第19話 Penny Lane

 

 私たちは小鳥のように何度もキスをした。

 心の空隙を埋めるかのように何度も何度も……


「玲於奈……」

 私の胸にもたれながら夢乃が名前を呼ぶ。

「なに?」

「大好き」

「私も夢乃が大好き」」

「ずっとその言葉を聞きたかったんだ」

 上目づかいにそう言う夢乃の髪を私は撫でた。いつでもトリートメントしたてのようなしっとりとした艶がある彼女の髪が昔から大好きだった。掬ってみると、抵抗もなくスルリと指の間を落ちていく。夢乃はそうされると気持ちいいのか、うっとりと目を細めた。

「これから何千回、ううん、何万回も言ってあげる」

 私は彼女の耳元で囁いた。

「うれしい」

 夢乃は私の唇を人さし指で愛撫しながら言った。

「でもどうして言ってくれなかったの? 告白する機会はあったと思うけど」

「女が女を愛することに罪悪感があったんだと思う。うちは両親共に保守的な人たちだから。それに玲於奈に拒絶されたらと考えると、怖くてとても言い出せなかった……」

 夢乃は私の袖口をギュッとつかんだ。


 もしヒカルと出会う前に夢乃に告白されたら私はどうしただろう。美人で頭も良く真っ直ぐな性格の彼女は私にとって憧れの存在だった。あんなふうに生まれてきたら、人生の半分は勝ったも同然だと思ったこともある。まさかその彼女がレズビアンなんて一瞬でも考えたことはなかった。

 ヒカルの場合は十代の少女が恋愛対象として受け入れやすい容姿をしていた。しかし、夢乃は違う。ヒカルに勝るとも劣らない美少女ではあるが、彼女の場合は陽の当たる道を堂々と歩く姿が似合う。収入も知性もある男と結婚し、週に一度正常位でセックスをし、やがては彼女に似た美しい顔立ちの子供に恵まれる。良妻賢母、まさに夢乃のためにある言葉だ。今際の際にはきっと、子供や孫たちに見送られながら、先に天国で待っている夫の元に旅立つ。そんな人生を誰もが予想するのが夢乃だ。


 だからもし夢乃から「好きだ」なんて言われたら、返事をするより何よりも混乱したに違いない。渚の病室でちょっかいを出したときですら、恋愛関係になることを求めていたわけではない。グルメなおっさんがたまには毛色の変わった料理を食べたい。そんな気分で手を出しただけだ。まさか隣で寝ている彼女にその気があるなんて夢にも思わなかった。


「でもあのときどうして私を拒否したの? 起きてたんでしょ」

 私はちょっとイジワルな調子を込めて言った。

「怖かったのよ。一緒のベッドで眠ることになって、期待している部分もあったんだけど、それでもやっぱり怖かった」

 夢乃は言った。

「そうか。まああんなことがあったあとじゃ無理ないよね」

「何度も忘れようとしたわ。大学に入って彼氏をつくったのもあの忌まわしいできごとを忘れられると思ったから。付き合っていたら、当然身体を求められるし、我慢しなきゃと思うんだけど、身体が勝手に拒否反応を起こすのよ。相手だってこっちが嫌がっているとわかれば、白けてしまうでしょ。結局、飽きられた別れてしまった」

「夢乃はほんとにくそ真面目なんだから! セックスなんて気持ちよくなるためにするのよ。我慢しながらやるもんじゃないの。夢乃の場合は真性のレズビアンなんだから、男とセックスして気持よくなるわけないじゃない」

「そうなの? 玲於奈ってやっぱりすごいな。自分がその……普通じゃないってわかっても平気だったの?」


 私の場合はどうなんだろう。さほど抵抗もなく自分がレズビアンである事実を受け入れたと思う。あなたは左利きよ、人からそう教えられた程度のことで、マイノリティとして多少の不便を被ることはあっても、自分自身を否定するほどのことではない。むしろ問題なのは私がどうしようもないろくでなしってことだ。ヒカルが死んだというのに私はちっとも悲しくない。あれほど愛し合った彼女にもう二度と会えないというのに……

 しかし、夢乃はろくでなしではない。彼女にそんな思いをさせてはいけない。


「単に好みの問題よ。夢乃場合は出会いが最悪だった。私はこの道の最良の導き手に出会った。それだけの違いよ。私、京都に行く。一緒に住もうよ」

「でも就職はいいの?」

「私にOLは無理だわ。京都にだってキャバクラはあるでしょ? キャバ嬢なんていつまでもできるわけじゃないけど、しばらくは悪くないなと思っている」

「嬉しい。まるで夢みたい……でも遅かった」

「遅かった?」

 目が疲れているのだろうか、夢乃の輪郭がぼやけて見える。

 夕立の前のように突然、暗雲がたれ込みあたりが暗くなった。

「遅かったって、どういう意味?」

 夢乃が何か言った。しかし、声が聞き取れない。輪郭がますますぼやけていく。いやそれだけではない。夢乃の身体から色素がどんどん抜けていき、向こうが透けて見えた。何かがおかしい。

