第14話 Private Eyes

 目が覚めたときには、すっかり日は昇っていた。岩の頂から見上げる太陽は荘厳だったが、感動に浸っている暇はない。

 なんせ私たちは素っ裸のまま抱き合っているのだから。早起きのハイカーを驚かすわけにはいかない。


 服を着ていると、携帯が震えた。夢乃からだ。

 彼女は予備校の夏季合宿に参加しているはずだ。こんな早朝にいったい何の用だろう。訝しみつつ私は電話に出た。


「玲於奈? 今どこに居るの? 渚が……手首を切ったの」

 冷や水を浴びせられた気分だった。

「それで……渚は? …」

「すぐにお父様の病院に救急車で運ばれたわ。私も連絡を受けて病院に向かっているところだから、詳しいことはわからない。玲於奈もすぐに行ってあげて」

 夢乃はそれだけ言うと、電話を切った。


 私のせいだ……足の震えが止まらない。


「どうしたの? 顔が真っ青だよ」

 ヒカルはその場に縛りつけられたように立ち尽くしている私に言った。

「渚が自殺をはかった」

「渚って、深町さん? それで容態は?」

「わからない……とにかく病院に行かないと」

「わかった。すぐに行こう」


 ヒカルは手早く荷物をまとめると、まだ呆然としている私を引きずるようにして山を降りた。

 バスで駅まで行き、ロータリーでタクシーを拾った。


「死なないで」と私はひたすら祈り続けた。そこから一歩も考えを進めることができない。


 病院のエントランスでタクシーを降りると、夢乃が駆け寄ってきた。

 きっと私を待っていたのだろう。

「渚は八階の特別室にいるわ」

 彼女はチラッとヒカルを見たが、すぐに私に視線を戻して言った。

「無事だったのね」

 私は安堵の息をついた。

「発見が早かったから、一命は取り留めたけど、身体が相当衰弱しているの。まだ予断を許さない状態らしいわ」

 渚の痩せ細った腕を思いだした。

「面会は玲於奈一人でお願い。私は綾瀬さんとホールで待っているわ」と夢乃は言った。


 ヒカルの姿を見れば渚を混乱させるだけだ。夢乃はそれを気遣ったのだろう。彼女は私とヒカルの関係を知っているのだと私は思った。ヒカルを見たときの彼女の様子からして、間違いない。渚から聞いたのだろう。

 でもひょっとしたらという疑念が脳裏を過ぎった。彼女自身がそれを突き止めた可能性だってなくはない。

 実際、私の行動はあまりにも無警戒で大胆だった。

 その気になれば、私が誰と会っているなんてことは簡単に突き止めることができたはずだ。

 しかし、動機は? 夢乃は潔癖すぎるくらい真っ直ぐな性格だ。人の背中をコソコソとつけ回すような真似はけしてしない。疑問や言いたいことがあれば直接口にするはずだ。

 それでもエントランスホールに消えていく二人の背中を見送りながらどこか拭えない緊張と違和感を感じていた。


 2

 特別室は中央病棟の隣の西棟にある。高額な差額料金が掛かるだけに、ホテル並の立派な設備が用意されている言わば、お金持ち専用の病棟だ。

 祖父は亡くなるまでの一週間をこの病棟で過ごした。もちろん渚の父の計らいだ。


 シティホテルのような受付で、名前を告げると直通のエレベーターで八階に上がった。


 中三の夏休み、渚は本格的に治療するためここで入院した。私は毎日のように病室を訪れた。

「勉強がんばって、一緒の高校に行こうよ」

 すこしでも治療のモチベーションをあげたいと、私は渚を励ました。

 その甲斐があったのか彼女は見る見ると健康を取り戻した。二年前の話なのに、遠い昔のできごとのように思える。


 私の顔を見るなり渚の母が大股で近づいてきた。

「よくも顔を出せたものね。いったい渚に何をしたのよ!」

 目を三角にして彼女は喚いた。

「はやく出ていって」

 彼女は私の肩を乱暴に掴んで押した。

 二三歩よろめいたけれど、踏みとどまった。

「渚に逢わせてください」

 叩かれるかも知れない。それでも私は頼んだ。

「なんて図々しいの! 帰りなさい」

 憎悪に満ちた目で私を睨むと、彼女は再び私に詰め寄ろうとした。


「やめないか!」

 病室から出てきた渚の父が怒鳴った。

「あなたは黙っていて」

 渚の母はキッとした目で夫を見た。

 しかし、彼はかまわず私たちの間に割って入った。


「お前にそんなことを言う資格はない。一度だって娘にやさしくしてやったことがあるのか? 渚が食事を受け付けなくなって無残な姿になったとき、真っ先に逃げ出したのがお前だ」

