Stand By Me

灯零

Stand By Me

目が覚めても、夜はまだ明けていなかった。

隣で何かが動いた気がしたのでそっちを見ると、いつの間に帰ってきたのか、彼が幸せそうな顔で静かに寝息を立てていた。


私は彼を起こさないようにベッドからそっと立ち上がると、壁にかけてあったダッフルコートを寝間着の上に羽織ってマフラーを巻いた。そしてポケットに音楽プレーヤーを入れて玄関まで行き、静かにドアを開けて家を出た。


十二月の夜は私から容赦なく体温を奪っていったけれど、代わりに私の存在を全て飲み込んで、日常の外へと逃がしてくれた。

川沿いの道を歩きながら見上げた空は、何処までも透明で、そこに寂しげに瞬く星たちは、綺麗に磨かれたガラスのショーケースに散りばめられた、宝石みたいだった。


ぽつんと佇むナトリウム灯の下で、ふと立ち止まって、大きく深呼吸をしてみた。吐いた息は金色に揺らめいて、やがてどこまでも続く暗闇へと溶けていった。

片田舎のこんな時間だ。車道を走る車はなく、ましてやすれ違う人なんて居るはずがない。

私は今、この場所にたったひとりで立っているんだ。そう思うと、この夜空を独り占めしたような気がして、なんだか少し嬉しかった。


私はマフラーで口元を覆い直して、再び歩き出した。

あと少し行けば、海へ出る。夜明けまではざっと二時間くらいかな。それまでは音楽プレーヤーで、お気に入りの曲でも聴いていよう。温かいココアでもあれば最高だ。確か近くに自販機があった気がするからそこで買おう。あ、でもお金持ってきてないや。


波の音が聴こえて顔を上げると、目の前には真っ黒な海が広がっていた。少しだけ空は白んできていたけれど、まだまだ暗いせいで、闇が音を立ててわたしの方へ迫って来ているように感じられた。

わたしは浜辺へと続く階段は降りずに、防波堤の上へと登った。


昔から、生きるということがどうしようもなく虚しくなることがあった。そんな時はよくここに来ていた。

海を眺めている間だけは、その感情を忘れられたから。果てしない海原を見ていると、自分がいかにちっぽけな存在で、自分の悩みがいかに取るに足らないことかを思い知らされる。

寄せては返すさざなみを、水平線に隔てられた青と蒼を、砂浜に打ち上げられた傷だらけのペットボトルを、ただ心ゆくまで眺め続ける。それだけで、私という存在が漂白されていく感覚があった。

簡単にいうとリセットだ。汚れきった、疲れきった心を一度真っ白にする。また汚れたらここへ来て、それらを再び洗い流す。

そんなふうにして心のバランスを保つ。

でも、こんなに朝早くからここへ来たのは今日が初めてだった。


私は防波堤の適当な場所へ腰掛け脚を投げ出すと、ポケットから音楽プレーヤーを取り出し、イヤフォンを耳へとあてがった。 特に聴きたい曲が浮かばなくて、シャッフルに設定しそのままポケットの中にしまった。

少しすると、軽快なリズムと一緒に聴こえてきた懐かしいフレーズが、遠くから響く潮騒の上に重なった。


『When the night has come …』


少し身震いしながら遥かな水平線へと視線を向けた。


ひとりは好きだ。

誰にも邪魔されず、海を見ていられるから。

誰にも文句を言われず、好きなように振る舞えるから。

誰にも気を使わずに、泣いていられるから。

誰にも知られず、弱い自分をさらけ出せるから。



『No, I won't be afraid…Oh, I won't be afraid…』


空に瞬く星たちが一つ、また一つと燃え尽きて、淡い蒼に消えて行く。

長い夜が、明けようとしていた。

徐々に浮き上がる街の輪郭は、昨日の帰り際に見た街とは違う。私達が寝間着から冷たい服に着替えたような、新鮮で、清潔な雰囲気をまとっている。

きっと彼らも漂白したんだ。人間達のせいで溜まった汚れや何もかもを。

そうせずにはいられなかったんだ。思わず泣いてしまうほど、目に映る世界が綺麗だから。


やっぱり、寒いなぁ。


『And the mountains should crumble to the sea…』


「I won't cry, I won't cry…」

私がそう口ずさんだ時、誰かが私の横にそっと腰を下ろしていたことに気が付いた。

隣を見て、驚きのあまり小さく叫び声をあげてしまう。

そこにはダウンを着込んだ彼がいた。一瞬面食らって呆けてしまったけれど、すぐに今の私を見られたくないという思いが込み上げて来て、慌ててそっぽを向いた。

すると彼はわたしの片耳のイヤフォンを取り上げた。

「ちょ、なにさ」

彼はそのイヤフォンを自分の耳へとあてがって、不満げな声を漏らした私に向かって微笑んだ。

「ほら、これ。寒いから」

そう言う彼の手には、私愛用のピンクと黄色のチェック柄のひざ掛けと、温かい缶のココアが握られていた。私は戸惑いつつもそれを受け取ると、ひざ掛けを下に落ちないようにしっかり脚に巻き付け、ココアを両手で包み込んだ。

彼も手のひらでココアを転がしながら、水平線を見つめている。

「起こしちゃった、かな?」

「いや、誰かさんのせいでなんか寒くて目が覚めてな。たまには散歩もいいかと思って」

「…うるさい、悪かったね」

私の返事に彼は一つため息をつくと、そっとわたしの手を握り、水平線を見据えると小さく呟いた。

「…朝だ」


『Whenever you're in trouble won't you …』


瞬間、薄暗い世界が静けさと共に崩壊した。

朱色の光線が、大空を、海原を、街を、わたしたちの間を、優しく照らしながら駆け抜けて行く。

吐く息が黄金色に変わり、波が煌めき、星屑を閉じこめていたショーケースは、欠けたパールを一粒だけ残して美しいグラデーションを描いた。

浮かんだ雲は燃えるように朱く、遙か遠くまで続いている。

「朝焼け、初めてみた。早起きもしてみるもんだ」

「…そうだね、あったかい」

そういって私は水平線を朱色に染める閃光に目を細めた。視界の中でその光が乱反射して滲んだ。それは幻みたいに綺麗だった。

私達の間に、それ以上の会話はなかった。

握りあった手の温もりだけで十分だった。


ああ、やっぱり…二人がいいや。

彼と一緒に海を見ていられる。

彼と一緒に話していられる。

彼の側でなら泣いたままでいられる。

彼になら、自分の弱さをさらけ出してもいいと思える。


私にとっての海は、私の陽だまりは、いつも傍にあるんだ。


彼はおもむろに立ち上がるとわたしの手を引いて防波堤の上に立たせた。

「よし、帰るか」

彼のその言葉にわたしはそっと涙を拭うと、防波堤を歩き出した。

「あーおなかすいた」

「お、じゃあ今日の朝飯は俺が作ろっかな」

「いいよわたしが作るから、君この前目玉焼き焦がしたじゃん」

「そうだっけ?まあ、食べられればいいんだよ食べられれば」

「はいはい、早く帰ろ」


いつの間にか音楽は止んでいた。私は音楽プレーヤーを再びポケットにしまうと、今度は私が彼の手を引いて防波堤を歩いた。


ふと、口ずさんでいた歌詞を思い出す。

そういえばさっき聴いてた曲、何だったかな。あの懐かしくて、心が温まる歌。彼と私を繋いでくれた歌。


確かタイトルはーーー。

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Stand By Me 灯零 @kurekoko07

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