第13話 No Reason to Cry

 私はなんてひどい人間なんだろう。

 あんなふうに親友を痛めつけなければならない理由などなかったはずだ。

 大きな門の脇の木戸をくぐると、高台の坂道を転がるように逃げた。

 静まりかえった住宅街に私の靴音が響く。


 私がヒカルに執着するのと同じように、渚は私に執着した。そこになんの違いがあるというのだ。

 それなのに私は渚を嫌悪した。怒りでも反発でもなく生理的な嫌悪の感情だった。

 彼女は私を自分の一部のように愛してくれた。過剰で根拠のない愛情は時に私を困惑させたにせよ、人格のすべてを否定する言葉を投げつけたことに激しい後悔の念が押し寄せてきた。

 そして、そう思いながらも私の足はヒカルの方に向かっている。

 壊れているのは私なのかも知れない。


 渚の言うとおり、私があの男を殴らなければ彼女は仮面をはずすことなく今でも暮らすことができただろう。表面的には気さくで、愛想の良い少女として皆から受け入れられたに違いない。多かれ少なかれ人は誰でも仮面を付けて生きているのだ。


 あの一件以来、渚は摂食障害に陥った。

 ただでさえ細かった体から肉がそげ落ち、手足は枯れ木のように細ってしまった。地肌が透けて見えるほど髪の毛が抜け、血色を失った顔は灰色に変わった。関節のあちこちが軋むせいか、がに股で歩く彼女を周囲は蔭でゴブリンとあだ名した。大きな目玉をギョロつかせて私の周囲を徘徊する様は想像世界のモンスターそのものだった。

 渚を直視することはいつの間にかタブーになっていった。その代わりに人は「化け物のお守りもたいへんね」という同情とも憐憫ともつかぬ視線を私に向けた。


 父親の努力で高校に入る頃にはかなり状態は改善された。少しずつではあるが、外の世界にも目を向ける余裕ができはじめ、ちょうどその頃夢乃や美亜とも知り合った。少なくとも内輪では昔の渚の姿を取り戻しつつあった。

 しかし、それをぶち壊したのはまたしても私だった。昨日、駅で会った渚はあの醜悪なモンスターの影を再び宿していた。


 私は駅に着くと、切符を買い、ホームに入ってきた電車に飛び乗った。

 渚にメールしようかと思ったが、何を書けばいいのかわからない。ほんとうの気持ちを送れば彼女をさらに傷つけるだけだ。もう私のどこを探しても彼女に振り向ける友情など残っては居なかった。


 ——半端者には相応しい末路がまっているのさ


 ロックンローラーのあざ笑いが耳に木霊する。

 私は人目も憚らずシートに深く腰を掛けてさめざめと泣いた。


 ヒカルの待つ公園に着いたときには午後十一時を少し回っていた。

 黄色いパーカーにジーンズ、真っ赤なスニーカーを履いたヒカルはパーカーのフードをすっぽりと被り、両手をポケットに突っ込んで待っていた。足元には大きめのリュックサックが置かれている。

