞ。はったりだと思うか? お前が銃で俺を撃つ間に、後ろの坊主がお前らのうちの一人を射殺す。いや二人かもしれん。誰になるかはわからんがな」
バルガはドスの効いた声でハンターたちを見回した。
喧嘩慣れしてるなと、私は思った。まさに捨て身の反撃というやつだ。
「半分だ」
男は言った。
バルガはテオを振り返った。テオが肯くのを確認すると、彼はふたたび男を見た。
「いいだろう。それで手を打とう」
「交渉成立だ」
男は仲間に合図した。
ハンターたちがバルガの橇の荷をほどき始めた。
テオもバルガもその様子を黙ってみていた。半分で命拾いできたのなら上出来だろう。
荷下ろしする仲間から離れてハンターが一人、こちらに歩いてきた。
黒い耳当てのついた皮帽子をかぶり、手には鉈のようなものを持っていた。男の視線はしっかりと私に据えられている。思わず目を背けたくなるような凶暴な人相だ。
「俺はこの女を貰う」
皮帽子は私を指差した。
「女は取引には入っていないぞ」
バルガがすかさず釘を刺した。
「それはあいつの取引で俺のじゃない」
皮帽子があざ笑うと、ハンターたちも笑い出した。
「俺が味見し終わったら、お前たちにもお裾分けしてやるぞ」
ハンターたちは一斉に中指を立てて、嬌声で応えた。
にやつきながら皮帽子は近づいて来る。
冗談じゃない。こんな連中に輪姦されるくらいなら、渚に殺された方がましだ。
「なんとかしないさいよ」
私は荷台からテオの背中を蹴った。
テオは反射的に立ち上がると叫んだ。
「取引なんかくそくらえだ!」
矢は一直線に皮帽子の眉間を捉えた。
すぐに銃声が乾いた空気に響いた。
「伏せてください!」
テオが言った。
私はバルガの姿を目で追った。彼はライフルの男の肩にめり込んだ斧を足をかけて引き抜いていた。
マービン・ハグラーのようなすばやく、そして正確なコンビネーションだった。
瞬時に仲間を二人倒されて、ハンターたちは浮き足だった。追い打ちをかけるようにテオが綱を解くと、犬たちは一直線にハンターたちの喉や耳に食いついた。血しぶきが雪を真っ赤に染めていく。
犬たちは人を襲うように訓練されているのだと私は思った。
つまり対渚用の秘密兵器ということか。彼らは無為に復讐の機会が訪れるのを待っていたわけではなかった。あの暗い洞窟で牙を研ぎ続けていたのだ。
用心棒に使えるかもしれない。私はこぼれ落ちる笑みを見られないようにフードを深く被り直した。
犬たちがあらかた狩りを終えると、テオとバルガは荷物を橇に積み直した。
私は足下に転がっていたライフルを拾い上げた。傍らで、ざっくりと肩を割られた男がまだ弱々しい息をしていた。
「こいつまだ生きてるわ」
「じゃあそいつでズドンとやりな」
「いやよ」
「なら雪狼にまかせろ。じきに血のにおいを嗅ぎつけてやって来る」
バルガは言い捨てると、橇に乗り込んだ。
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