第18話 New Kid in Town

1

 秋の乾いた風が吹き抜ける歩道を私と夢乃は黙って歩いた。温室のような喫茶店でのぼせ上がった頭を冷やすのにはちょうど良い。

 並んで歩く夢乃の横顔はおぞましい記憶を呼びさました恐怖で少し青ざめていた。

彼女の口からエリカの名前が出たとき、そこで話を打ち切るべきだった。今の私ならわかる。あの女も私と同じろくでなしのレズビアンで、真っ当な同性愛者ではない。

 きっとあの女は夢乃に目を付けたのだろう。後の展開はおよそ想像がつく。情報を餌に夢乃を弄んだに違いない。敢えて夢乃の口からそれを聞くまでもなかった。ヒカルが私の前から消えた理由も分かったのだし、この愛らしい友人の傷に塩をすり込むようなことはすべきじゃない。このまま別れよう。私はそう決めた。


「家には寄らないで帰るの?」

 ちょうど地下鉄の降り口が見えたとき、夢乃が言った。

「東京に行ってからは一度も帰ってないよ」と私は答えた。

「ご両親は何も言わない?」

「むしろほっとしてるんじゃないかな。母は私を嫌っているから」

「そんな……」

 夢乃は顔を顰めた。

「父が時々、訪ねてくる。母には内緒でね」

「玲於奈が夜の仕事をしているのをお父様はご存じなの?」

「話してはいないけど、薄々は気づいていると思う。よほどの馬鹿でもない限り、コンビニの店員やウェイトレスのバイトで、学校に通いながらマンションに住めるなんて思っちゃいないわよ」


 東京に出たとき、最初に借りたのは学生専門のマンションだったが、キャバクラに勤めるようになって、すぐにそこを出た。水商売をやるには何かと制約が多かったからだ。

 今住んでいるところは1LDKといってもかなり広い。家賃も高めだが、十分払えるだけ稼いでいた。

 父は新しいマンションに訪ねてきたとき何も言わなかった。普通なら入居にかかった費用や家賃について尋ねるはずだ。

 しかし、父は逃げた。代わりに彼はキッチンのテーブルにそっとお金を置いて帰った。


「玲於奈が家を出たのは、やっぱりあの夏のできごとが原因なの?」

 足を止めた夢乃を私は振り返った。

「きっかけはね。でも遅かれ早かれ私は今みたいになっていたと思うよ」

「どうして? 綾瀬さんと出逢わなければ、違う未来があったと思わないの。あのまま何事もなく卒業していれば、私たちは時々電話でおしゃべりをしたり、長いお休みには集まって旅行に行ったり、そんなことだってできたはずよ」

「無理だね。私は半端者なんだ。人として当然、持っているべきものを忘れたまま生まれてきたんだ。ヒカルはそれを気づかせてくれただけ……私がろくでなしのレズビアンだってことをね」

 この二年の有り様を振り返ればわかることだ。時限装置が正確に作動しただけのことなのだ。たとえスイッチを押したのが彼女であるにせよだ。


 私は向き直ると地下鉄の階段を降り始めた。冥界に続く通路のように闇はどこまでも続いているようだった。行きしなに来たのと同じ場所なのか確信が持てない。ひょっとしたら違う降り口に行き当たったのかもしれない。地下鉄の降り口などどれも似たようなものだ。


 中ほどまで降りたところで芥子色のブルゾンを着た女がピンク色のバッグを開けて中身を探っていた。量販店で買ったような安っぽい光沢のブルゾンだ。しかし、バッグは不釣り合いなくらいに高価なものだ。誰かが適当なアイテムを持たせて人間にでっち上げたようなそんな不自然さを感じた。


――こんなところで何をしているのだろう

 

