幻獣の森の経済学者 -The Environmental Economics for Legendary Creature-
2. 黒い矢羽根 -An Omen of Disturbance- (1)
2. 黒い矢羽根 -An Omen of Disturbance- (1)
「気をつけないと迷っちゃいそうだね」
村に着いた翌日、フィルたち三人は森に入っていた。ジルは一緒に来ているが、馬は村に預けてある。森の中では小回りが利かないし、幻獣に襲われる可能性もあるからだ。
「気をつけてても迷子になるよ」
村で貰った地図に目を落としながら、フィルはそう言った。木漏れ日が地図にかかって、少し見づらかった。
「え!?」
「でも、来た方角だけちゃんと覚えておけば、なんとか帰れるから」
フィルは視線を上げてそうラケシスに笑いかけた。
「それが判るなら、迷子と言わないのでは?」
レティシアが平板な声で言う。フィルは曖昧に笑い返した。
「まあ、そうかもね」
「つまり」ラケシスが難しい顔で言った。「方角を覚えておくことが重要ってことだ」
フィルたちは村のウォーキナーマが普段巡回しているルートを辿っていた。獣道よりはマシだが、大見得切って道と呼べるほどの整備はされていない。レティシアとラケシスは木の根に足を取られたりして、しばしばバランスを崩している。特に軽装とは言え鎧を着こんでいるラケシスは、かなり歩くのに苦労しているようだった。フィルとレティシアはいつもの、学院のローブだ。
「ねえ、フィル君は黒鴉の民の村の出身なんでしょ?」
ラケシスが訊く。声はまだ元気そうだった。
「うん」フィルは後ろを見ないで頷いた。「親父は猟師だったんだ」
「じゃあ、なんで魔術師になろうと思ったの? 親の後を継ごうとか思わなかった?」
「うーん」
フィルは首を傾げた。
「なんでだろう。でも、全然考えもしなかった。兄も二人いたしね。村だとあんまり、後を継ごうとかそういうのはないかも」
フィルの二人の兄も猟師にはなっていない。フォクツやウィニフレッドもルサンに来ているが、父親は木こりだ。それでも、なんとなく村の中で世代ごとに役割分担がされるので、村全体として困ったことにはならない。そもそも、フィルたちのように村の外に出る若者も多い。そうしないと職にあぶれてしまうからだ。
「へえ」
「多分、私塾の講師の印象が強かったのかも。やっぱり、目の前で魔法を見せられると、凄いなって思ったし。フォクツもそうだったんじゃないかな」
「そっかぁ」
ラケシスは感心したように言った。
「ラケシスさんは、元々騎士の家系なんだよね?」
「うん」
ラケシスはつまらなさそうに言った。
「ずっと、先祖代々。と、言ってももう没落も良いところなんだけど」
「……へえ」
フィルは曖昧に頷いた。境遇が今一つ実感できない。村には、没落という言葉が使えるほどの金持ちはいないのだ。
「そんなことないでしょ」レティシアが少し強い調子で口を挟んだ。「ハインケス家は妖魔聖戦の時から続く名家よ」
「いやいや」ラケシスは右手をぶんぶんと振った。「もう、何にも残ってないよ。名前だけ」
ラケシスはそう言って、深い溜息をついた。
「親父殿とかは、他国や妖魔から国を守るのが誇り高き騎士の役目、って偉そうに言ってるけどさ。ルサンが外敵に襲われたことなんて、もう何十年もないんだよ。ただ飯食らいも良いところ」
「そんなことは……」
フィルは首を傾げた。
「優秀な騎士団がいると思われているから戦争や侵略を受けないってこともあるんじゃないかな」
「そうかもね」
ラケシスはそう言って微笑んだ。
「とはいえ、名前しか残っていないってのは本当の話。うちは家系的に商才が無いのか、暮らしはどんどん厳しくなってくし……。節約しようにも、曲がりなりにも騎士ともなると馬とか武装とかお金はどんどん飛んでいくの」
妙に明るくラケシスは言った。けれど、レティシアが何も言わなかったので、フィルは少し意外に思った。
「そんなわけで小さい頃から、私は騎士になるものだ、と思ってきたの。まあ、私としても憧れる気持ちがなかったわけでもないし。それで、念願叶って天馬騎士団に入れたと思ったら……」
