『盟約のリヴァイアサンⅡ』

【序章】

【序章】


 アメリカ合衆国、ニューヨーク州。

 そして、この地をゆるやかに流れる大河がハドソン川。

 その河口付近にある中州を指して、マンハッタン島と呼ぶ。

 かつてはニューヨーク市の中心であり、ある意味で世界の中心でもあった。

 摩天楼のそびえ立つ大都会。

 経済と文化の一大中心地――。


 しかし今、この小島を埋めつくすビル・家屋・建造物のことごとくが無人であり、虚しく屹立するのみの廃墟であった。

 かつての喧噪が信じられないほど、今のマンハッタンは静寂につつまれている。


 この広大な廃墟群を人類はこう呼ぶ。

 旧マンハッタン竜族租借地そしゃくちと。


「ふふ。ひさしぶりだな、地上の風は」


 人間などいないはずの滅びた都市。

 しかし、彼女はそこにいた。

 かつてエンパイアステート・ビルと呼ばれた場所だ。

 摩天楼のなかでもひときわ高くそびえる高層建築。

 地上から高さ三八〇メートルのビル屋上に、六〇メートルの尖塔をさらに継ぎ足した構造が特徴的だった。


 このビルの屋上、あと一歩進めば空へ踏み出せるという縁のぎりぎりに立ち。

 彼女は悠々と空を眺めていた。


「うむ。長く留守にしていたが、やはりはいい」


 心地よさげに目を細め、彼女はささやく。

 吹き抜ける風の感触を全身で確かめている。

 身にまとう白いワンピースの裾が、みごとなほど長くのびた黒髪が風になびいていく。その動きを目で追いかける。


 どうということのない行為が実に楽しい。

 彼女はいつしか微笑を浮かべていた。しかし――。


 ここは超高層建築の天辺てっぺんに近い高み。

 吹き抜ける風は轟々と音を立てる大強風であり、華奢な少女の肢体など一瞬にして吹き飛ばしてしまうはずだった。

 だというのに風を楽しみ、下界を見わたし、悠然と摩天楼の景観を観賞する。


 地上的人種区分でいうところの東洋人である。

 年齢は一五歳前後。

 その面差しには雪の精かと見まごうほど静謐な美が満ちている……。

 地上三八〇メートルの高みを吹く強風も、彼女を打ち倒すことはできない。

 あらゆる秘境に挑み、苦難を突破し、危険という危険を乗り越えてきた彼女。

 その長き冒険の旅で鍛え抜いた『加護』があるかぎり、彼女は不朽であり不敗なのだ。


「あいつめ、あいかわらず目立ちたがりだ」


 遙か彼方の空に旧知の姿を見つけて、彼女は微苦笑した。

 快晴である。

 澄みわたった青空の下にいるだけで心がうきうきしてくる。

 遠くを見やれば、厚みのある白い雲が悠々と空に浮かんでいるのだが。


 この雲に負けないほど巨大な『獣』が威風堂々と雲間を飛んでいた。

 当代の人類がドラゴンと呼ぶ生物だった。


 竜鱗りゅうりんと翼の色はあざやかな真紅。

 胸のあたりの鱗は甲冑を思わせる形状に外骨格化している。

 そして、手には長大な『槍』を一振り持っていた。


 巨竜の背丈よりも長い槍の柄は黒色。

 穂先は鈍い鋼色――。


 ニューヨーク州やその近隣では、ひんぱんに目撃される魁偉かいいな姿。

 人間世界より『紅きハンニバル』の呼称を贈られた、ドラゴン王の飛翔であった。

 しかし、彼女は同族だけが知る呼び名で、遙か彼方を飛ぶ彼に呼びかけた。