 私に気がつくと小さく手を挙げた。


「急に呼び出したりしてごめん」とヒカルは言った。

「それは構わないけど、手術はうまくいったの?」

 彼女は頭を振った。

「昨日の夜に亡くなった……レオナを心配させたくなかったから、言わなかったけど、ほんとはガンだったんだ」とヒカルは言った。


 どんな言葉を掛けていいのかわからなかった。


「だいじょうぶ。覚悟はできていたんだ。手術しても無駄だとは言われていたからね」


 父親にできるだけのことはしてあげたい、彼女が言っていたのはそういう意味だったのか。しかし、それを伝えるために私を呼び出したわけではなさそうだ。


「旅行にでも出かけるつもり?」

 私は足元のリュックを見て言った。

「一緒に来て欲しいところがあるんだ」

「どこへ?」

「鉢伏山」

 そこは綾瀬ひかるがヒカルと入れ替わった場所だ。

「迎えが来たの?」

 私はなんとか声を押し出した。

「何も聞かずについてきて欲しいんだ」

 ヒカルは目を合わせずに答えた。


 そのまま国道まで歩き、ヒカルはタクシーを拾った。

「鉢伏山までお願いします」とヒカルは運転手に告げた。

「鉢伏山のどのあたり?」

 初老の運転手は頭を動かさないまま聞き返した。

「ハイキングコースの入り口」とヒカルは短く付け足した。

「え、こんな時間から? 夜間はコースは閉まっているよ」

 運転手はルームミラー越しに私たちを見た。

 ヒカルは何も言わずにただ肯いた。

「まさか山に入るんじゃないだろうね? あんな山でも侮ると危険だよ。もうだいぶ前の話だけど、女の子が三人遭難したことがあるんだ」


 綾瀬ひかるのことだろうか? しかし、ヒカルの話では遭難したのは彼女一人のはずだ。


「十年前の事件なら、遭難したのは一人じゃないですか? 私はそう聞いたけど」

 私はヒカルの方を見ながら、声だけを運転手に向けた。

「そうだったかなぁ。もうなんせ古い話だし、新聞の片隅に載った程度の記事だから、記憶違いかもしれないな」

 運転手は曖昧に笑った。

 ヒカルはもの思いに耽るように窓の外の景色を眺めている。


「とにかく気をつけた方がいい。あの山は地形のせいかどうか知らないが、霧が深いんだ。私はよく釣り客を乗せるんだけど、油断しちゃうと昼間でも迷うことがあると、お客さんから聞いたよ」

「心配してくれてありがとう。でも山には入りません。入り口の駐車場で観測するんです」

「観測?」

「私たちUFO研究会なんです。あの付近で目撃例があるので……まあそういう場所に出かけて、観測するのも活動の一環なんです」

「なるほどねぇ。最近の学生さんは面白いことをするもんだ。でも宇宙人なんてほんとにいるのかね?」

「どうでしょか……でもおじさんが知らないだけで、もう地球に潜伏して侵略を開始してる可能性だってなくはない。ひょっとしたら私たちがエイリアンかもしれないし」

 私はヒカルの膝に置いた手に力を込めた。彼女はまとまりのない目で私を見た。どうやら私と運転手の会話など聞いていなかったのだろう。その目は別のことを考えていましたと語っている。


「脅かすなよ。でもお姉ちゃんたちみたいなべっぴんの宇宙人なら侵略されるのも悪くてないな」

 運転手はハンドルを叩いて笑った。



 2

 鉢伏山は市の北の端にある。鉢を伏せたような形が名前の由来だが、その裾野の広い様は富士山に似ていなくもない。日本全国にあるなんとか富士同様、この市の名を冠してそう称されることもある。


