第7話 Slow Hand

 1

 いったい私は何をやってるんだろう。

 最後の最後に綾瀬にしてやられ、這々の体で家に逃げ帰った。彼女は老練なボクサーのように打たせるだけ打たせて私の慢心を誘った。知らないうちにガードを下げていたのはこちらだった。私をKOするのにはたった一発のパンチで十分だった。

 どうやって家にたどり着いたのかも覚えていないし、家族と何を話したかも記憶にない。


 バスルームで服を脱ぎ捨て、鏡の前に立ち、ようやく自分を取り戻すことができた。自分に苦痛を与えるようにシャワーの温度を上げていく。私は火刑に処せられた魔女だ。群衆があげつらう濡れ衣に首を振り、肌を刺すような痛みに思わず呻き声を漏らした。

 部屋のクーラーをがんがんに効かせ、ジェイク・ラモッタのポスターに向かってファイティングポーズを取ると、滅多矢鱈にパンチを振り回した。ジャブ、ストレート、アッパー。気持ちが萎えたとき、私はこうやって自分を奮い立たせる。

 小六の夏、私は自分より十センチも背の高い男をノックアウトした。

 学校帰りの小学生に露出した陰部を見せつける怪人の噂は以前からあった。

 そいつが現れたとき、渚は私の背中に隠れた。怪人は灰色の作業服を着た中年の男だった。そいつはお菓子でもあげようというような笑顔で私たちに近づいてきた。渚は私の背中に顔を押しつけて泣き喚いた。

 私は拳を握り締めると彼の目をまっすぐに見た。そして頭の中ではノックアウトするイメージを繰り返し再生した。

 大学時代、拳闘部のキャプテンだった父は卒業後も私を連れて、後輩の指導に母校を訪れた。隆々とした僧帽筋、極限までシェイプされた腹筋。汗と皮の匂い、パンチの風を切る鋭い音、サンドバッグを叩く鈍い音、それはわたしの五感の中に息づいていた。

 男は睨みつけている私より渚の反応が気に入ったのだろう。少し身を屈めて横から渚をのぞき込もうとした。

 私は無防備にさらされた男の脆弱な顎を見逃しはしなかった。左フックは細い顎を擦るように振りぬけた。男は下半身を露出させたまま仰向けに倒れた。気を失っているにも関わらず男のそれは硬いままだった。

 渚にとってその経験は男に対するトラウマになり、私にとっては素手で相手を倒したことのある者だけが知る快感となった。


 程よく疲れると、荒い息を吐きながら私はベッドに仰向けに倒れこんだ。眼の奥がじーんとする。

 ヒントはいくらでもあったはずだ。

 綾瀬の父親は働いていない。生活費は彼女が稼いでいるのだ。学校が終わってからのコンビニや居酒屋の短時間のバイトじゃとても賄いきれるはずがない。やばいバイトに手を出しているくらいのことは少し考えたらわかることだった。それなのに私はキャバクラの店先に消えた綾瀬を茫然と見送ることしかできなかった。

 もちろん世の中にはもっとやばいことに手を出している私と同世代の少女が居ることを知っている。しかし、綾瀬とその顔のない少女たちとの間には明確な一線がある。

 綾瀬はもう私の心に棲み着いているのだ。東京とリオデジャネイロくらい離れているとしても、私たちは同じ地平の上に立っていると思っていた。それなのにあの時の綾瀬の後ろ姿は異世界の住人だった。いくら背伸びしても届かない遠い存在に映った。

 綾瀬の言うとおり私はただの良い子にすぎなのだろう。親の庇護の元で月七千円のお小遣いで満足し、校則で禁止されている下校時の飲食店の立ち寄りにスリルを感じているのがせいぜいのところだ。

 彼女は孤高を気取っていたわけではない。孤高だったのだ。同級生のままごと遊びなど目に入れる余裕はなかったのだ。リスクを背負いながら女子高生をやり、飲んだくれの父親を養っている。そんな彼女と私たちの間に分かち合える友情などあるはずもない。


 しかし、私が彼女に求めているのは友情なのだろうか? 答えは否だ。もう後戻りできないくらい私は綾瀬ひかるに魅せられていた。こうしている間にも一分毎に黒いフレアのミニから覗く綾瀬の白い脚や、グロスで、なまめかしく光った唇がちらつく。もはやこれは色ボケとしか言い様がない。釈迦や孔子が理を尽くして諭したところで私は訊く耳を持たないだろう。

 悶えるようにベットの上を転がっているうちに、綾瀬がキャバクラに勤めていることは私にとってチャンスではないかという気がしてきた。客として訪れれば彼女は私を拒むことも邪険に扱うこともできないはずだ。