「旧交をあたために来てやったぞ、炎帝!」


 多少、声を張りあげただけの呼びかけ。

 しかし、これで十分だった。

 三〇秒後、彼方の空より炎帝の姿は消えうせ、代わりに忽然と顕れた紅き竜鱗りゅうりんが頭上の空を埋めつくした。

 瞬間転移の魔術で空間を越え、マンハッタンの空にやってきたのである。


 それにしても無駄に大きい。

 彼女は美しい眉をひそめ、おびただしい量の紅い竜鱗りゅうりんが広がる空を見あげた。

 紅き竜王は今、数キロにもおよぶ体長なのだ。

 真下にいれば、全身の形状などわかるはずもない。


「あなたが派手好きなのは承知しているし、気にもしない。が、わざわざ会いにきてやった客人の前だぞ。しっかり顔を見せるのが礼儀だろう」

『ははははは! 招かれてもない客の分際で、あいかわらず図々しい!』


 不満をつぶやいた瞬間、天が大いに震えた。

 紅き巨竜が豪快に笑ったせいで、震動が駆け抜けたのだ。

 天空だけでなく、マンハッタンの大地とそこに建つ廃墟までもがびりびりと震える。

 しかし、すらりとした彼女の体だけは小揺るぎもしなかった。


『姫よ! 雪風の姫よ! すぐに参るゆえ、そう急かすな!』


 ふたたび天地が揺れると、上空を埋めつくしていた竜鱗りゅうりんが全て消えうせた。

 代わりに一体のドラゴンが降下してくる。

 紅き鱗に長槍を持った姿は、まちがいなく炎帝――またの名を『紅きハンニバル』のもの。


 しかし、そのサイズは全長二〇メートルほどだった。

 地上を足で真っ平らにしたい等の欲求がなければ、あんな巨体になる意味はない。

 竜族本来のサイズでいる方が遙かにすばやく動きまわれるのだ。

 なのに、バカげた巨体となって飛びまわる。

 おそらく下界の人間たちを驚かせるつもりなのだろう。


 子供っぽい遊びだ。しかし。

 こういうイタズラ、きらいではない。彼女――雪風の姫はにやりと笑った。


「まあ、特に変わりがないようで何よりだ。雷帝や海王のように陰気な連中が相手では、腰を据えて語らう気にもなれぬ。うん」

「ははは。姫のお気に召したとあれば幸いだ!」


 エンパイアステート・ビルの屋上に腰かけるワンピース姿の少女。

 巨大な翼を広げて空中で静止し、少女と向き合うドラゴン王。

 なんとも異様な取り合わせだった。

 だが、当人たちは平然と話をはじめる。


「ところで炎帝よ」

「待て。実はな、最近では地上人の付けた名の方が気に入っている」

「紅きなんとやら……ハンニバルといったか?」


 中欧にひそむ黒の雷帝は、自らの呼び名を地球人類にも布告している。

 対して、炎帝は適当な名乗りですませていたのだが。

 人間たちは独自に称号を設け、その名で紅きドラゴン王を呼ぶようになったのだ。


「炎帝の名も悪くはない。が、陰気さと高慢さでは比類なき傑物けつぶつ・黒の雷帝……やつの名と似ていることが少々――いや、そこそこ気にくわなかったのだ。前々から」


 偉大なる竜王でありながら、稚気にも富む猛者。

 その片鱗を見せながら、炎帝あらためハンニバルは朗々と語る。

 その声は驚くべきゆたかなバリトンであった。


「それにな。この名の原典だという武将、なかなかの傑物けつぶつだったらしい。ただ一軍をひきいるのみで大帝国を蹂躙し、焼きはらい、最後には夢ついえて敗れたのだとか……」


