第20話 こころのかけら
夏子のフルネームは如月夏子――お母さんの再婚で出来た冗談みたいな本名なのだが、この名前を教えられた時、俺は、出会い頭の左裏拳に続く2度目のクラッを感じたのだった。
聞かされた時にクラッときて、結城さんにもらったメモ用紙にそれを漢字で書いてみた時にはフラッと心地よいめまいを感じた。
夏子と俺は川べりを散歩する。外に出る時はほとんどそれだ。
俺は川を横目に歩いていると、これまたクラッとくる時がよくある。川辺に何かが見えた気がよくするのだ。
「なんか、感じるんだ」
真昼の日射しをすべて吸収するかの如き、緑色の川面を眺めつつ俺は言った。
「なんか?」
と夏子は俺を見上げる。
「でも、こう立ち止まってさ、どのあたりに一体何を感じたのか、見極めようとするだろ。でもそうするともう消えちまうんだ。感じたものが」
「もしかしてそれってあれ、かな」
そう言いながら夏子は遊歩道のへりにしゃがむ。俺も隣りにしゃがんで横顔を見つめ、やっぱ年上だな、と一瞬だけ確認する。
大学を出てから仙台に義理の温情面接を受けに来たはいいが、なぜか迷子になってラフ・ブルーの前で俺と鉢合わせた時、夏子は22才、俺ははたちハタチだった。
「あれ……?」
「うん、白昼夢の入口。勇気を出して立ち止まってね、こうしてじっと見つめるの。きっと見えるよ、入口が、白昼夢の。わたしは時々、この川を歩いてる」
「川の上を、か?」
「ううん、巨大な何かになって川の中をのっしのし歩くの、一人でドボン、ドボンって。冬には白鳥のまわりの水をぐるぐるやって白鳥を回しちゃったりして」
「ふうん。白昼夢の入口だったか」
「だと思う。白昼夢っていうのがわかりにくかったら、こう考えてみるの」
夏子はふと俺から視線をそらし、足元の雑草を見つめた。俺は彼女の口から発せられる次ぎの言葉を待った。すぐに破られる予定の沈黙がしばし、俺たちのあいだにほっこりと浮かんだ。
「心のかけらがひとかけら川辺に飛んだの」
心のかけら――ピース・オブ・マイ・ハート、ジャニス・ジョプリンの歌のタイトルだ。ジャニスのシャウトがほっこりに色をつけていく。そして心のかけらになって川辺に飛んでいく。散り散りに飛んだ心のかけら、と俺は思う。
夏子が言う。
「ガメラはそれを感じたんだね。いつも知らず知らずに飛んでいってるのを、たまたまその時は感じたってわけ」
自分の小さな分身が、『ガメラ2』に出てくる翔レギオンのようにバラバラと飛び散っていく様子を俺は思い浮かべた。
「ってことは、夏子……」
夏子は口角を上げた顔で俺のほうを向いた。なんで俺はいつもこいつを抱きしめたい気持ちでしかいられないんだろう、と思う。「誰もがいつもそんな状態にあるんなら、街の中なんて心のかけらだらけってことだよな」
「すごいよね。でもあっという間に消えるからね。それにガメラだってたまにしか感じないんでしょ」
「そう言えば街では感じたことないな。この川を見てる時だけだ」
「で、ね。そのかけらのほうに心の本体を近づけていって、うまくいけば私が川の中を歩いたみたいに入っていけるの、白昼夢の世界に」
目の前の、今日は濁って動かない川面を見つめ、自分が本物のガメラになってビシャビシャと、川の中を歩いていくのを想像してみた。なんとなくわかるような気がする。心にしっくりくるものがある。でもこれは意識してでっち上げた想像でしかない。白昼夢が香りを伴う花だとしたらビニールの造花だ。
「そう言えばマスターが似たようなこと言ってた」
「マスターが? なんか感じるって? あの人が何を感じるってんだよ」
どうしても笑っちまう。あの人が完全に鈍感な人間だとは思わないが、でもやっぱりなんか笑っちまう。
「そっちじゃなくて心のかけら」
どっちにしても笑えるが、夏子が唇を真一文字に閉じて見つめてきたから俺も笑うのをやめた。
「ソーヤさんのことなんだけどね、あの人はきっと、自分の心のかけらを拾うのが上手なんだろうなって、そんなことを言ったの。だからガメラを発見できて、ウチの店の名前も見つけられたんだろうって」
「俺がソーヤの心のかけら? ラフ・ブルーって名前も……」
「あと、あの二人も」
「ふうん……」
濁った川面に、ソーヤの穏やかな笑顔が浮かんだ。
俺が知ってる中で言えば、あいつが最初に見つけた心のかけらの一片は奈美恵だったことになる。奈美恵には、ずっとあとになってジーバがくっついてきた。二片目のかけらだ。それから4年、あの勝俣を通して俺を見つけた。自分同様、タコ指野郎とうまくやれなかったギタリスト、イコール3片目のかけらだったってことだ。
奈美恵とのつきあいは八年、そのうち4年とちょっとは姉同様に労働不可能な状態に陥った妹まで抱え込んでいる。夫婦でも、見たところ恋人でさえなさそうなのに。
拾うのが上手と結城さんは言ったようだが、もっと正確に「心のかけら」という言葉を使ってソーヤを表現するなら、自分の心のかけらを大事にするやつ、ということになるような気がする。
そんなソーヤの、俺は3片目の心のかけらであるらしい。
そして最後、ラフ・ブルーという名前。いや、これは俺と初めて会う時には決まってたようだから、こっちが3片目。で、俺が最後の4片目なのかもしれない。
どっちにしても、「なんか、わかる。すげえわかる」悔しいけれど俺は認めた。あの人の言葉に唸らされるとは。
ソーヤの心のかけらのひとかけらとして見つけられた俺は、だからスタジオであんなに自由になれるんだろう。
好きでいてよかったと思う。ギターもドアーズも。ずっとこの2つを好きでいられたからこそ、そして時間さえあればドアーズを聴き、ジミヘンを聴き、その他のラフ・ブルーの壁に貼ってあるような面々のCDを聴いて、その中に詰め込まれた平和の弾丸に焚きつけられてギターを弾き続けてきたからこそ、俺はあの自由な空間を手に入れることができたのだ。ソーヤからの電話を受け、奈美恵やジーバとも仲間になることができたのだ。
午前1時5分前の伝説? んなもんクソ食らえだ。そんなもんがなくたって、きっと俺たちは出会い、死ぬまでラフ・ブルーでいるのだ。
なんだか、今すぐ『ストレンジ・デイズ』が聴きたい――そんな気分が俺を包んだ。
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