第2話 ノームの娘
オルグが領主デュ―ラーのお抱え職人の筆頭として勤め、二十年ほどたった頃です。
デューラー家のご長男が療養先から帰ってきました。デューラーの家には二人の息子がいました。
兄ぎみは病弱だったため、暖かい海辺の別邸で長らく養生していました。
弟ぎみは都で学問を修め、父親の片腕として働いておりました。
家族と離れ、療養していた息子から妻をめとったと突然の手紙がありました。館のものたちはどよめきました。ご長男がご実家を離れてすでに十年以上が経っていて、なかば捨て置かれたような立場だったからです。けれど所帯をもったことを機会に館へと戻ってくることになりました。急遽、敷地に離れが作られました。
そして長男のフィリッツは帰宅しました。赤ん坊を抱いた小さな妻を伴って。
出迎えた皆は言葉を失いました。
フィリッツが妻に選んだのは、ノームの娘だったのです。
枯れ葉のような肌の色、ひくい鼻にこぼれるかと思うほど大きな茶色の瞳、ちぢれた黒褐色の髪は背中を覆っています。ヒトの子どもぐらいの背丈で、出迎えた皆をおどおどと見上げました。
母親である奥さまと父親であるご領主さまは、あからさまに顔をしかめて屋内へ戻っていきました。
残された弟ぎみのエドヴァンと使用人は戸惑いました。
ノームの娘は赤子を抱いたままでうつむいてしまいました。フリッツは娘の肩をだくと、新居である離れへ連れて行きました。そのあとをエドヴァンが追いました。
『取り替えっ子』と言われていたから。
ひとりの職人がそう言うと、みなうなずきました。
オルグも一緒にうなずきました。
幼いころのフィリッツといえば、朝から晩まで館の庭で上機嫌で歌っていました。歌はまるででたらめな、聞いたこともない言葉と節回しでした。
かと思うと、庭の茂みの下に潜り込んで、地面を行く蟻や蝸牛を飽かず見つめたりしていました。
そしてその後はお決まりのように熱を出して寝込むのでした。
金糸のような細い髪に、青い湖の瞳をしたフィリッツは淡い色彩で描かれた絵画のようで、どこかこの世の人ならぬ雰囲気をまとっていました。
デューラーのご長男は、姿はよろしいけれど、おつむりが少しばかり足りぬようだ……人々は噂しました。
領主さまは身近にいて誰よりもフィリッツさまをわかっていたのでしょう。
フィリッツが十になるころ、見限りました。跡継ぎは弟ぎみのエドヴァンと早々に決められ、フィリッツは海辺の別荘へ置かれました。
オルグはノームに出会うことに、恐れと関心を半分ずつ持ってきました。しかし初めて見て肩透かしを食らった気分になりました。
なんてちっぽけなんだろう。
それが最初に感じたことでした。
地の中に住んでいると聞くが、そのままの姿だと。服はくすんだ色でなんだか泥まみれに見えます。ヒトよりも犬や山猫に似ているように思え、虫でも食べるのではないか、とさえ勘繰ってしまいます。
手先が器用だと聞いてはいますが、少なくともフィリッツの妻は、なにも作れそうにないとオルグは思いました。
なにより、ノームの女になにができるのか。
オルグはノームを妻に選んだフィリッツの気が知れないと首を横に振るのでした。
それは、屋敷に住むもの皆が思ったことだったのかも知れません。それでも、ささやかな離れでフィリッツとノームの娘は暮らし始めました。
フィリッツはすっかり健康を取り戻したらしく、子どもを抱いては屋敷の庭を散歩しました。あの、わけの分からぬ歌を口ずさみながら。
身の回りのことは、ノームの娘がしているようで、小さいからだで洗濯をしたり、炊事をしたりするのを見かけました。ときおり笑い声や歌が工房の長屋まで聞こえました。
母屋の両親や弟ぎみが訪れることもなく、三人は屋敷の片隅でひっそりと日々を重ねていきました。
そのうち職人たちはフィリッツ一家のことを気にかけなくなりました。
ちょくせつ自分たちにはなんら関わりはなく、つまりはご領主さま一家のことなのだからと。職人たちは言いつけられるままに仕事をこなしていきました。
オルグは華やかな指輪や首飾りを作り続けました。注文は相変わらず、ふるようにあります。高貴なご婦人方の胸元や指を飾るために宝石は惜しげもなく使われ、高値で取り引きされました。
あるとき、離れに大工が出入りを始めました。
子どもも歩き始め、離れが手狭になったのかもと皆は気にもとめませんでした。
そして、それは不意にやってきました。
ある日、いつものように仕上がった品物をご領主さまとエドヴァンさまの前にオルグが持ってあがったときです。
ご領主さまは黒い布張りの浅い箱に納められた品を一つ一つ見あらため、慎重に値を付けられていきました。もちろん、オルグの作ったものには誰よりも高い値が付けられました。
そのときです。扉がノックされたかと思うと、フィリッツが部屋に飛び込んで来たのです。
場違いな騒々しさで、これを見て欲しいと手の中の布包みを差し出しました。
ご領主さまとエドヴァンさまが迷惑そうにそれを覗き……そのまま足が床に釘で打ち付けられたように動きを止め、目を見開いたまま無言になりました。
ああ、あなたもどうか見てください。ようやく工房ができたので私の妻、ナナが作ったのですよ。
フィリッツは無邪気に笑ってオルグを呼びました。
ご領主とエドヴァンは案山子のように突っ立ったままです。
大工は工房の工事のために通っていたようです。ナナが使うための。
オルグはざわめくものを感じながら立ち上がると、先の二人のようにフィリッツの手の中を見て息を飲みました。
そこには、『
いえ、違います。それは蜘蛛を
左右四本ずつの足は金の針金に塵のような金剛石がまぶされ、光を弾きました。雫のかたちをした胴体はエメラルドと黒曜石で横縞が作られ、細かい紅玉を何十にも集めて作った眼には明かりが吸い寄せられていくようでした。そしてその蜘蛛は水晶が細く削られた巣のうえで煌めいていたのです。
不気味なはずの蜘蛛が、本来の姿は宝石でできているのだと知らしめるように。
オルグは息をするのも忘れました。いいえ、時間が過ぎることも、自分に体があることさえ忘れそうになりました。
まるで星空にほうりこまれ、目の前の星の明るさにただ呆然としているようでした。
こ、これは……。
ご領主さまは、それきり何もおっしゃいませんでした。
弟ぎみのエドヴァンの喉がごくりと鳴りました。そして、つかえつかえ言いました。
こ、国主さまのご側近あてに書をしたためます、と。
嬉しそうに微笑むフィリッツのまえでオルグは乾いたまぶたをぎこちなく閉じました。
箱の中の自慢の品々は一気に色褪せ、すべてが石ころにでも変わってしまったように感じました。
オルグは完全な敗北を、人生で初めての完膚なきまでの敗北を味わいました。
そして、ナナが作った蜘蛛は、夜会で国主さまの奥方の胸に飾られたのでした。
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