そう言って、ラケシスは両手を大きく広げた。マントがふわりと舞う。
「まさか、こんな森の中を彷徨うことになるとは、ちょっと予想していなかったなあ。ペガサスに乗って飛び越えていくイメージはあったんだけど」
「気持ちよさそうね」
レティシアが小さく微笑んで言った。
「どうしてラケシスさんは、天馬騎士団に入ろうと思ったんですか?」
「どうしてって言うか……」ラケシスは首を傾げた。「ルサンの騎士を目指している人って、ほとんどそうだと思うよ」
「騎士団の花形だもの。優秀な人しか配属にならないわ」
レティシアは呆れたように言った。軽く眉をひそめている。フィルにルサンのことを教えるときは、よくこの表情になる。
「街の人にも憧れている人は多いし。騎士団の中でも出世頭なの。配属になるのは本人が優秀なのはもちろん、名家の出身かトーカブルの人ばかり。本当に一握りの優秀な人だけ」
そういえば、この間亡くなったレティシアの父親は騎士団の要職に就いていたな、とフィルは思い出した。
「それに、空を飛ぶって気持ちよさそうじゃない?」
「そうだね」
フィルはにっこりと頷いた。
「えっと……」
分かれ道に差し掛かり、フィルたちは足を止めた。道が二通りに分岐しているが、木々が茂っていて、左右どちらとも見通せない。
「どっちかな?」
「多分右側だね」
フィルは地図を一度確認してから言った。
「ペガサスは森の北側にいるって言ってたから。まずはこの湖に出よう」
「そうだね」
ラケシスも地図を覗き込んで頷いた。ウェーブした金髪がフィルの頬をくすぐる。少し汗の臭いがした。
森の中を一列になって進んでいく。午前中の空気は澄んでいて、時折さわやかな風が通り抜けていく。少女二人の髪がキラキラと木漏れ日を反射していた。
フィルは前を進むラケシスの後ろ姿を見た。重い鎧を着ているはずだが、背筋を伸ばししっかりした足取りで進んでいる。レティシアと比べ明るくて親しみやすい印象だが、ふとした拍子に騎士らしい気品が見えることもある。
「ん?」
ふと気が付くと、足下にジルがすり寄ってきている。雌だとラケシスが言っていた。知性を司る赤狐の部族の眷属らしく、深く落ち着いた瞳をしている。アスコットは精悍な印象だったが、ジルの方には可愛げがある。
「あ!」
先頭を歩いていたラケシスが弾んだ声を上げた。
「湖だ!」
唐突に森が途切れ、湖が広がっていた。周囲が一気に明るくなったようだった。雲一つない大空が視界を埋め尽くす。
かなり広い湖だった。向こう岸も森に覆われている。湖の真ん中辺りには、岩がちな小島が頭を出している。
「綺麗……!」
レティシアがゆっくりとしゃがみ込み、水の中に手を差し入れる。一度、水をかき回してから手ですくい、口に運んだ。
不自然なほどに綺麗な水だった。湖底まで完璧に見通せる。まるで、水が無いかのようだった。湖の中を見渡してみても一匹の魚もいない。湖底にも、水草や苔がほとんど生えていなかった。虫や蟹の類もまるで見当たらない。
「これは……」
フィルは息を呑んだ。異様な光景だった。豊かな森の中に、こんな無色の地帯が広がっているとは、夢にも思わなかった。
父親が言っていたことを思い出す。湧き水が綺麗なのは、中に棲む小さな生き物が少ないからだと。川となって流れ、池や沼になり水が濁ってくると、小さな草や虫などの生き物が増えてくる。すると、それを食べる魚も寄って来る。そして、それを狙う獣も。
しかし、この大きさの湖がここまで綺麗なのは、とても考えられなかった。空を見上げる大地の瞳のようだ。
「言われてみれば、たしかに……」
フィルが違和感を説明すると、レティシアは腕を組んだ。
「え、毒とかじゃないよね?」
ラケシスが、少し腰が引けたように言う。さっき、湖水に口をつけてしまったレティシアがさっと青ざめた。
「変な味がした?」
「……いいえ」レティシアは首を横に振った。「美味しかった。フィルも飲んだら?」
「遠慮しとくよ」
フィルは首を振った。レティシアが鼻から息を吐いた。
「まあ、気にしても仕方ない!」
ラケシスが明るく言った。
