第2話『二人』
昔から、剣と魔法の物語が大好きだった。高校生になった今もそれは変わらず、好んでやるゲームは『ダークエムル』とか『ドラオンゲイン』とかの王道RPGものばかり。
平原をモンスターが闊歩する世界、それへの憧れは、別に現実からの逃避願望の表れではない。むしろ、現実には満足している。
来年に控えた受験にはたまに憂鬱になったりもするけれど、いじめとか自殺とか、そういう暗い話題とは無縁の学校で送る青春は楽しくて、毎日明日が待ち遠しかった。しかし
2018年7月8日。この日を境に安穏とした日常は唐突に終わりを告げた。
千葉県の中心から少し南に逸れた街、
「ほら、用事終わったよ! 帰ろ?」
「うがっ」
夕日が射しこむ放課後の教室に、乾いた音が鳴り響く。
「よく学校の机で爆睡できるよね、もしかして床でもいけちゃう?」
「うるさいな。まあ、たぶんいけるけど」
頭に振り下ろされた教科書の一撃に億劫そうに顔を上げたのは黒いくせ毛の髪に端正な顔立ちの少年だった。
女子が勝手に催した校内イケメンランキングで七位というそこそこの順位に入る彼の優し気な顔立ちはどこか柴犬を連想させる。少年は名を
人並みの学力、人並みの容姿、運動神経に関してはかなり良い。それでも天才と称される程ではないが。走るのが嫌いな為に所属は帰宅部、恋人ができた事は無し、どこにでもいる普通の高校生であった。
茜色の光を眠気に染み込ませながら拳真は窓の外に目をやった。いったいどれだけ寝てたのか、頭は痛いし寝起き特有の倦怠感が頭から足の裏まで伸びている。気分を変えようと伸びをすれば鳴る背骨、ポキポキとした心地いい音に少女の溜息が重なった。
擦った瞼が映したのは寝起きに見るには最高な美少女の顔だった。
相変わらず可愛いんだよな。拳真は頬杖をつき机に腰掛け生足を揺らす少女を見る。
生まれつきの薄茶色の髪、それを三つ編みに後ろで垂らした髪型が彼女のトレードマーク。顔は猫のように可愛らしくまだ幼さを残している。美人という言葉はまだ似合わない。少しツリ目気味の大きな目と長い睫毛は夕陽に光ってキラキラ光る。
「ねえ、なんか視線がいやらしいんだけど」
少女は目を細め非難の眼色。けれど拳真はおかまいなしに視線を下へと滑らせる。
細い首、緩い胸元、胸は巨乳ではないけれど同級生の中ではそこそこだ。生意気にも色っぽい腰のくびれ、膝上の短いスカート。スラリと伸びる白い足はいつも男子の視線を惹き寄せる。
「ジロジロ見ないでよ、きもい」
「いって」
再度振り下ろされた教科書の一撃は一応は手加減されて悶絶する程ではない。
拳真が頭を掻きながら立ち上がり欠伸をすると文香の方も欠伸を一つ。気を許しすぎた相手を前に文香の口は大きく開いた。
「口ぐらい隠せよ女子高生」
「もー、うっさいなぁ。ふぁかりまひた」
わかりました、を欠伸をしながら器用にいったその姿に呆れて溜息。外からは部活動の声が聞こえ、教室には二人だけ。放課後の穏やかな風景がここにはあった。
「随分待たされた気がするけど、何してたんだ?」
「告白されてた。一個上の先輩、断ったけどね。絶対ヤリたいだけだよー」
「お前、気をつけろよ......」
「うん、あんまりしつこかったからビンタしちゃった。拳真についてきて貰えば良かったかな。割とそういうので有名だったし」
はにかんだ文香の顔に込められた親愛が余りにも率直で、思わず拳真の顔が逸れた。拳真は文香が好きで、文香は拳真が好きだった。しかし付き合っているわけではない。二人の間に交錯する感情は、今や恋というには余りにも成熟していた。
家が近い事、それと少しばかりの特別な事情が相まって十数年兄妹同然に過ごしてきた。もう告白とか恋人とかそういうのは今更だ。
「あ、そうだ。今日拳真の家泊まりに行くね」
目を擦りながら生返事。文香とはほとんど家族みたいなものだ。お泊まり宣言に今更驚く理由もない。美少女が家に泊まりにくるという事実に感じるのは「帰ったらまたブツブツ言われんのか面倒くせぇ」という散らかした漫画への懸念だけ。
リビングに放置した漫画を見つからず自室に引き揚げる作戦を脳内で模索している内に文香の黄色い声がした。「わぁ!」、子供のような無邪気な声、窓の外を眺める文香の瞳が煌めいた。
「綺麗な夕焼け!」
「ん? あぁ、ほんとだ」
さもどうでもよさげな返事に文香の頬が少し膨れた。それがまた可愛くて拳真の悪戯心をくすぐる。
「拳真さ、なんでボーッとしてたの?」
首を傾げた文香の問い、「夢を見ていた気がする」と寝起きの違和感を告げると今度は文香の顔が興味無さげ。
「夢?」
「うん、なんか赤い砂漠? そんで魔王が……」
確かに見たはずの夢、それはほとんどが霞の中へと消えて思い出せなくなっていた。「ゲームのやりすぎじゃない?」、文香の結論には拳真も賛同、頷いた。
昔から剣と魔法の物語が好きだった。そのせいで不思議な夢の世界へ引き込まれたのだろう。しかし何となく、ゲームとはかけ離れて随分悲惨な結末を迎えた夢のように感じたのだが。
「まあいいか」
「相変わらず適当だなぁ。ま、夢の話なんて聞かされてもどうでもいいし困るけどね」
容赦無い本音を漏らした文香の横に立ち窓の外を見つめると、真っ黄色で目玉焼きみたいな夕陽が街の向こうに沈んでいくところだった。腹減った、拳真が夕陽に不相応な感想を抱いた事が間抜け面から伝わったらしい。文香の頬がまた膨れる。
「帰ろ帰ろ、なんか腹減ってきたわ」
面倒なので膨れた頬は見ないふり。逃げるように教室の出口へ向かうと文香は教室の鍵を指でくるくる回しついてきた。
「帰りスーパー寄ってこっか。お風呂掃除はいつも通り拳真ね。おばさん達今日から旅行でしょ?」
「ああ、息子置いて優雅なもんだ」
夏休みはもうすぐそこに迫っている。長い自由時間を先取りした拳真の気怠そうな横顔を文香がクスクス笑う。
「ねえ拳真、今日なに食べたい?」
文香の問いに思い浮かんだのは半熟の卵とオレンジ色の甘いご飯。
「うーん、オムライス」
「あはは、言うと思った」
私もね、夕陽が卵に見えたんだよね。そんな事を思わず口走りそうになったのだろう。文香が喉まで出かかった言葉を呑みこんで腹の虫を小さい咳で誤魔化したのが分かったが、夕食がかかってる。拳真は文香の機嫌を損ねないよう、笑いそうになる顔を大きな欠伸で誤魔化した。
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