「ニゲテ」

 夢乃の唇がそう動いた。

「何から逃げるのよ」

 私は夢乃の肩に手を伸ばしたが、空をつかんだだけだった。彼女の姿は消える寸前のホログラム映像のように透明になると、スイッチが切られたように霧消した。


 シュルシュル 聞き覚えのある音が背後でした。芥子色のブルゾンの女がそこに居た。いや女と呼ぶのも無理があるくらいそいつは風化が進んでいた。ところどころ干からびた皮膚が崩れ落ち、白い頭蓋骨が剥き出しになっていた。オレンジ色に塗りつぶされた目は不気味な光を放ち、先の割れた腐りかけのレバーみたいな舌を伸び縮みさせ、荒い息を吐きながらそいつはクフ王の墓から這いだしてきたミイラみたいにヨタヨタとゆっくりと近づいて来る。

 拳を握りしめると、私はそいつに向かって歩き出した。

「夢乃を何処にやったの?」 

 恐怖なんて微塵もなかった。私が何処かに置き忘れてきたものの一つが恐怖だ。

「答えろ!」

 ストレートがもろに顎に入った。ウエハースみたいに顎は粉をまき散らして砕けた。かび臭い匂いが辺りに散乱する。私は構わず殴り続けた。皮膚はすべて剥がれ落ち、頭蓋骨にぽっかり空いた眼窩にはオレンジ色の光だけが宙に浮いている。

 こんな奴を相手に為ている暇はない、早く夢乃を探さなければ、そう思った瞬間強烈な光が目に飛び込んできた。同じ手に二度も引っ掛かるとはなんて間抜けなんだ。両腕をクロスさせて顔を覆いながら後ずさりすると、喉ヌメッとしたものに締め付けられた。私は喘ぎながらなんとか呼吸しようとした。舌は容赦なく締め付けを強めた。頭に血が上り、正常な判断力がどんどん失われていく、薄らと開けた目には神社の太鼓橋が見えた。その向こうには一面の蓮華の花が咲いている。

(まずい……あの世の光景だ)

 涙で滲んだ視界にオートバイが見えた。猛烈なスピードでこちらに向かって来る。

半端者というのはあの世からのお迎えまで人とは違うのだろうか。意識が途切れる最後の瞬間に聴こえたのはエンジンの爆音と、骨の砕ける鈍い音だった。

 

 頬を激しく張られて気がついた。黒いライダースーツに身を包んだ女が右手にジュラルミン製の警棒を持って見下ろしていた。

「行くわよ」

 女はフルフェイスのヘルメットのシールドをはね上げた。

「森島先生?」

「感動の再会はまたあとで、ここはかなりやばい」

「待って、夢乃が、彼女は何処に行ったの?」

「夢乃って、遠藤さんのことね」

 一瞬、森島は怪訝な表情を見せたが、すぐに納得したように肯いた。

「彼女なら無事。安全なところにいるわ」

 森島は私を引き起こすと、強引にバイクに跨がらせた。

「ほんとうに夢乃は無事なんですか?」

「ええ、保証する。彼女はだれも手を出せないところにいる」

 森島はそれだけ言うと、バイクを走らせた。


 2 



 駅前の大通りに出てしばらく走ると、森島はシティホテルの地下駐車場にバイクを乗り入れた。

 フルフェイスを取り去った森島は昔より髪が伸びていた。いや髪だけではない。教師時代の親しみやすい憧れのお姉さんという雰囲気から、六本木あたりの高級ラウンジにいるようなハードルの高い女に変身していた。

 ラフにウェーブが掛かったダークブラウンのロングヘアを一振りすると、「付いてきて」と言って、客室直行のエレベーターの方に歩き出した。訊きたいことは山ほどあったが、頭を整理するためにも私は黙って後に従った。

 エレベーターに乗ると森島は迷わず行き先のボタンを押した。高価な香水の香りと腕時計、随分と羽振りがよさそうに見える。今は何を聞いても答えるつもりはないのか、彼女は終始無言だった。


 エレベーターは八階で停止した。

 扉が開くと和服姿の女性が「おかえりなさいませ」と、カウンター越しに挨拶した。カウンターの上には立派な花瓶に花が活けられている。上品で落ち着いた佇まいからして、このフロアはスィート専用なのだろう。フロア全体がしんと静まりかえっていた。廊下の真紅のカーペットは掃除がよく行き届いていて、チリはおろかはげた部分すら見当たらない。さっき敷き詰めたばかりのように毛足は新しかった。

 森島は慣れた様子で廊下を歩き、いくつか角を曲がってドアの前に立った。「ここよ」彼女はカードキーを差し込むと、私を招き入れた。

 広々とした室内には応接セットに大型のテレビ、頑丈そうなマホガニーのデスクが置かれている。どれもビジネスホテルにあるような安ものではない。教師を辞めてから、スイートルームに泊まれるご身分になるまで、彼女はいったいどんな生き方をしてきたのだろうと私は思った。

