第17話 Honesty

 棺の中のヒカルは精巧に作られた人形のようだった。

 薄い瞼を閉じた顔はシリコン製の皮膚みたいに滑らかで冷たく、乳白色の肌はどの部分一つ取っても均質で、くすみひとつなかった。紛れもななくそれはヒカルだった。

 しかし、そこには生前の彼女の面影を伺わせるものは何もない。

 冷房の効きすぎたボックス席で、私がカーディガンを膝に掛けたときに見せたはにかんだ表情、路上で私が浮気したと詰るときのすねた表情、そして私を愛するときの淫らな表情、私を魅了したあのヒカルはもうこの中には居ない。

 私が見下ろしているのは七歳で時計の針を止めてしまった綾瀬ひかるの抜け殻だった。


 出棺に先立ち喪主の老人が挨拶の言葉を述べた。

「今日はよう来てくれはりましたなあ。故人に成り代わってありがとうと言わせてもらいます」


 くたびれたニット帽を握りしめながら老人は訥々と言葉を紡いだ。捩れたネクタイ、型の崩れた上着、きっと彼も孤独な生き方をしてきた人なのだと私は思った。


「ヒカルとはどういう関係だったのですか?」

 私は彼の言葉が終わるのを待って尋ねた。

 失礼は承知の上だった。それでも聞かずにはいられなかった。

 ヒカルにはお葬式を出してくれるような肉親はもう居ないはずだ。父親は亡くなり、母親は行方知れず、祖父母についても何も知らないと彼女は言っていた。


 老人は皺の中に埋もれた年老いた象のような目を開くと、話し始めた。


 彼はヒカルが住んでいた文化アパートの大家だった。

 ヒカルはどういうわけかこの老人の住所と電話番号を記した紙切れを持っていたらしい。

「わしはヒカルちゃんの馴染みの客やったんや」と、老人は言った。

「ナイトガールズの?」

 老人は肯いた。

「最初、席に付いたときはごっつい別嬪で近寄りにくい雰囲気のある子やなあと思たけど、ほんまは人懐っこくて、さみしがり屋で、なんちゅうか子供みたいなとこのある子でなあ。たいていの客とは相性悪かったけど、わしとはなんや知らんけど気がおうた。アフターつきおうたるわ言うて、ようラーメン屋に連れて行ってくれた。ほんまにうまそうに味噌ラーメンを食いよるんや。あの子は……あっ勘違いせんといてな。やらしい関係やあらへんから。もうこの歳なったらいうこと聞かしまへん」


 老人は股間を押さえて笑った。


「二年前に店を急に辞めてもうて、音沙汰がなかったんやけど、今年の春頃、『おっちゃん、部屋貸して』言うてふらっと訪ねてきよったんや。うちみたいなボロアパートでも一応保証人はいるんやけど、わざわざわしを頼りにしてきてくれたと思うたら、なんや嬉しいてな。それがまさかこんなことになるとはな……」

 老人は言葉を詰まらせた。


 今年の春頃と言えば、半年前くらいか。


「ヒカルはいったい何をしていたんですか?」

「別に何もしとらんよ。わしと一緒にテレビ観たり、飯つくってくれたり、散歩に出かけたりしとった。たまに朝から出かけて、夜に帰ってくることもあった、ちょうど事故にあった日がそうやった。次の日に、国道沿いにできたスーパー銭湯に連れてったるわゆうて、約束してたんやけどな……なかなか帰ってきいひんから、心配しとったら、警察から晩の十一時頃連絡があったんや。即死やったらしい。それで遺品やいうて、返してもろた携帯の連絡先、全部に電話したんや。全部いうても五件しかあらへんだけどね」


 その五件に私は入っていなかったが夢乃は入っていた。いよいよ確信は深まった。私の前から消えた後も夢乃とヒカルは交流があったんだ。

 私は夢乃の横顔を見た。彼女も私の視線に気づいた。すぐに目を逸らしたところをみると、心証は限りなく黒だ。


「連絡を受けたときはびっくりしました。でも報せて頂いてよかったわ。寂しいお葬式ですものね。あなた方はヒカルさんのお友達?」


 さっきから黙って老人の話を聞いていた中年の婦人が話に加わった。

「高校の時の同級生です」

 夢乃が答えた。


「そうなの。私たちもヒカルさんとはお友達だったのよ。ねえ、あなた」

 彼女は夫を振り返った。


 とても上品な夫婦だ。精神的にも経済的にもゆとりが感じられる。喪主のお爺さんはともかくヒカルにこんな知り合いがいたことは意外だった。


「一年前に旅先で彼女と知り合ったんですよ。子供たちも独立して家を出たのを契機に二人で旅行するようになってね。あれは奈良だったかな。記念写真の撮影をお願いしたのがヒカルさんだった」

