第6話 Crazy he calls me

 宣戦布告のつもりだった。

 この女の内側に入り込むには常識的なやり方は通用しない。固いガードを下げさせるためには、その上からひたすらパンチを打ち続けるしかない。

 綾瀬は私の顔をじっと見つめていた。表情からは何を考えているのか読み取れなかったが、先ほどまでの余裕の色は消えている。少しは効いたみたいだ。もっとも私が1ラウンドで食らったダウンを帳消しにするほどではなかったが。


 大きな咳払いして、向かい側のおばさんがだらしない肥満体型を大儀そうに持ち上げた。顔の大きさは綾瀬の倍くらいある。おばちゃんパーマがその顔の大きさをデフォルメしている。

 彼女は何か言いたげに肩を怒らせて半歩前に出た。立ち上がったヒグマみたいな迫力に私は思わず身を縮めた。


 さすがにちょっと悪戯が過ぎたかもしれない。きっと馬鹿にされたと思ったのだろう。もっとも彼女は私たちに最初から悪意を持っていたのは間違いない。向かいに座ったときからずっと睨みつけていた。理由なんてもちろんわからないが、世の中には相手が若いというだけで敵視する人間が一定数いる。そういう人間はこちらの落ち度を見つけたら、途端に牙を剥く。


 隣の綾瀬は組んだ長い脚を引っ込めもせず、顎を上げおばさんを睨み返していた。この女は私なんかとはハートの出来が違うようだ。

 制服姿でもめ事は起こしたくない。学校に通報でもされたら厄介なことになる。

 どうしようかとやきもきしていると、綾瀬がいきなり笑いだした。そして人差し指で自分の口許を示した。

 おばさんは怪訝な表情を浮かべたが、すぐに自分の締まりのない口から垂れている涎に気づいて、あわてて手の甲で拭った。綾瀬はそれを見て、今度は脚をばたつかせて笑いだした。

 私も釣られてクスッと笑った。一度笑うと、とどめもなく可笑しさがこみ上げてきて、二人でゲラゲラと笑い続けた。

 おばさんは臼のようなお尻を揺すりながら別の車両の方に移っていった。笑いながら自分でも底意地が悪いなと思った。

 夢乃が今の私を見たらきっと眉をひそめるだろう。でもこれがほんとうの私なんだ。なぜなら今私はすごく気分が良いからだ。


 綾瀬は市の中心部の駅で降りた。駅周辺にはデパートや最近オープンしたばかりのショッピングモール、少し外れたところには昔ながらの商店街もある。学校に知られずにバイトするならうってつけの場所だ。

 しかし、もし彼女がバイト先に行けばその後、どうすべきか?

 とことんまで付き合うと宣言したのだ。ここで尻尾を巻いて、せっかく築いた橋頭堡を失いたくはなかった。

 仕事が終わるまでどこかで時間を潰すしかない。手持ちのお金は二千円くらいのはずだ。軍資金としては些か心許ないが、幸い今の季節なら寒さに、震えることもあるまい。


 ぼんやりと考えにふけっていると乗り越していることに思い当たった。綾瀬は先に改札を通過している。急いで精算機で料金を支払うと、切符を機械からひったくって改札に走った。一瞬、見失ったと思ったが、綾瀬は改札機の向こう側で柱にもたれていた。

 どうやら撒くつもりはないらしい。かといって、私を受け入れたわけではないだろう。そんなに甘い女ではない。しかし、さっきまでの刺々しさは影を潜めていた。

 少なくとも今、私は彼女の視界には入っている。


 新装されたばかりの駅のコンコースはショッピングモールやデパート、ホテルなどと繋がっており、多くの人で賑わっていた。綾瀬はその中をスタスタと歩いていたが、途中何かを思い出したように立ち止まった。

「トイレ! 一緒に行く?」

 私を振り返った。

「行かない」と答えると、大きなスポーツバッグを抱えたままトイレに向かった。

 私は近くのベンチで待つことにした。遅くなると母にメールしようと携帯を取り出すと、渚からメッセージが着ていた。


  今日ベッドが届いたよ、カバーは何色がいいかな? お泊まりの日までに決めておいて!


