【第三章 よみがえる焔】⑤
ハルが朦朧としていたのは、時間にして数分くらいだろうか。
ハッと我に返ると、全身を灼いていた焔がいつのまにか消えていた。
しかも、またしてもわずかな火傷さえなく、衣服も無事なまま。
人型のたいまつとなって炎上したのが、夢のなかの出来事だったかのように……。
だが、立ちあがり、顔も上げると紅蓮色のドラゴンが目の前に鎮座している。
「まさか、一晩で二匹も上位種と出くわすなんて……」
つぶやく間もドラゴンは微動だにしない。まるで石像のように――。
「死んでいるのか!」
気づいたハルは、竜の足首にあたる部位を指で押してみた。
その部分がパラパラと崩れ落ちる。これは石化した竜族の骸だったのだ。
ハルはドラゴンの骸をあらためて見あげた。
胸部に大きく深い穴が穿たれている。鋭い何かで抉られたらしい。
これが致命傷になったのだろう。
「つまり、あんた――霊は霊でも、ドラゴンの霊だったんだな……」
緋色の和服をまとった少女。謎の霊的存在。
その幼い面影を、心のなかで紅蓮色のドラゴンに重ねてみる。
両者は似ても似つかない姿でありながら、不思議なほど違和感がなかった。
ふふ……。
少女がかすかに微笑む声をハルは聞きとった。当たりらしい。
それにしても、《弓の秘文字》とやらはどこに消えたのか?
いぶかしんだ瞬間、右手の掌がいきなり熱くなった。
手を開き、のぞきこんでみる。掌に描かれた『弓』を確認することができた。
ドラゴンが少女の声で『くれてやる』と言った
正体不明のルーン文字は、春賀晴臣の手のひらに刺青のごとく刻まれている!
ハルが驚いて、息を呑んだ瞬間だった。
東京駅の丸ノ内口――その壁面がやにわに崩れ、大量のガレキが吹き飛ぶ。
そうして開いた大穴から、巨大な超生物が押し入ってきた。
「逃げるのはもうおしまいかね、人の子よ」
それはもちろん、ラーク・アル・ソスの重厚な声だった。
東京駅のエントランスに、崩れた壁から月の光が差しこんでくる。
そして、月光を浴びるブロンズドラゴンの巨躯――。
最悪の魔獣と一対一で向き合う形になって、ハルは珍しく運命論者になった。
天を仰ぎ、運命とやらの過酷さに「くそっ」と悪態をついたのである。
だが、奇妙な点に気づいた。ソスの目と全身に強い感情の色がみなぎっている。
それは驚愕。そして興奮――。
「ふ……ふふ。君がこれほどの秘密を知っていようとは思いもよらなかった。礼を言うぞ、人間。まさか、このようなところで女王の亡骸を見つけられるとは!」
愉快そうに笑うソスは、石化した同族の姿を熱く凝視していた。
「くくくく。女王の骸があるとなれば、当然“あれ”も見つかるかもしれぬわけだ。人の子よ、すみやかに答えてくれ」
やにわにソスが右の前肢をのばしてきた。
ドラゴン上位種の体つきには、すくなからず個体差がある。
だが、どの個体もおおむね左右の前肢は長く、手の指も五本あって、人間の『両腕』とよく似ていた。
つまり、ソスは『右腕』をのばしてきたのである。
超生命体の掌と呼ぶべき部位に、ハルの体はわしづかみにされた。
「紅蓮の女王が持つ覇者の秘文字といえば、名高き屠竜の弓……。彼女のそばに刻印はなかったかね? 知っているなら言え。知らなければ――」
ハルの体は、ソスの目の高さにまで持ちあげられた。
獰猛な竜族と至近距離で目が合う。
なんという迫力。凝視されるだけで体が硬直し、喉がカラカラになる。
しかも、竜の口内にびっしりとならぶ歯は、剣のように長く鋭い。
人間ごとき一噛みで八つ裂きにするだろう。
また、ハルをつかむ力はやさしいほどであったが、向こうがその気になれば――。
恐怖のあまり、ハルは無言の木偶人形と化してしまった。
「ふむ。何も言わぬか。ならば是非もない」
ソスの声はおだやかでさえあった。
しかし同時に、ハルを握る手にぐっと力が加わった。
全身の骨がバラバラに砕け、肉が押しつぶされる瞬間。
あらゆる内臓が破裂し、ぷつんとはじけ飛ぶ瞬間の到来だった。
ハルは絶叫した。
「あああああああああっ!」
それは今度こそ断末魔の叫びだった。すくなくともハルはそう思った。
苦痛。激痛。痛み。軋み。圧迫。圧力。力。力。力。
体長十数メートルの巨竜であるソスの握力なら、コンクリートのかたまりも握りつぶすことはたやすいはず。
その力を受けとめるのは人間のハル。耐える術などありはしない。
生まれてから今日まで、これほどの圧迫と苦痛を味わうのでは初めてだった。
ろくな死に方はしないと思っていた。しかし、こんな死に様をさらすとは――。
痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛……ん?