「そうそう。もうびっくりするくらい綺麗な人で驚いちゃった。でも話してみたら、人懐っこくて私たちすっかり仲良しになったんですよ。それでお昼をご一緒したんだけど、その食欲にまたびっくりしちゃって」

「その後、京都、大阪と一緒に回ったんだけど、行く先々で豪快に食べていたなあ。自分では食いだめができるなんて言ってたっけ」

 ご主人は懐かしむように目を細めた。


「ひょっとしてお金は?」と私は訊いた。

「嫌みに取らないでくださいよ。ああいう若くて綺麗な娘さんが、何でもおいしいおいしいと食べてくれるのを見ていると、こっちまで幸せになれるんだ。それだけでお金を出す価値は十分にある」とご主人は言った。


 それはあんたが金持ちだからでしょうというツッコミはさておき、私にはなかなか解りづらい心理だった。それでも彼の口から発せられると不思議な説得力がある。


「ヒカルはその頃、何をしていたのですか? その旅行をしていないときという意味です」

「旅行ですよ。高校を中退してからずっと日本中を旅してると仰っていたわ。私たちと別れた後も、旅先から写真を送ってくれたのよ」と奥さんは言った。


 ヒカルは父親にお金を残すためにキャバクラで稼いだお金を貯金していた。きっとそれを使って旅をしていたんだろう。この夫婦と出会った頃にはそれもだいぶ減り、そしていよいよ底を突いて老人の元に転がり込んだ。なんとなく失踪後の足取りがつかめた。しかし、彼女は何が目的で旅をしていたんだろう。


「そろそろご出棺のお時間ですが、火葬場までお見送りになる方は何名様でいらっしゃいますか?」

 葬儀場の人が尋ねた。

「ごめんなさい。これからすぐに東京まで帰らないといけないので、ここで失礼します」

 私は老人に言った。


 もう十分だった。ヒカルの本体=情報のネットワークとやらはどこかに引っ越し済みであることを確認したのだから。

 私は夢乃の方を見た。彼女にはまだ聞かなければならないことがある。きっと夢乃にだってあるはずだ。

「すいません、私もここで失礼させて頂きます」

 夢乃は丁寧に頭を下げた。


 私は霊柩車に乗り込む老人に近づくと、「ヒカルのお葬式を出してくれてありがとうございます」と言った。

 老人は片手を挙げて答えてくれた。



 2

「お茶する時間くらいはある?」

 夢乃が訊いた。

「もちろん」と私は答えた。


 私たちは埃っぽい国道沿いを肩を並べて歩き、最初に目に付いた喫茶店に入った。僅かなスペースにまで観葉植物の鉢が置かれた暑苦しい店だった。温室の中にいるような息苦しさを感じる。私はミックスジュースを夢乃はウインナーコーヒーを注文した。


「面接は?」

 夢乃が最初に切り出した。


 いつ見ても彼女の眉は美しい。薄く化粧をしているけどすっぴんだって全然いけてる。美少女が期待を裏切らずにそのまま成長したようだった。


「うん、まあまあかな」

 私は曖昧に答えた。


「いい?」

 私はバッグからタバコを取りだした。

「玲於奈、タバコ吸うんだ」

「止めようとは思うんだけどね。一度悪習が身につくと、難しいわね」


 私はタバコに火を付けた。夢乃はその指をじっと見つめている。派手に盛ったネイルか、それとも指輪を見ているのだろうか。


「東京で今何をしているの?」

「何ってまだ専門学校生よ。それとも別の何かに見える?」

「なんか昔と変わったなって思って」

 夢乃はあわてて私の指から目を逸らした。


「うん? メイク? それともアクセサリー?、ブランド物のバッグ? 親の仕送りもないのにおかしいよね」

 夢乃は返答に窮して、目を伏せた。

「じゃじゃーん! 答えはなんとキャバ嬢やってます」

 私は天井に向かって煙を吐いた。

「そうなんだ」

 彼女は微笑みを崩さずに言った。しかし、その背後にある表情はどうなんだろう。


「そっちはどう? 彼氏できた?」

 夢乃は少し躊躇ってから、首を振った。

「同じ大学の先輩と付き合ったけど、長くは続かなかったわ」

「振ったの? 振られたの?」

「私は退屈な人間だから、たぶん飽きられたのね」

「ねえ、その彼と寝たの?」

「え? いきなり何よ! ノーコメント」

 夢乃は両手を大きく振りながら言った。

 たぶん、何度かは寝てるなと私は思った。

「玲於奈はどうなの? 彼氏は居るの?」

「私が男に興味ないって知ってるでしょ?」


 気まずい沈黙が訪れた。


「渚とは最近連絡取っている?」

「最後に電話で話したのは去年の初めかな。彼氏とグアムに遊びに行くと言ってた」


 あの夏を境に私たちは皆変わった。一番変わったのは渚だった。

 二学期が始まると、彼女は本格的に健康を取り戻し始めた。体重が元に戻り、身長が伸びた。今まで彼女を抑えつけていた重しが取り除かれたようだった。

 三年になると見違えるほど綺麗になった。かつてゴブリンと呼ばれた少女の面影はもうどこにもなかった。元々、小顔でくっきりした顔立ちなのに加えて、ティーンズモデルのような体型が備わると、彼女を観る周りの目も変わり始めた。華やかな雰囲気を纏い始めた渚の周りにクラスメイトが集まり始めた。お金持ちの娘でありながら、そんなことを少しも鼻に掛けない気さくさも好感度を上げた。最初に閉じられた私たちの輪から抜け出したのは渚だった。


