アーカイブ16 ある心理学者見習いの回想
そこは精神病院の検査室であった。
医者と少女が一人ずつ、テーブルを挟んで向かいあっている。
長い黒髪の少女は青色の薄い病院着を着ていた。そしてその全身は電極シールや血圧計、その他モニター端子に覆われている。全身というのはもちろん頭も含めてだ。ヘルメット状の脳波測定機を装着していた。
彼女に向かい合った医者は、手元のカードを一枚めくり読み上げた。
「君は小学校の教室にいる」
会話形式の検査のようであった。
「君は一人きりで、教室には他に誰もいない。そしてもう夕方だ。もうすぐ日が暮れる」
「お家に帰らなくちゃいけないわね」
少女は涼やかな声で答えた。
「君は教室を出ようとするが、なぜか扉に鍵がかかっていて出られない」
「あら、たいへん」
「君は辺りを見回し、気づく。廊下に面した窓に、一面ベタベタと赤黒い汚れが付いている」
「あら、窓があるのね。じゃあ、窓から出られないかしら」
「……窓についた汚れは血の跡だ。どうやら手の形をしているようだ」
「だれかケガしたのかしら。ところで窓のかぎは開いてる?」
「鍵は開いている……しかし君が窓に手をかけると、突然校内放送がかかった。錆びついたようなしわがれ声だ。『窓の外は、キケン、です』」
「……? どうしてかしら」
「君が立ち止まると、窓の外を血まみれの白い服の女性が横切って行った」
「……!」
「どうやらとても長い包丁を持っていたようだった。君は次にどうする」
「いそいで窓を開けるわ」
「……」
少女の答えに、医師は絶句する。
どうやら予定にない答えのようであった。
「まだ彼女は近くにいるかしら?」
彼女の問いに、医師は迷いながらも答えた。
「…………通り過ぎたはずの女は、振り返り君の方を凝視していた」
「『今、放送で言っていたのだけれど、窓の外に出るのはキケンだそうよ』と急いで彼女に伝えます」
「……彼女は笑いながら走り寄ってくると、君のことを包丁で滅多刺しにするだろう」
「あらひどいわ。せっかく教えてあげたのに」
少女はキョトンとした様子でそう呟く。
そんな彼女を見て、医師は力なく質問カードを伏せた。
そんな二人の様子を、その時、私はマジックミラー越しに見ていた。
「……彼女が、例のクリスティー号消失事件の子ですか」
「そうだ。正確に言えば二人の子供達のうち、おそらくキーパーソンの方だ」
「なるほど。しかしなかなか、ユニークな検査をなさっているようですね」
犯罪心理学で大学院を出たばかりだった私は、目の前で行われたその奇異な検査に大いに興味を引かれていた。
「面白いです。フォークト=カンプフ検査みたいです」
「フォークト……? その検査は知らないな。誰の提唱した試験だい?」
私をここに連れてきた准教授は、私の軽口に大真面目に首をかしげた。
「あ、すみません。冗談です。フォークト=カンプフ試験というのはSFに出てくる架空の検査です。レプリカント……つまり、人間そっくりの人造人間と人間を見分けるための検査です」
私は慌ててそう言いつくろった。
「ブレードランナー……アンドロイドは電気羊の夢を見るか、という作品です」
「うむ、そのフレーズは聞いたことあるな。SF作品の名前だったのか」
「はい。その作品の中で、ちょうどこういう風に、会話形式のテストをするんです。被験者にモニターをつけて、残酷なシチュエーションの質問をする。動物や子供を虐待するような話を」
「なるほど、それで動揺するような反応を感知できたら人間」
「そう。動揺する演技だけで、生体反応が乱れなかったらアンドロイドです」
「なるほど、似ているね」
そう言って准教授は、パソコンに表示された計測結果に目をやる。
「だとすれば彼女は、アンドロイドということになるのかな」
そう皮肉げに呟いた。
表示されていた記録は完全にフラット、無反応であった。
「心拍計心電図計が完全に無反応なのは当然として、体温、血圧、呼吸数、脳波、微量発汗に至るまで完全に変化なし……ですか」