「ペガサスはこの反対側にいるんでしょ?」
「うん。多分ね」
「じゃあ行こう。こんなところで道草食っていてもしょうがない」
湖畔の道を三人で進んで行く。しばらく歩いたが、水辺だというのに、鳥も獣もまったく姿を見せない。森の中とは思えないほど静かだった。
三人と一匹の足音だけが湖の表面を波立たせる。静謐な空間を荒らしているような気分になった。木々のざわめきすら、抑制され、調和しているように感じる。
「あっ!」
ラケシスが突然立ち止まった。進行方向に右手を上げる。
「あれ!」
彼女が指す先を見ると、白い物がいくつか空に浮かんでいた。雲が浮かぶ高さではない。ゆっくりと移動している。この距離で動いているのが判るのだから、実際にはかなりの速度だろう。
「ペガサスじゃない?」
たしかに、鳥のようには見えなかった。レティシアはフィルの方を向いて頷く。そして詠唱を始めた。すぐに呪文は完成した。視力を増強し、遠くを見る魔法だ。
「たぶん、そうだと思う。六、七頭はいるかな」
右手で目の上に庇を作りながら、レティシアは対象を確認した。
「多分?」
「ペガサスをちゃんと見たことがないから。でも、馬に羽が生えているように見える」
「じゃあ、そうでしょ」
「でも、グリフォンとかヒポグリフとか、他の幻獣かも知れないし……」
レティシアは生真面目な顔で言った。
「幻獣の森だから。騎士団の中とは状況が違う」
「そっか。そうだね」
ラケシスは小さく微笑んでこくりと頷いた。
「遠い?」
「そんなには。森の外ではないと思う」
レティシアが言う。
「あ、下りそう」
フィルからでも高度が下がっていることは確認出来た。やがて、木に紛れて見えなくなる。
「どの辺に下りたか解る?」
「ちょっと、解らない。距離がうまく掴めなくて……」
「そっか……」
ラケシスは一度肩を落としたが、すぐに顔を上げた。
「まあ、方向はこっちで正しいってことだ!」
「そうね」
ラケシスが先頭に立って、歩みを再開する。湖を半周したところで、三人はまた森の中に入った。時間はまだお昼前。慣れていない森にしては、予定より順調に進めているようだ。
「この辺に棲んでいるって話だったよね?」
「うん」フィルは頷いた。「とはいえ、一カ所に留まっているってこともないんじゃないかな」
「そっか。そうだよね」ラケシスは頷いた。「幻獣って言ったって、ご飯食べないといけないだろうし」
「ペガサスって、どういうところにいるものなの?」
レティシアが首を傾げる。フィルも同じ角度に首を傾けた。
「さあ。幻獣の生態まではちょっと知らないけど」
「野生の馬だったら?」
「ううん……」
フィルは首を逆方向に捻った。
「そもそも、森にいないんじゃないかな。草原とかの方が……」
「……なるほど」
ラケシスは神妙に頷いた。
「そりゃそうだよね。森の中じゃうまく走れないもんね」
斜め上を見ながらラケシスは言った。
「ペガサスなら空を飛べるから関係ないのかな?」
「ペガサスって何を食べるの?」
「え?」ラケシスは少し目を見開いた。「普通の馬と変わらないと思うけど。少なくとも、天馬騎士団にいたペガサスたちは同じだったよ。葉物とか果物とか」
「そうなんだ……」
馬は草や野菜、果物を食べる。森の中だと餌は豊富そうだった。逆に、どこを探せばいいのか判らない。
「適当に歩き回るしかないかしら」
「足あととかは? って、空を飛んでいるんだよね……」
「まあ、ずっと飛んでるわけじゃないだろうから。一応、気をつけて見てみよう」
フィルは控えめにそう言った。地面を見てもそれらしきものはない。見分けられる自信はまったくなかった。猟師の父親だったら出来るのかもしれないが……。
位置を見失わないように、森の中を適当に歩き回ってみる。しかし、ペガサスらしき姿は見つからない。時折、大型の獣やリンクスも遠くから見かけたが、すぐに離れていってしまった。
その姿を見かけたのは、陽が天頂高く登った頃だった。
「ひゃっ!」
獣道を歩いている最中、突然最後尾のレティシアが高い声を出した。
「ティア?」
「見ない顔だな」
