アーカイブ28(sideK) 最も偉大な魔法使いの世界
その顔に傷のある少年が訪ねてきたのは、確か五年ぐらい前の夏でした。
アルベルトさんを訪ねてきたというので、ひどく驚いた覚えがあります。
アルベルトさんというのは、その……なぜかうちの介護施設にいたお爺さんの名前です。名前の通り、外国人の方で……。でも私も含めて介護士の誰も、なぜアルベルトさんがうちに居るのか分かっていませんでした。たぶん院長にすら分かってなかったと思います。
でも介護申請とか、書類類はなぜか揃っていて。それに認知症はありましたけど、体は動いたんで手もかからなかったし。だからみんな、あまり深く気にしなかったんです。
…………。
いえ、そうですね。
本当は、少し気になることがありました。
ご家族がいないので、アルベルトさんを訪問する人は誰も居ませんでした。でも彼の部屋には、不思議といつも物が溢れていたんです。真鍮製の鏡、見たことない外国の紙幣、古いタイプライター、レゴブロック一揃い。誰も見ていないうちに、いつの間にかアルベルトさんの部屋に増えているんです。本人は認知症が進んでしまっていて、どうやって手に入れたか覚えていないんですが……でも施設の皆は気味悪がっていました……。
あ、そうそう。
あのおかしな男の子の話でしたね。
よく覚えています。何度も思い返しましたから。
あれはアルベルトさんがいなくなる前日の話でした。八月半ばのとても暑い日。一人の男の子が施設を訪ねて来たんです。事故にあったのか顔にひどい傷跡がある……でも笑顔が優しい男の子でした。彼はコーヒーと砂糖菓子をお土産に持って来ていました。それで、アルベルトさんに会いたいと言ったんです。
今まで訪問客なんていなかったから、私もびっくりして。それで、何をしにいらっしゃったのか尋ねました。そしたらその子は、笑いながら言ったんです。
「夏休み自由研究で、大魔法使いに弟子入りしに来たんです」
子供の言うことだし、なんの冗談か分からなかったけれど……でも、せっかくの訪問客を勝手に追いかえすわけにもいかないでしょう? アルベルトさんはもうボケが進んでしまって会話が出来ないことを良く説明した上で、会わせてあげました。
二人は中庭にある、白塗りのテーブルを挟んで対面しました。ちょうど木陰になっていて、昼過ぎよりは幾分暑さもましになっていました。
「どうもはじめまして。僕は萌崎カルトと申します」
男の子は礼儀正しくそう名乗って、アルベルトさんに話を始めました。アルベルトさんの昔のご友人から話を聞いたこと。それから今とても困っているらしいこと。そして最後はアルベルトさんに、魔法の使い方を教えて欲しいと頼み込みました。
……ええ。不思議な感じでした。
小学生の低学年ぐらいの子供が言うことですから、とやかく言うつもりはありませんでした。だってあれぐらいの歳の子供って、まだまだサンタクロースを信じていたりする頃でしょう。きっとそのアルベルトさんのご友人に、何か冗談を言われたんだと思いました。もしそうだとしたら……変に口出しして彼の夢を壊してしまうのもどうかと思ったんです。
でも……不可解なのは、男の子の口ぶりでした。
魔法を信じてる子供とは思えない、とても冷静な話し方で……まるで小さなビジネスマンが商談に来たような違和感がありました。
ただ男の子の熱意とは逆に、アルベルトさんの方は全くの無反応でした。ぼうっと男の子の顔を眺めたままで、暖簾に腕押しもいいところというか。まあ、アルベルトはもうずっとそうだったので、そうなることは分かっていたんですが……。
さすがに男の子も意味がないと諦めたのか、やがて口を閉ざしました。何か思い悩むように少し目を伏せ、沈黙の時間が出来ました。私はそれを見て、そろそろ諦めがついたかと声をかけようとしました。
ところがその時だったんです。
意を決したようにアルベルトさんをまっすぐ見つめると、男の子がはっきり二言だけ口にしました。
