百振目 美濃伝というもの
美濃伝は岐阜県美濃地方に栄えた鍛冶集団と、その鍛えた刀全般を言います。
現代では「美濃伝=関鍛冶(岐阜県関市)」といったイメージが強いかと思いますが、あくまでも関鍛冶は美濃伝の一部となります。
居住地を大雑把に分けますと、岐阜県養老郡(志津系)、岐阜県大垣市(赤坂鍛冶)、岐阜県関市(関鍛冶)、岐阜県美濃加茂市(蜂屋鍛冶)。
ついでに内部でも系統がありまして、志津(志津系、直江志津系)、金重、大和美濃(赤坂千手院、寿命、善定系)、関(兼定系、兼元系、兼房系、兼道系、兼常系、大道系、蜂屋系)。とはいうものの、志津の流れを兼定・善定の流れを兼元が継いでいるように系統は入り乱れています。
こうした範囲も広く流派も多い刀鍛冶が寄り集まり、兼+□といった名称を名乗ったものが美濃伝というものです。
そもそも美濃とは岐阜県の下半分にあたり、この美濃も西濃・中濃・東濃に分かれます。ただし、この西中東の分けは現代でも明確でないらしいそうですが……。
なんにせよ美濃伝はこの西濃地方下半と中濃地方の一部。概ね揖斐川と長良川と木曽川沿いに栄えます。
昔の事を現代の地図で考えても仕方がないため、1830年代に作成された天保国絵図なんぞを見ながら、上記の居住地を探しますと。
↓↓↓↓↓1830年代の地図↓↓↓↓↓
多芸郡の南西に位置する志津村から津屋川沿いに北西へ、
直江村から北西に行き、関が原村を経由し東へ赤道を進めば不破郡赤坂村。そこから東方向へ赤道をずっと進み、武儀郡で長良川の支流津保川沿いに関村が存在。そこから南東に赤道を進み、津保川の支流蜂屋川沿いに蜂屋がある。
といったわけで、1830年代とはいえ古地図上でみると、久瀬川(杭瀬川?)関係に志津・直江・赤坂、長良川関係に関と蜂屋がある。
↑↑↑↑↑1830年代の地図↑↑↑↑↑。
もっと古い木曽三川の資料はないかと探してみれば、江戸初期(1608)頃の濃尾平野の河道を示す資料を発見。それを眺めると美濃鍛冶が居住地を選んだ理由がなんとなく見えてきた……かも。
まず濃尾平野には網目状に存在した河川が存在しており、それがある程度まとまり木曽・長良・揖斐といった大河川になるのは1530~1590年頃。特に揖斐川は現在の支流杭瀬川こそが本川の状態。
濃尾平野の大半は氾濫危険地域。なお木曽川左岸側の尾張方面などは、どれだけ洪水があったか空恐ろしいほどの川だらけ状態。
そんな地に何故刀鍛冶が暮らしたかと言えば、作刀には大量の物資を必要としできあがった刀は販売せねばならない。だから輸送に便利な河川からは遠く離れることは難しい。
といった事を念頭に地図を見ますと。
↓↓↓↓↓1608年代の地図↓↓↓↓↓
志津の地は津屋川の近くで山際、直江は中州とはいえ他の河川より安定した牧田川の中州(輪中)。そこから東など見れば、河川が網目状に入り乱れた危険地域。
次に大垣は安定した土地で高台となっています。
ただし、そんな良い場所は先住者がいるはずでしょうし、刀鍛冶としてはもう少し川に近づかねばならず、少し北の港がある赤坂を選んだのか。
大垣から東の岐阜までは幾本もの川が網目状に存在、各務原の地付近は後に木曽川となる多数の川が放射状に広がるなど洪水氾濫地域。
安定した土地は岐阜より東、各務原の北。危険な長良川沿線を避け水運に困らない土地として津保川沿いの関が選ばれた……のかな? だから関の地には南北朝期から金重が移住していたのかも。
↑↑↑↑↑1608年代の地図↑↑↑↑↑
もちろん、様々な地理や豪族勢力、人的関係が影響し美濃伝の刀鍛冶は居住地を選んだのでしょうが、とりあえず地理を眺めると河川を安全に利用できそうな場所を選んでいるように思えます。