「みんな離ればなれになっちゃったね。私たちってまだ親友なのかしら?」

 夢乃がしみじみと言った。

「解散宣言をした覚えはないわよ。でも活動の実態のないバンドのようなものかしら」


「いつからこうなってしまったんだろう……」

 ため息を吐きだすように夢乃は呟いた。


「あの夏の日よ。ヒカルが私の前から姿を消した日から、レールが切りかわったように別々に私たちは走り始めた。私は知りたいの。なぜ彼女が突然居なくなったのか。いずれヒカルが何処かに行くことはわかっていた。夏休みが始まる前に退学届を出していたし、店も辞めていた。でもね、あの日である理由はなかったの。あんな形で彼女が去ったことに傷ついたし、今も引き摺っている。だから教えて、私が渚の病室に居る間、あなたとヒカルに何があったの?」


 夢乃は眉を上げて私を見た。


「私が彼女を去らせたの……」

「どういう意味?」

「玲於奈を取り戻したかった。だから彼女に頼んだのよ。玲於奈にもう近づかないでって」

「それでヒカルが納得したと?」

 夢乃は首を振った。

「納得しなかったわ。彼女は私には関係のない話だと言った。だから脅したの」

「脅した?」

「玲於奈がキャバクラに入り浸り、お酒を飲んでいたことを学校に連絡すると、彼女に言ったのよ。そうなれば確実に退学になるって」

「渚からそれを聞いたの?」

 夢乃は首を振った。

「玲於奈が昼休みに教室を出て行ったことがあったでしょ。あのとき綾瀬さんを追いかけたんだって気付いたの。次の日あなたがしばらく単独行動をすると私と渚に告げたとき、すぐにピンときた。玲於奈と綾瀬さんの間に何かあるって。それで私は森島碧を問い詰めたの。彼女が一枚嚙んでいるのは間違いないと思ったから、でも彼女は頑として口を割らなかった」


 森島碧は二学期が始まる前に突然、退職した。私はそのときヒカルの失踪を止められなかったことに自責の念を感じたのだろうと、漠然と思っていた。しかし、もう少し深い事情があるのかもしれない。


「さすが頭脳明晰な夢乃ね。でも私がヒカルを追いかけたなんてどうしたわかったの?」

「あの日、朝からずっと綾瀬さんのことを気にしていたからよ」


 朝のホームルームのあと、私は森島碧に職員室に呼ばれた。そして教室に戻ってから、ヒカルを注視していた。夢乃はこの一連の流れから推理したのだ。


「なるほど。それで私の後を付けたわけね。付けたのは夏休み前?それとも入ってから?」

「入ってからよ。でもそれはまったくの偶然。予備校に通う電車であなたを見かけた。それでキャバクラのある雑居ビルまで後を付けたの。次の日、そのビルに行ったわ。入り口でウロウロしていたらエリカって人に『面接?』って、声を掛けられた。違うと答えたら、『じゃあ、あなたもヒカルちゃん目当てなのね』って笑った」


 始めて店に行った日、遅刻してきたヒカルの代わりに席に付いた女だ。

「私は昨日、ここに来た同級生のことを知りたいと答えた。そしたら彼女は……」


 夢乃はそこで黙り込んだ。顔は青ざめ、唇は震えている。きっと思い出すのも辛いことなのだろう。

 しかし、核心まであと少しなのだ。


「それでその女はなんて言ったの?」

 夢乃はこれ以上は話せないというように顔を背けた。


「お願い、教えて。私はあの時起こったことを全部知りたいの。身体だけが前に進み、中身はすっかりあの時間に置いてきたままなんだ。だから今の私は空っぽ。別にそのことで誰かを責めようという気はないし、置いてきた中身を取りに戻ろうとも思わない。空っぽは空っぽで気楽だからね。でも何も知らないままは嫌なんだ。自分を絡め取って離さないものの正体を知りたいんだ」


「あの人は言ったの……知っていることを教えてあげるから、少し付き合ってと。そして店に今日は休むと電話を入れたわ」


 私はバッグからハンカチを取り出すと、額に滲んだ汗を拭き取った。


「ここ暑いわね。すこし歩かない?」


 私はテーブルの上のレシートを取った。


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