第5話 逃避
オルグは走りました。着の身着のまま飛びだしてきました。デューラーのお屋敷から、できるだけ早く遠くへ行こうと。
手の中のナナのブローチは汗で濡れました。オルグは手持ちの布でそれをくるみ、上着の内ポケットに入れました。
見られてしまった。いまごろ、あの娘はナナに言いつけているだろう。
じぶんは盗人だ。盗人になりさがった。
オルグの形相をいぶかしげに見る町の人々の視線から逃れるように、街道からそれて山の道を行きました。
追っ手がくる、いや来ない、来るはずがない、もし来たならば、これはあの女から預かったのだと言えばいい。自分はできあがったブローチを預かっただけだと。
何度も何度も言い訳を頭のなかで繰り返します。オルグは半分息が上がりながら、それでも足を止めずに山道を行きました。
どこへ行くというのか。
オルグの足は知らず知らずのうちに、父の暮らす生まれた村へと向かっていました。
三日三晩、ろくに眠らず山道を行きました。のどが渇けば、木に残っている実をもいで食べました。日が落ち、月が雲に隠れ足下が見えなくなってから、木の根本で枯れ葉の山に埋もれ、わずかの間だけ眠りました。雪こそ降っていませんが、すでに冬です。朝日が昇る前の寒さに体が悲鳴をあげ起きると、また歩き出します。
そうしてやっと、生まれた村へとたどり着きました。
父親の工房は、朝もやの中、すでに煙突から煙がのぼっていました。作業をする音が、通りに聞こえていました。
声もかけず、重い木の扉を開けると、そこには禿頭の老人がいました。オルグは一瞬、目を疑いました。家に老人など居なかったはずだと。
金属を削るその老人が顔をあげました。オルグと目が合うと白い眉を片方だけ動かしました。それはデューラーの家に行ってから一度も会っていなかった年老いた父親だったのです。
オルグは膝から力が抜けて、作業場の床にくずおれました。
とうさん。
オルグは数日間、誰とも話していなかったので、声はひどく嗄れていました。
どうして、作っていられるんだ。とうさんだって、「星」を見たんだろう? なのにどうして。
オルグの父親は立ち上がると、前掛けのほこりを払い、息子の前にいきました。
デューラー領にノームの娘が来たと聞いた。
「星」は素晴らしかったろう? 美しかったろう?
顔に深い皺を刻み腰が曲がっていました。それでも炯々とした瞳でオルグを見下ろしています。
ちがう、そんなことが聞きたいんじゃない。なぜ平気でいられるんだ。あれを見て、どうしていまだに作っていられるんだ。月にすらなれない、屑でしかないものをどうして。
オルグは拳をきつく握り、ほえました。いつのまにか頬を伝う涙は、磨かれた床にいくつも滴をまき散らしました。
おまえの工房は、きれいに片づいているか。
唐突な問いかけに、オルグは泣きじゃくったままの顔を上げました。
道具は大切に使っているか。
意匠の
オルグは父の工房を見渡しました。道具は作業する机のまえにきちんと大きさ順に並べられ、素描を綴った紙の束は背表紙を作り、本棚に置かれています。
宝石は、確かめなくとも父がいちばん厳重にしまっていたことを子どもの頃から知っています。
対して自分は。
気の赴くままに作り続けていたオルグの工房は、散らかったままでした。道具は粗略に扱われ、材料も宝石も雑にしまっていました。
ナナの工房は片付いていた……。
顔を洗え。アロイス、こいつに水と食事を。それから奥で寝かせろ。
呼ばれると、十五六の少年が現れてオルグに肩を貸してくれました。背は高いけれどまだ幼さの残る、丸顔の人なつっこい犬のような少年です。
オルグは泥だらけの顔を井戸で洗いました。そしてそこで意識が途切れました。
オルグが目を覚ますと、まだ朝でした。
違います。まる一日、眠っていたのです。ベッドの横の椅子にオルグの上着が掛けられていました。あわてて確かめると、ナナのブローチはちゃんとありました。
ほっと息をつくと、オルグの気配を察したのでしょうか。父親が無遠慮に扉をあけました。
飯を食ったら、帰れ。ここには居場所はないぞ。その寝床もアロイスのものだ。
ぶっきらぼうに言い渡して出ていくのと入れ替わりに、アロイスが湯気のたつ椀を盆にのせて部屋に入ってきました。
お食事、召し上がってください。お口にあえばいいのですが。
人好きのするような笑顔でオルグの前に置きました。
オルグは食べました。二度お代わりをして、空腹を満たしました。
あなたさまは、お師匠さまの息子さんですよね。お話はいつも伺っておりました。ぼくはアロイスです。三年前に弟子として雇っていただきました。オルグさんの竜に憧れて。
オルグは匙をすくう手を止めました。竜?
