第18話 共有するもの
他の曲では原曲を何倍にもふくらませるジーバのアドリブもなく、「ジ・エンド」はほぼ原曲通りに12、3分でゆったり着地した。
奈美恵が最後の一言を歌いきり、静かにシンバルを鳴らし終え、この世に二つとない完璧な静寂を迎えると、長いため息が一つ入るほどの間をおいたあと、ソーヤがマイクを使わずに言った。
「そろそろ始めようか」
は……? 始める?
顔を上げるとソーヤの目がまっすぐ俺に向いていた。俺に言ったのか?
しかし。
一体、何を始めようってのか。しかも「終わり」とタイトルの付いた曲を演り終えた直後にやけに芝居じみてる。でもこんな内輪的空間でいくら芝居づいてみたって誰も感心するわけでもない。つうことは、こいつは本当に何かを始めようとしてるってことだ。
「始めるって、何を……」
俺は右手はジーンズの尻に、左手はギターのネックの上に置き、素直に質問した。答えはベリーショート。簡潔そのものだった。
「何をって、ラフ・ブルーをだよ」
意味がわからない、はずだった、普通なら。でもわかった。
ソーヤの頭の中にあるものがすとんと俺の胸の中に落ちたのだ。
「マジかよ……」
なんで俺は笑ってんだ? と思いながら俺は笑っていた。
胸の中にでかい穴がある。マジ生きてたわ、と思う。
意味も分からず笑っちまうぐらい、俺は生きてる。
目の前で一人の男――ソーヤは頷いた。この男の胸の中には、どんだけでかい穴があいてるんだろう。どんな深い穴が2ヶ月も、ラフ・ブルーの本当の活動に入る前のウォーミング・アップ? 自己紹介的音出し? そんなことに費やせてしまえるんだろう。そんな不可思議に囚われながら、俺は生まれて初めてに近いぐらい楽しい気分にさせられていた。
似てる。ソーヤはマスターに似てる。
結城さんは俺から見ると、軽口たたきの体の芯がどこかで折れてるふざけたオヤジだ。ソーヤは冗談の一言も言えない穏やかで真面目な男だ。二人の類似点と言ったら、背の高さとやせた体格ぐらいで、あとは全然似ていない。どこも似てない。でも「何か」が似てるのだ。
変なやつ、と俺は思った。なんでこんなに真面目なのに、あんな人に似てるとは。それも「何か」だけが似てるとは。そしてそれは俺を無性に楽しくさせる。まるで昔、ばあちゃんやクマさんたちに見つめられて、みんなと遊んでいた時みたいに。
他の二人はどうなんだろう、とドラムセットのほうを見た。黒猫はいない。奈美恵が奈美恵のまま、なぜかにこにこしていて、俺に微笑みかけてきた。俺は笑ったまま鼻で大きく息を吐き、ジーバに目をやった。いつも通り、パイプ椅子に座ってアコギを抱きしめている。マジなのだ、こいつらも。ソーヤと完全に一体化しようとしている。ラフ・ブルーになろうとしている。
どこでどんなふうに生まれたかは知らない。でも育った場所で俺は確かに愛されていた。他の養護施設ならどうかわからないが、ばあちゃんの目の行き届いたあの青葉聖陵園という場所で、俺は完全に存在を受け入れられていた。
園を出たあとの数年間、バイト先の人間は単なる同じ仕事をしているってだけの他人でしかなかったし、バンドを組んでも2、3回スタジオに入ったあたりでいつも気まずくなり、誰ともまともに口なんて利けない期間が長くなったけれど、社長と出会うと福島設計事務所という場所のみんなは俺を、砂漠のオアシスに迎えるみたいに受け入れてくれた。
その1ヶ月後、夏子は出会い頭に俺をぶん殴ってくれちゃったけれど、そのあとあっという間に俺を全面的に受け入れてくれた。
それから少しあって、今度は喫茶店ラフ・ブルーが俺の確実な居場所になった。結城さんが俺を、生意気な弟扱いではあるけれど、ただの客には見せない率直さで受け入れてくれた。
そして今、ここにも俺の居場所ができようとしている。
ジーバがアコギをアンプに向けた。スタジオにハウリング音が満ちる。少しずつ体を返し、ハウリングは小さくなっていく。ソーヤがゆったりした単純なブルース・スケールを弾き始めた。コードはA。奈美恵がシンバルを、ジョン・デンズモア風のジャズのリズムで入れてくる。俺は25,000円のテレキャスターに腕を振り下ろした。その黒いボディに新しい命が宿った瞬間を、逃すわけにはいかなかった。
午前1時5分前――時刻が頭に浮かんだ。その時刻を意識してソーヤはやってくる。俺は時計を覗き込んでその時刻を確かめる。そんなことを何度もやったあと、今は訪れている。
ジーバが、それじゃジミヘンってよりピンク・フロイドだぜってな、クジラの放屁みたいな音をぶよーんと伸ばしていく。ソーヤのフレージングがオタマジャクシに足が出た程度に進化した。奈美恵がスネアを馬の尻にムチを入れるような感じで叩きだした。俺は大鉈を振り下ろすのをやめて親切な英語教師のリズムに切り替えた。わかりやすい授業、ちょくちょく冗談が混じるって感じだ。
