【第二章 盟約の儀式に向けて】⑦
かつて御茶ノ水と呼ばれていたエリア。
都心だが単なるオフィス街とちがい、かつてこの近辺には大学や病院が多かった。
ハルたちが目をつけたのも、とある大学の構内だ。
軽自動車は正門を入ってすぐの広い駐車スペースの隅っこに停めた。
車を降りると、ハルとアーシャはすぐ準備に取りかかった。
ハルはまず例の懐中時計を握りしめ、《祭場形成》の魔術を使わせた。
すると、広い空き地に青い光の線が唐突に顕れ、地面に複雑な図形やアルファベット、数字、記号などをすさまじい速さで描いていく。
これが《リヴァイアサン新生》儀式のための魔方陣なのだ。
そして車からトランクケースを降ろし、なかの『副葬品』を取り出す。
白銅を磨きあげた古代の鏡だ。どこの神社もしくは博物館から調達したかは知らないが、かなりの由緒がありそうだった。
ハルは魔方陣の中心に白銅鏡を置いた。
この鏡のような品を、専門用語で『神体擬装用呪具』という。
これが盟約儀式の完了後、リヴァイアサンの核たる『
「よし。これで祭場の準備は終わりだ」
「こちらも準備完了です。新都支部との接続も確保できました。いつでもいけます」
衛星携帯を接続したノートPCと向かい合う、アーシャの申告だった。
驚いたのは織姫である。ハルたちの行動を神妙な顔つきで眺めていたのだ。
「え、もう? 車を降りて一〇分も経ってないわよ?」
「とんでもない。ここに来るまで、さんざん待ってもらっただろ? それこそ僕らが東京に来る前から、半年以上も。その間イスタンブールの《S.A.U.R.U.》本部じゃ、十條地のためにいろいろ準備を重ねてたんだ」
「ええ。織姫さんのために生み出す『蛇』の組成式を計算したり、その式に必要な魔方陣をデザインしたり。用意してもらった副葬品に合わせての微調整もしましたし」
アーシャもノートPCをいじりながら言う。
「この端末は今、新都支部の直通回線を介してイスタンブール本部の
事情を教えられて、織姫は神妙な面持ちになる。ハルも声をかけた。
「まだしばらくは待つことが十條地の仕事だ。君のために生まれる『蛇』の影を見守ってやっててくれ。……じゃあアーシャ、頼む」
「はい。――不死なる者の母よ。貴女の魂を継ぐ巫女が招き奉ります!」
巨大な魔方陣を前にして、アーシャが高らかに謡う。
彼女の華奢な体から、すさまじい強さの魔力がほとばしる。
ハルと時計仕掛けがコンビでやることを、魔女は心臓ひとつでやってのける。
幼なじみの胸がとくんと脈打つたび、滾々と魔力が吹き出すのだ。
また、イスタンブール本部からも膨大な魔力と精妙な術式が送信されてきた。
仲立ちとなるのは、ノートPCにインストールされた電子版『
携帯の電波で東京新都の『弥勒堂』につなぎ、そこからは直通の高速回線でイスタンブール本部へ接続してあった。
デジタルなデータを送るための回線としては、低速もいいところだろう。
しかし、これは魔術の儀式である。
儀式を運行する祭司役とイスタンブール本部の間をどのような形であれ『つなぐ』ことで、
媒介となるのが無線や通常の電話でも、同じ結果を得ることは可能だった。
「おお妖術者の瞳で全てを見とおす女王、限りなき叡智を具えた高貴なる助言者よ」
「御身は権威を身に帯びる者。その白き御手にて天地を育み、導き、形作る」
「大河を浄め、水の運び手となる女王の君よ。われらは御身を崇め奉る。われらは御身に帰依し奉る。母よ、貴女の加護を今こそ授け、導き給え!」
アーシャの謡に合わせて、魔方陣の上で『影』が大きくなっていく。
それは巨大な獣の黒いシルエットだった。
四つ足の哺乳類に近い形状。体つきは全体に細そうだ。
背後に何かを背負っている?
これは生まれいずるリヴァイアサンの姿をかたどった影なのだ。
織姫が呆然とつぶやいた。
「あれが『蛇』……わたしのために生まれるリヴァイアサンなの……?」
「ああ。でも生まれるかどうかは、まだわからない。今のあいつは地上に顕在化できない只の霊体……『蛇』の影にすぎない。十條地、君の心と体に盟約の絆で結びつけないと、あいつは影のまま現世にとどまることに――」
ハルが愕然としたのは説明の途中だった。焔?
前ぶれもなく、唐突に。ハルの視界が焔で満たされた。
燃えている。儀式進行中の祭場が。高らかに謡うアーシャが。緊張の面持ちで影を見あげる織姫が。向こうに見える廃墟の風景が。メラメラと燃えている。
この間も味わった、焔の幻覚か!? ハルは不安に襲われた。
前回この焔を見たときは、ラプトルが間近にいた。もしかしたら今回も――。
見るかぎり竜どもの姿も気配も感じられないのだが……。
ハルは四方をせわしなく見まわした。だが、焔が邪魔でよく見えない。
「くそ、邪魔だよ!」
大声で怒鳴ると、燃えさかる焔はきれいに消えた。
ハルの気合いが謎の幻覚を吹き飛ばした――と思っていいのだろうか?
いぶかしみながらも、きょろきょろ周囲を見まわす。竜の姿はない。
「どうしたの、春賀くん? 何かトラブルとか?」
隣にいる織姫から、心配そうに訊かれた。
だが、答える余裕はない。懐中時計をにぎって《見敵》の術を使う。
直後、魔術に導かれてハルは真後ろの方向を振りかえった。
望遠レンズ並に増幅された視力がある姿を捉えさせてくれた。
それは一見したところ、大型の鳥類であるようにも思えた。
オオワシか何か。都会に近い山林でも稀に生息する猛禽類か。
しかし、ちがった。
サイズが鷲と同程度なだけで、まったく異なる形状だった。
「なんてこった……」
ある校舎の屋上から祭場を見おろす生物――。
それは翼あるドラゴンの姿をしていた。体表の鱗は
ハルの視線に気づいたらしく、彼は悠然と空へ飛び出し、こちらへ舞い降りてくる。もうまちがいない。
相手の正体に気づいたハルは、どうにか声を吐き出した。
「十條地、アーシャ、儀式は中止だ。最悪のバケモノが出てきちまった。上位種のドラゴンがこっちに飛んでくる!」
あんな小さなサイズのドラゴンなどいない。
小型といわれるラプトルですら、体長五メートル以上なのが通例だ。しかし。
さっき織姫に語った講釈を、ハルは思いだした。
――上位種はみな魔術の達人。《縮小》の術など児戯にも等しいだろう。
舞い降りてくる青銅色の竜族は、まちがいなく自らのサイズを縮小させた上位種。
学名エクエス・ドラコーニスであった!
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