竜の握力と全身が軋むような激痛を堪えながら、ハルは気づいた。
耐えている。自分の体は押しつぶされることもなく、ぎゅっと拳を握りこむソスの力に抗っている。まるで、全身が地上最硬の物質で造られているかのように。
ハルは自分の体の異常さに愕然とした。
「ほう……」
好奇の視線をソスが投げかけてくる。
冷血動物めいた外見と生態の割に竜族上位種がなかなかに情感豊かであることを、この短い時間でたっぷり理解できた。
今、ラーク・アル・ソスはハルという存在をいぶかしんでいる。
だが、竜族の瞳にすぐ理解の色が広がった。
「そうであったか……。なんと人の子が竜王の
ソスはつぶやくなり、ハルの体を投げ捨てた。
駅構内のタイルに全身をたたきつけられて、ハルは「ぐあっ」とうめいた。
やはり痛い。しかし、体の方は傷んでいない。
苦痛を感じはしても、春賀晴臣の肉体は異常な頑丈さでまったくの無傷なのだ。
一〇メートル以上の高さから、床に投げ捨てられたというのに!
実際、ハルはすぐに身を起こすことができた。
だが、ソスの巨体を見あげて愕然とした。竜族上位種はこちらを見おろしながら、わずかに口を開いていた。その奥に青白い焔が揺らめく。
竜の劫火を吐き出す直前なのだ!
「偽りの王よ。二千年ぶりに
妙な呼び方で語りかけながら、ソスは口の開きを大きくした。
だが語りは止まらない。彼らは人間とちがって唇の動きで言葉をつむぐのではなく、喉の奥にあるらしい謎の器官から音を発するのだ。
「幸い、我が身中の熱もずいぶんと高まっている。今なら、先ほどのような不手際はしないですみそうだ。――ルルク・ソウンの秘文字よ!」
ソスは仕上げとばかりに魔術の呼びかけを行った。
竜族のみが用法を知る魔導のアルファベット。
これが巨体の頭上に七つ顕れ、一列にならんだ。
この文字列は《火》の秘文字であるらしく、めらめらと焔につつまれている。
焔の威力を高める魔術なのだと、ハルは理解した。
異様な頑丈さを見せる自分の体だが、あの火を耐える自信はない。どうする!?
「
ソスは処刑宣告まで言い放つ。
その瞬間、ハルのなかであらゆる逡巡と思考が吹き飛んだ。
『やられてたまるか!』という一念が全身を火のように満たし――とっさに、右手の掌に浮かぶ《弓の秘文字》を見おろした。
直後、緋色の少女の含み笑いが頭にひびく。
(ふふふふ。いいのか、小僧? あやつを撃てば、もうあとには退けないぞ?)
(いい! 今さらなことをあんたが言うな!)
胸の裡で叫んだ瞬間、ハルはこの武器の使い方を漠然と悟った。
おそらく“撃つ”決意をかためたからだろう。
そのために必要なイメージを、秘文字が持ち主の心に送りこんでくれたのだ。
手のひらの秘文字に向けて、すぐさま指示を念じる。
「すぐに『弓』を――竜弑しの弓ってやつを造り出せ!」
それと同時に、ソスが青白い焔を吐き出した。
ハルは大きく横っ跳びした。ごろごろと床を転がって、みっともなくソスの前から離れていく。
焔を避けるためではない。こんなことをしても、横に大きく燃え広がるであろう竜族の劫火を防ぐことはできないのだから。
この動きはあくまで道を空けるため。
ハルの背後にあった『弓』を前進させるための――。
「なに!?」
オオオオオオォォォォォオオオオッ!
