【第三章 よみがえる焔】
【第三章 よみがえる焔】①
「はてなき旅路を歩む竜の種族のひとりとして、挨拶させていただこう」
青銅色の小ドラゴンは、猛禽のごとく街灯の上にひらりと舞い降りた。
この照明設備が光をともすことは二度とあるまい。
だが、今夜は冴え冴えとした月明かりが十分に代役を果たしていた。
そして、ドラゴンが発する声は明晰であり、知的でもあった。
「君たちに理解しやすい発音で私の名を告げるなら、ラーク・アル・ソスとなる。諸君らとのつきあいが一瞬で終わるとしても、是非最期まで覚えておいて欲しいものだ」
「終わるじゃなくて、終わらせるだろ……」
ぼそりとハルはつぶやいた。恐怖で心臓が爆発しそうだった。
ドラゴン上位種は人間など、ひとにらみで呪い殺すことができるのだ。
すぐ近くにいる織姫も、儀式を中断したアーシャも呆然と竜を見あげていた。
ただ、物言うドラゴンを見つめる表情は幼なじみの方が硬かった。
アーシャは歴戦の
「さて、蛇よりも猿に近き種族の者たちよ」
縮めた体躯に似合わぬ重厚な声で、“ドラゴン”ソスは言う。
「暫しの自分語りを許してもらおうか。私は数日前まで眠りについていた身でね。知っているかな、われらの種族に休眠期があることを? まあ、君たちの暦でいうところの『数年間』をひたすら寝てすごしていたわけだ」
あろうことか、ドラゴンの声にはユーモアの響きさえあった。
冗談を口にすることも知性の表れ。
だが――ハルは眉をひそめた。どれだけ頭脳が明晰だろうと、魔力があろうと、彼らの本質はおそろしく動物的なのだ。
「休眠あけのわれらは少々気が立っているのだよ。ちょっとしたことがきっかけで地上を襲い、破壊と横暴を謳歌したくなってしまう」
この調子だと、まちがいなく来る――。
ハルが目くばせすると、アーシャは小さなうなずきで応えた。
「しかし、私を今、悩ませているのはまたべつの悪癖だ。強欲の悪徳に火がつくと、なかなか克服できないという、ね。すまない諸君、そこにある宝物を強奪させてはくれまいか?」
宝物。ハルたちが持ってきた白銅鏡のことだろう。
貴金属やレアメタル、魔力を秘めた品物への蒐集欲は、ラプトルよりも上位種の方が遙かに強いのだ。
この間、ハルは『人の皮をかぶった獣』とアーシャを喩えたが――。
ドラゴン上位種は『知性という皮をかぶった魔獣』なのだ。比喩抜きで。
息を呑むハルたちを前にして“ドラゴン”ソスは両翼を広げて、宙に浮きあがった。
やにわに膨張をはじめる。オオワシと同じほどのサイズだったのがあっというまにふくれあがり、体長十数メートルの巨体に変貌を遂げる。
巨大化――ではない。《小型化》の魔術を解いたのだ。
竜族上位種の巨躯は翼を大きく広げ、月の光が地上に届くのを妨害する。
「待って! 強奪なんかする必要ないわ。これが欲しいのなら持っていって!」
ドラゴンを凛と見つめながら、やにわに織姫が宣言した。
「すごく貴重な品物だって聞いてるけど……所詮は物よ」
驚くハルの視線を受けて、織姫が答える。
鏡一枚で三人が命を拾えるなら、悩むまでもない。そう考えたのだろう。
彼女の美貌は鋭さに満ちていた。
「それに春賀くん、ああいうのを探すのが得意な腕利きなんでしょう? あなたに頼んで、また見つけてもらうわ。だから全然惜しくなんかないし」
あげく、ぎこちなく唇を動かして、微笑の形を作ろうとする。
巨大な竜族上位種のプレッシャーと戦いながら、なんとか微笑もうとしているのだ。ハルたちに妙な気遣いをさせまいと。
くそ。なぜかハルは舌打ちしたくなった。
この女の子はどうして折にふれて、いちいちまぶしいところを見せつけるのか。
そして、こんな人間がどうして常識の通用しない魔獣どもと対決する最前線に放りこまれないといけないのか。
それにこんな取引、どうせあのドラゴンには――
「少女よ、勘ちがいしてはいけない。私は『強奪したい』と言ったのだ。労せず手に入れるつもりはないのだよ」
やはり。ハルはぎりっと歯ぎしりした。
上位種と接近遭遇したのは今日がはじめて。
しかし『専門家』として、この種族の好戦的かつ嗜虐的な気質は熟知している。
その知識を裏づけるように、竜族上位種ラーク・アル・ソスは哄笑した。
「私は君たちと、諸君らが生みだした“まがいもの”の影を踏みにじってから、我が強欲を満足させたいのだ! 闘争・殲滅・蹂躙のいずれもが竜の種族にとってはこのうえない悦楽なのだから! ハハハハハ!」
ソスは笑いながら翼を羽ばたかせた。
風が巻きおこり、吹き抜ける。地上の三人はこれを受けて、のけぞった。
そして、ハルたちの背後にいた影。
生まれる直前だったリヴァイアサン――四つ足の獣らしきシルエットは今の風で吹き飛ばされた。蜃気楼のようにかき消えてしまう!
