第12話 The End

 1

 幼稚園の頃の渚はいつも輪の中心にいる活発な子だった。

 大きな黒い瞳が印象的で、縮れの強い髪を三つ編みに結っていた。

 自分の気に入らないことがあると癇癪を起こし、先生の手を焼かせたりもしたが、よくも悪くも屈託のない性格で友達も多かった。

 それに比べて私は内向的で、隅っこで砂遊びをしているのが好きな子だった。殊更、一人になりたがっていたわけではないが、気がつくとそこが自分の定位置のように輪から離れてひっそりと遊んでいた。私は他人と居るより、自分と居る方が好きだった。


 私たちの間に初めて接点ができたのは年長組になったばかりの春のことだ。

 私は渚の誕生会に招待された。

 渚は画用紙とクレヨンを使った手作りの招待状を砂場で遊んでいた私に手渡して、「日曜日、家に迎えにいくから」と一方的に告げた。

 三つ編みをぴょんぴょん揺らして輪の中に戻って行く渚の後ろ姿を、私は不思議な気持ちで見ていた。これまで彼女と一緒に遊んだこともないのになぜだろうと。ときおり彼女が私の方を見ていることには気づいていたが、それは私の孤独を憐れんでいる程度にそのときは考えていた。


 日曜日、渚は招待状に記載された時間通り父親の運転する車で迎えに来た。母は突然の来訪に戸惑っていたが、大病院の院長に薄くなったつむじが見えるほど頭を下げられると、悪い気がしないのか招待を受けることを承諾した。

 広壮な敷地に建つ純和風の平屋は竜宮の御殿のようだった。

 深町家はこの地方の大地主で、親戚縁者には町の有力者が多い。渚の祖父は東京の大学病院の院長を長く勤めた人で、退官後は故郷に戻り病院を開業した。二代目の渚の父はやり手で、今では病院だけでなく医療老人施設をいくつも経営している。

 彼は先妻が亡くなると、時を置かず二十歳近くも年の離れたヴァイオリニストと結婚した。

 渚の母だ。この市での彼女の公演のスポンサーになったのが縁で二人は親しくなった。


「きっとお金が目的で近づいたのよ」と、渚は自分の母親について語ったことがある。

 渚は母親を愛していなかった。無理もない。年がら年中公演で家を空ける母親に親しみを持てという方が無理がある。

 渚の家で彼女に二度会ったことがあるが、母親らしい雰囲気のまるでない人だった。渚のために一度も料理を作ったことない手はガラスの工芸品のような繊細な形をしていた。きっとその手は娘を抱きしめたことすらないのだろう。

 通り一遍の質問を私に二つ三つすると、練習があるからとすぐに引っ込んでしまった。

 金が目的で近づいたというのもあながち根拠のない話ではないと思えた。

 母親の不在を埋めたのが父の溺愛だった。渚が生まれると、彼は若い妻にすっかり関心を失い、孫のような娘にすべての愛情を注いだ。


 縁側を渡りながら見る庭園は一分の隙もなく手入れされていた。母はしばしば立ち止まって、その見事さに感嘆の声を漏らした。渚の父はそのたびにあれはどこそこから取り寄せた石だとか、季節になればあの木はどんな花をつけるのかを熱心に説明した。

 私は庭の一隅に洋館があるのに気がついて、「あれは何?」と指さした。

 赤いレンガの洋館は和風の庭園の中でひどく違和感があった。

 渚の父は一瞬バツの悪い表情をみせた。


「妻がヴァイオリンの練習をするのに建てたのですよ。もっとも地方公演で家を空けることが多くて使われることはめったにないんですがね。今日も広島かどこかで演奏しているはずです。こんな日くらい、渚のそばに居てやればいいのに」

 彼は苦々しく言った。


 私たちが通されたのは五十畳はありそうな大広間だった。

 漆塗りのローテーブルには色とりどりの料理と立派なケーキが用意されていた。大きなリボンをあしらったピンクのドレスの渚が、まだい草の香りも抜けきらない真っ青な畳の上を私の手を引き自分の横に座らせた。