「あっ……あれは公演があったから」

「その公演先でお前が何をしていたのか、私が知らないとでも思っているのか? 誰もが渚から目を背けたときでも、この子、玲於奈ちゃんだけは渚の傍に居てくれたんだ。渚が必要としているのは私でもお前でもない。この娘なんだよ」

 彼は嗚咽をかみ殺しながら、妻に言った。


 渚の母はもう何も言わなかった。肩を落とすと、そのままエレベーター中に消えていった。


「良く来てくれたね。さあ、渚に逢ってやってくれ」

 彼は私の肩にそっと手を回して、促した。

「ごめんなさい。私、渚に酷いことを言ってしまった……だから彼女は……」

「君たちは若いんだ。心ならずとも相手を傷つけてしまうことがある。やり直せばいいさ。時間はいくらでもある」

「でも、渚……怒ってないかな」

「あの子はあの子で、『玲於奈、ごめんなさい』ってうわごとのように言っていたよ。ほんとに妬ましいくらいあの子は君のことばかりだ」

 彼は小さく笑うと、私を病室のドアのほうに押し出した。


 大きなベッドに寝かされている渚は生まれたてのお猿さんみたいに小っちゃかった。細い腕には点滴の針が突き刺さっている。

 渚は私に気づくと、顔を歪ませた。それが笑顔を作ろうとしているのだとわかって、私は慌てて彼女の傍に寄った。


「迷惑かけて、ごめんなさい」

 しゃがれた声で渚は言った。

 鼻にさしこまれたチューブが痛々しい。

 私はベッドの端に腰掛けると、カサカサでシワシワの小さなおでこを撫でた。

「ほんとに世話の焼ける子ね。でも生きていてくれてありがとう。あんたが死んだら、私どうしていいかわからなかった……」

 涙がぽたぽたと落ちてくる。


「綾瀬さんは?」

 渚はドアの方に目を向けて言った。

「下に居るよ」

 はっきりとさせておいた方がいい。いや、最初からそうすべきだったんだ。

「あのね、渚。聞いて欲しいんだ」

 私は一度言葉を切り、息を整えた。

「私はヒカルのことが好き。こんな言い方は少し恥ずかしいけど、愛しているんだ」

 渚は目をしばたたせながら聞いていた。

「でもね、それと渚のことは別の問題なんだ。どっちが重要とか、そんなふうに比べることはできないことなんだ」

「私のことを見捨てたんじゃないの?」

「見捨てるとか、見捨てないとかそういうんじゃない。まあ、ヒカルに夢中になって、渚のことを面倒くさく思ったのはあるけどね」

「玲於奈の中に私の居場所はまだある?」

「少し狭くなってしまったけれど、あるよ。これから少しずつかもしれないけど、取り戻していくつもりだ。だから安心して眠って」


 まだ何か言いたげな渚の頬にキスすると、私は病室を出た。

「一度家に戻って、また来ます」

 私は渚の父にそう告げるとエレベーターに乗った。


 友達も恋人も両立できる。ヒカルが待つエントランスホールに行くまで、私はそう確信していた。

 ホールは人でごった返していた。

 長椅子に座っている夢乃をみつけた。彼女も私に気づいた。

「渚の具合、どうだった?」と夢乃は聞いた。

「思ったより元気だった。一度帰って、また来るつもり。しばらく泊まり込みになりそう」

「そう、それはよかった」

 彼女は美しい顔を微笑ました。

「ヒカルは?」

「もう居ないわ」

「帰ったの?」

 夢乃は首を振った。

「別の街に引っ越すと言って、さっき出ていったわ。お父様の葬式を終えて、そのまま旅立つつもりだったけど、最後にあなたに逢いたくなったと彼女は言っていた」

「そんなの嘘よ!」

 今なら間に合う。追いかけようと、出口に向かいかけた私を夢乃が抱きとめた。

「離してよ!」

「これでいいのよ。あの人のことは忘れて、やり直せばいい。また前にみたいに」

「なんで、なんでそんなこと言うのよ」

「綾瀬ひかるが言ったのよ! 自分のことはもう忘れてほしいって」


 夢乃の一言は私を打ちのめした。

 気が抜けたみたいに私はその場にへたり込んだ。


「だいじょうぶ、傷は癒える。あなたには私が付いているから」


 夢乃が耳元で囁くのを遠くで聞きながら、私は自分の中で何かが壊れたのを悟った。

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