第5話『蠢く』

 熱風が喉の水分を奪っていく。拳真は呼吸を整え、前を見据えた。全てが余りに突然だったことは、逆に幸いだったのかもしれない。きっといま冷静になったら気が狂う。


「文香、なんかあったら走れよ」

「え? う、うん」


 後ろにいる文香は気づいていない。もう女性は手遅れだった。肩から上が存在していない、二人がここにくるまでの間に彼女の命は終わっていた。次は自分達の番。


 人は死の間際、生存の助けとなりそうな記憶を一瞬にして脳内から探すと言う。所謂、走馬燈というやつだ。それはまだ見えていない、乾いていく口内に一杯水を飲んでから外に出ればよかったと後悔する。

 感覚は今までにない程研ぎ澄まされ、視覚が鋭敏になっていく。窮地において身体が普段抑えている力を解放した結果なのだろうか。

 蠅の輪郭が煤けた空気の中で妙にはっきりと見える。

 遠くで車が急ブレーキをかける音が轟いた。叫び声の内容は聞き取れない。まだ、生きている。まだ死は喉元に迫っていない。確かにある生き延びられる可能性を見出し、拳真は息を大きく吐き出した。とにかく目の前の蝿を倒さない事には何も始まらない。


 目が合った四つの複眼からは感情を解することはできない。ただ目の前に在るモノが敵か餌かを探り、形ばかりの警戒をしているだけだ。宿るのは意志とは呼べぬ冷たい意識。

 棘のついた甲殻は一見硬そうに見えてかなり薄い、流れる体液が甲殻の下に透けて見える。無理矢理身体を巨大にしたせいで薄く引き延ばされたような印象だ。

 いびつな蠅の姿は自然発生した生き物にしてはどこか違和感を覚える。そもそもの問題として、これ程の数の巨大蠅が生存を維持し、種を存続させる事は可能なのだろうか。人間を餌にするにしても、大量の蟲が一様にこの体躯まで成長するのは無理がある気がしてならない。モンスター、頭に浮かんだ言葉を大仰に首を振って否定する。

 そんな事は今、どうでもいい。


「なあ、お前らどこから来たんだよ」


 黒い渦、その先には何があるのだろう。この惨劇の答えはその先にあるのだろうか。

 あったとしても、納得できる気はしない。善人と言える程ではないが、拳真も文香もそれなりに「普通」の人生を送ってきたはずだ。少なくとも、こんな目に合う謂れは無い。

 事の余りの理不尽さに怒りを覚え始めたその時、首を九十度右へ左へ傾け機械的な動きを繰り返していた蠅が拳真を見止めて動きを止めた。それは拳真が蠅に「餌」と認識された合図だった。


 誰に教わるまでも無く、目前の脅威に餌と見なされたことを拳真の頭が理解した。


「うおおおおおお!」


 蠅の前脚が動いた瞬間、叫び声をあげながら飛び出した。踏み出した足は歩幅も間合いも考えないがむしゃらなもの、振りかぶった傘は武器としてはいっそ悲惨な程に頼りない。

 反射的に身を屈めると頭の上に風を感じた。


「キイイイイィ!」


 目を閉じていたわけではなかった。けれど蠅の叫び声が上がった時に初めて拳真の視覚は映像を脳内まで運ぶ事ができた。

 集中とも興奮とも違う決死の攻撃は最中での状況の把握を許さず、終わって始めて結末を伝えてきた。全てがスローモーション、顔の横を飛び散った蠅の甲殻の残骸が通過していき、自分の頭の上を鎌のような蝿の脚が通過していくのがはっきりと見えた。


「やっ......った......」


 呆然としながら呟く。

 地面では蠅がめちゃくちゃな動きでのたうち回り身体から破片と体液を飛び散らせている。その頭には持っていた傘が痛々しく突き刺さり、掌に残る手応えでようやくそれが自分の攻撃の結果であると拳真は実感できた。