『あなたはだあれ?』
『世界はどこから来たの?』
効果は劇的でした。
魔法を習いに来たと言う男の子ですが、私にはこの二言こそがまるで魔法のようでした。この言葉を聞いたアルベルトさんが、まるで雷に打たれたように身を震わせたんです。そしてその瞬間、虚ろだった瞳に明らかな感情の光が戻りました。
私はその時、アルベルトさんがしっかりと話すのを初めて耳にしました。
『この世界はシルクハットから出したウサギで』
『私はノミだ』
はっきりとした言葉でしたが、意味は全然分かりませんでした。
ですが男の子の方は、その言葉に感銘を受けたようでした。彼は一度強くうなづいた後で、確信を感じさせる口調で言いました。
「なるほど。たしかに貴方は大魔法使いのアルベルトさんですね」
「いや、違う」
「いえ、確かに貴方です」
「いや、私はアルベルトであるが、魔法使いではない」
「では何ですか?」
そう問われたアルベルトさんは、こう答えました。
「哲学者だ」
その言葉を聞いて、男の子は沈黙しました。
閉口したというより、その言葉の意味を熟考し始めた様子でした。彼は顎に軽く手を添え、テーブルの上に目を落としていました。とても静かでしたが、彼の絶え間ない思考を表すようにその視線はテーブルの上をせわしなく動いていました。
そんな男の子に対して、アルベルトさんは続けて言いました。
「哲学者だが……しかしあえて言うなら、魔法使いでもある」
「では……」
「なぜなら全ての人間は、本来魔法使いなのだ」
「……」
「しかしほとんど全ての大人は、自分が魔法使いであること忘れている」
「それはなぜですか?」
「人間であることに、慣れっこになってしまっているからだよ」
そう言ってアルベルトさんは、そこで一度居住まいを正しました。
そしてまるで講義を始める講師のように、朗々と話始めたのです。
今までのアルベルトさんとは、まるで別人のようでした。
「とある家の朝食の風景を想像してみよう。パパとママと、二歳ぐらいの男の子トーマスの三人家族だ。ママがいつものように朝食を用意していると、突然パパがフワリと浮き上がって天井近くでコーヒーを飲み始めるんだ。これを見たママとトーマスはどうなると思う」
「それは……驚くと思います」
「ああ、勿論だ。二人ともひどく驚く。だが二人の『驚き』は、大きく異なる」
「母親の方が驚くでしょうね」
「違う。程度の問題じゃないんだ。確かにママは大いに驚き絶叫するだろう。卒倒して、あるいは病院に運ばなきゃならないかもしれない。そして病院で目を覚ましたあと、ママは朝の出来事は間違いなく夢だったと思い込むだろう。なぜなら自分達が魔法使いであることを、ずっと昔に忘れてしまったからだ」
「……」
「しかしトーマスは違う。彼の『驚き』は喜びの驚きだ。彼は父親を見て、きっとこう思うのだ。『すごい! 空を飛んでる! あんな面白そうなこと、今までしようとも思わなかったよ』彼の驚きは、新しいおもちゃを見つけた喜びと同じだ。彼にとってはパパとママは、いつも不思議なことをする楽しい魔法使いだ。パパは変な機械を顔にあててジージーやったり、車の中に顔を突っ込んでガチャガチャやって真っ黒な顔になったりする。それと同じように、今日はフワリと飛んで見せただけだ」
「そう……ですね……」
「そしてふわふわ浮くパパを見たトーマスはどうすると思う? ああ、言うまでもないだろう。トーマス坊やも、フワリと飛び始めるんだ。だってパパを見ていたら、とっても楽しそうだからね」
「……それは……そんな……」
男の子は困ったように言葉を濁しました。
けれどそんな彼を見て、アルベルトさんはこう言いました。
「ああ、もちろんその通りだよ。ソフィー。この世界は……世界はねーー」
「ーーこの世界はもう発狂しているのさ」
そう言ったアルベルトさんの目は、すでに虚ろになっていました。
ぱくぱくと開閉する口からは涎が垂れるばかりで、つい先ほどまでの明晰な言葉はもう欠片ほども出て来ませんでした。