火を吐きながらソスは驚愕し、もう一体のドラゴンが高らかに吠えた。
そう。石化した紅蓮色のドラゴン。
すでに命尽き、亡骸となっていた竜。
緋衣をまとう少女の正体が――高らかに吠えたのだ。
紅蓮色のドラゴンは、すばやい動きで身を起こした。
ただし、体のあちこちから石のかけらがボロボロと落ちていく。
このままではすぐに全身が崩れ去るだろう。
だが、それを厭うつもりはないようで、雄々しく前進し、ソスの焔を体で受けとめた。
そして、次の瞬間。死せる紅蓮竜は『白い焔』につつまれた。
全身が白金色に燃え、高熱を発する。
その白熱した巨体を見て、ハルは右手を前に――さっとソスに向けて突き出した。
無意識の動作だった。こうすれば、“撃てる”気がしたのだ。
案の定、手のひらに描かれた秘文字は急激に熱くなる。
すると、白熱する紅きドラゴンの前方に、ルルク・ソウンの秘文字が忽然と顕れた。
それは竜の上半身と同じほど大きな《弓の秘文字》だった。
そして、この死せるドラゴンの骸こそがハルの『弓』であるという証だった。
「く――!? すでに
ソスが驚愕し、即座に翼を広げて舞いあがる。
さきほど自らが東京駅の壁に開けた大穴から後ろ向きのまま外へ出て、ふたたび旧東京の夜空へ飛び出していった。
しかし、もう遅い。ハルは攻撃の意志を発した。
「撃て!」
その刹那、死せる紅蓮のドラゴンが威嚇するように大きく翼を広げる。
すると、彼女のすぐ前で輝いていた《弓の秘文字》から、焔の奔流が放出された。
鮮烈な紅蓮色で、すさまじい火勢だった。
秘文字より射出された火線は夜空へ一直線に飛んでいく。
人類の都市を焼きはらうためではなく、同族のドラゴンを屠るために。
「おおおおおおお!?」
焔の奔流に全身を呑みこまれて、ソスが驚愕する。
ブロンズドラゴンを灼く紅蓮の焔は上方向にのび、そのまま巨大な火柱となって旧東京の夜空を駆けあがっていった。
焔に灼かれながら、ソスの体が消えていく。
どうやら《瞬間転移》の魔術で逃走を図ったらしい。
そして、この火柱を吐きながら、紅蓮色のドラゴン――あの少女の本性である体はボロボロと急速に崩壊していった。
さらに白金の焔のなかで燃えていき、灰となり、塵となって消滅していく。
ほぼ数十秒という驚くべきスピードで、紅蓮の巨体は完全に崩壊してしまった。
ハルが目をみはった瞬間、天空にソスの声がひびく。
「今は別れを告げさせてもらうぞ、人間よ! だが、私は必ず舞いもどり、君を八つ裂きにすると誓おう。君を斃し、その『弓』を必ず奪いとってみせると!」
春賀晴臣に対する、重厚な宣告であった。
それを聞いてハルはため息をつき、知ったことかと疲れにまかせて腰を下ろし、自堕落にあぐらをかくのであった。
一方、御茶ノ水に残ってラプトルの群れと戦っていたアーシャは――。
手負いの相棒ルサールカと共に、次々と襲いくるラプトルの猛攻を我慢強くしのぎながら、一体ずつ堅実かつ確実に葬りつづけ、ついに最後の敵を斃したところだった。
盟約儀式の祭場となった、かつての大学。
その構内および近辺の市街には、ラプトルの骸があちこちに横たわる。
死せる竜族の通例どおりに全て石化していた。
そして、激闘の模様と結果を見届けた
ふらっとアーシャが立ちくらみを起こしたので、あわてて駆けよった。
「アーシャさん、大丈夫!?」
歴戦の魔女の華奢な体つきを支えながら、織姫は訊ねた。
ラプトルを着実にしとめていくルサールカの手際のよさは、水際立っていた。
時間こそかかりはしたが、戦いというより『作業』と評したくなるほど危なげなかったのだ。
「どこか怪我をしたの!? 全然やられてる感じはしなかったのに――」
「心配いりません……。すこし血糖値が下がっただけです」
織姫に支えられながら、アーシャは空を見あげた。
勝利した『蛇』ルサールカが大学校舎の屋上に降りて、翼を休めている。
アーシャがうなずきかけると、相棒の蒼き雄姿は徐々に薄れていき、やがて忽然と消え去った。召喚するときも消えるときも、同じほどの迅速さなのだ。
「『蛇』を呼び出して、あの肉体を地上につなぎとめるのはものすごい負担なんです。相応の力を消耗するのは、自然の理といえます」
「血糖値……? つまり、おなかがすいたってこと?」
「あ、あまりストレートに表現しないでくださいっ」
晴臣ならざる同年代の少女相手なので、アーシャはすこし見栄をはったのだ。
だが、その心の動きが気やすい仲の幼なじみを思い出させる。
「私よりも……早く晴臣を捜しましょう。上位種を相手に追いかけっこなんて、いくらなんでも無茶がすぎます」
ラプトルと戦っている途中も、ソスはもどってこなかった。
だから、まだ晴臣を追いかけている最中なのだとアーシャは信じたかった。
幼なじみは無事でいてくれるのだと。助けを必要としているところなのだと。
「そうね。このまま手遅れなんて――わたしはいや。アーシャさんもよね?」
織姫もうなずいた直後、闇色の夜空がいきなり紅い光で染めあげられた。
ふたりの少女はハッとして、その方角の空にそろって目を向ける。
「え……何なの、あれは!?」
「ここから近いようです。あの上位種が何かしたのかもしれません!」
向こうに見えるのはビルの谷間。
さらに、それらよりも抜きん出て高くそびえ立つ漆黒の尖塔――モノリス。
竜族が『租借地』に打ち立てる超高層建造物。その威容が見てとれる。
そして、今。
いきなり誕生した紅蓮の火柱が天を突きあげていた。
焔の柱は若干ななめに傾いていて、アーシャと織姫のいる位置からだとモノリスと同じほど巨大に見える。
その妖しい明るさに呆然とする、ふたりの少女。
どちらも祈るような表情を浮かべていた。
確たる理由もなく、屹立する焔の柱が彼女たちの探すべき少年と関係するように思えたからだった。
もしかしたら、あの焔のあるところに彼がいるのではないかと――。
そして、その根拠のない憶測は、実のところ完璧に的中していたのである。
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