「ああ、彼女は一切動揺していない。毛の先ほど恐怖を感じていないのだ」
准教授のその言葉に、その時の私は食いつくように反応した。
「恐怖の欠落した精神。 実に興味深いです」
まだ私は青く、未熟であったのだ。
人というものが、自分の学問的叡智で解きほぐせる程度のものと思っていたのだ。
「理論的想像力の欠如によるものでしょうか、つまりこの少女はーー」
「彼女は知能も、知性も、想像力も問題ない。少なくとも我々が実施できた知能測定の範囲では」
興奮気味に話す私を、准教授は遮って言った。その口調にはどこかウンザリとした色調があることに、私は気づかなかった。
「若干8歳の小学生ながら、最低でも中学2-3年生程度の知能指数を叩き出していたよ」
「優秀ですね」
「いや、違う。最低でも、と言ったのだ」
「……とおっしゃいますと?」
「彼女が回答する映像を見たが、明らかに手加減していた。テストの半分ほどに差し掛かったところで、成人用の知能測定を受けさせられていると気づいたようだった」
「……」
「問題とは関係のないシーンでほんの数秒考え込むと、以後悩む様子を見せながらゆっくり問題を解くようになった。試験は最終的に時間切れだった」
「……なんで、そんなことを」
「我々に手の内を明かしたくなかったのだろう」
「……手の内、ですか?」
「彼女は何か隠している」
そう言って准教授は、検査室のマイクの音量を上げる。
『窓の外がキケンと言っていたので、女の人がケガをしたんだと思ったの。だから呼んで、手当をしてあげた方が良いと思って』
なぜ窓を開けてしまったのか、少女が医師に説明していた。
理屈は通っている。
雰囲気というものを完全に無視している点を除いて。
「彼女の知能は大人と同レベルと思って良い。想像力もだ。この理性的な会話を聞けばそれは明らかだ。ただ……ただ、恐怖というものに全く無頓着なのだ」
「……なぜでしょうか」
私の質問に対し、准教授は少し黙考した後に言った。
「これはあくまで架空の理論だ……だが……」
「人が一生に感じられる恐怖の量には限度がある、という説がある」
そう言った。
「一生分の恐怖を体験した者は、もはや恐怖が枯渇するのだ……もちろんそんなことは実証できないので、便宜上の仮説だがね。だが彼女を見ていると、信じたくなる」
「じゃあ、つまり、彼女は……」
「船が失踪している間に、彼女は一生分の恐怖を体験したのだろう」
准教授は迷いながら続ける。
「一度だけ、彼女が冗談めかして言ったんだ。もう何も怖くない、と」
「……例の噂は、本当なんですね。船は、超常現象に巻き込まれたという噂は」
「信じがたい話だが、証拠もある」
「……例の、彼女の心臓」
「ああ、心臓外科の連中が色々調べたが、まるで見たことない機種だそうだ。恐ろしく高性能の。まるで人智を超えた神が創ったように高性能だそうだ」
「じゃあ、本当に」
「ああ、私は信じている。この少女は、いやクリスティー号の乗客達も今は忘れているが、一生分の恐怖を体験したのだ。……ただ記憶と正気を失わずに生還出来たのが、おそらくこの少女だけなのだ」
「……そんな、バカな」
マジックミラー越しの少女は、ただの子供にしか見えなかった。
彼女はちょうど、一つばかりため息をついたところであった。
「先生、私、少しつかれちゃった」
彼女はしょんぼりと肩を落とす。
その様子を見て、医師は少し困ったように言った。
「あ、ああ、そうかい。じゃあ、一休みしようか」
「うん……」
少女は気だるげに俯いたまま、ぶらぶらと足を揺らす。本来は成人の精神疾患患者のみが『入院』となる病院である。検査室の椅子は、少女にはだいぶ大きすぎた。
「先生ぇ、私、オレンジジュース飲みたいな」
甘えるような声で、彼女は言った。
「オレンジジュースか、えーっと」
