【終章】

【終章】


 竜の種族が住まいとするのは、月面と衛星軌道である。


 二〇〇〇年以上前、この領域を古代ギリシアの人々は『ヒューペルボレア』と呼んだ。

 すなわち「北風の彼方に位置する国」と。


 実際、彼女がいるのも、北風が吹く空より遙か上方であった。

 衛星軌道上に浮かぶ『巣』の一隅で腰を下ろし、岩肌によりかかって、のんびりと星々の満ちる蒼穹を見あげていたのである。


 下界でラプトルと呼ばれる小竜どもの『巣』は、いわゆる小惑星と似ている。

 極小規模の小惑星と呼ぶべき、小さな天体なのだ。

 ただし、衛星軌道上にこの岩塊を造り出すのは宇宙の摂理ではなく、あくまで竜族の魔術であったが。


 今、この『巣』にいるのは彼女のみ。

 本来の住人たちは地上を空襲しに、総出で降下していったらしい。

 この遙かな高みで、彼女は星見を洒落こんでいたのだが――。


「……南天の弓だと。誰かが使ったのか?」


 なつかしい力の波動をかすかに感じて、ふとつぶやいた。

 彼女がその身に宿すのは『屠竜とりゅう』というべき竜弑りゅうごろしの力。

 これと対をなす武具を誰かが撃ち放ったらしい。おそらくは地上の何処かで。

 対の弓箭きゅうせんを持つ者同士という絆が、それを察知させてくれた。

 使われた力が『太刀』や『槍』などであれば、不可能だっただろう。


「女王の目にかなう者がいたか。あるいは、みごと奪いとってみせたのか……」


 可能性を口に出してみる。

 しかし、深くは詮索しない。

 捜し出してみればわかること。

 ニィッと唇の端を曲げて笑う。

 ひさしぶりに地上へ降りる気になったのだ。


 『弓』を継ぐ者が器量足りぬ凡愚であれば、『』の担い手として誅殺すればいい。

 逆に、英雄たりうる器であれば――矛を交えるのもいいかもしれない。

 かつて、この手で女王を葬ったときのように。


「あやつなら、何か知っているかもしれんな」


 北米なる地に住むという旧知の者を思い出した。

 以前、人間たちに『紅き何某』なる異名で呼ばれていることを自慢していた。

 『竜王』の高みにいながら、下界とも積極的にかかわろうとする変わり者なのだ。


「ひとまず、やつに話を聞いてみるか」


 同じ、いきなり訪ねても無碍にはされまい。

 そう楽観すると、にやっと微笑んだ。

 それは彼女の若々しい顔によく似合う、稚気と覇気にあふれる笑顔だった。


 人間でいえば、一五歳前後の見た目なのだ。

 そして、その姿は完璧に『人』と同じ、凛々しい少女のものだった。


 身にまとうのは、下界でいうところの白いワンピース。

 ただし、こんな格好の人間がこのような高みで悠々とすごし、さらにはひらりとスカートの裾を颯爽となびかせるなど、到底不可能であろうが。


「我が眷属よ。天狼の箭を運ぶため、来たれ!」


 呼び声に応えて、天上の星海より流れ星がひとつ落ちてくる。

 翼のない彼女を眼下の青き大地へと運ぶために――。





「こんなことってありえないわ。信じられない……!」

「まあ、この件については僕らふたりとも不用心だったよ。仕方ない」


 大げさに嘆く織姫に、ハルは淡々と言った。


「でも、わたしが春賀くんにお弁当を毎日作ってあげていて、通い妻で、家事とかも全部しているとか……! こんな根も葉もないうわさが学校中に広まってるのよ!?」

「十條地。どれも一応、根っこくらいはある話だ」


 春賀家の居間、土曜日の昼前。

 家主であるハルは安楽椅子に腰かけていた。


 織姫がすわっているのはソファの方である。

 ちなみに、以前は魔窟もかくやという惨状だったリビングは、今やきれいに整理整頓され、掃除も行きとどいていた。

 全て目の前にいる天然気味の同級生がやってくれたことだ。

 ここ数日、織姫はまめに春賀家へ通ってきて、清掃活動に熱中していたのである。


「だ、だけど、お弁当をあげたのはこの間の一回だけだし……」

「まあね。でも今思うと、クラスのみんながいる前で受け渡ししたのがきっと致命的なミスだったんだろうな……。あのときの早退のせいで、僕らが駆け落ち未遂したなんて昼ドラっぽい架空のストーリーまで生まれているし」

「ううっ」

「大体さ。うわさになるのがイヤなら、この家に来なけりゃいいんだよ」


 根本的かつシンプルな解決策をハルは口にしたのだが。

 織姫にあっさりと切り返された。


「それなら大丈夫。とりあえず最低限かたづけて、足の踏み場くらいはできたし。今度から羽純も連れてくるわ。ふたりっきりじゃなければ、変なうわさにもならないでしょう?」

「……って、あの魔女マギの子もここに? 本当に?」

「ええ。羽純も春賀くんのこと気にしてたし、ちょうどいいわ」


 ソス戦のあと、白坂羽純はひとまず検査入院させられた。

 しかし、体に異状はなく、無事に退院できたとは聞いていたが――。

 彼女がここに来たがる理由、まずないように思える。

 誘う意味などないのでは?


