第5話 Uptown Girl
1
波のように不安と期待、絶望と希望、否定と肯定が寄せては退いていく。
悶々としているうちに夜は白々と明けはじめた。
四時十五分、私は決心した。
もう一度、綾瀬ひかると向き合おう。下手な小細工を弄せず今度は真正面からだ。
私がレズビアンであるかどうかは分からない。しかし、綾瀬ひかるに惹きつけられていることは間違いない。彼女のことをもっと知りたかった。
ならば自分の欲求に正直になれば良い。答えは案外、シンプルだった。
朝食のとき、お弁当の一件で母とひと悶着あった。
夜中にこっそり生ゴミに紛れさせたのがバレたのだ。母はそういうことには目敏い。
「食べられなかったのなら、どうして言わないの? こんなものですら口にできない人が世界にはどれくらいいると思ってるのよ」
自分が服や化粧品に掛ける金額には無頓着なくせに、食べ物を粗末にすることにはやたらと口うるさい。寝不足の頭に母の甲高い声がガンガン響いてくる。
「駅まで送るよ。支度しなさい」
延々と続きそうな母の小言を遮るように父が言った。こういう時の父のさらりとした気遣いはありがたい。
「ごめんなさい。今度から気をつけるよ」
玄関を出しなに、私は母に謝った。父のお陰で少し素直になれた。
洒落た家の並ぶ住宅街を車の後部座席から眺めながら、私は恵まれていると思った。
毎日温かい食事が提供され、お金の心配をすることもなく学校に通える。暖かい寝床でぐっすりと眠り、たっぷりお湯を使って入浴できる。義務らしい義務といえば、勉強することくらいだ。何かと干渉してくる母親ですら、森島碧や綾瀬ひかるにはけして手にすることはなかったものだ。
しかし、ちっとも充たされた気がしないのはなぜだろう。
「ねぇ、パパ。もし私がレズビアンだったらどうする?」
父はブルース・スプリングスティーンのGlory daysのボリュームを下げた。それからルームミラーで私の顔をチラッと見た。
「驚くだろうね。そしてみっともないくらい混乱すると思う。言っておくが、僕はリベラルな人間だ。性的マイノリティに対してもオープンな考えを持っていると思う。しかし、自分の娘となれば話は別だ。とたんに保守的になる。ダブルスタンダードと笑うかもしれないが、親なんてそんなものだ。しかし、もし玲於奈が愛した人が偶々女性だったというなら、最後は受け入れると思う。意に沿わないことを強制して、君に後悔する人生を送らせたくないからね」
父は静かに言った。
「心配しないで、ただの冗談だから」
白いものの混じった父の鬂を見ながら、私は言った。
「驚かさないでくれよ。赤信号を一つやり過ごすところだった」
父は朗らかに笑うと、またボリュームを上げた。
栄光は若い女のウィンクみたいに一瞬のうちに過ぎ去っていく
きっと青春も。
2
駅では渚と夢乃が待っている。
綾瀬ひかると今度は正面から向き合う。そう決めたからには彼女たちに話しておかなければならないことがあった。
駅前のロータリーで車を降りると、いつも待ち合わせている銀行の前へと急いだ。
歩道の街路樹から降ってくる蝉の鳴き声、木漏れ日を浴びた艶やかな黒髪の美少女が手を振る。
夢乃は綾瀬ひかるとは真逆のタイプだ。誰に対しても愛想がよく、人の話を親身に聴く。控えめではあるが、一本筋が通っており、主張すべきことはきちんと主張する。理想の友達コンテストがあれば、夢乃は間違いなく優勝候補だ。
「おはよう。体の具合はどう?」
少し小首を傾げ、如何にもあなたのことをずっと気にしてたのよというように眉の間に憂いを込めて、夢乃は訊ねた。
「心配かけてごめん。昨日帰って速攻寝たから、もう大丈夫だよ」と、私は答えた。
「ほらね。玲於奈は具合が悪くて寝込んでいただけなんだって」
夢乃は自分の背中に隠れているお下げの少女を振り返った。
「ほんとに……無視してたんじゃないの?」
渚は私を見ずに言った。泣いていたのか目が赤い。
「無視なんてしてない。する理由もないでしょ」と、私は言った。
「渚のこと嫌いになってない?」
「なってないよ」
渚はお下げをピョコンと振って、私の首にしがみついた。
「あのね。玲於奈がお泊まりするのにツインの大きなベッドを買ってもらったの。ねね、今度の土曜日はどう?」
「家庭教師は夏休みって約束でしょ。土曜は無理よ。それとちょっと二人に話しておきたいことがあるんだ」
私ははしばらくの間、一緒には帰れない。たまには単独で行動しなければならないことがあるかもしれない。でもそれはけして、あなたたちが嫌いになったわけではない。まったく個人的な問題に関わることだから、そっと見守ってほしいと話した。