 森島は冷蔵庫から缶ビールを二つ取ると、一つを私に放り投げた。そしてソファにどっかりと腰を降ろすと、長い足をガラスのテーブルに投げ出して、プルタブを引き起こした。グラスにあけずにそのままぐい飲みした。


「夢乃は? 彼女はほんとうに無事なんですか?」

 私は待ちかねたように口を開いた。

 森島は缶ビールを置くと、タバコに火を付けた。それからゆっくりと私を見た。

「やっぱり何も覚えていないのね」

「何をです?」

 森島はフッと煙をふかすと、冷蔵庫からもう一本缶ビールを取った。今度はそれをグラスに注いだ。

「遠藤さんは死んだわ。三年前にね」

 彼女はグラスの泡を見つめながら言った。

「ここに連れてきたのはそんなつまらない冗談を言うため?」

 あまりのバカバカしさに腹が立ち、私は声を荒げた。

「今のあなたに信じろと言っても、無駄よね」

 森島は大きなデスクのところに行き、引き出しからファイルを取りだした。その中から紙切れを一枚抜き出すと、私の前に置いた。コピーされた新聞記事だった。


——女子校生、ダンプにはねられて死亡 運転手を事情聴取


見出しにはそう書かれていた。


八月二日午前八時頃N市深町病院前の国道でK女子高校二年生遠藤夢乃さん(17歳)がダンプカーにはねられ、全身を強く打って間もなく死亡した。

N署によると、遠藤さんは国道に飛び出した友人を庇おうとして、直進してきたダンプカーにはねられたという。


「こんなの嘘よ。現に私は夢乃と一緒にヒカルのお葬式に出たのよ!」

 私は紙切れを払いのけた。


「事実はそこにある通り。遠藤さんは半狂乱になって病院を出たあなたを追いかけ、事故にあったのよ」

「そんなのおかしい! 私はちゃんと覚えている。拒食症が再発した渚に夢乃と二人で付き添ったんだ!みんなで朝方までゲームをしたんだ。夏休みが終わる頃には渚はすっかり元気になっていた。もう一度一からやり直せるはずだった」

いつの間にか涙声になっていた。

「それなのに渚は……でも夢乃はずっと友だちでいてくれたんだ。私ははっきりと覚えている」

 森島は無表情に首を振った。

「記憶が改ざんされているのよ。あなたは遠藤さんが倒れている傍らで茫然自失の状態だった。そしてそのまま入院した。学校に出てきたのは二学期の半ばだったわ。でもあなたはもう以前のあなたではなかった。誰も寄せ付けず、一人でいつもブツブツと呟きながら校内をうろついていた。きっと遠藤さんの幻影と一緒だったのね」


「バカバカしい! そんな状態で高校を卒業できたわけ? あの学校は体面にうるさいのを知ってるでしょ。そんなおかしな生徒がいたらすぐに退学させるはずよ」

「実際、そういう動きはあったわ。でも私がさせなかった。もしそんなことをすれば、綾瀬さんがキャバクラに勤めていたこと、あなたがそこに通いお酒を飲んだことを公にすると脅した。それにあなたの場合、奇行は目立ったけど成績は図は抜けていたの。おかしくなる前よりずっとね」

「両親は……私がおかしくなって父や母はどうしたの?」

「お母さんはしばらくして家を出た。離婚したのかどうかまではわからないけど、あなたはお父さんと一緒に暮らしていたのよ。卒業するとあなたは東京に出た。そして専門学校に通いながらキャバ嬢をしていた」

もう自分の記憶にまったく自信を持てなかった。私が覚えていることはすべて夢の中のお話にすら思えてくる。

「じゃあヒカルが死んだことを私に伝えたのは誰?」

「さあ? ひょっとして遠藤さんなのかもしれない。あるいはあなた自身が綾瀬さんとのことに結着をつけようとして作り出した幻想かもしれない」

 森島は核心を巧妙に迂回しているような気がした。彼女はなにかを隠そうとしている。

「まるで私のことを監視していたみたいになんでもよく知っているのね」

「監視していたわ。あなたが卒業して、東京に行くと私も教師を辞めて後を追った。元はと言えば、私があなたを綾瀬さんに近づけたのが原因だもん。責任をかんじていた」

「責任なんて感じなくていいですよ。なるべくしてなったんだから。でも、私がここに来たのはほんの気まぐれ、面接の途中に気が変わって、新幹線に飛び乗った。まさか二十四時間監視してるとか? そんなわけないよね」

「あなたに危険が迫っていると教えてもらったよ。その人こそあなたのことをずっと監視していた。私はただの協力者」

「いったいそれは誰なんですか?」

「綾瀬ひかるよ」


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