 もちろんお小遣いで行ける場所でないことはわかっている。

 私は虎の子を使う決心をした。小学校の頃からずっと貯めていたお年玉が二十万円以上ある。通帳は母がずっと管理してきたが、高校入学を機に自分のお金は自分で管理しなさいと、父が通帳とキャッシュカードを渡してくれた。

 お金の問題はクリアできた。

 後は年齢だ。お酒を提供する場所だから、未成年、若しくは十八歳未満はお断りと考えるのが妥当なところだ。しかし、現役女子高生の綾瀬を雇っている店だ。身分証明書の提示を求められることなんかあるまい。念には念を入れて明日は大人ぽい格好をしていこう。

 綾瀬の反応をあれこれ想像するだけで独りでに笑みがこぼれてきた。


 午前中は静かに過ごした。母には午後から渚の家に勉強しに行くと伝えた。

 母は渚のことを気に入っている。渚も母の前では如才なく振る舞う。家に遊びに来るときは手土産を持参し、まず母に挨拶する。そういうときの渚は夢乃にも引けを取らないくらい立派な対応をするのだ。

 渚の父は七十を超えていた。大病院の理事長で親戚縁者には市長や市会議員を務めた者もいる。言ってみれば、街の有力者だ。先妻との間に子供が無かったので、孫のような一人娘を溺愛している。

 母は名声に弱い。渚の名前を出しておけば少々帰宅が遅くなったところで大丈夫だ。


 昼食の素麺を食べながら、「夕食はどうするのか?」と、母が尋ねた。

 私は向こうで食べることになると答えた。渚の母親はそこそここそ名の知れたバイオリニストだ。演奏旅行で日本中を飛び回っていて、ほとんど家に居ない。

 普段はお手伝いさんが食事の用意をするのだが、私や夢乃が遊びに来るときには、父親が自ら腕を振るう。お客様用の和室には高級旅館のような料理がずらりと並ぶ。さすがに美味しいものを食べ慣れているだけあって、料理の腕前は玄人はだしだった。


「それなら何か持って行った方が良いわね。いつもお呼ばればかりで申しわけないわ」と母が言った。私はそんな必要はないと答えた。

「恥をかくのは私なのよ」と、母は少しきっとなった。

「それなら僕が車で送っていって、ついでに何か見繕おうか?」と父が言った。

「いいのよ。夢乃とも待ち合わせしてるから、途中何か買っていくよ」

 母がお金を渡そうとするのを押しとどめて、私は自分の部屋に上がった。

 できるだけ大人っぽい服を選びたかったが、クローゼットの中身は私を失望させるものばかりだった。結局、無難にジーンズとニットのキャミソール、その上からピンクのカーディガンを羽織ることにした。


 午後二時、私は家を出た。綾瀬の出勤は六時からだ。現地に行く時間を考えてもかなり間がある。お金を下ろすため駅前の銀行に立ち寄った。いくら下ろすべきかATMの前で思案した。すでにお店のホームページで料金は調べてある。二三時間遊ぶにしても三万円あれば十分だ。しかし、私は思い直して五万円おろした。

 ショッピングモールで時間を潰し、何かアクセントになるような小物を探した。私服の私はおしゃれなんだと綾瀬に思われたかった。


 午後五時半、駅のコンコースに移動した。昨日綾瀬と歩いた場所だ。そこにある喫茶軽食のお店で腹ごしらえをして開店を待つつもりだった。私はウェイトレスの案内も待たずに、空いたばかりの窓際の席に陣取った。ここなら通りの様子がよく見える。

 パスタとコーヒーを注文すると、買ったばかりのシルバーのネックレスを付けた。出勤する綾瀬を見ることができるかもしれない。そう思ったけれど、土曜日の通りは人混みでとても誰かを見つけられそうにはなかった。


 2

 エレベーターを降りると店の前にはワイシャツネクタイ姿の馬面の男が立っていた。まだ若い男だ。

「面接のひと?」

 品定めするように彼は私をジロジロ見ながら言った。

「違います。お客です」

 我ながら間の抜けた返事だ。

「あの、ここキャバクラだよ?」

 馬面は念を押すように言った。

「ええ、もちろん」

 今度はきっぱりと答えた。

 馬面は黒いガラスのドアを開けて、首だけ突っ込むと中の誰かに話しかけた。

「女のお客さんだけど、いいんすか?」

「前にも女の客が来てたろ。全然O.K.だよ」


 見事に頭をつるりと剃り上げた大男が外に出てきた。

「いらっしゃい。ご指名はあります?」

 スキンヘッドの男が恵比寿顔で訊ねた。

 水商売では源氏名を使うのだということを私は失念していた。

「なければ、フリーで入ってもらって気に入った子が居れば指名してもらってもいいですよ」

 こちらが戸惑っているのを見て取ると、スキンヘッドは言った。

 どうしようかと迷っていると、店先にある写真パネルが目に入った。

「写真でも選べますよ」

 スキンヘッドが目敏く言った。

 ズラリと並んだ女の顔の中から私は綾瀬を探した。媚を売るような微笑みの中で一人だけ浮かない顔をパネルの右下に見つけた。

 ヒカル

(そのまんまじゃん!)