医師は我々の方へと、目線を寄越す。マジックミラーなので見えていないはずだが、こちらの准教授への合図のつもりであろう。それを見た准教授は受話器を取ると、検査室内への内線をつなげる。
「別に良いだろう。それぐらいは」
検査室内で内線を取った医師に、彼はそう告げた。
程なくして、ガチャリと錠が開く音。看護師によって、オレンジジュースが運び込まれた。
「検査室に、鍵までかけてるんですか」
「ここは危険な……つまり犯罪歴のある患者も引き受けている……」
「それにしても、でも、子供の検査の時にまで……」
「規則でね」
「……そうですか」
「もっとも例え規則がなくても、私は『かける』がね」
「……は?」
私の疑問の声に答えることなく、准教授は少女を見つめていた。
少女はちょうど、ジュースを飲み終わったところであった。彼女はコップをテーブルのはじに寄せると、口元を手でぬぐった。
「少し休まったかね?」
医師の問いに、少女はこくりと頷いた。
「ならそろそろ、次の検査を……」
「ねえ、先生ぇ」
医師の声を遮り、少女はか弱い声で言った。
上目遣いで見つめながら、少女は恐る恐る訊ねる。
「私、死んじゃうの?」
「え、え、急にどうしたんだい?」
「だって先生、大急ぎで何個も検査するから」
「なんだって?」
「いつもは私が疲れたっていうと、先生は終わりにしてくれるじゃない。でも昨日からは何個も続けて検査するんだもの。なんだか急いでるみたいに。だから私、もう死んじゃうのかなって」
少女は弱々しく言うと、悲しそうに目を伏せる。
その様子を見て、こちら側で准教授が呟く。
「おかしい……彼女がこんなこと言うはずは……」
だが准教授の戸惑いをよそに、向こう側の医師は大げさに笑ってみせた。
「あはは、そんなことか。大丈夫だよ。ほたるちゃんは死んだりしないさ」
少女が珍しく見せた子供らしい人間らしい一面に、医師としてはむしろ安堵したぐらいだったのだろう。彼は勇気づけようと少女に微笑んでいた。
「絶対に大丈夫だよ」
「本当? 本当に本当に? 私、ウソついたらやだよぉ」
少女がおずおずと差し出した両手を、医師は優しく握り返す。
「大丈夫。ほたるちゃんは死んだりしないさ」
その言葉に、少女は安堵したようにコクリと頷く。
「うん……良かった……」
「あはは、心配しすぎだよ、ほたるちゃん」
「先生が何個も実験するから、心配になっちゃった」
「いやいや、ごめんよぉ。びっくりさせて」
「ところで、先生ぇ」
彼女は手を握りしめ、顔を伏せたまま言った。
「私が今『実験』って言ったのをスルーしましたね」
医師の顔が、硬直する。
「やっぱり検査じゃなくて実験だったのですね」
「あ、いや、今のは」
「急いでる理由は、早めに実験データを揃えたいからですか」
「いや、別に、そう言うわけじゃ」
「担当医が変わるんですか?」
少女は先ほどまでの弱々しい姿などつゆほど見せず、大人びた口調で矢継ぎ早に質問を始める。
「新しく上司が来るとかですか?」
「あの、ほたるちゃん、落ち着いてっ」
「違うのね。じゃあ、私自身の病院が移る?」
「あ。いや」
「私を別の病院に移すように圧力がかかった?」
「あのっ」
「次の移転先はどこ? 大学病院?」
「待ってくれっ」
「大学病院じゃないの? 警察病院? 違う? 実は知らない? でも予想は付いている?」
もはや医師からの返事を待つことなく、少女は無数の問いを打ち込んでいく。
「次は病院ですらない? 少年院? でもない? でも政府からの圧力でしょ、つまりーーー」
そこまで問いを重ねたところで、少女はわずかに間を置き、
「私の次の移送先は、真実を隠匿するための非公式施設である」
その決定的な言葉を打った。
その言葉を聞き、准教授は絶句する。
「馬鹿な、どうやって……信じられない」
どんな刑事にも犯罪心理学者にも不可能な芸当であった。
彼女は医師の返事すら聞かず、目すらも合わせず、ただ俯いたまま無数の質問をするだけで真実にたどり着いていた。
俯いたままでーー?
