【第一章 竜のいる故郷へ】⑥


 公園で遅い昼食を終えたあと、ハルとアーシャは駅に向かった。


 かつての山手線や中央線、営団線の多くは運行停止してひさしい。

 今は東京新都を一周する環状線と、残った地下鉄が区民の足代わりだった。


 めざす場所は、江東区の新木場にある。

 ふたりを乗せた新都環状線の車両が走り出してすぐ、印象的な風景が視界に飛びこんできた。高架線の上を走る電車からは隅田川が見えるせいだ。


「そういや、この辺だとが見えるんだよな」


 電車の吊革につかまりながら、ハルはつぶやいた。

 隅田川の対岸には、浅草といわれた界隈の景色が広がる。


 そして、その遙か向こうにそびえ立つ黒き石柱――。


 形状は正三角柱である。

 色は一点の混じりけもない、完全なる漆黒。黒曜石さながらにつややかな輝きを放つ。

 この純黒の三角柱が立つ場所は、旧千代田区の一角である。

 しかし、隅田川沿いに走る電車の窓からもよく見えた。

 高さ一〇〇〇メートル以上。日本のあらゆる高層建築をしのぐランドマークなのだ。


「さすがにモノリスは、どの国で見ても目立つもんだね」

「あまり気分のいい景色ではないですけどね」


 ハルとアーシャはつぶやきとため息をこぼした。


 世界二〇〇箇所以上に点在する竜族の租借地。

 その全てにこれと同じ禍々しい黒き柱――モノリスが打ち立てられているのだ。

 東京都が日本の首都だった頃の中枢部は、ことごとく『旧東京』のエリア内である。


 新宿区・千代田区・中央区・文京区・台東区・渋谷区・港区など……。


 該当エリアに居住することはできない。

 現在はひたすら無人の廃墟が続くだけの、“死の都市”であった。


 今、ハルたちの前を流れる隅田川の向こう側も旧東京である。

 車窓から都市の風景が見える。

 外を歩く人間はひとりもいない。あちこちの建物が荒廃していた。

 ガラスというガラスは割れ、掃除する者もいないため全体に薄汚く、精彩がない――。だが、異様な景色も徐々に遠くなっていく。

 隅田川を離れ、新木場方面に近づいたからだ。


 ハルとアーシャは新木場駅で降りた。

 一〇年近く前、不意に飛来したドラゴンに破壊されて以来、この一帯は再開発予定地となっている。基本的に見渡すかぎり空き地が続く、海辺の土地だ。


 ふたりは黙々と歩いた。

 目的地は駅から徒歩一〇分の距離だった。

 わざわざ植林した杉や檜の木で、ちょっとした森のようになっている。

 ここに目当ての建物はあった。小さい図書館のような造りである。

 だが、いかなる施設かを説明する看板も案内板もなかった。


「これを。私の身元です」


 受付でアーシャは名刺サイズのカードを差し出した。

 カードには何も書かれていない。

 表も裏も黒く塗りつぶされているだけ。

 しかし、魔術的視覚を持つ者なら、黒いカードに描かれた青白い意匠を視認できる。


 交差する二本の杖。そのまわりで、自らの尾を呑みこむ蛇が円を描いている図。

 これは《S.A.U.R.U.《サウル》》のシンボルだった。

 魔術の研究と普及につとめる、研究機関にして秘密結社の印。

 世界で唯一、『蛇』と魔女の盟約をプロデュースできる知識集団シンクタンク

 そのメンバーであるという身分証明。


 受付にいたおじさんは、ありふれた背広姿だった。

 そして、銀縁のメガネをかけていた。

 このレンズには呪法加工が施されているはずだ。

 ハルも似たような品を所有している。


 魔女マギならば、裸眼で魔術的視覚を発揮できる。

 しかし、そうでない普通人コモンは、こうした呪具で魔術的視覚を一時的に身につけるのだ。

 案の定、おじさんはアーシャのカードを一瞥しただけで、入館を許可するようにうなずいてくれた。


「ほとんど顔パスってのは楽でいいな。僕らみたいに胡散くさいのと、仲よくしたくないだけかもしれないけど」


 入館後しばらくしてからハルが言うと、すかさずアーシャは答えた。


「さりげなく私をふくめないでください。第一印象のよさなら、私の方が晴臣よりも断然上だと思います」

「まあね。君はとてもかわいい女の子だし」

「え……そんな――。晴臣……ふふっ」


 急に浮かれたような顔つきになって、アーシャは可愛らしく微笑んだ。

 容姿についてハルが誉めると、妙によろこぶ癖が彼女にはあるのだ。


「いや、でもさ。君の場合、つきあってると第一印象が幻にすぎないことがどんどんわかってくるから、その辺をどうにかすべきかもよ」

「晴臣の方こそ、上げてから落とす悪い癖をどうにかしてください!」


 こういう話題になると、アーシャはいつもいきなり怒り出す。

 しかし、今日はすぐに怒気を鎮めて、話題を変えた。


「ここ、入館が楽なのは助かりますけど、もうすこし格式ばっていてもいい気はします。せっかくの『魔女の館』なんですし」

「でも、地方都市とか田舎の方の『館』って、大体こうじゃないか」


 東京新都をする『蛇』と魔女は、現在のところ一組のみ。

 一応アーシャもいるが、彼女の相棒は訳ありの身。

 数に入れるべきではないだろう。


「蛇と魔女を三、四組もそろえられた運のいい地域なら、もっと活気があるんだろうけど。世界中見渡せば、一組もいない街の方が圧倒的に多いだろ? 現にこの街の蛇なんか、ドラゴンどもが来たら関東地方のあちこちにするらしいよ」