 女は視線をバッグの中に落としたままだが、金色の産毛にびっしりと覆われた耳はスクリュー音を探るソナー員のようにピクピクと忙しく動いている。


――盗み聞きしてたんだ。


 私は身構えた。

 女はクロエのバッグに突っ込んでいた手の動きを一瞬だけ止めた。わら半紙のような皮膚の一部がめくれて骨が剥き出しになっていた。業病でも患っているのだろうか。それとも何か別のものなのだろうか。 



「待ってよ。またあの時みたいに、私を置いて逃げるの!」

追いかけてきた夢乃が階段の上から悲痛な顔を覗かせた。

降ってきた声に、女の耳がピクリと反応した。


「あのね。私だって半端者なんだよ……あの時あの女の人は……」

 

 私は夢乃を手で制した。これ以上、この女の好奇心に餌を与える必要はない。


「あんた誰なの?」

 女は顔を上げて私を見た。爬虫類のような金色の目、ひび割れた皮膚、人間じゃない。

背中が泡立つような悪寒を覚えた。


――シュルシュルッ


 地を這う蛇のように女の腕が喉元目がけて伸びてきた。わずかに身をよじってそれを躱した。動体視力には自信がある。

私はボクサーの娘だ。繋がりは薄れても遺伝子まで捨てたわけじゃない。ホームセンターで売っているような安物の腕時計が目の前を通り過ぎる。針は六時十五分を指していた。


――おかしい。店を出たのは午後二時のはずだ。


 途端にフラッシュを炊いたように爆発が起こり、光がせまい階段に充満した。目潰しを食らった私はよろめき、尻餅をついた。


――まずい


 女は私の右の足首を掴むと、ものすごい力で引っ張った。死に神の鉄鎖に絡まれたように身体ごとずるずると闇の中に引き込まれていく。

 片足でなんとか踏ん張りながら、階段に手を掛けて、にじり上がろうとしたが、抵抗するのが手一杯で、とうとう階の角に掛けていた指が剥がされた。

 いよいよダメかと思ったとき、夢乃が私の手を掴んだ。身体が固定されたことで自由になった左足を使い、女の腕に思いっきり踵を叩きつけた。

 骨が砕けるグシャッとした感触。女はたまらず手を離した。痛覚はあるらしい。

 すばやく立ち上がると、私は女の顎をまともに蹴り上げた。仰向け様に階段を落ちていく女を確認すると、私は夢乃の手を取った。


「なんなの?」

 夢乃が悲愴な声を上げた。

「わからない。でも邪悪なものだ。逃げよう」


 私たちは薄汚い雑居ビルの立ち並ぶペラペラの街を逃げた。顔のない通行人の間をすり抜け、ひたすら走った。途中何度も躓きそうになりながら、夢乃はけして繋いだ手を離しはしなかった。


「あれみて!」

 郵便局の角を曲がったところで、夢乃が手を引いた。

 横断歩道の先に石の鳥居があった。その一画には樹木が生い茂り、森のようになっている。神社の境内だった。まるで奥行きのない芝居の書き割りのような平板な街並みの中で、そこだけが命が息づく鼓動が感じられた。


「行ってみよう!」

 横断歩道を突っ切ろうとしたとき、耳を穿つようなクラクションの音が鳴り響いた。黒い大きな影が迫り、けたたましいブレーキの唸る音がした。夢乃が私を庇うように覆いかぶさり、そのまま私たちはアスファルトの上に倒れ込んだ。