 私は渚の部屋の内装を思い浮かべてみた。ぬいぐるみで埋め尽くされた大きな出窓、淡いピンク色の花柄の壁紙。

 大きなコルクボード一面にピン留めされた写真。そしてその写真にはすべて私が写っている。

 反対側の壁には立派なフレームに収まった写真が六枚並んでいる。幼稚園の卒園からはじり高校までの節目の式で撮った二人の写真だ。いずれもむすめを溺愛している渚の父が撮ったものだ。


  ピンク以外ならなんでも


 私は打ち返した。

 間髪を置かずに返信が着た。


  だったら、駅前のショッピングモールに行かない? 夢乃も誘って


 明日は無理と、送信すると携帯を閉じた。



「お待たせ」

 声を掛けられて一瞬誰かわからなかった。まるでお芝居の早変わりみたいに黒いミニのワンピースに変身した綾瀬が微笑んでいる。

 薄くメイクしているせいか、それとも明るすぎる照明のせいか、綾瀬の顔は人工っぽく見える。遠い未来の技術でマネキンが作られるとしたら、きっとこんな顔になるに違いない。


「さあ、行きましょう」

「行くってどこへ?」

「とことん付き合ってくれるんじゃなかったの?」

 綾瀬は少し甘えたように言った。

「もちろん、そのつもりだけど……バイトじゃなかったの?」

 言ってからしまったと思った。

 穏やかな山の天気が急変するように、綾瀬の表情が厳しくなった。

「バイト? 私がバイトしてるなんてよく知ってるね?」

 詰問するような口調に私はうろたえた。

「まあいいわ。あんたが誰の指しがねで私に近づいたのか、だいたい分かったわ」

 合点がいったように綾瀬は言った。

「ご想像の通りよ。でも、それは切っ掛けに過ぎない。興味があるのはほんと。だって、あなたは私の周りにはいなかったタイプだもん」

「そりゃあ、いきなり馬乗りになってキスしてくるお友達は居なかったでしょうね。浅香さん」

 綾瀬は皮肉っぽく私の名前を付け加えた。

「そうじゃないの……いや、それもあるか。でも私は綾瀬さんの何ごとにも超然としているところが、ちょっといいなって思うの。親や友達の目ばかり気にしている私にはとても真似できないもん」

「私には気にするような親も友達も居ない。森島からうちの事情も聞いてるんでしょ。こっちは好きでやってるんじゃないんだよ。良い子ちゃんのあんたにはわからないだろうけどね」

「違う!」

 私は強く否定した。

「良い子ちゃんなんかじゃない。私は荒んでいるの。自分が手にしているものがすべて作り物みたいに思える。親も友達もみんな学芸会のお芝居の書き割りみたいにちゃちで安っぽくて、嘘くさい……綾瀬さんが思っているほど、良い子やるのも楽じゃないんだ」

「好きにすれば」

 そう言うと、綾瀬はモデルのようにくるっとターンした。


 駅を出ると、綾瀬は横断歩道を渡り、商店街の方に向かって歩いた。黒いワンピースからスラリと伸びた大理石のように白い手足を夕陽が金色に染めていた。すれ違ったサラリーマンが舐めまわすような視線を綾瀬に絡ませる。コンビニの前に屯している学生風の若者たちが肩を突き合って、綾瀬を目で追う。

 女でも震いつきたくなるような綾瀬の形の良い脚を見ながら、彼女はけして持たざる者ではないと私は思った。


 アーケードの商店街の途中で綾瀬は通りを右に折れた。そこは所謂飲み屋街だ。居酒屋やラウンジ、風俗店などが入った雑居ビルが並んでいた。綾瀬はそのうちのひとつに入ると、エレベーターに乗り込んだ。

 パネルには居酒屋、カラオケ、ガールズバーなどの店名が並んでいる。

 綾瀬は私を妖しく見つめると、細い指先で2Fのボタンを押した。


 キャバクラ ナイトガールズ


「探偵ごっこはおしまい。さあ、お家に帰りな。良い子ちゃん」

 茫然と立ち尽くしている私を残して、綾瀬はエレベーターを出た。



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