第20話 Smoke on the Water
もう何が何だか分からない。
夢乃はすでに死んでいて、ヒカルは生きていた。そして私を監視している。おまけに両親は離婚していて、家族は崩壊。今までの出来事は何だったのだろう。夢を見ていたのか、それとも今夢の中にいるのだろうか。私という存在を成り立たせている記憶の連鎖が断ち切られ、ばらばらになり、空中に浮遊している、そんな感じだ。とにかく私を迷宮の中に置き去りにしたヒカルの消息を知りたい。
「ヒカルは今、何処にいるんです?」
タバコをくゆらしている森島に私は尋ねた。
「わからない。向こうから一方的に連絡が来るだけだから」
「でも私を監視しているってことは近くに居るってことでしょ?」
「それはどうかな……私たちにはわからない方法であなたの動向を把握しているのかもしれない。より精度の高いGPSのようなものとか」
「その口ぶりだと、ヒカルが宇宙から来たことを知っているんでしょ」
森島はそれには答えず、グラスに満たしたビールを口許に運んだ。
「ヒカルから聞いたの?」
私は重ねて尋ねた。しかし、彼女は押し黙ったままだ。
「知っていることを全部教えてほしいんです。私には知る権利があるはずよ。それにこんな厄介ごとに私を巻き込んだのは先生なんだから」
彼女ははじめて私の顔をまともに見た。そして大きくため息を付くと、ようやく重い口を開いた。
「何も聴かずに東京に帰るのが今のあなたにとって最良の選択なのよ」
「たぶんそうするのが一番いいんだろうね。でも選択肢も示されずに、それがベストなんて言われても納得できない」
「これはあなたのアイデンティティに関わることなの。元担任としては教え子に聞かせるにはかなりの覚悟が必要。私自身、この問題に首を突っ込んだことに後悔している。自分の好奇心が呪わしいほどにね」
私は思わず笑ってしまった。
「アイデンティティなんてとっくに粉々になっているよ。今さら何を聞いてもこれ以上、ボロボロになるとは思えないよ」
死んだ人間と生きている人間の葬儀にでたり、白昼の街中で気味の悪い蛇女に襲われたり、奇異な体験は一生分している。お前は実はネアンデルタール人だと言われたって、何を驚くことがあるのだ。
「綾瀬ヒカルは生きている。そしてあなたのためを思ってニセの記憶を植え付けた。それだけじゃだめ?」
私は自分の意思を明確にするようにはっきりと首を振った。真実を知るまではてこでも動くつもりはない。
「なぜ綾瀬ひかるに興味を持ったのか? そこから話した方が良さそうね。その前に強いお酒が必要になるわ」
根負けした森島は電話を取り上げると、ブランデーを注文した。程なくしてお酒がワゴンで運ばれて来ると、私はグラスを二つ並べて、氷を放り込み、酒を注いだ。
「手慣れたものね」
グラスの底の水滴をハンドタオルで拭き取る私を見て、森島は微笑んだ。
「彼女が私の関心を引いたきっかけはほんとに偶然なのよ」
森島はブランデーの強い香りに目を細めると、少し口に含んだ。
「実はね。彼女が勤めているキャバクラの雑居ビル、あそこに行きつけの店があるの。そこで彼女を見かけたのが最初。飼い慣らされた子羊ばかりの学校に校則を破る子が居たことは新鮮な驚きだったわ。頭からアルバイト禁止なんて決めつけるつもりはなかったけど、さすがに水商売となると退学にまで発展しかねない問題でしょ。直接本人から話を聞く前に指導要項に目を通した。抜群の成績、高いIQ、悲惨な家庭環境。どれもが私の好奇心を刺激した。そして最初に浮かんだ疑問はこの県には彼女の成績に相応しい公立の進学校があるのに、なぜK女のようなお嬢様学校を選んだのかってこと」
「確かにアル中の父親を抱えている娘の行く学校じゃないですよね」
「彼女は奨学金を受けていたし、特待生制度も利用していた。でも県内には彼女の成績に相応しい公立の進学校があるでしょ。K女は品行方正なお嬢様として高校時代を送ったという証明書をもらうような学校。頭脳明晰で、貧困家庭に育った子にとっては退屈で苦痛な場所以外のなにものでもないわ。事実、中学の時の担任もそちらを勧めたのよ。でも彼女は頑なにK女に拘った」
ヒカルがお嬢様に憧れていたとか、将来然るべき嫁ぎ先のことまで考えてK女を選んだなんて事はあり得ない。
「つまり、宇宙人的にはK女でなければならない理由があったということですか?」
私たちは同時にタバコを手にした。話が核心に近づいている。
「その時点で私は彼女が宇宙から来たなんてことは思いもよらなかった。でも興味からの疑問が、これは何かあるなという疑惑にかわったのは家庭訪問をしたとき」
学年が代わる度に行われる家庭訪問のことを久々に思いだした。
「アル中の親父に会ったんですね」
「一年の時の担任から申し送られていたから、彼女の父親に問題があることは承知していたし、私の父親も同じだったから、昼間から彼が酒臭い息を漂わせていることに驚きもなかった。四十半ばにしてはかなり老け込んでいた。手は始終震えていたし、呂律も回っていなかった。でも部屋はきちんと片付いていたし、父親の着ている物もこざっぱりしていたから、きっと綾瀬さんはこんな環境の中でもちゃんとやっているのだなと少し安心したことを覚えている。父親はまともな応対ができそうになかったので、あきらめて帰ろうとしたときあの男が言ったのよ。『あいつはあの事故の時、誰かと入れ替わったんだ。女房はそれに気づいて何度も俺に訴えていたのに、俺は聞く耳をもたなかった』って」
