七十二振目 古三原さんは南北朝

 備後国には三原鍛冶が栄えましたが、この南北朝期の作を「古三原」と呼びます。室町初期から中期を「中三原」、室町末期の戦国時代を「末三原」となります。

1)古三原

 刀工としては正家・正広が有名ですが、大半は無銘品ながら名品が多い。備後在住ながら、備州住(つまり備前)の所在銘を入れ産地偽装……もとい、販売戦略をとっています。「古」と付く古備前や古京物など平安時代や鎌倉初期ですが、古三原など一部については南北朝期と時代が新しいです。

2)中三原

 無難(平凡)な姿になってしまい、十数万振りが中国へ輸出されるなど濫造されます。単に三原と呼ばれる事もあります。この時代でも正家・正広の名が受け継がれていますが、前時代と出来は全く違います。実用的なだけの下作鍛冶として扱われます。

3)末三原

 戦国時代の需要で粗製乱造されており、美術的価値はありません。備後国三原住貝正○と銘を入れる事から貝三原とも言われます。銘には「正+○」が使われ、中には正宗と名乗った者もいまして、笑い話には正宗があると自慢され見れば三原正宗だった、というものもありします。


 というわけで、同じ三原鍛冶と言っても出来が全く違います。

 古三原は大和手掻鍛冶の三原正家が移住して来たことから始まります。

 南北朝期頃には大和の鍛冶が続々と移住しており、たとえば同じ手掻の移住者が美濃伝の基礎となっていたりもします。こうした移住が増えたのは寺社勢力が衰え鍛冶を抱えていられなくなったからと言われますが……移住者の大半が、手掻派と千手院派という状況。

 南北朝の騒乱で大和付近が騒がしくなった事もあるでしょうが、同じ大和内で勢力争いでもあったのかもしれません。

 そんな三原正家が備後を選んだ理由は様々でしょうが、備後の地に本願寺の荘園があった縁もさる事ながら、場所的に海運や交通の便が良かったという事もあったかと思われます。以後の時代は粗製乱造とはいえ、多数の刀剣を製造している点からも、それが想像できるかと。


 というわけで古三原の作風は大和系。

 ただし無銘という事もあって鑑定の幅は広く古い資料などでは、「青江に紛れる、中青江に似た、行光を思わせる、来とも思わせる、国分寺助国と共通がある、雲次・景長にある、二王清綱を連想」といった形で表現されてきています。

 実際に古三原で重要刀剣になった作などを観ますと、「重ねがやや厚く、身幅普通で小鋒。定寸で反りは浅く南北朝期の典型的な姿。刃取りをされた広直刃は白磁を思わせるように白く透明感があり、帽子は小丸に返る。肌は板目に杢目、そこに地沸地景が交じり網目状のような縮緬肌」といった感じで、肌は映りがない以外は青江かと思わせるような出来でした。

 古三原は出来が良く、昔から無銘が多いこともあって現代でも鑑定の逃げ場に使われている感じ。ただし、三原や末三原の出来が悪いものですから、それに引っ張られ評価が低い不遇さ。


 古三原の値段としては

 保存で50万、出来の良い特保で130万、普通の特保で100万、出来の悪い特保で80万。そして重要となれば250万ぐらい。同じ無銘でも正家など個銘極めの重要であれば300万ぐらいでしょうか。

 バブル崩壊後は刀剣価格が二極化して著名人気刀は高止まりで、そうでないと大きく下落。古三原は後者のため、バブル期から考えると20%から30%ぐらいの値段です。うーん、出来も良いのでお買い得。

 しかし三原や末三原はこれより更に安く、出来も……特保も危ないかな、という刀が多い。もちろん鑑定の逃げ場の雰囲気もあるため、同じ古三原でも出来の上下が激しいのですが。

 そのせいでしょうか、『普通の店』では古三原は比較的見かけますが、三原や末三原はあまり見かけない。でも『怪しい場所』では、いかにも古三原っぽく紹介された三原や末三原をちらほらと。

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