低くしゃがれた声がする。フィルが振り返ると、レティシアのすぐ近くに、赤い獣が一頭、四つ足で立っていた。まったく、接近に気が付かなかった。
異形の獣だった。獅子のような身体つきだが体毛は赤く、黒い皮翼と蠍のような尾が生えている。そして、何より老人のような、しわくちゃの顔が異様だった。
「……マンティコア!」
「いかにも」
レティシアが押し殺した声で叫ぶ。鷹揚にマンティコアは頷いた。にたにたと笑っているように見えた。
「ウォーキナーマの者ではないな。しかし、幻獣を狩りに来たようにも見えん」
「ええ」
張り詰めた声でレティシアは答えた。ラケシスがその隣に並ぶ。いつの間にか、槍を手に構えている。フィルは手の中の杖を強く握り直した。
「貴方に用はないわ」
レティシアが言う。
「そうだろうとも。もっと高価な宝物がうようよしているからな。欲深いことよ」
マンティコアは鼻で笑った。
「貴方に言われたくないわ」
「何をそんなに警戒しておるのか」
「マンティコアは人肉を好むと聞いたことがあるわ」
レティシアは厳しい声のまま言った。彼女はマンティコアをにらみ付けながらじりじりと後ろに下がっている。
「然り。我らは魔獣と呼ばれし者」
マンティコアはそう言って、牙を剥き出しにして低い声で笑った。
「そなた達を食らうのも悪くはない。女子の肉は久しぶりだ」
ラケシスが半歩前に出る。その足下に向かって、マンティコアは一瞬小さく火を噴いた。
「っ!」
ラケシスが慌てて飛びすさる。すぐに火は小さくなって、焦げた匂いだけが後に残った。
穂先をマンティコアに向け、ラケシスが腰を落とす。槍を低めに構えている。
「ほう」
マンティコアはにたあと笑った。
「面白い」
それから黒い皮翼を広げた。大きく羽ばたき、空に舞い上がる。
「くっ」
ラケシスが険しい顔で槍を構え直す。上体を少し反らして、穂先を上に向けている。
「しかし、この森で人間と争う気などないよ。もちろん、仕掛けられればその限りではないがね。儂とてそう愚かではない」
マンティコアはそう言い残して、飛び立っていった。すぐにその姿が見えなくなる。
フィルたちはしばらく警戒していたが、やがて武器を下ろした。
「ふう」
「ちょっと休憩しようか」
レティシアが深く息を吐いたのを見て、フィルはそう提案した。
「うん」
ラケシスが同意し、すぐにその場に腰を下ろした。彼女もかなり疲れているようだった。フィルが腰に下げた水袋を渡してやると、彼女は咽を鳴らして二口飲んだ。
「お昼にしよう」
「そうね」
レティシアは背負っていた袋から、村で作って貰ったお弁当を取りだした。三人で座り込んで食べ始める。
「なかなか見つからないわね」
レティシアが右手で髪をかき上げながら言った。張りのない声だった。
「飛んでいるのを見たときは、すぐに見つかると思ったのに」
「まあ、仕方ないよ」フィルは極力明るくそう言った。「猟師だったら狙った獲物を仕留めるまで何日もかかるなんて、ざらにあることだし」
「……そうなの?」
「うん」
意外そうに首を傾げたレティシアに、フィルは首を傾げ返した。
「そんなものだと思うけど。そんなに簡単に狩れるなら、森から動物がいなくなっちゃうよ」
「そうなのね。全然知らなかった……」
レティシアはそう言って、深い息を吐いた。
「村の暮らしって大変なのね」
なんとなく何も答える気がしなくて、フィルは握り飯にかぶりついた。あまり話も弾まないまま食事が終わる。
「あれ!」
ラケシスが高い声を出したのは、昼飯を食べ終え、歩みを再開してすぐのことだった。
「どうしたの?」
「あれ見て!」
ラケシスがそう言いながら、駆けて行く。フィルたちは慌ててその後を追った。
「ほら、これって」
「矢だね」
木星の矢が木の幹に深く突き立っていた。矢羽根は鷹の黒羽を使っているようだった。矢柄の木がまだ白く、新しいのが判る。木の割れ目も、まだ乾ききってはいない。刺さったのは、つい最近のように見えた。
「誰が射たのかな?」
「村の人じゃない?」
「ううん……」フィルは腕を組んだ。「どうだろう」
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