 苦難に満ちた名将の生涯を舌で味わうように、ハンニバルはささやく。


「男子たる者、また戦士たる者、そのような道にこそ生きる甲斐を見出すべきなのだ。常に勝者でいたいなどという面白みのない望み、犬にでも食わせてしまえ」

「そうか? 雪風はいつだって勝つ側でいたいぞ?」


 紅きハンニバルは百億以上の戦場で常に最強でありつづけた大英雄。

 その果てに勝利などという『凡庸な結末』に何の魅力も感じなくなった。

 しかし、雪風の姫はまだ若い。

 そこまで達観する気にはまったくなれない。


「正直に言って、負けるのは好かん」

「小娘だな、姫よ! 敗北を愉しめぬうちは、真の戦士にあらず!」

「などとほざく御仁に訊こう。その生涯で敗北を喫したこと、幾度ある?」

「む……。二度――いや一度か。いや、待て。もうすこしあったような気もするのだが、よく覚えてはおらぬ。しばし考えさせてくれ、姫」

「ハンニバル王。あなたは竜王のなかでも、最強の高みに最も近いかもしれぬ者だ」


 豪快さがゆきすぎて、時に粗忽でさえある竜族の盟主。

 彼のうかつさを知る雪風の姫は、遠慮なく言った。


「雪風が思うにだな。あなたは生涯でただ一度も敗れたことがないのでは?」

「むむ。言われてみれば、そんな気がしないでもない。そうだったかもしれぬ。ひとたび戦いはじめれば、“つい勝ってしまう”のはたしかに余の悪癖だった」


 己の不行状を嘆くように、ハンニバルはため息を吐き出した。

 それは竜族よりもむしろ人間族がやりそうな、地上的感情表現だった。


「何処かに余の覇権をおびやかす強者が顕れぬものか……。それはそうと姫。こんな形で向き合っているのも、話しにくくてかなわぬ」


 つぶやいた直後、空より紅き巨竜の雄姿が消えた。

 入れ替わるように、エンパイアステート・ビルにいる姫のそばに巨漢が顕れる。

 人間である。すくなくとも、姿形だけは。

 身長一九〇センチ前後。壮年の大男で、ひどく逞しい体つきだった。

 顔立ちはまあまあ端整で、不思議な愛嬌がある。

 服装は紅いロングコートにシャツ、スラックス。

 地上を歩いても違和感のない格好だ。


「よし、よし。これでずいぶんと話しやすくなった」


 大男の驚くべきゆたかなバリトン。

 それはハンニバルの声と完全に同じだった。

 この姿は超常の魔力によって、ドラゴン王が変化したものなのだ。


「ところで姫よ。おぬし、まだ上手く竜にままか?」

「ままだ。が、いいではないか。変わらなければ困るほどの敵と仕合うときは、勝手に竜となるのだから。不都合はない」


 竜王たちのなかでは最も歳若く、いまだ荒削りな雪風の姫。

 その肉体と魂が秘める超魔力を完全に掌握しきってはいないのだ。

 しかし、別段それは気にならない。

 ハンニバルもそうだが、彼女もまた『雑種』の生まれ。

 純血の輩とちがい、人間体でいることを恥辱に思ったりはしない。


「それよりもハンニバル王。この地上に屠竜とりゆうの弓が顕れたようだぞ」

「ほう。紅蓮の女王と共に消えた竜弑しが!」

「あなたなら何か知っているかと思い、わざわざ訪ねてきたのだがな」

「ははは。対の弓箭ゆみやを持つ者としては気になるか。だが、すまんな。知るわけがない。そういうことはにでも訊くがよいさ!」


 人の姿で語らっていた竜王たちだが、同時に西の空へ視線を向けた。

 彼方より飛来するドラゴンの影に気づいたのだ。


「ジズーか。珍しいな。余の都に飛び込んでくる竜族はめったにいないのだが」


 人類がドラゴン上位種と名づけた種族を、竜たちは『ジズー』と呼ぶ。

 言語と魔術を使いこなす、知恵ある竜。

 こちらに飛んでくるジズーはメタリックシルバーの竜鱗りゅうりんだった。

 太陽の光を浴びて、銀色に輝いている。


 彼はほどなくエンパイアステート・ビルの上空までやってきた。


「竜王たちよ。王への道を乗り越え、真なる王者に登りつめた方々よ」


 竜鱗りゅうりんをきらめかせながら、白銀のドラゴンは言った。


「あなたがたの偉業と権威を承知のうえで告げよう。わたしはパヴェル・ガラド。いまだ探求者ジズーのひとりにすぎぬ身だが、王への叛逆を企てる不届き者だ」

「ほう。聞いたか姫よ。こやつ、竜王ふたりに牙をむくという」

「聞いた。なかなかに心躍る宣言だ。気が昂ぶるぞ」


 堂々たる名乗りに、竜王ふたりはそろってうなずいた。

 特に雪風の姫は口元が自然にほころぶのを自覚し、その笑みをさらに大きくした。

 冒険・挑戦・闘争のどれかに類することを全て愛する性分なのだ。

 そして、雪の精めいた美貌を銀竜パヴェル・ガラドに向け、問う。


「訊こう。なぜわれらに挑む?」

「たいした理由ではない。わたしもまたジズーのひとりとして竜弑しの文字を求め、『王への道』に挑む準備を進めてきた。だが、その旅路のなかばで心金に傷を負った。この傷は不治であり、わたしは遠からぬうちに死ぬだろう」