 到着まで四十分ほど掛かった。

 広い国道から狭い砂利道に枝分かれする手前で運転手はタクシーを停めた。


「駐車場までは歩いてすぐだ。そこまで行けばまた料金が上がるからね。それじゃ気をつけて」

 クラクションを一回鳴らすとタクシーは走り去った。


「行こう」

 ヒカルはそう言うと、私の手を取った。照明も何もないが月と満天の星が足下を照らしてくれた。砂利道の坂を汗ばむくらいに上がると、左手に駐車場が見えた。

「待って、飲み物を買う」

 喉の渇きを覚えて私は駐車場の中の自販機コーナーに向かった。

 麦茶のペットボトルを二本買い、一つをヒカルに手渡した。

 自販機の蛍光灯に映しだされたヒカルの青白い顔は驚くほど表情がなかった。

「これからどうするの?」と私は訊いた。

「案内したい場所があるんだ」とヒカルは答えた。

 同時に三つくらい質問が浮かんだが、私は黙っていた。

 ペットボトルを一口飲むと、ヒカルはキャップを固く閉じた。


 私たちは再び砂利道に戻った。

 しばらく行くとアーチ型のゲートが見えた。

 木製のゲートには「自然公園 鉢伏山林間コース」とペンキで書かれていた。

 その向こうには深々とした闇が広がっている。

 両側から迫るように木々が生い茂った林道をヒカルが用意したLEDのライトを頼りに私たちは歩いた。


 ヒカルが去ったあと、私はどうすればいいのだろう。

 元の日常に戻れる自信はなかった。きっと脱け殻みたいになって残りの一生を送ることになる。そんな人生にどんな意味があるのか。

 ヒカルはどう思っているのだろう。

 彼女は私のことを「自分の失われた欠片」だと言った。ならばどうして私を置いて行くのか。


「他の惑星の知的生命体との接触は固く禁じられている」


 私を連れていけない理由をヒカルはこう説明した。

 宇宙人は自分たちの存在を秘匿したがっている。ではすでにその秘密を知ってしまった私はどうなるのだろう。

 導かれる答えは一つしかない。

 ヒカルが私をここへ連れてきたのは彼女自身が手を下すのか、仲間がそうするのかは分からないが、私の存在を抹殺するつもりなのだろう。


 不思議と怒りも絶望も感じなかった。

 きっと宇宙人たちにとって、それは必要な処置なのだ。私たち人間が同じような理由で、自分たちより下等な生物の命を奪うように。

 どのみち選択肢などありそうにない。あとは彼らが文明人として、せめて苦痛のないやり方を選んでくれることを祈るしかない。


 ヒカルは途中で立ち止まり、周囲の景色を一度確認するように見回したあと、林道わきの斜面を下り始めた。その先は渓流に続いている。

「滑りやすいから、気をつけて」

 声を掛けながら、へっぴり腰の私の足元をライトで照らしてくれた。


 渓流沿いをどれだけ歩いただろう。

「少し休憩しようよ」

 疲労を覚えて、先を歩くヒカルに私は言った。

「もうすぐだよ」

 ヒカルは目の前に立ちはだかっている巨岩を見上げて言った。

「まさかあそこを登るつもり?」

 垂直に切り立った岩は十メートル以上はありそうに見える。

「おいで」

 小岩の上にへたり込んで、ペットボトルの残りの一口を流し込んでいる私をヒカルは手招きした。


 一瞬、私は躊躇した。本能は死を恐れている。

 しかし、どうせ死ぬなら最期まで彼女を信じているのだという体裁を守りたかった。自分がしでかした馬鹿な行動を後悔や絶望で汚したくはない。それが私の小さな矜持だった。


 私は一歩づつ彼女に近づいた。

 ヒカルは両手を伸ばすと、私の手を取り、そのまま引き寄せた。


「何があってもこの手を離さないで」

 ヒカルは言い聞かせるように言った。

「じゃあ、目を閉じて。カウントダウンはあったほうがいい?」

「ない方向で……」

 私はギュッと目を閉じた。


 まだ私が小さかった頃、曽祖父が話してくれたことを思い出した。

「飼っていた鶏をしめるときが一番辛かったなぁ。毎朝世話していたやつの中から一羽選ぶんだ。刈り取った田んぼのまん中に連れ行って、こう鉈で首を落とすんだけど、殺される瞬間までわしを信じ切った目をしているんだ。まごまごしていると、兄さんが余計なことを考えるなと言って、すぱっと代わりにやってくれたものさ」


 高層ビルを一気に上がるエレベーターみたいに内臓がすっと下に落ちるような感覚を覚えたかと思うと、今まで地面を掴んでいたはずの足の裏の感覚がない。


「目を開けてみて」とヒカルが言った。

 恐る恐る瞼を開けてみると、ヒカルの肩越しに街の灯りが点々と見える。

 そっと下を覗くと、足元に渓流があった。月明かりに水面をユラユラと煌めかせている。

「浮いてるの?」

「そうだよ。誰かに見られないうちに岩の上へ」


 氷の上を滑るように私たちは巨岩の頂上に移動した。


「そうか! これが百畳敷か」

 そんな岩がこの山にあったことを思い出して、私は叫んだ。

 真っ平らな頂から見渡す景色は360度のパノラマ写真のような迫力だった。ビロードの海に浮かぶ街の灯は漁火のようだった。そしてその空を銀の砂をこぼしたような星々が覆っていた。


「やあ! みんな」

 私はステージに立ったアイドル歌手みたいに叫んだ。


 私の興奮をよそに、ヒカルはリュックから荷物を引っ張り出していた。

「キャンプでもするつもり?」

 真っ赤なハート型の二人用寝袋を広げているヒカルに私は言った。

「そうだよ。リサイクルショップで買ったんだ」

 ヒカルはジッパーを下ろすと、その中に体を横たえた。


「ダルマさんみたいね」

 寝袋に包まり、口をへの字に曲げて夜空を睨みつけているヒカルを私は笑った。

「え? なんでダルマさん……だったら早くレオナもダルマになりなよ」

 ヒカルは自分の隣をぽんぽんと掌で叩いた。


 少し風が出てきた。

 夏のこととはいえ、夜の山は肌寒い。私は観念してヒカルの横に潜り込んだ。

 真新しいビニールの匂いがする。


「繭に包まれた蚕になった気分だね」

 手足を竦めてみた。


「私はこうやって宇宙を旅してきたんだ」

 ヒカルはぽつりと言った。哀切と郷愁を含んだ声だった。


 クールミントガムの包み紙のような色の夜空には無数の星星がきらめいていた。

 この中にヒカルが訪れた星はいくつあるのだろうか。


「私、殺されるの?」

 恐れていたことを私は口にした。

 死ぬことを恐れていたわけではない。それが彼女との永遠の別れになることを恐れていたのだ。


 月の明かりがヒカルの横顔に神秘的な彩りを添えていた。

 息を呑みながら私は彼女の言葉を待った。


「そんなことは私がさせない」

 今度はしっかりと私の目を見てヒカルは言った。

「ならどうして、ここに私を連れてきたの?」

「レオナと一緒にこの星を見上げたかったんだ」


 きっと彼女は嘘をついた。私にはわかる。しかし、そんなことはもうどうでも良かった。


「ねぇ、キスしよ。あの星の数くらいいっぱい」


 私はヒカルに跨るとその唇を吸った。


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