「はぁ……」


 勉強机に向かって課題の数学と格闘するも、やる気なんて一ミリたりともでなかった。


 親父の言葉、遺言とでも言うべきか迷うが、こんな事を行っていた。


『勉強と仕事は根底は同じ、自分に与えられた課題や仕事をこなす。大人になっても勉学が仕事に変わっただけで、やるべきことをこなして給料を得ることになる』


 はいはい分かりましたよ。やればいいんでしょやれば。

 めんどくせえ……。


 エルガイアに変身できても、知能だけは変わらないらしい。


「…………」


 時間はもう夜の二十二時を過ぎていた。俺は勉強机から離れて、財布を持って部屋を出る。


「ちょっとコンビに行ってくる」


 聞こえているか、そこに居るかどうかもそ知らぬまま、そう大きく言ってから玄関に向かった。すると、姐さんから『はーい』という返事が小さく聞こえてきた。


 Tシャツのまま、ポケットに財布の入ったハーフパンツの姿で、サンダルを履いて外に出た。


 夜道をしばらく歩く。


「…………」


 ここら辺でいいかな。

 一応辺りを見回してから、上を見上げる。

 電線にも引っかからないように――


「よっと」


 俺は人間だったらオリンピック選手でも出来ない跳躍をして、住宅街のマンションを軽く四階ほどまで飛び上がった。


 ベランダの壁に軽く着地して、さらに真上に飛ぶ。


 人間の状態の体でも、ここまでの身体能力が備わってきたのに気がついたのは、一週間ぐらい前、あの復讐者たちの一連の事件の直後だった。 


 数度ジャンプを繰り返し、軽々とマンションの屋上に到達した。


 このマンションの屋上は、元々作った時から誰もこれないようになっていた。つまり作った時から出入り口がない。


 だからここには誰も来る事ができない。俺のようなヤツ以外には。


「よし」


 呼吸を整え、小さく呟く。


「……変身」


 ぐきり、ごきごきごき、ぐきりごきごき――


 もうこの変身による急激な体の変化にも慣れた。苦痛も、息苦しささえ感じない。


 俺はエルガイアの姿になり、大きく息を吸って両腕を広げた。


 人間の匂い、料理食べ物の匂い。乗り物の金属やゴムやガソリンの匂い。アスファ

ルトの匂い、土の匂い、草の匂い。野生のネコの匂い……様々な臭いが一つ一つ嗅ぎ分けられる。耳も様々な音を聞きながらも、同時に闇夜のしんと張り詰めたような静寂をも聞こえてくる。


 目を凝らせば人間の肉眼では捉えられない細かな塵で、風の流れが見える。夜中なのに、遠くまで見渡せる。


 手足、体、頭。湿った風が通り抜け、体中を撫でていく。


「はぁああああああ――ふぅううううううう」


 大きく息を吸って吐く。風の匂いと同じ味がした。


 空を見上げれば、人間の目では到底見えないほどの小さな星粒の光さえ見えるようになり、満天の星空が広がっていた。


 ……気持良い。


 俺は今、体中で、全身でこの世界を視ている。

 まるで世界中のありとあらゆる物が俺に集中してくるようだ。


 世界の中心。


 エルガイアの体があるところが、世界の中心であるかのように錯覚する。

 そう、俺は今この超人の体で、この世界の全てをこの身に受けているんだ。


 人間では到底感じられない感覚。五感だけでなく第六感までもがこの快感に浸る。

 気持ち良い。


 そのまま俺は大きく呼吸を繰り返し、全身で世界を十分に感じて、その気持ちよさに酔いしれる。

 どのくらい経ったのかは分からない。体感として五分もないだろう。すぐに飽きてしまった。……いいや、もうこの快感に慣れてしまった。


 この変身直後の、人間から超人に代わったときに感じる急激な感覚の変化に、俺は確かな快感を覚えていた。


 変身を解いて人間に戻る。

 さて、コンビニ行くかな。まだ梅雨時だけど多少暑くなってきた。そろそろアイスでも買って食べるか。


 エルガイアでアイスを食べたら、どんな感覚になるのかな?


 きっとものすごく上手く感じてしまうのかもしれない。逆に、もしかしたらバニラの臭いが刺激的でさらに乳臭くて食べられないかな?


 俺は散歩気分そのままで、十二階建てのマンションの屋上からふらっと降りて、誰もいないアスファルトの道路に着地した。その際の衝撃も、微塵にも感じない。


「……ふぅ」


 そして俺は鼻歌交じりに、近所のコンビニへと足を伸ばした。

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