 自らの死をパヴェル・ガラドは淡々と語る。


「そこで考えた。我が生のしめくくりに何を為そうと。わたしをふくめ全てのジズーは竜王になることを悲願とする。が、それを成し遂げる時間はもうない。ならば、全てを懸けて竜王に挑み、勝利をもって王位の代わりにできまいかと――」

「王への道を走りきれぬ代わりに、王を越えようと願うか、銀竜!」


 たたきつけるように雪風の姫が言うと、ガラドは力強く首肯した。


「御意。我が血の熱さを刃に変えて、御身らを弑逆させていただく」

「ははっ! よくぞ言い切った!」


 姫は陽気に笑い、痛快な気分を味わった。


「ハンニバル王。こいつは譲ってくれ。我が『屠竜とりゆうの矢』で心金を貫き、手ずから冥府に送ってやりたくなった。このような男には壮麗な最期をくれてやらねばならぬ。それこそが雪風の――覇者たる者のつとめ!」

「ふむ。まあ、おぬしがその気なら好きにするがいいさ。余に異論はない」





 それから起きた戦いに、特筆すべきことはあまりない。

 パヴェル・ガラドは格別に強い竜族だった。

 魔術をよくきわめ、これ以上ないほど強靱な肉体と精神を所有していた。

 彼の挑戦を姫は正面から受けとめ、しのぎ、返り討ちにしたのである。


 苦戦はしなかった。

 雪風の姫は若くとも竜王。

 『竜弑し』すら持たないジズーに手こずることなど、ありはしない。


 竜体にも化身せず、眷属も呼ばず、我が身と魔導の杖だけで銀竜を撃破した。

 戦いは数分もかからなかっただろう。

 力尽きたパヴェル・ガラドは地上へ――かつてニューヨーク市民が憩いの場としたセントラルパークへ墜落していった。


 いくつもの湖を擁する、広い造られた公園である。

 かつては擬似的な自然を楽しむため、美しく管理されていた。

 しかし、今では手つかずの雑木林や背の高い草などが無秩序に生いしげり、この一帯を占拠している。


 そして上空。

 雪風の姫が快晴の空に


「おまえの武勇、この雪風の胸にしかと刻みこんだ。それを手向けに逝け、銀竜よ。今日はこんなにも空が青い。死ぬにはまずまずいい日だろう」


 弔いの詩を謡うように、雪風の姫は告げる。

 地上から一〇メートルほどの空中にいる。

 静止しているのだ。

 彼女を空に浮かべるのは、足もとのうすい板だった。流線形である。


 地上人が見れば、形とサイズからサーフボードの一種と思うかもしれない。

 これこそ、雪風の姫が愛用する『魔導の杖』だった。


 白き流線形に乗ったまま、姫は地上を見おろす。

 パヴェル・ガラドの巨体が横たわっていた。

 白銀色の胸に大穴を開けたのは、さきほど彼女が放った『箭』の一撃だ。


「最期に訊いておこう。命長らえたいという未練がもしあるのなら、この雪風の眷属となれ。おまえほどの戦士だ。我が軍勢に加わる資格は十分にある」


 パヴェル・ガラドは答えなかった。

 ただ大地に横たわるのみ。

 声も出せないのだろう。

 しかし、『早くとどめを』と請うように目を閉ざす。

 静かだが、明確な意思表示だった。


「ふふ。よい覚悟、よい散り際だ。雪風はおまえを賞賛するぞ!」


 姫は足もとの流線形を操るべく、念を凝らした。

 ガラドの命をできうるかぎり峻烈に断ち切り、この男の死を壮麗に彩ってやりたい。

 とどめの一撃に我が身の全力を込めなくては――。


 雪風の姫が誓った瞬間、全身が熱くなりはじめた。

 竜化の前兆だ!