そこまで考えた時、私はやっと『それ』に気づいたのであった。
「読まれています!」
「なにっ!?」
私の指し示した先。
それはモニターの数値であった。
フラットであるはずの測定値が、今は大いに乱れていた。
「あ、あ、ああああっこれはっ!」
「つまり、つまりオレンジジュースですっ!」
混乱した一言であったが、准教授には十分伝わったようであった。
「そういうことか!!」
少女はしっかりと、医師の両手を握っていた。
もちろんその手には伝導率抜群の電解質、オレンジジュースが塗られているのだろう。
あの口元を拭う動作だ。
あの時、少女は手にオレンジジュースをまぶしたのだ。
彼女がずっと俯いて見ていたのは、医師の手元にあるモニターディスプレイだった。
少女は自分の測定値が完全にフラットであることを利用して、医師の心拍や心電図データを密かに測定していたのだ。
「彼は一緒に移動になるの? そう、カルト君よ? そう、彼もね? 彼はまだここに入院してる? 東館? 東館の特別室ね?」
私達が泡食っている間にも、少女は医師から無数の情報を奪い取っていく。
最初の「実験」という言葉で動揺させられて以来、医師は立ち直れていないのだ。
「何という見事なーー」
私は思わずうめいていた。
強烈な一手で心の防御を崩し、測定器に対して丸裸にする。
まるで熟練の公安捜査官のような手際であった。
「おい、おいっ、内線を取れっ! データを取られてるぞっ!」
准教授は慌てて内線をかけるが、検査室の医師は内線に気が付かない。いや、気が付かないのではない。内線が、鳴っていない。
「あれはーー」
それに気付いた時に、さすがに私も血の気が引くのを感じた。
内線の受話器が、鳴らないようにわずかに持ち上げられているのだ。
オレンジジュースのグラスによって。
偶然ーーのわけがない。
少女がグラスをよける時に、わざとやったのだ。
そこまで彼女は『読んでいた』のだ。
「これは……中学生どころの知能じゃない……」
一方で内線を諦めた教授は、慌てて壁にある埋め込み式金庫にかじりついていた。6桁のナンバーをもどかしそうに入力して解錠すると、緊急時用のマスターキーをもぎ取るように取り出す。
「おいっ、離れろっ! 手を離せ!」
鍵を乱暴に開けると、准教授は叫びながら検査室に入っていった。その言葉を聞いて呆然と振り返る医師と、意地になったように両手を握りしめる少女。私も慌てて後に続くが、部屋に入る頃には三人が混然一体となり大乱闘になっていた。
「こらっ、離しなさいっ!」
年端もいかぬ少女を相手に、准教授の大人気ない実力行使。
と、思いきや少女の方も意地になったのか死に物狂いの抵抗で医師の手を離そうとしない。しかもその大乱闘で最初に音をあげたのは、准教授であった。
「いだだだあああっ!」
見ると、少女が見事に准教授の腕に噛みついていた。
慌てて離れた准教授の腕から、ダラダラと血が流れ始める。
「先生っ!」
余程深い咬み傷なのだろう。おそらく血管に達する傷であった。
「ま、まるで獣だ……」
准教授が呆然と呟く一方で、少女はやっと駆けつけた看護師達に押さえつけられていた。だがその眼光には、それこそ獣のような怒りが宿っている。
「どうしたというんだ、あれほど大人しかった君が……」
「……」
准教授は問いかけるが、少女は頰を膨らませ、にらみ返すばかりで答えようとしない。
「実験めいた検査をしていたことに怒ったのか?」
「……」
「君のケースは特殊なんだ。通常の検査では分からないことだらけなんだ。悪意があってやっていたわけじゃない」
「……」
拗ねたように頰を膨らませるばかりで、少女はやはり答えない。
「先生、血が……縫合治療が必要です」
血が流れ続ける腕を見て、私は准教授に声をかける。
「すぐに外科医のいる病院に……」
「そうだ、な……」
少女が一向に態度を変えないのを見て、准教授もしぶしぶ諦めたようだった。
「彼女はしばらく部屋で休ませておいてくれ」
看護師にそう言い残すと、悔しそうな表情で検査室を後にする。
それに付き添って部屋を出た私であるが、ふと振り返ると少女も看護師に付き添われて病室へと向かうところであった。
両腕を掴まれながら素直に歩く一方、まだその不満を主張するかのように子供らしく頰を膨らませているのが印象的であった。
医師から赤子に手を捻るように情報を引き出した知性的な一面。
准教授が乱入してから見せた不毛な大暴れという子供じみた一面。
その両者が少女の中に同居していることが、私の中で奇妙な違和感として残っていた。
だが残念ながらその後、私はその少女に相対する機会を得られなかった。
その後すぐに、少女が精神病院から失踪したからである。
その後八年。
折につけては彼女のことを思い返し、現在に至っている。
私は今になってようやく。彼女にあの二面性を説明する仮説へとたどり着いていた。
なんのことはない。
事実は単純だった。
精神の二面性だの、幼児性と知性の同居だの、馬鹿らしい解釈であった。
結局のところ、中学生並みの知能などとんでもない。
彼女はあの場にいた誰よりも、遥かに優れた知性を持っているだけであった。
なぜ准教授にあれほど必死で噛みついたか?
→彼を治療のために、いち早く検査室から遠ざけるためである。
なぜ彼を遠ざけたかったか?
→マスターキーを持ち出したのが彼であり、つまり戻すのも本来は彼だからである。
では残りの疑問も簡単に解決するだろう。
なぜ拗ねた子供のように、ずっと頰を膨らませて答えようとしなかったのか。
乱闘中にかすめ取ったマスターキーを、口の中に隠していたからである。
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