「人材不足はどこでも深刻ですね……」

「そのおかげで僕らは仕事に不自由しないわけだ。でもアーシャ」


 ふたりはこの施設の深奥部にやってきていた。

 受付から廊下へ出てエレベーターに乗り、地下二階へ。

 奥まった場所にある自動ドアに暗証番号を打ち込んで開け、その先にあった階段をてくてくと下り、ついに到達したのは地下五階の最下層――。


 禁断の知識を記した、さまざまな書。それらを収蔵した書庫である。

 足を踏み入れるだけで、冷気が足もとと背筋を凍えさせる。

 クーラーの冷気と、何より『力ある書』の数々に秘められた霊気がハルとアーシャの心身を容赦なく冷やすせいだった。


「人材難のことを君が言ったら、ヨーロッパの連中は怒るだろうよ。なんたって君が呼び出すルサールカは、三か月前まであっちじゃ最強クラスだった『蛇』――なんだから」


 貯金を趣味とライフワークにしているハルだが。

 実はそちらの進捗では、幼なじみに大きく後れを取っている。


 アーシャは欧州屈指の能力を持つ魔女。

 相棒だった『蒼きルサールカ』の力を最大限に引き出して、何年もドラゴンたちと戦いつづけてきた。

 幾多の戦闘への報酬や契約金が銀行口座に積もり積もっているはずだ。


「早く帰ってきてくれって、三顧の礼で迎えてくれるんじゃないか?」

「それはそうでしょうけど……ルサールカの問題もありますし、私にはこの東京で取り組みたい研究があります」


 アーシャがこの書庫を訪ねるのは二度目だという。

 東日本では最大規模の魔導書保管庫。

 民間の有志によって蒐集された『力ある書』をハルのような魔術知識の所有者、そしてアーシャのような異能の魔女マギに有効活用させるべく造られた場所。

 あやしくもあやうい知識の泉であった。


 そういう場所柄ゆえ、快適さとは程遠い。

 多すぎる書棚が迷路のように入り組んでおり、ひどく歩きづらかった。

 そして光に弱い古書へ配慮して、照明はロウソクの火程度の明度しかなく、数も極端にすくなかった。

 おかげで書庫は暗闇同然だ。


 目当ての本を効率よく探すため、ハルとアーシャは別行動を取ることにした。

 それぞれ懐中電灯を手に、ひとりで書物の迷宮をさまよう。

 蔵書の目録からアーシャが目星をつけたという本を探して、ハルは書棚にならぶタイトルを地道に確認していった。


 洋書では『おぞましきオグドアドの秘めたる写本』『マグダラの黒き女神についての注釈書』『宇宙における地と水の相互作用』『ヘルメス的錬金術の諸相』など。和書では『呪詛法重宝記』『霊妙秘蔵集』など。また仏典では『金光明最勝経義』『虚空蔵聞持法呈示』。漢籍もなかなか充実しているようで『神符呪禁極言』『本草養生経』『蒼極神功』『太上君秘録』『応帝王秘笈』……。


 しかし、それらには目もくれない。

 このレベルの魔導書を準備なしに読んだら、とんでもない目に遭う。

 おそらく、その直後から幻覚を見るようになるだろう。

 眠ればきっと夢に怪物が出る。

 日に日にやつれていき、錯乱を起こし、やがて発狂コースか……。


 今回、アーシャが欲しがっているのは魔道研究の資料なのだ。

 ジャンルは考古学・民俗学・比較神話学など。

 ここはそういう方面も充実していて、一般では入手不可能とされる貴書・稀書・奇書が無造作に置かれていたりする。


 しばらく、ハルはひとり地道に作業を続けていたのだが――。

 首筋にぞくりと寒気が走るのを感じた。

 商売柄、いわゆる霊感は鋭い方だ。また、これだけ妖気と霊気がうずまく場所。

 それに惹かれて『よからぬ輩』が潜りこんでくる例は多く、遭遇したという話にはことかかない。実はハルも何度か経験ずみだった。


「ただの霊ならいいけど、『悪』とか『怨』がつくのは勘弁してくれよ……」


 専門家らしい愚痴をこぼしながら、うしろをふりかえる。


 ――いた。

 ハルは暗闇の奥で、ふたつの目が輝いているのを見た。

 目だけである。瞳は金色。一応、人間の眼球であるように見えるが、どこか冷血生物めいた雰囲気があった。


 金色の双眼が放つ妖しさに気圧され、思わず息を呑んだときだった。


(ほう……。只人の分際で面白いものを持っているな――)


 よく聞こえなかったが、少女の声ささやき声であるように思えた。

 続きを聞き取るべく、ハルは身がまえて待つ。しかし。


「……もうのか?」


 二分ほど待っても続きはなかったので、ため息をついた。

 謎の霊的存在は去ったようだ。まだ書庫のどこかにはいるのだろうが……。


 ハルは肩をすくめて、作業を再開した。

 この程度で神経質になっていたら、やっていけない商売なのである。

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