ああ、と思う。これが最初の音だ。バンド、ラフ・ブルーの最初の音だ。でも誰が歌を入れるんだろう、と思い始めたら、ジーバが突然ガマガエルが助けを求めるような声を張り上げた。徐々に歌らしきものになってくる。
マジ狂ってる、と思う。おかしさがこみ上げる。奈美恵は淡々と同じパターンをキープしている。ソーヤも時々変なアドリブを入れてくるけれど表情は一貫して固めなままだ。まったく。真面目に狂ってやがる。なんてやりやすいバンドなんだ。
ジーバの歌う言葉は英語みたいだったり、中国語や韓国語みたいだったり、ロシアやアフリカや南米の言葉みたいだったり、時々日本語も混じってるようにも聞こえたり、とにかく聞いたことのない言語だった。なのに彼女が何を歌っているのかは、俺にも奇妙なぐらい鮮明に伝わってきた。
――毎日毎日わたしは体を鍛えていられて幸せだった。だってわたしのすべては体が資本だから。戦うことはもちろん、何かをおぼえることも考えることも何かを思い出す時も、すべて鍛え抜かれた体があってこそだった。すべてをきちんとこなしていられるのは決して折れない芯に支えられた肉体があったからだった。
なのにわたしは壊れた。体の強ささえ保っていたら、考えることも、人に優しくすることも、仲間と笑い合うことも、最高のかたちで完璧にこなせていけると信じていたのに、なんてことか、わたしは内側から壊れてしまった。壊れてしまったのだ。
原因なんてわからない。ただわたしは自分が生まれた町に派遣されて、そこでは何もできないと言われただけだった。昔の同級生のみんなの状態までは知ることはできなかったけれど、お父さんもお母さんもおばあちゃんもおじいちゃんもいとこも無事でシェルターで会えた。でもわたしは部隊に戻る頃にはすっかり壊れてしまっていた。何もできないんだと言われたあとから、じわじわと壊れてきてたんだろうな。
そう、わたしは壊れてしまった。自覚しろ。壊れちゃったんだ。体はこんなに立派なのに全然動かない。何も諦めたりはしなくてもいい。でも自覚するんだ。壊れちゃったんだ。もう誰にもこんなわたしは見せられない。おねえちゃん以外には。おねえちゃん以外には――
それが4年何ヶ月か前、ジーバに実際に起きたことを歌っているのか、それともただイメージの羅列として歌っているのかは俺には知ることができない。歌だけはどうにか歌うくせに、会話となると、わたしジーバ、ジミヘンしかいらない、そんな言葉しか聞くことができないからだ。
ジーバは自分が歌い終えても、時おり鼓膜が破れそうになるようなハウリングを交えた演奏をなかなかやめようとしなかった。誰かが自分の歌を受けて、つないでいってもらいたがっているかのように。
次は奈美恵の歌が入ってくるんだろう、と俺は彼女の歌を待ち続けた。だって、ジーバの歌はねえちゃんに会いたがっているところで終わってるんだから、と。
で、俺はコードが4回ぐらい回ったところで彼女のほうにちらっと視線を向けた。
ん? 不思議な何かがそこで待っていた。奈美恵が、あんたの番でしょみたいな顔で睨み返してきたのだ。
は? 俺はソーヤを見た。かすかに微笑んでいた。そして頷いた。
しょうがない、と腹をくくった。でもいきなりだから歌詞なんて適当だ。そうか、ジーバの真似でいけばいいのだ。断片的な日本語と知ってる英単語でつないでいった。
――もう友達はいない。もう恩人はいない。きっともうキミのお姉さんもいない。誰ももうどこにもいない。でもそれは俺のせいじゃないぜ。これは俺の罪じゃない。絶対に俺の罪じゃない。
キミがどこを目指してどこをどうさまよおうが、それはもちろんキミのせいじゃなけれど、俺のせいでもない。よってたかって俺をいい気分にさせたやつらを恨んでおくれ。よってたかって俺をハイにさせたやつらを。そして深く崩壊させちまったやつらを。恨むならそっちのほうを恨んでおくれ。俺なんかじゃなくて――
くたくたになった。でもこれが現実だ。これが「ラフ・ブルーのやり方」で、こんな、一曲やるだけで身も心もからっぽになっちまいそうなことがずっと続いていくのだ。
何のためにこんなことを続けていくんだ? 本当のロックバンドをやるためだ。
本当のロックバンドをやるために、俺たちは丁寧にすっかりタガを外す。静かに自由になる。何も着替えず、ボタン一つ外さず、視線もそのままで。
そうして俺たちが奏でる音や歌はちょっと狂ってるように聴こえるかもしれない。聴こえなくちゃならない。
どうして狂ってるように聴こえないといけないのか。そんな音や歌にしかあの弾はこめられないからだ。俺たち四人の愛みたいなものや、平和しか知らないハートが詰め込まれた、あの弾は。
俺たちはその弾をぶっぱなす。愛と平和の弾をぶっぱなす――ラフ・ブルーという散弾銃から。きっと、俺たちはぶっぱなす。
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