若き宝石職人、オルグは、天才的な技量の持ち主だった。
職人として十代にして父を越え、裕福な領主のお抱えになり、
職人たちの筆頭となって、貴人の身を飾る作品を生み出した。
幻獣をかたどった華やかな細工が、オルグの作品の特徴だった。
オルグの栄華は「星《エトワール》」を前に崩れ去った。
みすぼらしいノームの女、ナナが作ったブローチは、
オルグの作品を「張りぼての月」におとしめるほど美しかった。
オルグは絶対的な技量の差に嫉妬と絶望を覚え、胸を焼かれる。
柔らかな語り口によって綴られるのは、
欲望や負の感情に踊らされる人の儚い生涯。
オルグの醜い胸の内は、宝石職人に限った話ではないだろう。
文章を編む者、小説を書く者とて、きっと同じ。
「ものを創り出す」ことに楽しみを覚える者、あるいは、
創らねば生きていけないほどに取り憑かれている者には、
「星《エトワール》」に巡り会うことの絶望と歓喜が、
自分の身に起こり得る業として共感できるだろう。
父がオルグに常々言い聞かせる言葉だ。
「謙虚であれ。
誠実であれ。
技にひたむきであれ。」
私もそうありたいと思った。
華やかな「星《エトワール》」にはなり得なくても、
こつこつと創り続けることに絶望せず喜びを見出して、
他者の作品への嫉妬を意欲に変換して、ひとつひとつ。
小学6年生のころの国語の教科書に
陶芸家父子を描く物語単元があった。
岡野薫子さんの『桃花片』という作品で、
本作を拝読しながら鮮明に思い出した。
あのころは作品の意味がわからなかった。
わからなかったからこそ、引っ掛かり続けていた。
華やかな作品を創る息子が、年老いるにつれて、
「自分がよいと感じるものは、これではない」と思うようになる。
やがて巡り会ったその作品は桃の花びらのようにささやかで、
裏を返すと、父の烙印があった。
父の作品は華に欠けると、若いころは思っていたのに、
自分が求め続けた「何か」こそが父の手仕事だった。
小学生の私にわからなかった物語が、
今では胸に刺さるように、自分を映す物語になっている。
『エトワール』と『桃花片』、この痛みは忘れたくない。
星を巡る苦しみは、ひりひりとして美しくて、すごく好きだ。