 だだっ広い空間の中央に置かれたそびえ立つようなケーキを取り囲んでいるのは、立った四人、渚と私、渚の父と私の母だけだ。


「他のお友だちはいつ来るの?」

 私は不安になって上機嫌の渚に訊いた。

「誰も来ないよ。呼んだのは玲於奈ちゃんだけだもん」

 渚はさも当然のように答えた。

「え、どうして?」

 私は思わず聞き返した。

「だって私のお友達は玲於奈ちゃんだけだから」

 渚は碁石のような黒い瞳で私を見据えた。

「ウソだよ。渚ちゃんたくさんお友だちいるじゃない」

「あんなの友だちじゃない。私のお友だちは玲於奈ちゃんだけでいいの。だって私たちって双子みたいにそっくりでしょ」と彼女は言った。


 勿論私と渚は双子どころか姉妹ほどにも似ては居なかった。

 しかし、私は否定できなかった。あなただけは特別なのよという彼女の好意を無碍にできなかったのかもしれない。或いは渚の異様な迫力に気圧されて肯くよりほかになかったのかもしれない。

 もう今となっては思い出すこともできないが、いずれにせよこれが私と渚の始まりだった。


 彼女は切っ掛けを待っていたかのようにそれ以来、私の傍から離れなくなった。私たちは双子の連星のように小学校、中学校を過ごした。

 二人の関係をリードしていたのは常に渚だった。天衣無縫、自由闊達、わがままし放題に育ってきた渚に私は振り回され続けた。


 週末になると、渚はたびたび私を迎えに来るようになった。私はそんな渚を重荷に感じはじめていた。

 しかし、母が付き合いを後押しした。母はその頃にはすっかり渚の父のファンになっていた。もともと世俗的な名声に弱かったのかもしれない。寡黙で何事にも控えめな夫と居るときより、快活で話し上手な渚の父と居るときの方が母は楽しそうに見えた。

 深町家と付き合うことには現実的な利益もあった。母の父、つまり私の祖父は何年か前に脳出血で倒れてから、ずっと寝たきりだった。それがいよいよ在宅の介護では手に負えなくなった。安心して預けられて、手頃な費用で済む施設となると、入所まで何年もかかる。

 母は渚の父に相談した。一週間もしないうちに祖父は深町家が経営する医療施設に入ることができた。


 きっと他にも私の知らないことで、母は世話になっているに違いなかった。もっともその事で彼が恩着せがましい態度を取ったことは一度もなかった。

 彼は年端もいかない私にすら丁重な態度を崩さなかった。

 彼は私が後になって気づいた渚の本質――誰も底を覗けない沼のような深い闇を見抜いていたのかもしれない。

 表面的には渚から快活さや社交性を奪ったのは例の怪人の一件だった。

 しかし、今ならわかる。それはあくまでも覆い隠されていたものが白日のもとに晒される引き金にすぎなかったのだ。きっと渚の父はそんな娘が唯一心を許している私に祈るような思いを託していたのだろう。


 2

 渚は午後七時に迎えに来た。応対に出た母と渚の父が話し込みはじめて、今までのことがバレないかヒヤヒヤした。しかし、渚が釘を刺していたのか、そういう話題は出ずにほっとした。


 渚の父はいつもにも増して饒舌だった。

 車を運転しながら、私に会えない間、娘が如何に憔悴していたのかを冗談を交えながら語った。私が必要以上に深刻にならないようにとの彼なりの配慮なのだろう。

 深町家には専属の運転手がいるのにもかかわらず、私の送迎にはたいてい彼自らハンドルを握った。きっと彼は高齢の父に娘が引け目を感じないよう、ごく一般的な世間の父親のように振る舞いたかったのだと思う。

 渚は父親が話している間、どこか上の空で窓の外を見ていたが、その手はしっかりと私の手を握りしめていた。


 渚の部屋に入るのは久しぶりだった。

「夢乃は来ないの?」と私は聞いた。

「塾の夏期合宿だよ。ホテルに缶詰で勉強するんだって」


 夢乃は国立大の理系を狙っている。成績も学内でトップクラスだった。彼女とは一年の時に同じくクラスになり、言葉を交わすうちに親しくなった。中学生の頃から新しい人間関係を受け入れなくなった渚がどういうわけか、夢乃には心を開いた。とびきりの美少女で頭も良い彼女は目立つ存在だ。にもかかわらず、夢乃はそんなことを鼻にかける素振りを見せたことはない。おっとりした性格で、少し天然なところも彼女の魅力を引き立てていた。