 が、ひとまず疑問は脇に置き、気になっていたことをハルは確認した。


「彼女の『蛇』、水無月の方はどうだって?」

「よくないみたい。生け贄みたいにされたのがひどいダメージになったとかで、治りがすごく遅いらしいわ。なるべく長く休ませて、ちゃんと回復させてあげなきゃね」


 織姫がすこし心配そうに言った。

 幸い、ソスに撃墜された悪路王の方は順調に回復中らしい。

 『蛇』の強靱な肉体は一、二週間もあれば、かなりの深傷でも回復させてしまうのだ。

 つまり、それは水無月の負ったダメージが尋常ではないという証でもあったが……。


「傷といえば、アーシャさんの『蛇』の方は?」

「前よりはマシみたいだ。ソスを倒したあと、『あの力』の影響なのか、死にかけよりはすこし健康くらいの状態にまで持ちなおしたらしいから」


 ソス戦を最後に、力尽きて死ぬものと思われていたルサールカ。

 今も決して良好ではないが、しぶとく命をつないでいる。


 尚、あのとき勝利できた理由はとにかくアーシャとルサールカの底力であると、柊と見城には報告しておいた。

 何しろ、当人のハルをふくめて、誰も完璧には説明できないのだ。

 面倒を避けるため、適当にウソをつくのがいちばんだった。

 ソス戦にも立ち会った織姫とアーシャには一応、火之迦具土との出会いから説明しておいたが。


 ちなみに、火神の名をかたる自称悪魔は、しばらく声も姿も現していない――。


「そのうち、春賀くんの体が本当のところどれだけ人間離れしているか、身体検査や実験してみるのもいいかもしれないわね。アメリカの漫画に出てくるマスクの人みたいでドキドキするし、面白そうよ」

「いや、僕はべつに蜘蛛人間でもクリプトン星人でもないから」


 軽く笑って言う織姫に、ハルも淡々と言いかえす。

 いいか悪いかはともかく、冗談のネタになってしまうあたり、ドラゴン帰還以降に生まれた世代の順応力というべきかもしれない。


「そうだ春賀くん。今度、UFOユーエフオー研の部室に行ってみない? ふたりとも名前だけとはいえ部員なんだし、武藤さんからも誘われているし」

「でもなあ……。こう言っちゃなんだけど、僕らみたいな専門家が素人の研究会に顔を出してもいいことないと思うよ。おたがいにとって」

「いいのよ。高校のクラブ活動なんだから、そんなこと気にしなくても」


 ハルが渋る理由を、織姫はあっさりと切り捨てた。


「ああだこうだ言わないで、友達に誘われたらイエスとすぐに言いなさい。春賀くんみたいに人づきあいを避けたがる無精者、どうせ誘われる機会なんてゼロに近いんだから、全部オーケーするくらいでちょうどいいの」


 織姫の言いぐさは、割と理不尽かつ強引だった。

 だが、それがある種の気配りから生まれているとわかる程度には、ハルも空気を読むことができるのだ。

 とはいえ、正直こういうお節介は苦手だ。


 十條地織姫。

 やはり、避けられるなら避けて通りたい相手である。


 かねてからの東京撤退計画がハルの頭にわきあがってきた。

 しかし、アーシャのこと、火之迦具土のこと、訳のわからない己の肉体のことなども浮かんでは消えて――。

 ハルはもう一度、いつもどおり明朗な織姫の顔を見つめた。


 邪気のない笑顔が返ってきた。

 それにつられて、反射的に言ってしまった。


「……そういうものかな」

「ええ。そういうものよ。じゃ、そのうちにね」


 なし崩しでオーケーする形になったとき、ハルの携帯端末に着信があった。

 アーシャからの電話だった。すぐに出てみる。


『あ、晴臣。もうすこしあとになりますけど、そちらに寄らせてください。見せたいものがあるんです。この間のやりなおしもしなきゃいけませんし……』

「やりなおしって?」

『ほら。お昼を作って、私の女子力を証明するって言ったじゃありませんか。買い物と用事をすませたら、晴臣の家に行きますから』

「そりゃ偶然だな。あのときといっしょで、ちょうど十條地もいるよ」

『え……っ!?』


 電話の向こうで息を呑む音が聞こえた。


『あ、あの、晴臣。勘ちがいしたらいけませんからね? 織姫さんが晴臣をかまったり、家の掃除をしたりするのは、あの人がとても親切だったり天然だったりするからです。晴臣を男性として意識していて、気を惹きたいから――なんて可能性は一〇〇億にひとつもありませんから。勘ちがいしたらダメですよ!』

「そんなアホな勘ちがい、誰がするものか」

『だったらいいんですけど……。あ、そうだ。今からすぐにお邪魔します』

「買い物するんじゃなかったのか?」

『そんなのは晴臣がしてきてくださいっ。これ以上ふたりっきりにさせるような危険行為、許したらダメだと私のなかの乙女が叫んでいるんです!』


 これで電話は切れてしまった。

 アーシャは内なる野性が何やら警告するアラーム音を感じ取っているようだ。

 一体、何を警戒しているのだろう?


 一方、横で話を聞いていた織姫は、


「アーシャさんから? もしかして、これから来るの?」


 と、朗らかに笑っていたのだが。


 バタン。

 玄関からドアの開く音が聞こえた。

 バタバタ。激しい足音。


「お、お待たせしました!」


 なんと居間にアーシャが駆け込んできた。

 さっきの電話中、屋敷のすぐ近くにいたらしい。

 そして、彼女の着ている衣服を見て、ハルと織姫は目を丸くした。


「私、おふたりのいる学校に転入することにしたんですっ。これからは同じ高校に通う仲間としても、よろしくお願いしますね!」


 息を弾ませながら言うアーシャは、胡月学園の制服姿だった。

 魔女マギという立場を利用して、ハルと同じく『一応、高校生』という年齢の束縛から逃れてきた少女の思わぬ就学宣言。


 何がアーシャにそうさせたのか、幼なじみのハルにもよくわからない。


 しかし、これからはじまる学校生活が一筋縄ではいかないものであろうことは、なんとなく想像できるのであった。

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