「文香やっ......」

「拳真後ろ、危ない!」


 飛び込んできた文香の身体に突き飛ばされ地面に倒れこむと、立っていた場所にスライム状の薄気味悪い液体がべちゃりとついた。

 蝿が絶命する寸前に口から放ったその体液は煙を上げコンクリートを溶かしていた。


「危ねぇー、助かった」

「女の人、死んでるね」


 俯く文香の横で荒い息を整える。蠅との攻防は三十秒にも満たない一瞬の出来事であったはずなのに身体には鉛を撃ち込まれたような疲労感が残っている。次に同じ事があったとしてまた同じように死を回避できるとは思えない。


「立てるか?」

「うん」


 文香に手を貸しながら立ち上がるといよいよ頭は目前の光景を現実として受け入れてしまっていた。


「なんなんだよ、くそっ!」


 一匹倒したところで何も変わらない、どこに行けばいいかもわからず、解決の糸口さえ見つからない。

 しかし割れた窓ガラス、丁度拳真の部屋があるところから身を乗り出した蝿の姿に、考えている暇も無いと拳真と文香は走り出した。後ろから羽音が鳴る。


「巨大蠅が大量発生した時ってどうすりゃいいんだ、ゾンビの方がまだ見当つくぞ」


 百貨店に立て篭もる、マンホールの下に入り込む、どれも映画で得た知識。「学校」、文香がポツリと呟いた。


「学校?」

「うん、確か小学校にこういう時、避難する事になってた......はず、だけど」

「こういう時、ね」


 確かに二人が昔通っていた近所の小学校は災害時の避難場所に指定されていた。けれど文香の言うこういう時というのは地震とかその類のもの。巨大な殺人蠅の大量発生など想定されたものではないはずだ。


「けど、他に行くとこも思い当たらないよな」

「ここらへんの人はみんなそこに行くと思う。あと公園かな、とにかく警察の人とかいると思うし」

「そうするか」


 文香に頷き、どこを目指して入ったのかもわからない道から学校へ続く道へと方向転換。

 人が集まっているなら全員で化け物の群れに立ち向かうなんてこともできるかも知れないし、いざとなれば校舎を要塞代わりに籠城して、「くそっ」、相変わらず陳腐な予想しかたてられない頭に舌打ちしつつ、拳真は息を切らした文香の肩を抱きしめ燃え盛る街並みへ歩を進めた。



 何年か前まで良く吼える犬がいた家を通り過ぎ、交番がある角を曲がると見慣れた小学校沿いの道に入る。桜葉は素っ気なく揺れていた。

 ランドセルを背負った文香と並んでここを歩いたのはもう遠い昔。錆びついたフェンスには交通安全とかいじめ防止の標語がプレートで張りだされている。

 道路を走っていく車は速度制限ガン無視の猛スピードで、信号は役目をもう果たしていなかった。遠くで鳴った破砕音は勢い余ったどこかの車が電柱にでもぶつかったのだろう。

 こんな時なのに喉は渇く。道路の向こうの自販機に行きたい衝動に駆られたがそんな暇は無い上に小銭も持っていない。スマホが無いことに気づいたのはついさっきだ。


「あ、別にこっから入ればいいのか」


 律儀に校門まで回ろうとした所で目の前のフェンスを越えれば学校の敷地内に容易に入れる事に思い当たった。道路沿いを歩いていた二人は冷静になれば随分と間抜けだ。


「行こう」


 夏の桜の下、辺りに注意を配りながらまず拳真が中に入り、続いて文香がフェンスを越える。


「今日白か」

「サイテー」


 軽口を言い合いながら汚れをはらう。お互い目の前で死体を見た。文香の顔は蒼白になっていた。拳真の顔も同じだろう。けれどいま、その衝撃を消化する余裕が無い。

 学校のグラウンドからは、街と変わらぬ叫び声と拳銃の発砲音が聞こえていた。


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