2. 黒い矢羽根 -An Omen of Disturbance- (2)

「だいぶ、お疲れのようですね」

 フィルたちは日が暮れる前に森に帰ってきていた。宿に戻って夕食を摂った後、パピスが訪ねてきた。

「はい」レティシアが小さく微笑んだ。「あまり森に慣れていなくて。目的地に着くまでで、もう一苦労でした」

「そうですか」

 パピスは穏やかに微笑んだ。

「たしかにルサン育ちですと、森に入る機会もそうはないでしょう」

「はい」

 ラケシスが頷いた。彼女はすでに鎧を脱いで、柔らかそうな麻のシャツに着替えていた。フィルが思っていたより、女性的な柔らかみを帯びた体型だった。

「途中でマンティコアにも会いました」

「あら」

 パピスは目を瞬かせた。

「彼はあまり人間の前には姿を現さないのですが」

「そうなのですか?」レティシアは少し目を細めた。「マンティコアは人肉を好むそうですが」

「ええ、そうですね」パピスは鷹揚に頷いた。「でも、この森の中にいる限り、悪さはしませんよ。彼も、今の役目に満足しているようですし」

 自信たっぷりにパピスは言った。妙な確信があるように見えた。

「森の中の湖ですが……」

 フィルはパピスの目を見て訊いた。

「あそこには何かあるのですか?」

「何か、とは?」

 パピスは表情を変えずに訊き返す。

「その、特別な何か、です。昨日案内していただいた、聖地のような。人間と幻獣に関する、大事な場所であるとか」

「ああ……」パピスはゆっくりと頷いた。「そういう意味では、特別な場所ではありません。ただ……」

 パピスは薄く微笑んだ。

「あの湖には、そうですね、森の主、とでも言ったら良いでしょうか。一頭の幻獣が棲んでいます」

「森の主?」

「ええ。と言っても、幻獣たちは人間のように一緒には暮らしていません。取りまとめのようなことはしませんから、村長のようなものとは違います。ただ単に、他の幻獣から一目置かれている、という程度の話です」

「それは、何なのですか?」

「ドラゴンです。それも、遙か昔、人間が生まれる以前からこの地に棲んでいる、古代竜です」

 即座に答えたパピスに、フィルは目を見開いた。レティシアもラケシスも咄嗟には言葉が出ないようだった。

「白妙の竜姫、と呼ばれています」

「白妙の竜姫……」

「ええ。湖の真ん中に小さな島が見えたでしょう? 彼女はその島の中にある、洞窟に棲んでいます。滅多に外に出てくることはありませんので、私たちがその姿を目にする機会はほとんどありませんが」

 パピスは丁寧な口調でそう説明した。

「だから、あの湖には生き物がほとんどいないのですか?」

「ええ。と言っても、別段彼女が全部食べてしまうとかそういうことではないですよ。ただ、畏れ多いとでもいうか、何となく近寄りがたいと感じている生き物は多いようです。私たちも、極力湖には近寄らないようにしています」

「え……」レティシアが頬を歪めた。「私、湖の水を飲んでしまったのですが……」

「大丈夫です」ころころと笑いながらパピスは言った。「ドラゴンはそんなことを気にしません」

「そうですか……」

 レティシアはそう言って、胸をなで下ろした。

「穏やかなドラゴンなのですか?」

「さあ……」パピスは首を傾げた。「少なくとも、今までここの村人が襲われたことはありません。不用意に近づかなければ、危害を加えてくることはないでしょう」

「そのドラゴンが、幻獣たちの代表なのですか?」

「代表?」

「その……、この村と幻獣の関係を構築するにあたっての」

 フィルは考えながら訊いた。

「この村と幻獣は、不思議な関係が成り立っています。人間たちが幻獣を守り、幻獣はまるでその見返りを与えるかのように、聖地に死骸を運ぶ。まるで、契約を結んでいるかのようです。その、人間同士のように」

「分かりません」

 パピスはゆっくりと首を横に振った。

「幻獣たちの間でどのような合意が為されているのか、私たちは知りません。契約書などがあるわけではないですからね。ただ、ずっと昔から、それこそ妖魔聖戦の頃から、この関係は維持されています。村人は森を巡回し、邪な密猟者から幻獣を守り続けています。そして幻獣は命を失った際に、その命をもって人間に報いています。彼らの仲間たちを守り、安心して子孫を残せるように。そしてこの小さい村は、莫大な収入を得ている。それが保証されているから、村人は守り続ける」

