第6話 雪の森
デューラー領への帰り道は、街道を急ぎました。山道よりも早くつけるはずです。
オルグは冷え込み始めた夕暮れ時にアロイスから渡された外套の襟首に顔を半分うずめました。
オルグが父親に別れを告げた後、アロイスが通りの端まで追いかけてきたのです。そして、外套と少しばかりの路銀をオルグに渡しました。
お師匠さまは、いつも、いつもオルグさんの話をしていました。自慢の息子だと。
オルグはアロイスが息を切らしながら語る言葉をただ聞きました。
あんなふうに、口ではオルグさんを叱り飛ばしても、心配していたんです。ノームのことを聞いてからずっと。
外套もお金も、わざわざぼくの見えるところに置いてあったんですよ。どうか、お受け取りください。
アロイスはオルグに押しつけるようにして渡すと、身を翻した。
見覚えのある外套、オルグが子どもの頃に父親が着ていたものだ。ふるぼけて、かすかに父の匂いがした。
とうさんを、よろしくお願いします。
オルグはそういうのがやっとでした。アロイスは一度立ち止まり、オルグをまっすぐ見てお辞儀をしました。
ブローチの納期は年内いっぱいだった。急げば間に合う。戻ってすべて言おう。自分が盗んだことを。そしてしかるべき罰をうけよう。
何もかも失ってしまうだろう。筆頭の地位も今まで築いた名声も。けれど、かまわないと思いました。
新年を迎える準備で忙しい人々とすれ違います。みな両手に荷物をかかえ、気ぜわしそうですが浮き立つような明るさにあふれています。
早く、すこしでも早く。新年を迎える鐘が鳴る前に。
オルグはほとんど休むことなく、デューラーへ急いだのでした。
降り出した雪は、乾いた粉雪でした。
全身を白くして着いたデューラーのお屋敷は、深夜だというのに、煌々と明かりが灯され、車寄せには何台もの馬車がありました。
新年の挨拶には気が早すぎます。
オルグはくたくたになった足で、ナナの工房の扉を叩きました。返事がありません。寝入っているのでしょう。また叩きました。
すると、隣の房から若い職人が顔を出して声をあげました。
オルグさん、どこに行ってたんですか!
職人の気迫に押され、いざとなるとオルグは口ごもりました。ナナの工房の中からは人が動く気配がありません。
納期は、納期は間に合ったのか。
職人はあきれたような顔をして首を横にふりました。
ぜんいん間に合いましたよ。ノームは最後のひとつがぎりぎりまでできあがらなくて苦労していましたが。
あれから新たに作ったのかと、オルグはナナの胆力に感服しました。
ただ、かなり無理をしたらしくて、その。
職人は言葉をにごし、しばし沈黙した。オルグは足下から底知れぬ冷えが昇ってくるように感じ、思い切って扉に手をかけました。
なかは、からっぽでした。ナナの姿も仕事の道具も何一つありません。
昨日の朝に死んだんです。働きすぎか、流行病かわからないのですが。
朝起きてこなくて、食事に呼びにいったら床の中で冷たくなっていて。何もわからない子どもが一緒に寝ていて。
では、屋敷の明かりは、ナナが亡くなったからか。
その問いに職人はまた首を振りました。
エドヴァンさまが危篤なんです。馬から落ちて。
今まで馬になんか乗ったことがなかったのに。誰にそそのかされたか知らないけど、高い馬を買ったらしくて。暴れた馬に振り落とされたんですよ。
それで、今夜が峠らしいです。ひどいことに、もうご親戚が集まって跡目争いをしているんです。
ここはもう駄目です。納品したときに最後の給金をもらました。朝になったら、職人たちはみんな出ていくと思いますよ。
自分が留守にしていたわずかの間に、デューラー家は一変していたのです。
オルグは肝心なときに逃げ出した自分を恥じました。エドヴァンさまが瀕死の重体で、ナナは……。
何かがたりない。
子どもは、子どもはどうした。ナナの子どもはどこにいるんだ。
オルグは思わず職人の肩を掴みました。職人はオルグの豹変に驚いたのか、口をなんどか開けたり閉めたりしましたが、しだいに顔をゆがめてオルグを見ました。
なにを今さら気にしているんですか?
オルグさん、ほっとしてるでしょう、目障りなのがいなくなって。
職人の肩からオルグは手を離しました。職人は肩をさすりながら、上目づかいでオルグを見ています。
みんな言ってましたよ。オルグさんはノームのことを恨んでる、自分の作品よりはるかに高く売れるし、技量も段違いだ。取り繕った顔をしてるけど、苛ただしいからいなくなればいいって思っているんだって。
オルグの憎悪は、周りに知られていたのです。外套の下にあるナナのブローチが一瞬熱くなったように感じ、オルグは後ずさりました。
ノームは奥方さまの指示で、弔いもなくその日のうちに共同墓地に埋められましたよ。
エドヴァンさまが怪我をしたはナナが死んだって騒いでいる最中でした。それを何故だかノームのせいだっておっしゃって。奥方さまは気が違ってらっしゃる。そのうえ子どもは……。
職人はそこで言い淀みました。わずかの間を置いて、言葉を続けました。
森へ捨てに行くよう、下男に命じたと。
にやりと笑う職人の顔にオルグは自分の醜い心の形を見せられたようで、思わず目を背けました。
さらさらと新雪が降っています。
まもなく日の出を迎える森の中を、オルグは懸命に子どもを探し回りました。
あれから、下男を叩き起こし子どもを置いてきた場所を聞きだしました。
大きなもみの木の下に……。泣きもせず、黙ってました。
あの大きな瞳を向けられたのだろう。オルグは雪をかき分けて道なき道を進みました。粉雪は足元をおぼつかなくさせます。時おり、くぼみに腰まではまり、水をかくように腕で雪をかき分けながら、それでも必死に木を探しました。
奥方さまは、山の中へおけば仲間がくるだろうと言って……せめてもと思って、じぶんのマントを与えてきました。
うなだれた下男は目をしょぼつかせました。オルグは足が棒のようになっていることも忘れ、また走り出したのです。
吐く息で、すでに鼻も眉も凍ったように感じます。頬は熱いのか冷たいのかもうすでに分かりません。
はやくしないと、日の出前に外は一気に冷えるのです。じょじょに明るくなる森のなか、オルグは探しあぐねました。せめてもの償いに子どもを助けに行かなければ。
おーい!! おーい……。
オルグは両手を口に当て、子どもの名前を叫ぼうとしました。そして、愕然としたのです。
なまえを知らない、と。
ナナのことに関心を持たないようにしていたからでしょうか、あるいはナナの周りすべてがしゃくにさわっていたからでしょうか。オルグは近くにいながら、子どもの名前すら覚えていなかったのです。
ああ……。
自分の妬みのあまりの深さにオルグは立ち尽くしました。雪は降り続き、ただでさえ深い森の行く手を阻みます。真珠色の光にぼんやりと包まれる中で、オルグは空を見あげたのでした。
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