「わ、わたしの蛇が!?」
「《解呪》……魔術破りの術を使ったんだ! 気をつけろ十條――うっ!?」
警告しかけて、ハルは膝をついた。急に足の力が抜けたのだ。
視界の隅にちらちらと紅い『焔』が見えはじめる。例の幻覚が再発したらしい。
完全に克服できたわけではなかったのか。
「春賀くん!」
前回と同様、織姫が駆けよってくる。この娘は本当にお節介で命知らずだ。
足手まといを見捨てるべき場面で、どうして共に破滅する道を選ぶのか。
ハルも前と同じく、不甲斐ない自分に怒りを燃やす。
だが、ひとり前回とちがうのはアーシャだった。
「古き清浄の御印に願い奉る!」
唱えるのは召喚の歌。相棒『蒼きルサールカ』を呼ぶための聖句。
「かりそめの蒼き竜を地上に遣わしたまえ! 浄化の星をわれらの頭上に!」
この祈りに応えて、輝く五芒の星が顕れる。
両方の翼を広げ、悠然と宙に浮くラーク・アル・ソスの眼前に。
「ふふふふ。無論、気づいていたぞ。死すべき種族の贄となりし乙女よ。君がまとう“まがいもの”の匂いに――」
好戦的な青銅色の巨大生物は声に喜悦の色をにじませた。
「君たちこそ私が欲する獲物、真に蹂躙すべき敵! さあ、早く顕し給え!」
「言われなくとも! もう一度、私と共に戦って、ルサールカ!」
呼びかけに応えて、五芒星を構成していた光は『∞』の形へと姿を変えた。
その直後、『∞』は蒼き魔獣に変化する。
それは前肢のないドラゴンだった。
両肩から生えるのは長大な翼。
これを雄々しく広げて旧東京の夜空へ躍り出た姿は、まさしく『
体表は全体に淡い蒼。頭部には青毛のたてがみ。
そして、額から長い一本角がのびる。
アーシャの相棒である『蛇』、ルサールカの実体化であった。
体格はラーク・アル・ソスよりもやや小さい程度。
竜族上位種と『蛇』は、身体的なサイズと能力では互角に近いのである。
キュアアアァァァアアッ!
ルサールカは高らかに吠えて飛翔し、目の前のソスに突っこんでいく。
巨体ではあるが機敏で、その動きは軽やかでさえあった。
ルサールカは巨大な怪獣のくせに、流水を思わせる速さとなめらかさで動きまわるのだ。
一瞬にして距離を詰め、ルサールカは額の一本角でソスの体を抉りにかかる。
この角が彼女の角状部位なのだ。
もっとも、機敏さでは上位種も負けてはいない。
ラーク・アル・ソスは獣の反射神経でとっさの対応をしてみせた。
といっても、何か回避運動をするのではなく――。
「ルルク・ソウンの秘文字よ、我が神秘の楯となれ!」
呪文と共に守護の魔力を展開してみせた。
青銅色をしたソスの巨体。
その周囲を、文字とも紋様ともつかない楔形文字――アルファベットに似た雰囲気もある記号が取りまいたのだ。数は二〇個近くあった。
キュアアアァァァアアッ!