 私と渚の関係から一歩離れたところに立ち、バランスを取るように身を処す賢明さもあった。十年も付き合っている私より彼女は渚の扱い方がうまかった。


「今からそんな準備をしないといけないなんて、たいへんね」

 愛欲にかまけた夏休みを送っている自分に比べて、着実に自分の目標に向かって進んで行く友人に眩しさを覚えた。

「彼女はお父さんと同じ研究者になるのが夢だから、勉強にだって余念がないわよ。でも夢乃が来れなくてちょうど良かったと思ってるの」

「どうして?」

「玲於奈と二人きりになるの、久しぶりでしょ」

 渚は上目遣いに私を見た。

「そうだったかなぁ」

 とぼけてはみたが、罪悪感にちょっぴり胸が痛んだ。

「夢乃は大切な友だち。でも玲於奈は特別なの」

 渚は言った。


 しかし、ヒカルにそう言われたときのようなときめきはなかった。

「ありがとう。でもそろそろ渚も他の人に目を向けるべきだよ。いつまでも二人だけの関係に閉じこもっているのは健全なことではないわ」

 渚はしばらく穿つように私の顔を見つめていたが、ふと唇を緩めて言った。

「それよりこれを見て」

 彼女は私の手を引っ張ると、続きにある寝室へ誘った。


 寝室はすべて青でコーディネートされていた。壁もカーペットもカーテンもベッドカバーも。

 ヒカルと初めて夜を過ごしたあのラブホテルの一室を思い出させた。


「ぬいぐるみはどうしたの?」

 私は部屋の青から関心を逸らすように言った。

「全部片付けた」

「あんなに可愛がっていたのに?」

「別にあんなの可愛がってなんかいないよ」

 渚は吐き捨てるように言った。


 私と渚はわだかまりなど何もないように二日間を過ごした。

 私はできるだけ彼女を刺激しないように、彼女も心から楽しんでいるように振る舞っていた。

 しかし、片手で睦み合いながら、一方では引っ込める私の手を離すまいと力を込める渚、それがほんとうの姿だった。


 そして決定的な破局の瞬間がやってきた。


 渚が英語の訳文に取り組んでいるのを後ろからぼんやりと見ているとき、携帯が震えるのに気づいた。

 そっと取り出すと、ヒカルからのメールの着信だった。気づかれないようにそっと開けてみる。


 ――今すぐ逢いたい。いつもの公園で待ってる


 時計を見た。午後九時だ。


「誰から?」

 不意に渚に声をかけられてドキリとした。

「友だち。悪いけど、行かなきゃ」

「だめだよ。今日は私と居るって約束したでしょ」

「急用なんだ。家庭教師ならいつでもできる」

 私はカーディガンを羽織ると戸口に向かった。

「今までのことお母さんに話すよ」

 私は渚をゆっくりと振り返った。

「話したければ話せばいい。でも私は行くから」

「そんなにあいつが大切なの?」

 すべて知っているのだというような表情で渚は言った。


 しばらく単独行動をすると宣言したとき、渚がおとなしく受け入れると考えたのが間違いだった。

 私の後をつけていたのかもしれない。

 いや渚のことだから、探偵を雇って調べさせたのかもしれない。彼女ならそれくらいのことはやりかねないのだ。

 部屋を青くしたのだって、私への当てつけと考えられなくもない。いやきっとそうだろう。


「もうこれ以上、あなたのことを嫌いにさせないで」

 私はそう言うと、ドアのノブに手をかけた。


「見捨てないでよ! 玲於奈には責任があるのよ。私の心が壊れてしまったのはあんたのせいなんだから!」

 渚はノートを私に投げつけた。

「あのとき、玲於奈があいつを殴ったりしなければよかったんだ。逃げていればよかったんだ。あんたが余計なことをしたから、あいつは……汚いものを私に向かって吐き出したんだ」


 心の背骨を折られるような衝撃を感じた。

 でも、私は行かなければならない。ヒカルが待っている。


「違うよ。渚は最初から壊れていたんだ」


 渚のすすり泣きを背中で聞きながら、私は表に飛び出した。



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