――このまま死ぬのかな。


 ふとそんな考えが過ぎった。不思議と恐怖はなかった。このまま夢乃に抱かれたまま逝ってしまうのも悪くない。

 渚が離れていき、美亜が去った。気がつくと私の傍に居るのは夢乃だけになった。それなのに私は彼女の手を振り払うように、故郷を離れた。

「私も東京の大学に行こうかな」

 三年の冬休みを前にしたある日、夢乃がポツリと言った。彼女は父親の母校である京都の国立大学を志望していた。父親と同じように研究者になるのが彼女の夢だった。

「どうして?」私は心変わりの真意を測りかねて尋ねた。

「卒業したら、玲於奈と今みたいに毎日逢えないでしょ。こんなことを言うと嫌な子だって思われそうだけど、前みたいに渚や美亜が

いつも一緒じゃないこと、少しだけ喜んでいるんだ」

「ありがとう。でも夢乃はお父さんと同じ研究者になるのを目標にがんばってきたんでしょ? 私なんかのためにそれを捨てたらだめだよ」


 私は如何にも親友のことを心配しているような表情を作り、強い調子で窘めた。

 本心は早くすべてを捨てて一人になりたかった。古い上着を皆脱ぎ捨てて、一からやり直したかったのだ。

 それでも夢乃が私に示してくれた友情はささくれ立っていた私の心をすこし平らにしてくれた。もし、あのとき彼女が居なかったから、私はとっくに死んでいたと思う。


 タイヤのゴムが焼ける臭いが鼻を突いた。

 夢乃の心臓の鼓動が背中を伝ってくる。私たちはまだ生きていた。磨き込まれた銀色のバンパーがほとんど顔が映るくらいの近さにあった。

 緑色のダンプカーの運転席から赤黒い顔した運転手が身を乗り出して喚いている。

「はやくここから立ち去ろう」

 私はそういうと、夢乃の手を再びしっかりと握った。

 威嚇するようにダンプカーが鳴らすクラクションを背に、私たちは横断歩道を渡りきり、鳥居をくぐった。

 

 荒い息を吐きながら手水舎にたどり着き、柄杓で水をすくうと顎に滴らせながら、夢中で喉に流し込んだ。夢乃も私から柄杓を引ったくり水を飲んだ。仄かに甘い水は死の灰色染まりかけた私たちの身体を洗いきよめてくれた。

 私たちはそばにあったベンチに倒れ込み、心臓の鼓動が落ち着くのを待った。二人の心臓が共鳴する音しか聞こえないほど、境内はしんとしていた。

 玉砂利の参道の両脇に並ぶ色づいたイチョウが辺りを黄金色にかえている。その奥に建つ社殿の朱色がやけに目に浸みた。


2

「エルドラードね」と、夢乃が呟いた。

「桃源郷でしょ。でも、こんな神社がこの街にあったんだね」と、私は言った。

「あのね。さっきの話の続きなんだけ……」

 上目づかいに夢乃は私を見た。

「もういいよ。だいたいの想像はつくから」

 私は目を逸らした。

「ううん、聞いてほしいの。私の今に関わることだから」

「今の夢乃に?」

「私も玲於奈と同じで、いまだにあの場所に縛りつけられたままなんだ」

 夢乃の握り拳は小刻みに震えている。彼女がお茶に誘ったのは私に告白すべきことがあったのだろう。逃げるべきではないと思った。

「それで夢乃が楽になれるなら、聞くよ」と、私は答えた。

 彼女はスッと立ち上がると、喪服のスカートをポンポンと払った。

 くびれた腰、豊かなお尻、ギュッと締まった足首、やっぱり夢乃は極上の女だ。


「エリカさんは誰が聞いているかわからないから、お客さんの話を外でするわけにはいかない。そう言って私をマンションに連れて行ったの」

 

 夢乃はセリフの練習でもしているかのようにときおり歩を進めながら、語り始めた。


 エリカはどうして同級生の素行を調べてるのかと夢乃に尋ねた。

 夢乃は最近、親友の様子がおかしい、それで後を付けてみたらキャバクラに入って行った。あんなところでバイトをしていることがバレたら退学になる、何とか説得しようと思って店の前まで来たけれど、入るのが躊躇われたのだと答えた。

 彼女はてっきり私がキャバ嬢をやっていると思ったのだ。


 エリカは「あの子はウチで働いてなんかいないわ。ヒカルが目当ての客よ」と笑った。夢乃は驚いて、「ヒカルって綾瀬ひかるのことですか?」と、訊いた。するとエリカは「ヒカルも同じ学校なんだ。あの二人、絶対できてるわよ。レズ、間違いないわ」と、言った。