鋭く長い『角』を振りかざして突っこむルサールカ。
だが、その飛翔と直進は、ソスが周囲に展開したアルファベットにさえぎられた。
あと数メートルで『角』が届くというのに、先へ進むことができない!
「“まがいもの”にしては力強いものだ。眠りから覚めたばかりのなまった体には、なかなか骨の折れる相手のようだな!」
ソスが吠える。『骨が折れる』と言いつつ、ひどくうれしげに。
そして、彼は悠々と翼を広げて、高度を上げていく。
ドラゴンもリヴァイアサンもせわしなく羽ばたいて飛ぶような、優雅ならざる飛行とは縁がうすい。
空の王者のごとく翼を大きく広げ、飛翔の魔力をまき散らしながら天翔けるのが、この生物たちの作法だった。
十分に高度を取ったラーク・アル・ソスは口を大きく開け、青き焔をななめ下方に向けて吐き出す!
幾度も人類の諸都市を焼きはらってきた『
その猛威がルサールカに降りかかる。
蒼きワイバーンの敏捷さをもってすれば、妖しい流水じみた空中機動で回避することもできたはずだが――
「ルサールカ!」
アーシャが叫んで、“相棒”に指示を伝達する。
魔女と『蛇』の間には以心伝心の絆がある。
強く念じたり一声かけるだけで、盟約者は己の意思を伝えることができるのだ。
このときアーシャは『私たちを守って!』と念じていたはずだ。
そして、空中のルサールカはあえて不動となり、ソスの焔の直撃を浴びた。
避けるわけにはいかなかったのだ。
そうしたら最後、焔は地上に到達してしまい、ルサールカの真下にいるハル・織姫・アーシャの三人を灼き尽くすのだから。
きゅうぅぅぅううううっ!
一本角の『蛇』が苦悶の咆哮を発する。しかし、蒼き体表は無傷だった。
ソスの焔には彼女を打ちのめすほどの威力がなかったのだ。まだ。
「ふふ。我が身中の焔、まだ熱が足りないようだ。しかし、その問題も直に解決できるだろう。それまで私との闘争につきあってくれ、“まがいもの”よ!」
ソスの余裕に満ちた声が空から降ってきた。
そう。竜族上位種が吐く焔としては、今のは明らかに威力が低かった。
休眠あけのソスは人間のアスリートでいうウォーミングアップ中なのだろう。
体が――体内の焔が十分に燃えあがれば、さらに強力な攻撃となるはず。
また、上位種には魔術で焔の威力を高めるという選択肢まである。
まだまだラーク・アル・ソスは力の底を見せていない。
一方、アーシャとルサールカはといえば。
「大丈夫……あなたの体はまだ保つはずです。私が保たせてみせます。だから、もうすこしだけがんばって、ルサールカ……」
敵と味方で、まったく真逆な『まだ』の使い方。
戦闘のさなかであったが、アーシャはやさしい声で呼びかけていた。
目を凝らすと、ルサールカの巨躯から細かな塵のようなものがパラパラ落ちていくのを見てとれる。蒼きワイバーンの肉体は緩慢に崩壊しつつあるのだ。
欧州の地で転戦を続け、その果てに癒やしきれない傷を負った『蛇』。
それがアーシャの相棒『蒼きルサールカ』だった。
ハルも一年ぶりに見たが、明らかに最盛期の力強さが失われている。
旧東京の空を舞うラーク・アル・ソスとルサールカ。
より高みを飛ぶのはソスの方。
この位置関係は、奇しくも両者の戦闘能力の差まで示してもいた。
満足に立つこともできないハルの視界は、例の焔で埋めつくされている。
ついさっきまで儀式の祭場だった大学構内も、竜と蛇が相打つ月夜の空も、全てが火に包まれている。そして心臓の動悸は激しく、足腰に力も入らない。
どうやら、ここまでかもしれない。
ハルは嘆息して、そばにいる織姫に言った。
「……十條地。どうも旗色がまずそうだから、早くここを離れろ。今ならドラゴンの興味はルサールカにだけ向いている。君ひとりなら、たぶん逃げられるよ」
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