 滑らかな円環のようだった。村人と幻獣、双方にとって価値が大きい協力だ。まるで、誰かに仕組まれているかのように。

「何て言うか、すごいですね」

 ラケシスが感極まったように言う。

「ええ」

 パピスは片目だけを器用に閉じた。少女のような仕草だった。

「私たちはウォーキナーマという仕事に、誇りを抱いています。彼らが安心して暮らせるように……」

 口元を緩めてパピスはそう言った。その顔を見て、フィルは森の中で見たものを思い出した。

「そういえば、森の中に矢が刺さっているのを見ました。まだ新しいようでしたが」

「矢?」パピスは目を細めた。「どこでですか?」

「湖の北側です。黒い矢羽根で……」

「なんてこと!」

 パピスは呻いた。

「ポーチャが入り込んでいるようですね。私たちは森で狩りをしませんし、ウォーキナーマたちが使う矢はすべて矢羽根が白いのです」

 パピスは目を閉じた。唇がわなわなと震えている。

「やはり……」

「フィル、貴方、分かっていたの? あの矢がポーチャのものだって」

「たぶん村のものじゃないだろう、とは」

 フィルは頷いた。

「間違って射ちゃうこともあるからね。狩人同士で怪我させちゃうことも時々あるんだ。幻獣と獣じゃ、余計紛らわしいから……。森の中で狩りをしたら幻獣を間違って怪我をさせてしまうかも。そうしたらこの村と幻獣の関係が崩れてしまう」

「なるほど」

 ラケシスが目をキラキラさせながら頷いた。

「フィル君、頭良いんだね」

「いや、そんなことは……」

 フィルは壁に掛かった絵を見ながら言った。

「お教えいただきありがとうございます」

 パピスが厳しい顔で言った。

「明日から、ウォーキナーマの巡回を強化させます。見つけ次第、早急に確保しましょう」

 確保したあと、ポーチャたちはどういう扱いになるのか、フィルは少し気になった。ルサンやトラムだったら、警邏に引き渡して牢に入ることになるが、この村でも同様だとはとても思えなかった。

「ところで」

 ラケシスは緊張した面持ちで訊いた。

「どうして、私たちには協力してくれるのですか?」

「どうして?」

 パピスは首を傾げた。

「その……」ラケシスは一瞬言い淀んだが、視線を強めた。「結局、私がやろうとしていることって、ポーチャと大きくは変わらないのではないかと思うんです。森で暮らしているペガサスを連れて行こうとしている。そう考えると、この村の立場からすると、私たちに協力する理由はどこにもなくて、むしろ止めようとするのが自然なのではないかと」

「なるほど」

 パピスは唇を片方、持ち上げた。

「貴女は誠実な方ですね。私欲に拘泥せず、正しくあろうとしている」

「騎士として、当然のことです」

 ラケシスは胸を張って言った。

「私たちは、民を守るためにいるのですから。この村が幻獣とともに暮らしているというのならば、それも含めて国民と考えるべきでしょう」

 ラケシスの言葉に、パピスはほう、と息を吐いた。

「驚きました。ルサンの騎士からそんな言葉が聞けようとは、考えてもみませんでした」

 パピスは一度微笑んだあと、すぐに真面目な顔になった。

「村の人間が貴女たちに協力している理由として、もちろん、貴女が騎士だということがあります。こんな田舎の村ですがルサンという国の一員だという意識は一応ありますから。それと、現実問題として、幻獣から得たものを売らないといけないということがあります。高価なものだとは言え、買ってくれる取引相手がいないと、村では役に立たないものばかりですからね。その交易ルートの確保という点に於いても、騎士団との関係は重要だと考えています。それに、貴女はトーカブルですから。まだ若くとも優秀な騎士なのでしょう? そういった方々と良い関係を築いておくのは、商売をする上でとても重要です」

 パピスは少し口元を緩めた。

「第二に、デンババ導師からの紹介だったということがあります。彼はこの村の出身で、村のことをとてもよく考えてくれています。実際、村に害なす者を紹介されたことは、今までに一度もありません。彼からの紹介状を携えて来た、ということは、村にとっては信頼に足る人物である、という証なのです」

 ラケシスは少し不思議な顔になったが、何も言わなかった。彼女とデンババは一度顔を合わせただけだ。フィルも同様だし、レティシアとて、親しそうには見えなかった。

「そして、最後の理由なのですが」パピスは悪戯っぽく笑った。「ペガサスを無理矢理連れ去ることなど出来ません。少なくとも、騎獣とすることなどは」

「はい。それは、デンババ導師からも言われました」

 ラケシスは神妙に頷いた。

「その、それからずっと考えているのですけど。どうすれば、ペガサスに乗せて貰えるのでしょうか?」

「私には、ペガサスが何を考えているのかは解りません」

 パピスは首を振った。

「とは言え、貴女はこの村まで馬に乗ってきたのではないのですか」

「あ、はい」

「ペガサスも馬も同様ですが、彼らはとても臆病です。基本的に戦うことを好まない。とても穏やかな生き物なのです」

 青馬の部族の村長は、無表情にそう言った。

「貴女の愛馬は、なぜ貴女を乗せてくれるのですか?」

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