この美濃伝は五箇伝(山城・備前・相州・大和・美濃)の中で最も新しく、始まりは南北朝時代ごろですが、主な活躍時期と現存刀は室町時代中期以降が大半。
歴史の浅さと実用刀という事で、五箇伝中においては最も評価が低い状態です。
その歴史をザクッと覚え書きしますと次のような流れ。
1)鎌倉時代
美濃地方に刀工が存在した事は間違いないようですが、現存品は存在せず。末期頃から赤坂(大垣市)や直江(養老町)といった西濃地域に大和鍛冶が移住しだす。この頃はまだ美濃伝の基礎的な状態で大和伝が強い。
2)南北朝時代
大和ルート(兼氏系)が志津村、北陸ルート(金重系)が関村と、刀鍛冶が次々移住。刀鍛冶の名前がチラホラ出だし、現存刀もあります。鎌倉時代同様に赤坂や直江が中心で、所謂ところの美濃伝と言える程の特徴は確立されていません。
3)室町時代初期
大和伝から千手院系、手掻系が次々と移住し作風に大和風がやや強まります。この頃は赤坂付近が中心です。
4)室町時代中期~後期
中期から一般的に言われる美濃伝が形成され、鎬が柾目・地肌が板目柾目まじり・白気映りといった特徴が現れます。ここで製造された大量の刀が東海地方の武将の軍事力を支え天下統一に寄与した事は充分にありえます。
しかし、美濃伝の大半が大量生産の実用刀となったのも、それが原因かと。
兼定・兼元は始め赤坂で活動し、後に関に移住し美濃伝の中心がそちらに。
5)室町時代末期~江戸時代初期
座の解体(楽市楽座)や美濃地方の武将の移住に伴い、美濃鍛冶が全国各地に移住。これによって美濃伝が全国に普及し新刀期のベースとなる。
6)明治以降
廃刀令が出たものの、美濃においては「日本刀鍛錬所」が設立され技術がある程度残りました。しかし太平洋戦争頃は軍刀需要によって、本当の意味で粗製乱造を行い悪い意味での昭和刀(桜の花の刻印があるようなもの)を制作。
7)現代
岐阜県関市を中心に多くの刀鍛冶が存在し活躍中。でも、現地を訪れると刀の産地というわりには、パッとせず活気に乏しい。伝承館もあるものの……ちょっと設備が古めで備前の長船の里と比べると、かなり寂しい。なお、鰻丼は美味しかった。
美濃伝は大半の鍛冶が実用刀ばかり作刀しており、そのため同時代の備前伝に比べ年紀銘や俗銘が極端に少なく、大半が二字銘です。特に分業制が強く行われた事もあり、銘があっても古来の銘とは少し意味合いが違う感じ。つまり入念作や注文作以外は本当に銘のある本人が全工程に関わったのかどうか……ちょっと疑問が……。
兼定や兼元といった一部の刀匠が有名ですが、結局は備前で言えば末備前と同時代になります。それより昔の古名刀とは、そもそもの出来が違う。だから国指定の重要文化財には一本も指定されていない(市とか県の指定だけのはず)。
だから昔は「なんだ美濃物か」とか「関物ではね……」と言われたぐらいです。
評価の低さは値段にも反映されており、美濃伝で抜群の知名度のある之定ですら、在銘重要刀剣でも普通は400万に達しません。孫六兼元は350万ぐらいと、之定に一歩譲ります。大名家伝来品や有名武将所持であれば値段は高くなりますが、それでも1,000万円には届きません。
重要刀剣になっている美濃伝の大半は金重、志津、大和志津、直江志津、受領銘ありの兼定、二字銘兼元、「兼+□」は所在銘や年紀のある入念作や注文作となります。
単なる二字銘の場合は良くて特保止まりの感じ。この特保止まりの在銘「兼+□」ですと在銘でも100万前後、無銘は50万前後ぐらいでしょうか。
なかなか、評価としては厳しい雰囲気。
ただし、実戦刀ならではの凄みもありますし、品質としても一定水準を保持しています。安価に良い刀を楽しむにはうってつけといったところでしょうか。
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