「それは森島先生が絡んでいることなの?」と、夢乃は訊ねた。
私は肯いた。
「わかった。でも、ひとりで手に負えなくなったら相談すると約束して」
夢乃は往来の目があるにもかかわらず、私を抱きしめて、「私たちは親友なんだからね」と囁いた。
もう一人の親友は虚ろな目で私を見つめていた。
綾瀬ひかるはすでに登校していた。朝の挨拶が行き交う教室で、端然と本を読んでいる。もちろん私に一瞥すらくれない。昨日の出来事など私に関心を払うきっかけにすらならないということか。
放課後までは、いつもと同じように過ごした。休憩時間には夢乃と渚とたわいない話をし、昼食は美亜を交えてとった。
あくまでも彼女たちを巻き込まないというスタンスを崩すつもりはない。教室を出て行く綾瀬の後ろ姿を見ながら、私は強く思った。
3
終礼のチャイムが鳴ると、私は手早く帰り支度を終え、夢乃と渚に先に帰ると告げて、校門に急いだ。
そこで綾瀬を待って、一緒に帰るつもりだった。もっともそこから先のことはなにも考えていなかった。一緒に居ればなにか話す切っ掛けはあるはずだ。
校門脇の桜の木に凭れて様子を窺っていると、綾瀬はすぐにやって来た。
大きめのスポーツバッグを持っているのが少し意外だった。部活にも入っていない彼女にそんな大きなカバンは必要ないはずだ。
彼女が前を通り過ぎるタイミングを見計らって、私は横に並び歩調を合わせた。
これにはさすがに驚いたのか、綾瀬は一瞬立ち止まり私の顔を見た。しかし、すぐに何事もなかったかのように駅に向かう道を歩きだした。
夢乃たちが追いついてくることも考えたが、この速さで歩いていればその心配はない。渚は帰り支度におそろしく時間が掛かるからだ。
駅に着くと、綾瀬は私がいつも利用するのとは反対のホームに向かった。
このまま真っ直ぐに帰宅するのだろうか。それとも何か別の用事があるのだろうか。
私は綾瀬がアルバイトをしているという森島碧の話を思いだした。きっと彼女は今からバイト先に向かうのだ。どこまで行くのかわからないから、切符を買うわけにはいかないが、定期があるから乗り越し料金を払えば済む。
私は綾瀬と並んでホームに立った。
横に並ぶと綾瀬が随分と背が高いことがわかる。私とは頭一つくらい違った。百七十センチくらいはありそうだ。
すらりとした手足に栗色のショートボブがとても良く似合う。
私は彼女の横顔を大胆に見つめた。もう一度、こちらを見れば話し掛けようと思った。
「これからバイト?」
いやこれだと、私が綾瀬の家庭事情を知っているのがバレバレで、警戒を招くだけだ。
「家、こっちだったんだ」
さっきよりましだが、取って付けたようで白々しい気もする。
むしろ、向こうから罵るなり、詰るなりしてくれた方がリアクションが取りやすい。
そうこうするうちに綾瀬は入ってきた急行に乗り込むと、ロングシートの端に腰掛けた。どうしようか少し迷ったが、私も隣に座った。
冷房が効いていて、汗がスッと引く。
車内は空いていた。ラッシュアワーにはまだ早い。同じ制服をちらほら見かけたが、知った顔はいなかった。
向かいの席の中年のご婦人が睨みつけるように私たちを見ている。
「いったいどういうつもりなの?」
この日綾瀬は初めて口を開いた。
「言ったでしょ。あなたに興味があるって」
すこし声が震えていたかもしれない。
「教えてよ。どんな興味があるの?」
「それを確かめたいのよ。だから今日はとことん付き合うつもり」
「ふうん……この前は泣きながら逃げ出したくせに?」
「突然だから驚いただけ。今日は逃げない」
綾瀬は私の膝に手を置いた。そして、誘惑の蛇のように掌を反らし、手首で撫で回しはじめた。スカートが捲れあがり太股が剥き出しになる。
目の前のおばさんは綾瀬の手の動きに見入っていた。瞳孔は開き、浮き上がった毛細血管まではっきりと見える。
「ねぇ、またあんなことしてほしいの?」
綾瀬は挑発するように私の顔をのぞき込んだ。
まるでふたつの生き物のようなブラウンの瞳は私の心に入り込み石に変えてしまう。彼女はメデゥーサだ。そうさせないためには彼女以上の魔物になるしかない。
私は彼女の手首をつかむと、ゆっくりと引き離し、耳元に口を寄せた。
「もう一度、あんなことをしたらひっぱ叩いてやるから」
薄桃色の綾瀬の耳がピクリと動く。
私は半分開いた口から涎を垂れ流しているおばさんを見ながら、小ぶりで形の良い綾瀬の耳たぶを甘く嚙んだ。
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