 同類は同類を見抜けるというわけだろう。

 夢乃は恐ろしくなって「やっぱり帰ります」と立ち上がったがエリカが腕を掴んだ。


「彼女は言ったのよ。『あなた、その同級生に惚れているんでしょ? だから別れさせたいのよね?』って」

「それで夢乃はどうしたの?」

「私は強く否定したわ。でも彼女は聴いてくれなかった。同級生を傷つけずに別れさせるとっておきのネタがある、そう言って、玲於奈がキャバクラでお酒を飲んだことを教えてくれた。私はそんなことを学校に密告したら、玲於奈まで退学になると言ったのよ。彼女はバカね、ヒカルにそのネタをぶつけるのよ。あの女だって満更じゃない様子だった。かわいい恋人のために黙って身を引くはずだと言ったわ」

「なるほど、それで夢乃は病院でそれをネタにヒカルを脅したわけだ」

 夢乃は申し訳なさそうにうなだれた。

 エリカはヒカルに含むところがあったのだろう。客を取られたとか、態度が気に入らないとか、そんなことだろう。私もこの商売に入って、嫌って言うほど経験したことだ。


「でも玲於奈に聞いてほしいことはそれだけじゃないんだ」

 夢乃は目を潤ませて、私を見た。

「聞かなくてもわかるよ。そこから先は」 

 エリカは夢乃の体を要求したのだ。そして夢乃の口ぶりからして、彼女はそれを受け入れた。そんな話はもうたくさんだ。


「これは私の懺悔なの。だからお願い」

 強い調子で夢乃に言われ、私は頷くしかなかった。


「話し終えたあと、エリカさんはブランデーのボトルを持ってきて、グラスに注いだわ。そして『私は同僚を売るというリスクを冒したのだから、あなたにもリスクを踏んでもらわなければね』って言ったの」

「飲んだの?」

 夢乃は肯いた。

 まあ無理もない。まだおぼこかった私もあの女に勧められるまま酒を飲まされたのだ。ヒカルが来てくれなかったら、どうなっていたかわからない。

「それからどうなったの?」

 私は先を促した。

 夢乃は少し躊躇う様子を見せたが、意を決したようにまばたきをすると、再び話始めた。


「帰ろうと思って立ち上がろうとしたんだけど、腰が抜けたみたいに力が入らなくなって、そのうち頭ががクラクラしてきたの」

「薬を盛られたんだ」

「うん、多分そう。いつの間にか眠ってしまったらしく、気がついたらベッドに手錠で縛りつけられていた」

「それって犯罪じゃない。許せない」


「私が必死でもがいているのを、彼女はお酒を飲みながら、ニヤニヤして見ていたわ。暴れ疲れて私がぐったりすると、彼女は器具を腰に付けて、私の中に入ってきたの」

 怒りで目の前が真っ暗になった。

「痛いから止めてと何度も頼んだけど、彼女は止めてくれなかった」

 夢乃はいつの間にかすすり泣いていた。私は彼女の震えている肩を抱き寄せた。


「もういいよ。十分だ……でも何で私なんかのためにそこまで……」

 私は夢乃の頭を抱え込んだ。

「私はそんな友情をかける値打ちのある女じゃないんだ。夢乃がそんな目にあっているとき、私はヒカルとホテルにしけこんでいたんだ」

 夢乃が顔を上げた。そして真っ直ぐに私の目を見て言った。


「玲於奈のことがずっと好きだったの! 友達とかそんなんじゃなくって、エリカさんの言うとおり、惚れていたのよ。玲於奈と抱きあったり、キスしたり、そんなことばかり空想してた……だから、玲於奈が綾瀬さんと付き合ってるとわかって嫉妬したのよ」

 桜の花びらのような唇をわなわなと震わせている夢乃にたまらない愛おしさが込み上げてきた。

「エリカに汚された夢乃を私が清めてあげる」

 私は感情をぶつけるように夢乃の唇を吸った。


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