「それでどうしたのです?」
私は思わず身を乗り出した。
「あとは泣くばかりで話にはならなかった。でも、彼の言葉がただのアル中の戯言とは思えなかった。うちの父親もそうだったけど、ああいう人は自分が躓くきっかけになったことから抜け出せないでいるのよ。だから酔う度に呪いの言葉のようにそれを繰り返す。だから私は調べてみようと決心した。そしてあの事件に行き当たったわけ」
「鉢伏山乃で出来事か」
「父親の言葉から、それが綾瀬ひかるが幼稚園の年少組のときに起こった事件だということだけはわかっていたから、図書館に籠もって当時の新聞を読み漁った。そして見つけた記事がこれ」
森島はさっきのファイルから、別なコピー紙を抜き出した。
行方不明の女児三人、無事保護される。
N市鉢伏山で行方不明になっていた綾瀬ひかるちゃん(6歳)深町渚ちゃん(6歳)浅香玲於奈ちゃん(6歳)が一夜明けた七日、山中で無事保護された。県警によると、三人は両親たちと鉢伏山にハイキングに来ていたが、遊んでいる途中いなくなり、県警などが捜索していた。三人にかなり疲労している様子だが、怪我はなく近くの病院に運ばれた。
私は何度も何度もそこにある名前を見直した。見えない角度から入ってきた左フックをもろに食らった気分だった。「行方不明になったのは三人」タクシードライバーの言葉が脳内をループする。まさかその一人が自分だったとは……
「でも、どうしてヒカルはその事実を伏せていたんだろう。いやヒカルだけじゃない。両親も私にそんな話はしなかった」
「隠さなければならない事情があったのよ。家庭訪問のときに、あなたのお母さんと深町さんのお父さんそれぞれに事件のことを尋ねた。あなたのお母さんは一切それについて話さなかったけど、深町さんのお父さんは重い口を開いてくれた。きっと誰かに話したい気持ちがどこかにあったのね」
森島はそこで言葉切ると、グラスに手を伸ばした。氷が溶けて琥珀色が薄まっているのに気づいて、私はブランデーを継ぎ足した。彼女はちょっと会釈をすると、グラスを取り、あおるように飲み干した。
こんなに動揺しているときですら、薄いお酒を見れば取り替えたくなるのはキャバ嬢の性なのか。自分で自分を笑ってしまう。しかしふとした瞬間に出る職業意識が今の私にとって数少ない確からしさなのだ。
「それで渚のお父さんははなにを話したんです?」
「彼は綾瀬ひかるの父親と同じようなことを言った。妻があれは自分の娘じゃないと訴えているとね。そして彼はこうも言った。妻だけではない。淺香さんの奥さんも同じような思いを抱き悩んでいるのだと」
二人の出会いは渚の誕生会のときが初めてだと思っていた。母はその時、私と一緒に旧市街にある深町家を訪れた。しかし、それよりずっと前から二人は知り合いだったのだ。
「二人はあの事件の後、頻繁に連絡を取り合っていたそうよ。あなたのお父さんは綾瀬ひかるの父親と同じようにお母さんの訴えにまるで耳を貸さなかった。孤独を感じた彼女は同じ境遇の娘を持つ深町氏にいろいろと相談するようになったそうよ」
母が無節操なくらい渚との付き合いに寛容だった理由がこれで氷解した。彼女が渚の父と話すとき、父にはけして見せたことのない安堵した表情を浮かべていた理由もわかった。渚の父の世俗的な地位に目がくらんでいたわけではなかったのだ。彼女は綾瀬ひかるや渚の母親と同様に自分の娘がなにか別のものに置き換わったことに気づき、悩んでいたのだ。
「つまり私と渚も綾瀬ひかるのように改造を施されていたということなのね。でもヒカルには自分が宇宙人という認識があったのになぜ私たちにはそれがなかったの?」
「あなたたちはバックアップだったのよ」
「バックアップ?」
「アクティブな状態に置かれていたのは綾瀬ひかるだけ。そしてもし彼女の身に何か起こったときのためにあなたと深町さんにも同じ情報が移植された。もちろんあなたたちの意識に顕在することのないような形でね」
「ヒカルがそれを話したの?」
「私はキャバクラに客として通い、そして彼女に自分が調べたことをすべてぶつけた。もちろん彼女はただの偶然と笑い飛ばした。こっちもそれ以上は突っ込みようがなかった。偶々、その日居合わせただけの三人少女が一緒に姿を消し、次の朝同じ場所で発見された。彼女たちにはその間の記憶が一切ない。とても奇妙なことだけど、それを合理的に節目できる推論を私は持っていなかった。結局、そこで諦めるしかなかったんだけど、真相は向こうからやってきた。あの夏の日、病院を出た綾瀬さんは私のところに来たのよ。そしてすべてを話してくれた」
「でもなぜ、急に話す気になったの?」
「彼女は私にすべてを打ち明けた後、こう言ったの。『私が回収される日が近づいている。そうなればバックアップは消去されなければならない。レオナを守る手助けをしてほしい』とね」
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