十五のときに作ったのものだとお師匠さまから伺いました。ぼくは十七になるのに、とうてい追いつけないほど素晴らしくて……。
無駄口は叩くな。お客さんがおいでだ、茶を出さんか。
父親の怒鳴り声がしました。アロイスは怖がるふうもなく、ぺこりと頭を下げると部屋を出ていきました。
食事を済ませた椀をもって出ると、アロイスがすぐに受け取りに来てくれました。客が帰った作業場で、父親は素描をしていました。小さな金の指輪がその前にあります。
娘さん用に手直しして欲しいと言われてな。
金の指輪は、父親がいつも作っていた典型的な意匠でした。宝石を使わず、金と銀だけで編みこむようにして作ってあります。
お前からすれば、変わりばえしない、つまらないものだと思うだろう。
父親は手元の紙に新しく宝石を描き加えていきます。娘さんの婚礼用でしょうか。先のとがった鉛筆を、ていねいに慎重に動かします。
今までつまずいたことのない、お前のことだ。ノームの手業を見て、打ちのめされたろう。
オルグは言い返す言葉もなく、父を見つめました。
わたしが言ったことを覚えているか。
しばらく思いだしもしなかった父の言葉を、オルグは思い出しました。
謙虚であれ。
誠実であれ。
技にひたむきであれ。
父はまたオルグに言い聞かせました。
今でも目に焼き付いている。忘れることなどできはしない。絶対的な美しさをまえにした嫉妬と羨望、己の惨めさを味わったことは。
けれど、ほかに何ができる? 畑を耕すことも、馬に乗って剣をふるうこともできはしない。
ただ、作ることに没頭しているときだけ、醜い炎を忘れることができる。
星を生み出せないならば、せめて作り上げることに、謙虚に誠実に……ひたむきにありたいと思うではないか……。
オルグは目を見開き、父を見ました。
父だとて、乗り越えてはいないのだ。あの焼けつくような思いを胸にいだいているのだ。
わたしの手はもう、ろくに動かない。見ろ、こんなにふるえる。細かいものもよく見えなくなってきた。
父親は鉛筆をはなすと、オルグに手を広げて見せた。油気が抜け、傷つき皺だらけになった手は細かくふるえていました。
弟子のアロイスはわたしの言葉をよく聞く。わたしの技をよく学ぶ。きっとよい職人になる。
わたしは、おまえが羨ましく思った。あの竜をみたときに。十代にして、すでにわたしの技量を追い越していた。
父親はわずかに視線を動かした。その先には、小さな竜が飾られてあった。鱗の一枚一枚まで精巧に作られ、翼を広げた竜は今にも飛び立ちそうだった。
うれしくもあったよ。おまえならば、星に手が届くかも知れないと……。
天与の資を守り育てることがなんと困難なことか。
父親はため息をついた。
アロイス、お客さまのお帰りだ。
奥からアロイスが手を拭きながら出てきて、オルグと父親を交互に見比べました。
もうお立ちですか? まだお休みになられた方が。
アロイスが戸惑いながら二人に声をかけましたが、父親は首を横に振りました。
これにはやるべきことがある。
お前のその星の出どころは聞かない。取り急ぎご領主さまのところへ戻りお前のなすべきことをしろ。
オルグはとっさに上着の胸を掴みました。
父親は見たのです、ナナのブローチを。
二度と会うこともないだろう。わたしの
オルグは涙で父親がにじんで見えました。
どれほど大切な言葉をかけられてきたのか。驕っていたオルグには今の今まで分からなったのです。
父親もまた、目を赤くしていました。
オルグは父親に深く頭を下げて、生まれた家を後にしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます