第4話『渦中』



 黒い渦の出現、異形の怪物達の侵攻。それは突然世界中を襲った。

 日本では渋谷区で発見された渦から怪物が這い出したのをはじめに列島の各地に渦が出現、幾つもの街が未曾有の惨劇に呑み込まれていく事になる。蝿はヒグマほどの大きさで明らかに人間に狙いを定め襲撃していた。多数の死傷者で溢れかえる街、事態は余談を許さない状況だった。

 住民からの通報を受けた警察は自衛隊の出動が迅速に行えるように手配、住民の避難と同時に消防と連携し放水による牽制、市街地での発砲許可は住人の避難が完了するまで許可されず基本的には接近戦での戦いを強いられた。蝿は前脚に鋭利な鎌を持ち人の肉体を容易に切り裂いていく。

 各地の街で普段夕刻のチャイムや徘徊老人の知らせぐらいしか発しないスピーカーが避難を促す鬼気迫る職員の声を街に響かせた。


 突発的な事態に関わらず、関係各所の対応は完璧に近かった。自衛隊は渦の出現から十五分と経たない内に出撃を開始することになる。それでも刻一刻と、化け物達の数の暴力の前に人命は多数失われつつあった。


「これ......は......」


 まだ口の中にオムライスの味が残っている。

 眼前に広がる惨状を考えれば猶予は一刻たりとて無い筈であるのに、拳真はすぐさま行動を起こす事をできないでいた。馬鹿げた話、目の前で起きていることが夢ではないかとさえ思っていた。

 街のあちこちで立ち昇る黒煙と煌々とした明かりはプロパンガスが破裂したのだろう。街全体が燃えているわけではなさそうで火の手はこちらまで来る心配はなさそうだが、空を飛び交う異形達は話が別だ。

 何百匹、いや何千匹の巨大蝿が空を覆っている。


「きゃあああああああああああ!」


 絶叫は近くから聞こえた。すぐそこの道路で蠅が人を襲っていた。蝿の下で若い女の身体が小刻みに跳ねている。


「拳真。あ、あの人、助けないと!」


 あの人って、誰だ。文香の発言が蠅の下敷きになっているあの女性を指したものだと気付くのに数秒。

 そっか、助けないと、そうだよな、あの人はまだ生きている。なら、助けないと。


「いやでもどうやって......」


 問いかけは途中でやめた。文香に聞いたって仕方無い。答えなんてあの蝿を追い払う以外に無いはずだ。

 画面越しにはわからなかったが巨大で空を飛ぶ為か蝿の甲殻はかなり薄く、硬い物で叩けば容易に砕けそうに思えた。いっても虫だろ、案外一匹程度ならただの高校生の自分にだって何とかなるのかもしれない。拳真は自分の胸の中を落ち着かせようと前向きな憶測を掻き集めた。


「ごめん、これしか無くて、台所行けば包丁あるけど二階になんかいるし」

「悪い。まあ、無いよりましか」


 文香が大慌てで玄関からとってきた蝙蝠傘を受け取ると素振りをしてみる。傘を剣のように振り回す時がチャンバラごっこ以外で来るとは思わなんだ。バットでもあれば良かったのだが生憎野球はやっていない。


「剣道でもやっときゃよかった」


 仕方の無い後悔を口走りながら顔を上げると、蝿の複眼と目が合った。

 どうすればいい、拳真は自らに問いかける。蠅は二人に気づき身体をこちらへ向けていた。脚に絡まった女性の血肉を舐めとるその姿に目眩がする。

 極限の窮地に全身の肌はビリビリと逆立ち、感覚は研ぎ澄まされていく。身体は生きようとしていた、心は戦おうとしていた。生まれてから初めて感じる生存本能の強烈な実感だった。

 逃亡、その二文字が頭に湧いてこないのはとうに逃げ場など無いからだ。


「くっそ! 蝿の生態なんて知らねーんだよ、まずどうすりゃいいんだ」


 羽を鳴らし威嚇する蠅を睨み、拳真は文香を庇うように傘を構えた。


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