……ええ。
私は何をして良いか分かりませんでした。ただ、何かとても重大な場面に立ち会ったという予感に打たれ、呆然と立ち尽くしていました。まるで重大な神のお告げを、偶然立ち聞きしてしまったような気分でした。
しかしそのお告げの本来の受け手であろう少年は、何かを考えているようでした。もう惚けているアルベルトさんのことをジッと見ながら、一生懸命に思考を巡らせていました。
そして数分の後、彼は言いました。
「理解しました。アルベルトさんが、最も偉大な魔法使いである理由を」
「つまりーー」
「世界観という『当たり前』から自由なのですね。貴方という哲学者は」
「高いところからは落ちるという当たり前を、当たり前として受け入れていない」
「だから空を飛べる」
「自分が人の姿をしていることに、本気で驚くことができる」
「だから姿を変えられる」
「ポケットの中が、ロンドンの雑貨店とつながっても不思議じゃないと確信できる」
「だったらなんでも取り出せる」
「世界観という常識に縛られないからこそ、貴方はあらゆる世界を渡る」
「当たり前など存在しないからこそ、貴方はなんだって出来る」
そこまで話して、男の子は一呼吸置きました。
そして顔を曇らせて、こう続けました。
「しかし、どう考えても貴方の理屈は……不完全です」
「本当にその通りなら、もっと世界はごちゃごちゃのはずです」
「確信で全て実現するなら、信じる子供達の下に無数のサンタクロースが訪れているはず。空が飛べると思いこんで、骨折をする子供はいないはず。自惚れ屋は常に天才芸術家で、ストーカーの愛は必ず報われる」
「しかしそうはなっていない」
「つまりーー」
「自分の世界観を現実とするためには」
「確信の他に、まだ何か条件があるはず」
「それはいったいーー」
そう問いかけようとして、男の子は気づきました。アルベルトさんは、もうすっかり疲れて寝ていたんです。
前のめりになってスヤスヤ寝息をたてているのを見て、彼は優しく微笑みました。
「そうですね、先生。魔法の仕組みは分かりました。後はまた、自分で探します」
そう言って、彼は席を立ちました。
「ご指導ありがとうございました。深く感謝いたします。さようなら」
しずかに別れの言葉を告げて、男の子が中庭を出ようとした時でした。意外にも彼の言葉が聞こえたのか、アルベルトさんがつぶやくのが聞こえました。
「ああ、さようなら」
そして続けて、こう言ったのです。
「誕生日おめでとう、ヒルダ」
私は聞いたこともない名前でしたが、男の子には意味が分かったようでした。彼は一瞬ハッと驚き、けれどやがてその驚きは笑顔に変わりました。
「ええ、全くです」
「誕生日おめでとうございます。ヒルダさん」
男の子はそう言って立ち去ったまま、二度と訪ねて来ることはありませんでした。もっとももし訪ねてきたところで、アルベルトさんにはお会いできなかったわけですが。
いえ、お亡くなりになったわけじゃありません……、あ、いえ、たぶん違うと思うんですが……。その次の日、アルベルトさんは居なくなってしまったんです。いえ、失踪とか、徘徊とかじゃありません。だって綺麗さっぱり、あれだけあったアルベルトさんの荷物も書類も、全部一緒に消えてしまったんですから。
それでアルベルトさんの部屋に残されていたのは、ただ一つだけ。
綺麗な花束が、机の上に残ってました。
もうこの施設でも、あの人のことを知ってるのは私ぐらいしかいないですし、書類も無くなったのでまるで元からアルベルトさんがいなかったみたいに思えてしまうんですが……。
でも、ひょっとしたらと思うんです。
アルベルトさん、あの男の子に会って思い出したんじゃないかって。
魔法使いとして、また旅に出たくなったんじゃないかって。
そう、思えてしまうんです。
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