第3話『幕開け』

 文香がつくったオムライスは絶品だった。ほどよい半熟にとろけた卵は、さすが幼馴染なだけあって拳真のツボを捉えている。

 時刻は九時をまわり、顔を綻ばせる拳真の前で文香はドラマに夢中。


「何見てんの?」

「恋愛ドラマ。結構面白いよ?」


 チャンネル変えないでね、文香の答えを脳内で翻訳し見たかったお笑い番組を諦める。オムライスの弱みがあるので仕方が無い。

 拳真はオムライスを削る作業に戻る事にした。

 半熟の卵の中に隠れている甘いチキンライス、グリンピースの食感が心地いい。珍しくツナが入っているのは賞味期限目前のツナ缶を文香が見つけた為だろう。これはこれで悪くない、ツナとケチャップは意外に合った。いや、これはかなり美味しい。オムライスの新たな可能性の発見だ。


「えへへ、美味しい?」

「うん、めちゃくちゃ旨い」


 リビングには食器がたてるカチャカチャとした音、テレビから漏れる音だけがしばらく続く。再びドラマに目を移した文香の横顔に話しかけても、返ってくるのが気の抜けた生返事だけなのはわかりきっている。

 けれどそれも気にならない。幼馴染の間に流れる心地のいい沈黙。いっそ雑なほど相手への気遣いを必要としない文香との関係は楽だった。


「あー! なにこれー!」


 突然の悲鳴、おかげでオムライスを噛み損じた歯が舌を噛む。


「なんなんだよ急に」


 冷たい水で舌を冷ますが効果無し。鋭い痛みに声が苛立つ。


「全部緊急生放送!? 7チャンまで!」


 7チャンネルと言えば他局が速報を流す中いつも平常運転に呑気な放送をする事がネタにされるあのチャンネルだ。せわしなくリモコンを押す文香の騒ぎように拳真も野次馬心をくすぐられテレビへと目を向ける。


『た、大変です! 見てください! 現在私達は、あの、渋谷ハチ公前にきています! えと、街頭で取材をしていた私達は』

『落ち着いてくださーい。冷静に! 冷静にお願いします!』


 画面の中、事件の現場にいるらしい若い女性リポーターをワイプの中の壮年の男性キャスターが叱咤した。

 渋谷の街は夜だというのに、街灯と看板の明かりに煤けて白い。さすが東京、千葉とは違う。謎の感心を抱きながら何があったのか伝えられるのを待つ。「黒い......渦?」、リモコンをスマホに持ち替えた文香が呟いた。

 映し出されたハチ公前、人々は皆一様にスクランブル交差点の方に視線を送ると立ち止まり、あるいは通り過ぎていく。

 仰々しいな。紺色の隊服に身を包んだ機動隊が走っていくのをカメラが追った。

 テロでも起きたのだろうか。ちょっとした好奇心、それと少しの慄き。リポーターが取材中これほど取り乱した場面を拳真は知らなかった。


『こ、こちら渋谷ハチ公前です。突如空中に黒い渦が出現し、現場は騒然。この現象は世界各地で見られているとのこと、これは一体なんなのでしょうか! 情報は錯綜しており中には有毒ガスによる同時多発テロではないかという憶測も......』

『下がって! 下がってー! 危ないから!』

『あの、すいません現在の状況は......』

『いいから下がって! 下がってください!』


 キレ気味の敬語と共にカメラが消防士の掌に覆われガタガタ揺れる。

 スクランブル交差点を取り囲むようにひしめく群衆、規制線が貼られ警察と消防、それに自衛隊まで駆り出されているようだった。ビルの擦りガラスの向こうに地上を見下ろす人達がマネキンのように透けている。ビルの上にいる人はなぜ逃げないのだろう、まだ事が起きたばかりなのか、それとも、逃げるほどの事ではないのか。黒い渦とは何だろう。

 サイレンの音とざわめきが鬱陶しくリポーターの声を拾うのが難しい。


「なんだろうね、テロとかじゃないといいけど」


 不安げな文香の声。

 スクランブル交差点のど真ん中、気体にしては不自然な黒色が景色に穴をあけている感じがする。確かにそれは渦を巻いていた。

 それからは全てが一瞬。理解する間も無く、惨劇は突然に幕を開けた。黒い渦から巨大な蝿が這い出した。

 

『み、見てください! 突如出現した黒い渦から謎の生物が......』


 渦の中からゆっくりと這い出した異形の生物、ヒグマ程の大きさの巨大な蠅。細かな棘のついた甲殻と四つに分かれた複眼は、いつも見慣れている蠅のそれとは大分違うが。

 蠅が地面に降り立ち羽音を鳴らす光景は現実味に欠けた。目がバカになったのかと瞼を擦ってみたが、やはり蠅の複眼は人々の頭の位置にあった。

 蠅は周囲を確認するように頭を機械的に動かした後に一息で飛び立つ。

 ブーン、胸をざわめかせる不快な羽音が呆気にとられる人々の前で徐々に増えていく。渦からは堰をきったように無数の蝿が這い出し、空を埋めるような勢いで次々に飛び出していっていた。


 誰もが目の前の光景と自らが存在している現実を脳内で連結リンクさせる作業に数秒の時間を強いられたのだろう。しばらくは不気味なほどに画面の中は静まり返っていた。

 景色が徐々に増えていく渦に黒く欠けていく。


『あ......あの、蠅が、蟲が、その、えっと』


 震えた声で言葉を絞るリポーターを叱咤する声は、もう聞こえない。


「きゃーーーーーーーー!! 」


 『発砲許可を』画面の中ではほとんど怒鳴るような無線の声、けれど問題はそこでは無い。文香も気づいたようでお互い顔を見合わせる。女性の叫び声の方は確かに外から聞こえてきた。画面の中では無く、家の外から。


『見てください! 突如出現した黒い渦から謎の生物が次々と現れ人を、人を襲っています! あちこちで人が殺されていま』

『おそれいりますが、そのまましばらくおまちください』


 唐突に爽やかな向日葵畑の画像に切り替わった画面、しかしそんな事はどうでもいい。


 窓の外から喧しい音が聞こえてきた。ガラスが割れる音、人の叫び声、車が急ブレーキをかける音、隣の民家からは窓を乱暴に開ける音がした。

 爆音、それに破砕音が続く。驚いた文香の肩が跳ねた。


「拳真! 拳真!」


 文香に揺すられ呆然としていた意識が判然とする。


「逃げなきゃ! 急いで!」


 二階で凄まじい轟音が轟いた。床をこするような不気味な足音は天井の木材を揺らし何かを探るように動いている。


「意味わかんねぇ」

「拳真、とにかく外に、やばいよ!」


 確かに「やばい」。でも「やばい」の中身を想像する事は殴られたように白濁する頭はまだ考えることを拒み拳真は頭の整理が追いつかないまま外へと飛び出した。


 そして目の前に広がる光景に二人は立ち竦む。炎に包まれた街、上空には巨大な蠅が蠢き、空には点々と黒い渦が浮かんでいた。

 何か前兆があったわけでは無い。事前に警告がなされたわけでも無い。何でも無い夏のある日、二人の穏やかな日常は唐突に終わりを告げた。

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