 思わず笑いがこぼれた。

「ヒカルさんにします!」

 私はヒカルを買った。


 案内されたのは壁際の席だった。二人がけのソファーとガラスのテーブル。琥珀色の宝石みたいな形をしたブランデーのボトルがでんと置かれていた。

 天井から吊り下げられたミラーボールが薄暗い店内に光の模様を投げかけている。正面に設えられたステージでは長髪の若者が調子外れのB'zをがなり立てていた。横で手拍子している女の青いスパンコールのドレスがキラキラと輝いて綺麗だった。


「エリカです! よろしく」

 私の席にやって来たのは綾瀬ではなかった。肩が大きく露出した赤いドレスの女だ。サイドに寄せたボリュームのあるオレンジの髪を肩に回すと、エリカは横に腰掛けた。白いうなじから漂う強い香水が鼻をついた。

「ヒカルちゃん、ちょっと遅れるって、さっき電話があったの。直に来るからそれまでお相手させてね」

 深いスリットが割れて白磁のようなすべすべした太股が露わになる。そのきめの細かさに、私は思わず生唾を呑み込んだ。

「飲み物は何にする?」と彼女は訊いた。

「ウーロン茶で」と、私は答えた。

「あら、つまんない。それともまだお酒の飲めない年頃なのかな?」

 私は慌てて首を振った。

「じゃあ、乾杯しよ。乾杯」

 エリカは蜘蛛の脚のような長い指をグラスに絡めるとブランデーを注いだ。

 どのみちここに居る時点で校則に違反しているのだ。私は覚悟を決めてグラスを取った。

 カチンとグラスが合わさる。エリカは私が口をつけるのを見届けるように、少し潤いを含んだ黒い瞳で見つめた。

 薬臭いのを我慢して口に含んだ液体を飲み込んだ。焼けるような喉ごしの感覚、熱い液体が食道の細いパイプを降りていくのがリアルタイムで伝わってくる。やがて熱さは胃の腑全体に広がっていった。悪くない。スリルを再び味わうように私はもう一度口をつけた。

「なんだ、結構イケルじゃない」

 エリカは中身の減ったグラスを再び満たした。

「よく来るの?」

「今日初めて」

「それじゃヒカルちゃんは?」

「写真を見て指名したんです」

 エリカは意味深な笑いを口元に浮かべた。

「ヒカルちゃんって女の子に人気ありそうだもんね」

「そうなんですか?」

「この間もOL風のお客さんについていたわよ」

「男の人にはどうなんですか?」

「それなりに人気はあるよ。でもこういうお店だと貴方みたいなタイプの方が好まれるのよ」

「私みたいなタイプ?」

「ロリ顔、巨乳」

 そんなふうに自分のことを表現されたのは初めてだ。

「ちなみに私は両方いけるのよ。貴方すごくタイプ」

 耳に息を吹き掛けるようにエリカは囁くと、乳房を私の腕に押しつけた。

 彼女はブランデーのビンを持ち上げると、慣れた手つきでオンザロックをつくった。

「さあ、飲んで。今日は盛り上がろうよ」

 もう何杯目だろう。少し頭がふらつく。姿勢を真っ直ぐに維持するのが難しい。それでもなぜか高揚した気分になる。もうどうにでもなれという楽観的な気持ちが思考を止めた。

 私はまたグラスを取ると、グッと飲み干した。さっきよりも少し濃い。

「すごい、すごい! ねぇ、ハイボールにする? 口当たりがいいから吞みやすいわよ」

 エリカは私の傍にあった炭酸水のボトルに手を伸ばした。二の腕が私の尖った乳首を擦るように。反応を確かめるようにエリカは私を見た。瞳はネコのように黄色かった。

 カラオケは素人離れしているロス・プリモスに変わっていた。


 ラブユー ヒカル


 小さく口ずさんだ。

「ダブルにするね」

 エリカがウィスキーのボトルを振ってみせた。

 大げさにキャップをしぼり、新しいグラスに注ごうとしたその手首を誰かが強く掴んだ。

「ありがとう。エリカさん」

 綾瀬は微笑を浮かべながら言った。しかし、その目は刺すように冷たかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る