 心の昂ぶりに体が応えて、最強の力を爆発させようとしている。

 ならばと、雪風の姫が全身の熱をに解きはなとうとした瞬間だった。


「お待ちあれ、竜王ロードよ」


 錆をふくんだような、渋味の強い声で訴えられた。

 旧知の男の声だった。

 雪風の姫は竜化をやめ、あらためて地上を見おろす。

 横たわる銀竜のそばに、ひとりのがいつのまにか立っていた。


「なつかしい顔だな。来ていたのか」

「必要とあらば、どこにでも現れるのが私の役目。海底にも、天上のヒューペルボレアにも。その遙か先、星海の門を越えて忘却の彼方フォーゴトン・レルムへも参りましょう」


 旧知の男がつむぐ言葉は慇懃だった。

 物腰も口調も丁寧である。

 しかし、そこに卑屈さはない。

 王の宮廷に仕える実直な執事のごとく、淡々と話し、洗練された物腰でうやうやしくしている。


「そこに『王への道』を志す者がおり、継承者の資質を見せるのであれば」

「ほう。つまり、今日の目当てはこいつか」


 雪風の姫が問うと、男は黙然と頭を垂れた。

 彼は壮年であり、よく日焼けしていた。

 どこの都市でも入手できそうな、平凡な黒い背広を身につけていた。

 声と同様、端整な顔立ちも渋味が強かった。


「御意。この竜、これまでの長き探索で燧石すいせきを手に入れております」

燧星ひうちぼしのかけらを? 資格のひとつをすでに満たしていたとは、なかなかやる」


 パヴェル・ガラドが傑物けつぶつと知り、雪風の姫は満足感を覚えた。

 己の見立てにあやまりはなかったと。

 そして、黒背広の男をあらためて見つめる。

 偶然にもさっきハンニバルが口にした『あの人間』の到来だった。


 竜王ならざる者のなかでは、最もルルク・ソウンの秘奥に近い男。

 ということは、つまり――。

 男の思惑を見抜いて、雪風の姫はフッと笑う。

 とどめを刺す気も失せ、全身の熱は一気に引いた。

 さっと流線形のボードより飛び降り、地上に降り立ちながら言う。


「おまえ、この銀竜にどの文字をくれてやるつもりだ?」

「彼が望むのであれば――これを」


 黒背広の男が手を開くと、その掌のうえにルルク・ソウンの秘文字ひもじが顕れた。

 それは不等号の印『<』を三つ、一直線に重ねたような魔術記号であった。

 鋭い武具の形状をかたどっている。

 屠竜とりゆうの力を宿した、竜弑しの文字にほかならない。


 雪風の姫がうなずくと、紅いコートの男がこちらに近づいてきた。


「おお、なつかしい。《剣の秘文字》ではないか」


 ハンニバルの嘆声だった。

 いつのまにか人間体のまま地上に降りてきたらしい。


屠竜とりゆうの剣の鋭さ、よく覚えているぞ。あれはよい文字だった!」

「そういうことだ、パヴェル・ガラド」


 黒背広の男は倒れたままの銀竜に呼びかけた。


「聞こえているなら、死力を尽くせ。これをつかみとることができれば、君は王のきざはしに足をかける。剣の竜ごろしを継ぐ者となり、『王への道』に挑めるのだ」


 悪魔的というには真摯すぎる口調で、男は誘い文句を告げていく。

 王への道。その言葉が出るや、銀竜の閉ざされていた目がかすかに開いた。


「無論、屠竜とりゆうの力を授ける代わりに条件もある。君にはまず、私が提案する試練クエストに挑んでもらいたい。この盟約に異論がなければ――手をのばせ」


 びくりとパヴェル・ガラドの巨体が震えた。

 胸の心金を貫かれ、もはや死を待つ以外の何もできないはずの体で。

 ゆっくりと、ぎこちなく、白銀の左腕が持ち上がっていく。

 五本指の竜掌が黒背広の男に向けて、すこしずつのびていく。


 それは死にゆく銀竜が盟約を受けいれた瞬間だった。

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